15度近くまで気温は上がったが、夕方から天候は下り坂で、
明日は雨らしい。

昨晩は孫二人の誕生会で、いささか呑みすぎたようだ。しかし
長男と飲んだしぼりたて生酒(菊司醸造 純米生原酒 にごり酒)
4合瓶が一本開いただけ

アルコール度数19もあったから・・・酒が弱くなったのかも。
『多聞城と松永久秀の戦跡を巡る!』講座で1567年10月10日に
東大寺大仏殿が燃えたのは、通説では悪人・松永久秀とされるが、
文献的検索により、三好方ではないだろうかとの北村雅昭先生の
考えを現地戒壇院と大仏殿の間で、文献をもと講義をしていただいた。

1567年の東大寺大仏殿の戦で、奈良市内に各所に陣取る三好三人
衆に対し、松永久秀は自が築いた多聞城を基として500m程の転害門、

ここから多聞城跡が望めます。

多聞城から2000m以内の興福寺境内に陣をしき、三好三人衆と
筒井軍も加わった半年にも及び、戦いを続けたが・・・、
新たに東大寺大仏殿に陣を構えた三好方に対応して、

戒壇院に陣をはった。なお当時寺の戒壇院の伽藍は多かった。


そして10月10日を迎えるわけ・・・

「松永勢が火を放った」とする史料があったが、
「三好方が火を放った」とする史料も散見される。
・和州諸将軍傳1707年(奈良県立図書情報館Webより2巻18.19)
「三好方の箒火の火が夜襲の混乱の中で陣営の鉄砲に引火し、
燃え広がった」と


・フロイスの「日本史」
「三好方の兵士の中に熱心なキリスト教信者がいて、
信仰心から大仏殿を消滅させるために火をつけた」と
・東大寺の僧・寅清(いんせい)の変分を書き残した「寺辺之記」に
「十月十日ノ夜四ツ時分ヨリ、大仏中門堂ヘ松永ヨリ夜打、
三人衆方ニモ 色々相戦といえとも、不叶シテ中門堂ヘ火ヲ懸、
西ノ廻廊ヘ火付テ即時ニ頓滅ス、・・・」
夜十時頃中門道へ松永側の夜襲があり、防戦したが叶わず、
中門堂に火を懸け、西ノ廻廊に火を付けて逃げ去ると、
大仏殿・四面の回廊が焼けた。
・「多聞院日記」奈良県立図書情報館Webより133.134
「兵火ノ余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ニ火付、ソレヨリ大仏ノ廻廊へ次第ニ
火付テ、丑剋ニ大仏殿忽焼了、・・・」
現在勧進所のある穀屋から法花堂(現在の三月堂)にも火を付けると
飛び火して大仏殿の回廊に火が廻り、丑の刻には大仏殿が焼けた。
*飛火は距離があり過ぎて、聞き間違ったのではとのこと


でもこれらの文献で、三好方が自ら火を放ち、延焼して大仏殿が
燃えたことを示すのではないでしょうか
戒壇院と大仏殿、距離は150mほどで向かい合っており、
戦国の戦の最中、不可抗力の結果として大仏殿の炎上と解釈でき
松永久秀が焼いたという定説は見直さなければなりませんね。