醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  588号  旅人と我名よばれん初しぐれ(芭蕉)  白井一道

2017-12-11 13:24:00 | 日記

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉



 句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』より「旅人と我名よばれん初しぐれ」。この句の前詞、「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」と書いている。貞享四年、芭蕉四四歳。
華女 紀行文『笈の小文』に出て来る初めての句よね。貞享元年芭蕉初めての紀行文『野ざらし紀行』の冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」と比べると余裕を感じさせる句ね。
句郎 旅に生きる喜びのようなものを感じさせるよね。辛く苦しい旅を楽しむ余裕がでてきているのかな。
華女 旅の経験を積んできている余裕なんじゃないのかしら。
句郎 そうなんだろうね。暮に向かって旅立っているということは、帰省するという目的があったということなんだろうね。
華女 みすぼらしい姿をしていても乞食じゃないよ。私は旅人なんだ。旅の人と見てほしいという願いを詠っているのよね。
句郎 初しぐれが降る中の旅であってもしぐれる雨を楽しんでいるんだと言っているのじゃないかな。
華女 そうなのよね。その気持ちが風流ということなのよね。
句郎 しぐれる季節を楽しむ。ここに芭蕉は俳諧を発見したんだろうな。
華女 そのような気持ちになれたのは芭蕉が古典の和歌を学んだからなのよね。和歌の心を継承した結果だったのよ。
句郎 そうなのかもしれないな。「秋風にあへず散りぬる紅葉葉の行方定めぬ我ぞ悲しき」詠み人知らず(古今和歌集)。このような和歌を芭蕉は知っていたのかもしれないな。この歌には「もののあわれ」が詠まれているように感じるが芭蕉は「もののあわれ」の心を継承し、「あわれ」を悲しむのではなく、喜びとしてとらえようとしているのじゃないのかな。
華女 「もののあわれ」を楽しんで笑っちゃおうということね。
句郎 「旅人と我名よばれん初しぐれ」。この句は笑いの句、諧謔の句なんじゃないのかな。
華女 物乞いのような惨めな姿をしていても旅人なんですよ。笑いたい人はお笑い下さい。私は胸張って時雨の中を楽しんで旅しているんですよと、言いたいのよね。
句郎 フランスの詩人ヴェルレーヌの詩「落葉」
秋の日の  秋風が
ギオロンの バイオリンの音のように
ためいきの すすりなき
身にしみて
ひたぶるに うら悲し
鐘の音に  鐘が鳴ると、
胸ふたぎ  私は思い出に
色かへて  胸ふさがれる。
涙ぐむ  過ぎし日の
おもひでや
げにわれは そのとき
うらぶれて 
私の心も萎(しお)れて
ここかしこ 
さながら散り落ちる
さだめなく
落葉のように・・・。
とび散らふ 落葉かな 
上田敏訳詩
華女 ヴェルレーヌの詩は古今集の歌に通ずるものがあるわね。
句郎 なんかそんな感じがするよね。でもヴェルレーヌは19世紀フランスの詩人だから、近代人の我の哀しみのようなものがあるかな。芭蕉は自分の哀しみを笑っている。ここに大きな違いがある。哀しみと笑いは一枚の紙の裏と表の関係かな。











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