鉢沢橋梁について、改めて現地に行って来たので紹介しよう。
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鉢沢橋梁については、上の記事で紹介している通りとなる。上の記事で書いた後も調査を続けており、以下の記事でまとめている。
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上の「まとめ」記事では、鉢澤橋梁について、「十日町新聞 昭和七年四月十五日」に具体的な予算や竣功時期が示されていること紹介した。
△材料運搬線鉢澤橋梁其他工事三、四〇〇圓 竣工五月十日
更に、「十日町新聞 昭和八年一月一日」には以下の写真が掲載されている。
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△寫眞説明 材料運搬線鉢澤橋梁附近
再三になるが、郷土写真集(書籍名は失念)に以下の写真が掲載されており、当ブログでも再三引用している。
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S7.7 鉢沢材料運搬線橋りょうけた架設作業
そして、現地の写真だ。橋梁の橋台を山側から宮中方の袂で見ている。
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この場所を、十日町新聞 昭和八年一月一日に掲載された写真で示すと以下のようになる。今より山側の傾斜がきつく見るが、ここも段丘崖の中腹を切り開いて線路を敷いたのだろう。
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さて、現地に話を戻す。今年は雪が積もったので、下草が倒れているために全体が見渡しやすい。改めて見ると、橋台の下のコンクリート上にボルトが出ているのが分かる。
橋梁のトラスの幅としてそれらしい二ヶ所の位置に四本ずつ、太いボルトが突き出ている。この計八本のボルトでトラスとコンクリートを接続していたと思われる。
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ただ、トラスの幅に対して、コンクリートの横幅が広いのが気になる。トラス自体の幅の二倍近くありそうだ。それについては、当時の写真を見てもらいたい。トラスを支えるような支柱が外側に張り出してコンクリートに接続されているのが分かる。
私によくあることなのだが、現地調査を終えて改めて資料を見て、これもちゃんと調べるべきだったと後悔するパターンだ。今回、この支柱が接続されていただろう部分について探らないで帰ってきてしまった。
ただ、昨シーズンの冬に撮影した写真に偶然にもボルトが写っていたので、それを紹介しながら話を進める。
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トラスの幅に対して、コンクリート土台の横幅が広かったのは、この支柱を接続する設計だからだと言える。
更に、当時の写真を拡大しよう。解像されている一番手前の接続部を拡大する。
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以上の様に、現存する遺構と当時の写真を比較した次第である。現存する遺構と、当時の様子が繋がった。また、当時の写真から見て分かるように、この場所には数本の橋脚が据えられていたことが分かる。しかし、それらの痕跡は鉢沢川の護岸・砂防工事で一掃されており、残ってはいない。
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信濃川発電所材料運搬線(鉢沢川橋梁(仮)) - ◯◯◯ですから。
今回はここだ信濃川発電所材料運搬線(宮中~吉田間)の最大の鉄道構造物だと思われる、鉢沢川橋梁である先日、既にこの部分は紹介しているのだが、冬...
信濃川発電所材料運搬線(鉢沢川橋梁(仮)) - ◯◯◯ですから。
鉢沢橋梁については、上の記事で紹介している通りとなる。上の記事で書いた後も調査を続けており、以下の記事でまとめている。
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信濃川発電所材料運搬線 一期・二期工事時代まとめ - ◯◯◯ですから。
そこに軽便はあったのか?今回は、戦前の一期・二期工事時代の材料運搬線について、この一年間に調査したことをまとめて行こうと考えている。まず、恥...
信濃川発電所材料運搬線 一期・二期工事時代まとめ - ◯◯◯ですから。
上の「まとめ」記事では、鉢澤橋梁について、「十日町新聞 昭和七年四月十五日」に具体的な予算や竣功時期が示されていること紹介した。
△材料運搬線鉢澤橋梁其他工事三、四〇〇圓 竣工五月十日
更に、「十日町新聞 昭和八年一月一日」には以下の写真が掲載されている。
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△寫眞説明 材料運搬線鉢澤橋梁附近
再三になるが、郷土写真集(書籍名は失念)に以下の写真が掲載されており、当ブログでも再三引用している。
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S7.7 鉢沢材料運搬線橋りょうけた架設作業
そして、現地の写真だ。橋梁の橋台を山側から宮中方の袂で見ている。
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この場所を、十日町新聞 昭和八年一月一日に掲載された写真で示すと以下のようになる。今より山側の傾斜がきつく見るが、ここも段丘崖の中腹を切り開いて線路を敷いたのだろう。
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さて、現地に話を戻す。今年は雪が積もったので、下草が倒れているために全体が見渡しやすい。改めて見ると、橋台の下のコンクリート上にボルトが出ているのが分かる。
橋梁のトラスの幅としてそれらしい二ヶ所の位置に四本ずつ、太いボルトが突き出ている。この計八本のボルトでトラスとコンクリートを接続していたと思われる。
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ただ、トラスの幅に対して、コンクリートの横幅が広いのが気になる。トラス自体の幅の二倍近くありそうだ。それについては、当時の写真を見てもらいたい。トラスを支えるような支柱が外側に張り出してコンクリートに接続されているのが分かる。
私によくあることなのだが、現地調査を終えて改めて資料を見て、これもちゃんと調べるべきだったと後悔するパターンだ。今回、この支柱が接続されていただろう部分について探らないで帰ってきてしまった。
ただ、昨シーズンの冬に撮影した写真に偶然にもボルトが写っていたので、それを紹介しながら話を進める。
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トラスの幅に対して、コンクリート土台の横幅が広かったのは、この支柱を接続する設計だからだと言える。
更に、当時の写真を拡大しよう。解像されている一番手前の接続部を拡大する。
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以上の様に、現存する遺構と当時の写真を比較した次第である。現存する遺構と、当時の様子が繋がった。また、当時の写真から見て分かるように、この場所には数本の橋脚が据えられていたことが分かる。しかし、それらの痕跡は鉢沢川の護岸・砂防工事で一掃されており、残ってはいない。