今回は姿の集落の外れを紹介する。
以下に過去の記事を紹介しておく。軽便線の線形については過去記事から認識に変化はないので、そちらを参照していただければと思う。
今回紹介する区間は姿の下手、集落のはずれである。橋台跡があると紹介したのは、上の記事の通りだ。
橋台は見えている。勿体振らず、単刀直入に軽便線を描くなら、こういう線形だったろうと示したい。この画像の左手前には旧道がある。右手の盛土は現道で、完全に人工的な地形である。
沢を越える軽便線。思ったより高い所を通っていたはずだ。沢筋の縁には当時のものと思しきコンクリートが残っている。
このコンクリートが約90年も前のものなのかどうかは分からない。しかし、これが信濃川発電所工事材料運搬線由来のものなら、約90年もこの沢筋の中で斜面や橋台を守っている存在だと言える。
改めて見ると、非常に信濃川らしい石の積み方で、それをコンクリートで固めている。
斜めから見ると、私が非常に信濃川らしい石の積み方と言う理由が見えると思う。積んだ石のツラをきっちり合わせている。そして、前回の探索時には気が付かなかったが、この橋台の上にはボルトが飛び出ている。
ネジを切ってあるから、取り敢えずボルトと言っているが、鉄筋のような細さだ。例えば、鉢澤橋梁にあったような太いボルトではない。
橋台の上から出ているボルトと言うか、鉄筋のようなものがどういう役割があったのかについて、私は推測できない。何らかの橋梁の設備と接続するものだと思われるが、現役時代を思い描けない。
軽便線で似たような設備があるのは、私の記憶では三期・四期工事の区間である取安川の橋台である。
いったいどういう橋梁だったのだろう。というしかない。現役時の様子を見てみたい。意外と木橋とかだったら、私はそれはそれで受け入れられる。林鉄ならあり得る光景だ。
更に、この橋台は斜面側に切り欠きがある。どういう構造の橋だったのかますます分からなくなる。こういう施設の例があるなら教えていただきたい。全く想像できない。
なお、現道から姿の集落の方を眺めるとこの様になる。
当然、私は田んぼと砂利工場の間の沢を歩いた。沢筋に石垣はあったが、とてもじゃないが信濃川電気事務所らしからずものだったので、写真すら撮っていない。また、それらしいコンクリート構造物は見つけることができなかった。今までの調査から、信濃川電気事務所ならこの程度の沢も侮らずにコンクリート構造物を拵えると推測されるが、それも見当たらなかった。
なお、今回探索した区間はストリートビューの一枚で見通せる区間に過ぎない。
私がここにこだわっているというか、こだわるようになったのは、姿の工事区がかなりの盛況を極めた場所だったからだ。先の水路隧道の記事でも述べたが、ここは軽便の停車場が置かれ、第一隧道下部・第二隧道の工事を担っていた姿横坑が口を開けている重要拠点なのである。しかし、現在においてその痕跡はかなり薄い。
現地調査でも、姿の集落に当時を知る方は存命していないとのことだ。生きていれば90歳は超えている。それでも、父親から当時の話を聞いたという方に話を聞くことができた。以下に箇条書きで紹介する。
・水路を掘った時のトンネルがある
・工事のために林道が舗装された
・軽便線は集落の川側を、橋の下を通って、川沿いの築堤上を走っていた
・今は水田になっている辺りは何もなかった。ただの荒地だった
・(株)ドリームパネルの土地は水路を掘ったときの土捨場(「”べと”を捨ててた場所で、当時は工場も何もなかった」)
・集落の外れの家(姿横坑に最も近い家屋)に、請負業者の社員が下宿していた
・官舎は川沿いにあった(川沿いの埋立地か島のような場所だとのことだが、昭和23年の空中写真でも痕跡は見つけられず。集落に元々あった家屋の邪魔にならない場所に建てたらしい)
・集落の寺に工事で亡くなった方の慰霊碑がある
・朝鮮から来た労務者もたくさんいた
・高島との間に水田を開いた
・信濃川が氾濫するとすぐに水に浸かる土地で、耕作に苦労した
と言った具合だ。正確なところは分からないが、後に何かに通じる情報になるかもしれない。裏付けは調べていく中で付けていけば良い。まだまだ調査は道半ばである。
姿横坑だ。5月に入ったというのに、平地でもこれだけの残雪が覆っている。ここを、水路を掘った際に発生する”べと”を満載したトロッコが行き交っていたことを想像しながら、より当時の様子に迫っていきたいという思いを持った。
以下に過去の記事を紹介しておく。軽便線の線形については過去記事から認識に変化はないので、そちらを参照していただければと思う。
信濃川発電所材料運搬線(姿付近) - ◯◯◯ですから。
まずは緑丸の辺りの話だ材料運搬線は姿の集落を抜けると、信濃川のすぐそばまで来ていたと思われる姿大橋の袂である今立っている信濃川の堤防の下あた...
信濃川発電所材料運搬線(姿付近) - ◯◯◯ですから。
今回紹介する区間は姿の下手、集落のはずれである。橋台跡があると紹介したのは、上の記事の通りだ。
橋台は見えている。勿体振らず、単刀直入に軽便線を描くなら、こういう線形だったろうと示したい。この画像の左手前には旧道がある。右手の盛土は現道で、完全に人工的な地形である。
沢を越える軽便線。思ったより高い所を通っていたはずだ。沢筋の縁には当時のものと思しきコンクリートが残っている。
このコンクリートが約90年も前のものなのかどうかは分からない。しかし、これが信濃川発電所工事材料運搬線由来のものなら、約90年もこの沢筋の中で斜面や橋台を守っている存在だと言える。
改めて見ると、非常に信濃川らしい石の積み方で、それをコンクリートで固めている。
斜めから見ると、私が非常に信濃川らしい石の積み方と言う理由が見えると思う。積んだ石のツラをきっちり合わせている。そして、前回の探索時には気が付かなかったが、この橋台の上にはボルトが飛び出ている。
ネジを切ってあるから、取り敢えずボルトと言っているが、鉄筋のような細さだ。例えば、鉢澤橋梁にあったような太いボルトではない。
橋台の上から出ているボルトと言うか、鉄筋のようなものがどういう役割があったのかについて、私は推測できない。何らかの橋梁の設備と接続するものだと思われるが、現役時代を思い描けない。
軽便線で似たような設備があるのは、私の記憶では三期・四期工事の区間である取安川の橋台である。
いったいどういう橋梁だったのだろう。というしかない。現役時の様子を見てみたい。意外と木橋とかだったら、私はそれはそれで受け入れられる。林鉄ならあり得る光景だ。
更に、この橋台は斜面側に切り欠きがある。どういう構造の橋だったのかますます分からなくなる。こういう施設の例があるなら教えていただきたい。全く想像できない。
なお、現道から姿の集落の方を眺めるとこの様になる。
当然、私は田んぼと砂利工場の間の沢を歩いた。沢筋に石垣はあったが、とてもじゃないが信濃川電気事務所らしからずものだったので、写真すら撮っていない。また、それらしいコンクリート構造物は見つけることができなかった。今までの調査から、信濃川電気事務所ならこの程度の沢も侮らずにコンクリート構造物を拵えると推測されるが、それも見当たらなかった。
なお、今回探索した区間はストリートビューの一枚で見通せる区間に過ぎない。
私がここにこだわっているというか、こだわるようになったのは、姿の工事区がかなりの盛況を極めた場所だったからだ。先の水路隧道の記事でも述べたが、ここは軽便の停車場が置かれ、第一隧道下部・第二隧道の工事を担っていた姿横坑が口を開けている重要拠点なのである。しかし、現在においてその痕跡はかなり薄い。
現地調査でも、姿の集落に当時を知る方は存命していないとのことだ。生きていれば90歳は超えている。それでも、父親から当時の話を聞いたという方に話を聞くことができた。以下に箇条書きで紹介する。
・水路を掘った時のトンネルがある
・工事のために林道が舗装された
・軽便線は集落の川側を、橋の下を通って、川沿いの築堤上を走っていた
・今は水田になっている辺りは何もなかった。ただの荒地だった
・(株)ドリームパネルの土地は水路を掘ったときの土捨場(「”べと”を捨ててた場所で、当時は工場も何もなかった」)
・集落の外れの家(姿横坑に最も近い家屋)に、請負業者の社員が下宿していた
・官舎は川沿いにあった(川沿いの埋立地か島のような場所だとのことだが、昭和23年の空中写真でも痕跡は見つけられず。集落に元々あった家屋の邪魔にならない場所に建てたらしい)
・集落の寺に工事で亡くなった方の慰霊碑がある
・朝鮮から来た労務者もたくさんいた
・高島との間に水田を開いた
・信濃川が氾濫するとすぐに水に浸かる土地で、耕作に苦労した
と言った具合だ。正確なところは分からないが、後に何かに通じる情報になるかもしれない。裏付けは調べていく中で付けていけば良い。まだまだ調査は道半ばである。
姿横坑だ。5月に入ったというのに、平地でもこれだけの残雪が覆っている。ここを、水路を掘った際に発生する”べと”を満載したトロッコが行き交っていたことを想像しながら、より当時の様子に迫っていきたいという思いを持った。