ところが久しぶりの強い日差しの中、午後1時頃奈良市内に出かけると、
汗を拭き拭き歩かれている観光客を見るも、7月頃のインバウンドの
人出とは違い、韓国との問題で減少がはっきりと表れているようだった。
興福寺の五重塔の上空には、絹雲などで秋の空が・・・
奈良では午後2時頃、33.9℃の最高気温を記録し厳しい残暑で、
南の空や春日奥山の上空にも夏の雲が残っている。
2時半
夏と秋のせめぎ合い中、フィルピン東方で発生した台風13号(レンレン)、
香港が提案した少女の名前で可愛いが、急速に発達し、先の豪雨災害の
北九州は、週末にかけ影響を受けそうな進路だ。要注意!!!
可愛いと言えば、奈良市川上町を流れる佐保川と正倉院の北の間にある
東大寺末、思惟山『五劫院』の『五劫思惟阿弥陀仏坐像』(重文)です。
今年も8月1日から8月11日まで特別公開されていました。
『五劫思惟阿弥陀如来』は阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると
〝四十八の大願を成就するために永い間、剃髪をすることもなく坐禅・
思惟していたので、このような髪形になったという。
劫とは永い時間を示す単位で、方四十里もある大磐石を百年に一度ずつ
白氈で払って、その石がすりきれてなくなっても終わらない時間だといい、
要するに永遠・無限をさすものと解してよいであろう"(東大寺HPより)
アフロヘアーのように見える螺髪は気の遠くなるほど長時間考え続けたお姿で、
『俊乗坊重源(ちょうげん)上人』が宋から請来したと伝わる。
この重源上人(1121年-1206年)は平安末から鎌倉初期の僧で、1180年の
平重衡の兵火により南都焼き討ちで東大寺大仏殿等も焼失すると、再建の
ための勧進上人に抜擢されたのが61歳の折で、1184年に大仏が完成し、
1185年に開眼供養がされた。残る大仏殿も天竺様という新しい様式で
1195年に再建された。不屈の精神と進取の気象と、たぐい稀な統率力で
再建を果たし、さらに諸国に別所を7か所に造られている。
この大仏殿も戦国時代に焼失することに・・・
再建は江戸時代前期の公慶上人を待たねばならない。
さて重源上人様のお墓は、五劫院の東側の山手、三笠山(若草山)の山麓に
広がる三笠霊園の隣接地、昔は大伴氏の氏寺「永隆寺」跡で、現在は東大寺の
墓所になり、この一角にあります。
高さ1.7m、鎌倉時代初期の花崗岩製三角五輪塔で、元は東大寺俊乗堂の近くに
あったが、1703年に移転している。
五輪塔の笠に注目、古い型の三面です。
なおこの近くに、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」
とうたわれた戦国武将『島左近』(奈良生駒郡平群出身)の墓がある。
関ヶ原の戦いで消息不明になっているのに、京都市上京区の北野天満宮から南に
10分ほど歩いたあたりに建つ立本寺にも墓がある。
そしてここにももう一つあり、次第は不明で歴史の謎に。
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