信濃川水力発電工事の資材輸送を担った材料運搬線は、3つの時期に分けて考えることで理解できる。
1.大正期(魚沼鉄道平沢駅~宮中間(762mm))
2.一期工事(十日町線十日町駅~千手発電所間(1,067mm)、十日町線十日町駅~千手発電所~石橋~小泉~浅河原~姿~宮中間及び石橋~信濃川電氣事務所間(762mm)、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間(1,067mm)、その他支線(762mm))
3.三期工事(飯山線十日町駅~真人沢(市之沢)間(762mm)、上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)、その他支線(762mm))
材料運搬線とは工事に伴う資材の運搬を目的とした鉄道なので、水力発電工事の計画によって様相が変化する。鉄道省が計画着工した信濃川水力発電所工事でも材料運搬線が活躍した。しかし、その工事の期間の時間的長さ、工事区間の物理的長さがあいまって、分かりにくい。そのため、簡単に概要を話したいと思ったのだ。以下にそれを示して行く。
1.大正期
まず、最初に材料運搬線が敷設されたのは大正期である。これは大正8年頃から調査及び準備工事が開始された際に敷設されたもので、魚沼鉄道の平沢駅から分岐し、宮中まで工事が行われた。この時の信濃川発電所は一段発電で、越後鹿渡付近で取水し、小千谷発電所で発電するという計画であった。準備工事は大正11年にほぼ完成し、大正12年には少なくとも千手村付近までは線路の敷設や機関車の試運転も行われたと伝えられている。しかし、大正12年の関東大震災による影響で、水力発電所工事自体が中止となった。大正14年には信濃川電氣事務所も解散している。また、後の一期工事ではこの時の路盤の一部が再整備の上で利用されている。
2.一期工事
紆余曲折を経て、いよいよ昭和6年、信濃川水力発電所が着工された。工事の大枠として宮中で取水し千手発電所で発電、更に千手発電所で利用した放水を小千谷発電所でも利用する二段発電となった。また、鉄道の朝夕ラッシュという電力需要に対応出来るよう、浅河原と山本の二箇所に調整池を設ける計画となった。工程は一期・二期工事で宮中ダム~浅河原調整池~千手発電所~放水路、三期・四期工事で取水口~山本山調整池~小千谷発電所と四期に分けることも決定された。材料運搬のために沿線に軽便線が敷かれることも決定した。この軽便線の区間は大きく三つに分かれる。十日町線十日町駅~千手発電所間、千手発電所~小泉~浅河原~姿~宮中間及び小泉~信濃川電氣事務所間(千手村内)、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間の三つである。この軽便線の敷設で特に大工事となったのは、十日町~千手発電所間の信濃川を渡る鉄橋の新設である。当時、当地の道路橋は木橋で信濃川の洪水により度々落橋していた。そんな時代にコンクリート石積製の橋脚を備えた永久橋として建設された。また、発電機や変電設備など特大貨物の入線も視野に入れて、軌間も設備も本線並の規格とした。更に、十日町~千手発電所間の軌間は1,067mmと762mmの三線軌条とされ、軌間762mmの千手発電所~小泉~浅河原~姿~宮中間及び小泉~信濃川電氣事務所間(千手村内)は十日町駅から直通運転を行っていた。また、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間も1,067mmの専用線が敷設され、飯山鉄道から小原詰所へ引き込まれている。小原詰所とは宮中ダム建設地に設けられた詰所である。特に一期工事では宮中ダムの建設が最も困難な工事かつ発電開始のためには同ダムの完成が絶対だったこともあり、材料運搬も手厚くされたと考えられる。また、大正期の路盤跡を改修して整備されて来る762mmの軽便線も、沿線の工事の開始に間に合っていないことも背景にあるはずだ。越後田澤駅から小原詰所迄の距離も1kmちょっとと短く、専用線を敷設するのにもちょうど良い。同線が昭和6年の工事開始と共に現地の測量を開始され、すぐに整備されたことが宮中ダム工事にいかに貢献したかは想像に難くない。ここでは信濃川を渡る索道も設けられ、小原詰所~軽便線宮中停車場間を結んだ。これにより、軽便線開通により環状輸送路が確保された。
3.三期工事
三期工事の紆余曲折は改めてここでは書かない。戦時中に着工され、各種準備工事も細々とやりながら、各隧道も導坑をほぼ掘り終えて工事を休止している。本格的な着工は戦後、連合軍最高司令部の民間運輸局の許可を得て着工したものである。戦時中から既に資材輸送のメインは自動車に取って代わられ、三期工事で使用されたのは飯山線十日町駅~真人沢間(762mm)、上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)、その他支線(762mm)となっている。十日町~真人沢間(762mm)についても、大正期の軽便線の跡を利用しようと考えたものの、吉平・塩殿付近の荒廃が激しく断念した。同地は軽便線も河岸段丘の断崖絶壁を克服した区間ではあったが、特に荒廃が激しく、また冬期の雪崩等の対策と輸送上の不安材料が大きかった。また、魚沼橋の開通等の道路状況の改善により、自動車輸送が成り立つと考えられた。そのため、戦後の軽便線は真人沢水路橋の工事区までとされた。国鉄の資料では終点は市ノ沢とされているが、ここでは真人沢としている。真人沢とした方が理解しやすく、実際の材料運搬先として真人沢の水路橋以外に考えられない為である。軌間762mmの軽便線は数本の支線があったが、いずれも水路隧道の作業坑へ向かうものだ。現場付近の材料置場へ線路を引き込んだものである。そして、三期工事の材料運搬線で最大のものは上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)である。またしても、信濃川を渡る橋を架けた。これも当然、本線規格。重量物の搬入はまだまだ鉄道を利用するしかなかったのだ。なにしろ、小千谷の旭橋も、上流の魚沼橋も想定された重量物に耐えられない木橋である。こうして、三期工事では軽便線と自動車のハイブリッド体制で輸送に臨んだ。そして、信濃川水力発電所工事材料運搬線の最後の活躍の時代であった。四期工事の頃には自動車輸送がメインとなり、軽便線も鳴りを潜めるしかなかった。
以上、材料運搬線の概要である。工事時期によって変化する工事現場に対応するべく、材料運搬線は各時期で活躍した区間が変遷して行った事を示した。