カメラを片手に

奈良市上狭川城跡を歩く

布団から抜け出せないと思えば今朝も氷点下、-1.6℃迄下がった奈良、夕方
から雨との予報、西から低気圧を伴った気圧の谷が近づくらしいが・・・
昼ごろまでは良いお天気で、午後1時半には12.1℃迄上昇し、こども見守りへ
行けば、帰宅途中の小学生は半袖で歩いてきたほど。
夕方からの雨も明日の朝には止むも、昼過ぎから寒気の張り出しが始まり、
Xmas寒波の襲来で、再度北陸から東北にかけ大雪に警戒が必要ですね。
      11時半、7.3℃、53%

今日の誕生日の花は、「白ツバキ・白椿」、花言葉は「申し分ない魅力」 
小庭に茶花用にと白い椿は3種、盛んなのは「ワビスケ・侘助」、
      侘助

花弁が開けば、蕊の蜜を吸いに「メジロ」が啄み、花弁に傷をつけている。
      侘助    

「セイオウボ・西王母」は、一度目の咲き終わりで一輪だけ・・・、 
1月下旬からもう一度咲きそうな蕾が多く残っている。
      西王母

「ハツアラシ・初嵐」は昨年からの病気が治らず、少ない蕾も固い。

もう師走も下旬に入り、紹介し忘れた講座があります。
11月初旬には紅葉が進みだしたころ、奈良市東部の笠置街道沿い上狭川地区
を、奈良市興東公民館主催「郷土を知る」講座で歩いてきました。
午前中は上狭川城跡から九頭神社、昼食後は中墓寺、巨木アート記念館に。
      

九頭神社(駐車場)に集合して、上狭川城跡見学へ出発
上狭川城跡へと笠置街道を歩けば、西狭川町の家並みが・・・・
            

上流には奈良市の水がめの一つ「須川ダム」がある旧前川を少したどり、
東町公民館前には「吉水寺跡」で十三重の石塔や五輪塔が残されている。
「吉水寺」は、明治天皇による「五箇条の御誓文」を起草した土佐藩出身
福岡孝弟たかちか」の先祖の菩提寺で、現在も福岡家の墓地が残る。
      

これから伺う「上狭川城跡」は別名「福智福山城」といい、中世にこの地域を
治めた狭川氏の一族・福岡氏、狭川氏と対等の力を持つ城で、200mの山頂部
に遺構が残る。
西狭川と東狭川の境界上に築城され、下狭川城と連携して守ろうとした。

福岡氏は室町期から活躍し、奈良一の大祭「春日若宮おん祭」にも大和武士の
一人として加わり、山之内一豊の家来であったことから江戸期には土佐へ移る

スギ林の中を歩けば、指示通りに左へ
      

突き当たれば、2m以上一段高くなり、土塁ですね
      

土塁を登る 

ぐるっと土塁がめぐり、一段下には館があったようだ。
北と南に虎口を開く



        
時計回りに回ると、「行者堂」があり、中に役行者さまが・・・
      

      



文献的には現れないが、主郭には土塁が囲繞し、北と南に虎口を開く。また 空堀や土橋も確認されており、館城を基本に信長のころまで白の改修を続けて
最新の守りの工夫を取り入れたと考えられている。
      

狭川氏の本拠地であった上狭川城も見たくなりますが・・・今回は無し
さて狭川氏は、応仁の乱前後は筒井氏傘下の国人領主として活動していた。
近隣の柳生氏や須川氏らとも抗争を繰り広げ、戦国時代末期まで勢力を誇る。
長い辺が80mほどの南北に長い長方形の曲輪に、南を除く三方に幅5mほどの
空堀が巡らされていると推測されている。
なお主郭南側一段下がった副郭に「狭川家遺跡」の石碑が建ち、1920年頃まで
狭川惣領家の屋敷があったという。
さらに南東側の丘陵裾には馬場跡と狭川氏累代の墓所があり、東大寺長老
狭川明俊、狭川宗玄さんに続き、東大寺現別当の狭川普門氏が後を継がれる。

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