*更新プログラム時のパソコン不調につき一日抜けました。
今朝も真っ青な空、最低気温は6.9℃、順調に気温は上昇し11時過ぎには20℃
を越え、午後1時前には22.1℃まで上がり、4月中旬以降の気候とのこと。
でも天候は下り坂で徐々に雲が増えてきており、夜には雨で2日ほど続くと。
12時10分、21℃、45%
今年は「お水取り」終了を待たずに、奈良に春が訪れてしまいましたね。
その東大寺二月堂では、15日の未明に1272回目の修二会は満行を迎えた。
そして朝には「達陀(だったん)帽いただかせ」ですべて終わりました。
達陀帽とは「火の行の達陀」で練行衆がかぶる金襴の帽子で、
火の行の達陀
これを子どもたちに被せれば呪力が宿り、健やかに育つと伝わる。
奈良テレビより
さて1925年の今日、ドイツの細菌学者「アウグスト・フォン・ワッセルマン」
59歳の忌日です。
ワッセルマンといえば「梅毒」の血清学的診断法の「ワッセルマン反応」の
開発者として知られる。
東京都によれば、性感染症(STI)の中で「梅毒」が男女とも急増しており、
2022年には梅毒の感染者数が、1999年に感染症法に基づく調査が始まって
以降、最も多い報告数(3,677件)となりました。
男性は20歳代~50歳代、女性は20歳代で増えている。
原因はコロナ禍なのに?SNSの時代、ますます闇の中に引き籠っている。
東京都HPより
昨日は「月ヶ瀬公民館」での「月ヶ瀬出身の大教正・隆盛和尚」を受講を兼ね
てやっと「月ヶ瀬梅渓」を訪れることができました。
隆盛和尚のこと、資料を頂く迄全く知りませんでした。
「隆盛和尚」編集委員会が嵩地区自治会で設置され、郷土史家を含めて検討し
2020年8月【隆盛和尚 : 月ヶ瀬出身の「大教正」 : 幕末・維新の激動の時代に
活躍した豊山派長谷寺の化主 」】が発行された。
隆盛和尚は、幕末・維新の激動の時代に活躍された真言宗豊山派「長谷寺」の
第52代化主、いわゆる住職で、元は山添の畑郷、明治中頃から月ヶ瀬の「嵩」
の上岡家で1801年に出生された。
幼いころ自ら願い、高野山真言宗・春日不動尊(畑郷)に入り、真言密教に
ついて学び、1817年16歳で得度された。
更に修行のため、当時新義真言宗の最高権威の道場であった「長谷寺」での
修行等で30余年過ごされた。
長谷寺(小池坊)には能化となるコース(移転地制度)、長谷寺集儀→諸国の
本山移転寺→江戸四ヶ寺→護持院・護国寺→小池坊能化への道があったようで
1863年の冬、東京・弥勒寺(真言宗関東四ヶ寺)に移られた。
1867年9月、護持院(真言宗)住職となり、護国寺(真言宗豊山派)の第43代
住職を兼務され、同年11月権僧正となる。
護国寺は1681年に5代将軍徳川綱吉が建立を命じ、1683年に母・桂昌院も
念持仏を本尊にされ参拝されたほど、幕府からの厚い庇護を受けており、
現在でも3000ヶ寺、檀信徒は200万人の豊山派本部として機能している。
なお1717年に護持院は焼失し廃寺となる。
1868年2月21日、小池坊(長谷寺)住職になられ、豊山派総本山「長谷寺」
能化職(化主、長谷寺での住職の敬称)となられた。
1872年4月、神仏分離令など明治政府の宗教改革の混乱の中、仏教も取り入れ
ながら総合的な宗教改革を目指し、教部省から「権少教正」を拝命、東京で
教導職(14級)の任を務められた。
なお神道色が強いことから仏教界の反対もあり1877年教部省廃止、1884年
教導職も廃止となる。
同年6月には最高役職「大教正」になられ、民衆教化のための人材育成機関
「大教院」の設立に尽力されている。
同年(1872年)9月、大教正を辞され、長谷寺へ帰山されるも・・・
同年11月8日、遷化、72歳で、江戸からの長旅で体調を壊されたのかも
長谷寺にも歴代能化の墓の中に、隆盛の墓はある。
だが地元嵩、高台に豊山派長谷寺の末寺「流水山・薬師寺」・無住がある。
現在の建物は3代目で、地区の方々で大切に維持管理されていました。
右横に墓地があり、その一番手前に墓碑がある。
いつ建立されたかの記録はなく、功績が彫られているようだ。
立派な墓碑、生前時に嵩地区に講地として寄付など援助をされていたからか。
嵩地区の区有林は、月ヶ瀬でも一番多いと地区の方が語っておられました。
その為、毎年12月8日には、かつては子供を含め全員で供養をされ、庫裏にて
お斎(とき)=「直会」で食事をされていたと・・・
今は各家の代表者の参列になる。
お供え物は中岡家の朱塗りの膳に揚げ飯、白和え、揚げ、蒟蒻、煮もの椀を
添え、お酒やミカン等。
月ヶ瀬の真福寺の村部全亮住職により法要、上岡家所蔵の掛け軸の賛・表白文
に記載された功績が読み上げられ、焼香・読経をして12分ほどで終了、150年
本当に大事にされているのですね。
あれっ、遷化されたのは明治5年11月8日のはず・・・、
明治政府が同年12月2日に太陰暦から太陽暦へと突然発表したことが原因、
実は明治5年12月は無くなり、明治6年1月になっている。
また支所に12月8日に法要をしたから、その後も12月8日という考え方も
さてお墓には、双体地蔵が沢山・・・・・・👇山のようにおられます。
こんな宝篋印塔(ほうきょういんとう)も・・・
さて薬師寺の「薬」の漢字、「白」が「自」の記載されており、西ノ京の
薬師寺も、明治時代はこのように書かれており、古い字が残されている。
その南隣には「八柱神社」があります。
拝殿から本殿を見れば、珍しい石造りで(奈良市の指定文化財)なのです。
前方は入母屋、妻飾りに鬼面を刻み、後方は切妻となる室町期の建造と
ところでこの寺の北側に「野口雨情 詩碑 月ヶ瀬嵩」が・・・。
『雪乃ふる 夜に鶯は 梅の花さく 夢を見る 』野口雨情
雪降る冬に春を待つ鶯と梅の夢、雨情は茨城生れ、
月ヶ瀬とは切っても切れない梅を絡めておられるが・・・、
嵩から月ヶ瀬集落から渓谷は見えないどうしてここに?
伊賀上野には雨情は来たことがあると言うが・・・
さらに東方の嶽山330mに『乙若城跡』があり、車で行けるように整備した
と地元の人が言い、次回はこれを目標かも知れないと館長も。
なお伊勢の国司北畠親房の別当、藤原義政の山城らしいが・・・
1572年織田信長の伊賀攻略のおり、筒井順慶に滅ぼされたと。
五月川から少し上がった地点に乙若城跡の碑がある。
帰りに、隣の月瀬集落の『天神風の道公園 展望台』からみた月ヶ瀬梅渓を。
真福寺からの一番の観梅地、一目八景、保浦梅林などが・・・・
月ヶ瀬も歴史ある地域、知れば知るほど奥が深いようだ。