布団から抜け出せないと思えば今朝も氷点下、-1.6℃迄下がった奈良、夕方
から雨との予報、西から低気圧を伴った気圧の谷が近づくらしいが・・・
昼ごろまでは良いお天気で、午後1時半には12.1℃迄上昇し、こども見守りへ
行けば、帰宅途中の小学生は半袖で歩いてきたほど。
夕方からの雨も明日の朝には止むも、昼過ぎから寒気の張り出しが始まり、
Xmas寒波の襲来で、再度北陸から東北にかけ大雪に警戒が必要ですね。
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今日の誕生日の花は、「白ツバキ・白椿」、花言葉は「申し分ない魅力」
小庭に茶花用にと白い椿は3種、盛んなのは「ワビスケ・侘助」、
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花弁が開けば、蕊の蜜を吸いに「メジロ」が啄み、花弁に傷をつけている。
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「セイオウボ・西王母」は、一度目の咲き終わりで一輪だけ・・・、
1月下旬からもう一度咲きそうな蕾が多く残っている。
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「ハツアラシ・初嵐」は昨年からの病気が治らず、少ない蕾も固い。
もう師走も下旬に入り、紹介し忘れた講座があります。
11月初旬には紅葉が進みだしたころ、奈良市東部の笠置街道沿い上狭川地区
を、奈良市興東公民館主催「郷土を知る」講座で歩いてきました。
午前中は上狭川城跡から九頭神社、昼食後は中墓寺、巨木アート記念館に。
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九頭神社(駐車場)に集合して、上狭川城跡見学へ出発
上狭川城跡へと笠置街道を歩けば、西狭川町の家並みが・・・・
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上流には奈良市の水がめの一つ「須川ダム」がある旧前川を少したどり、
東町公民館前には「吉水寺跡」で十三重の石塔や五輪塔が残されている。
「吉水寺」は、明治天皇による「五箇条の御誓文」を起草した土佐藩出身
「福岡孝弟・たかちか」の先祖の菩提寺で、現在も福岡家の墓地が残る。
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これから伺う「上狭川城跡」は別名「福智福山城」といい、中世にこの地域を
治めた狭川氏の一族・福岡氏、狭川氏と対等の力を持つ城で、200mの山頂部
に遺構が残る。
西狭川と東狭川の境界上に築城され、下狭川城と連携して守ろうとした。
福岡氏は室町期から活躍し、奈良一の大祭「春日若宮おん祭」にも大和武士の
一人として加わり、山之内一豊の家来であったことから江戸期には土佐へ移る
スギ林の中を歩けば、指示通りに左へ
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突き当たれば、2m以上一段高くなり、土塁ですね
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土塁を登る 
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ぐるっと土塁がめぐり、一段下には館があったようだ。
北と南に虎口を開く
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時計回りに回ると、「行者堂」があり、中に役行者さまが・・・
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文献的には現れないが、主郭には土塁が囲繞し、北と南に虎口を開く。また 空堀や土橋も確認されており、館城を基本に信長のころまで白の改修を続けて
最新の守りの工夫を取り入れたと考えられている。
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狭川氏の本拠地であった上狭川城も見たくなりますが・・・今回は無し
さて狭川氏は、応仁の乱前後は筒井氏傘下の国人領主として活動していた。
近隣の柳生氏や須川氏らとも抗争を繰り広げ、戦国時代末期まで勢力を誇る。
長い辺が80mほどの南北に長い長方形の曲輪に、南を除く三方に幅5mほどの
空堀が巡らされていると推測されている。
なお主郭南側一段下がった副郭に「狭川家遺跡」の石碑が建ち、1920年頃まで
狭川惣領家の屋敷があったという。
さらに南東側の丘陵裾には馬場跡と狭川氏累代の墓所があり、東大寺長老
狭川明俊、狭川宗玄さんに続き、東大寺現別当の狭川普門氏が後を継がれる。