※文中、「材料運搬線」「軽便」など表記のブレがありますが、特別に説明が無ければ信濃川発電所工事材料運搬線のことです。
今までも念仏を唱えるように何度も言っているが、大正時代に信濃川電気事務所が設置され、
信濃川発電所工事材料運搬線が魚沼鉄道から分岐して敷設されたことは事実だろう。
この材料運搬線の具体的な資料について私は見付けられていないが、各地の郷土資料でも紹介されている程度の線路ではある。
参考に、小千谷市の郷土資料に掲載されている当時の地図を載せる。
魚沼鉄道平沢駅から延び魚沼神社の裏を抜け、船岡山を迂回して信濃川へ向かっている鉄道を示す線が信濃川発電所の大正時代の材料運搬線であると考えられる。
地元郷土史にも発電所工事のための線路が魚沼神社の裏をかすめ、船岡山の下を通っていたという記述があるので、これが材料運搬線であることは疑わない。
化石燃料、当時は主に石炭だが、エネルギー資源に乏しい日本においては当時から鉄道も省エネルギー化が求められていた。
そこで、本格的に鉄道電化が検討される。
1919年(大正8年)の7月11日に鉄道院は「鉄道電化の大方針」を決定したとされている。
更に同年7月31日には鉄道院内に電化調査委員会を設置し、本格的に鉄道電化の動きを加速させているように見える。
鉄道省における詳しい鉄道電化の動きは私は存じ上げないのだけれども、諸々の検討の結果として、
電車運行の自営電力確保のため信濃川における水力発電所の建設が計画され、1921年(大正10年)の6月7日に信濃川電気事務所が設置された。
翌1922年(大正11年)6月15日には魚沼鉄道が国に買収された。
時代は1920年(大正9年)に宮内~東小千谷間の開通など、国家事業としての鉄道開通が推し進められている時代の中での魚沼鉄道の買収。
上越線はこれから1931年9月1日の清水トンネルの開通を待って、首都圏まで通じる路線である。
例えその時はまだ東京に通じていなくとも、小千谷から長岡・新潟方面へ上越線が通った際の当地の貨客流動の大きな変化は計り知れなかったろう。
事実、上越線の延伸まで、魚沼鉄道と言えば日本有数の利益を叩き出していた軽便線であったらしいものの、上越線の延伸と共に一気に収支が悪化したらしい。
国が軽便規格の魚沼鉄道を買収した理由について、魚沼鉄道の買収と信越線との接続を確保することで、
信濃川発電所工事材料運搬線の輸送の安定を求める動きがあったと考えられるが、諸説あるようなので余談である。
当時の計画は貝野(宮中ダム)から小千谷まで水路隧道を引くという一段発電の計画であったから、
今日のような千手にも発電所を建設し千手で発電に使った水を導水して小千谷でも発電するという二段発電計画ではなかったので、
当然、十日町専用線の信濃川橋梁も計画されていなかったはずだし、
上越線小千谷の専用線信濃川橋梁も計画に無かったはずだから、
川西の軽便による資材輸送こそが信濃川発電所建設の生命線として計画されていたと考えている。
準備工事が具体的にいつ始まったのかは定かではないが、小千谷から宮中に至るまでの約30kmに渡る信濃川沿線について、
材料運搬線の軽便を含めて、各工区での宿舎や倉庫などの準備工事はほぼ完成したとされている。
(昭和7年架設とされてる材料運搬線の鉢沢川橋梁の写真が残っていることから、あの谷をどうやって越えていたのだろうか。準備工事の段階で軽便が宮中まで繋がっていたのかは怪しい。材料運搬線といっても鉄道の建設なので、そうそう簡単なことではないはず)
それに関連してなのか、書類上の車両認可なのか私は判断できないが、あくまで情報として
1923年3月17日に信濃川発電所工事のために発注された蒸気機関車であるケ170形タンクが使用開始とされている。
国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 によると
大正12年(1923年)5月2日付達261号 ケ170(大正12年3月17日) ケ171、ケ172(3月22日)
~~
大正12年(1923年)8月8日付達537号 ケ179~ケ183(4月30日)
上記のようなスケジュールで使用開始となり、ケ170~ケ183までの14両が信濃川に新製配置され、使用開始されたようだ。
いよいよ機関車も配置され、準備工事も完成し、本格的に着工という段階まで来ていた。
その直後、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。
当然、人も資材も金も首都圏の復興へ集中されていく。
材料運搬線や工事区ごとの宿舎や倉庫などもほぼ完成していながら、人員や物資も滞り、信濃川発電所工事は開店休業状態に陥ったことだろう。
そして、1924年(大正13年)の12月22日に信濃川電気事務所は廃止される。
ここから、材料運搬線や工事付帯設備はほぼ完成しながら、事実上放棄される。
信濃川発電所開発の復活は1931年(昭和6年)4月1日の信濃川電気事務所再設置まで待たなければならない。
時は、2020年、大正期計画の信濃川発電所に関する準備工事が行われてから約100年後の話になる。
2020年は家でも空中写真が見られるから便利だ。
この二枚の比較で特に注目したいのが、日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路と、山本山大橋の付け根部分にある河岸段丘の崖である。
上の写真は小千谷発電所建設中の写真である。
日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路の延長線上に、日吉神社の裏を迂回するようにカーブし、
水田の中を突っ切るように細い線が残っている。
これが大正期の材料運搬線の跡であると考えられる。
これは戦後に撮影された空中写真にも写っているので、当時はまだ農地改良されておらず、その痕跡が濃く残っていたと考えられる。
再三の掲載になるが、戦後の空中写真に私が落書きしたポンチ図を参考までに貼っておく。
この記事は、基本的にこのポンチ図を証明するための材料探しをするものである。
日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路自体が、大正期の材料運搬線の切取り部分を発生残土で埋めたものであると考えられるから、
工事用道路としてまっすぐ山本山に向かわず、集落内は材料運搬線の土地を活用し、その線形をトレースする形になったものと思われる。
工事用道路と勝手に言っているが、山本山調整池が造られた戦後の時代は残土輸送含めて自動車がメインの輸送手段となっており、
この道がいかにもトラックが通ってそうな道で、かつ山本山調整池に向かって伸びているからそう判断した。
国鉄は山本山調整池だけで工事誌を残してくれているので、ひょっとしたらそちらの方に具体的な記述があるかもしれない。
さて、日吉神社は境内にある石碑から工事の以前からここにあったと推測される。
神様はあまり動かしたりしないはずなので、本殿が改築されていても、おおよその位置は当時と変化がないと考えている。
そして、境内の様子である。
おそらく、この境内の左側から裏を掠めて、奥に見える水田を材料運搬線は走っていたはずである。
ストリートビューで申し訳ないが、日吉神社を裏手から見てみよう。方向としては信濃川を向いている方向である。
正面右の軽自動車が走っている道路が工事用道路で、軽便の切取部分であったはずである。
正面左に日吉神社が写っている。
おおよそこの交差点の辺りで軽便は切り取りが始まり信濃川へ向けて急激に高度を下げつつ、
カーブしながら日吉神社を掠めていたのだろう。
また、左に切れている建物は発電所工事に伴って小千谷市が建てたとされる山本振興会館である。
ここに石碑があり、これにも大正時代から当地が工事のために土地を提供してきたとある。
工事用道路としている道を信濃川へ向けて進んで行くと、山本山大橋の袂に辿り着く。
おおよそ軽便をトレースしていると思われる工事用道路だから、軽便もこの下を通っていたことだろう。
軽便自体は切り取りにより、ここより数メートルは高度を下げて走っていたはずだから、実際の廃線跡を歩いているわけではないのだけども。
ここからは話が変わって、山本山大橋付近の話になる。
改めて最初に紹介した写真を見てみよう。
材料運搬線はちょうど山本山大橋の架かっている辺りで河岸段丘を掘り下げた切り取りを抜けながら、信濃川の上流へ進路を90°変える。
ポンチ絵でオレンジ色に示した線が材料運搬線の推定で、左側が信濃川の上流である。
進路を変えて材料運搬線は河岸段丘の崖にへばり付く様に、国道のほぼ真下を通っていたはずだ。
しかし、上のポンチ絵を見ても分かるように、調整池造成時の発生残土で発電所の周囲の河岸段丘の崖が覆われている。
材料運搬線の平場のようなものがあったとしても、それは残土の下か、もしくは発電所の鉄管工事で完全に消失している。
しかし、手付かずのように見える箇所もある。
それが、山本山大橋の付け根付近、材料運搬線が河岸段丘を掘り下げた切り取りを抜けて信濃川の上流へと転進する辺りなのだ。
予め断っておくと、切取部分も発生残土で埋め戻されているのは事実だ。
しかし、崖下がどうなっているのか気になる。
果たして何かそれらしいものは残っているのだろうか。
私は早朝の山本山大橋の上にいた。
橋の上から交差点を見る。
先の山元山大橋の袂として紹介したストリートビューの交差点を、橋の上から、逆方向に見ている。
右に見える河岸段丘の崖をつづら折りに降りて行く道がチラっと写っている。
これは先の山本発電所工事の鳥瞰写真でも写っており、おそらく当時から河原へと降りて行く道だろう。
橋を横切り、下流側を見る。
鬱蒼としており、パッと見で何も残っていなさそうである。
例によってポンチ絵で示すと、おおよそこんな感じに材料運搬線は通っていたのではないかと考えている。
正面左よりのこんもりとした斜面はおそらく、発生残土で盛られた斜面だろう。
工事から数十年、すっかり森になっている。
今度は河原へと降りて行く。
さっき紹介したつづら折りを降りて行く。
私はこういう時、発電所工事中も工事関係者がここを通っていたのだろうなという妄想をして興奮する。
この付近には国鉄の社宅も多い。
特に、上越線や小千谷駅が川の東側にあるにも関わらず、川の西側にも国鉄の社宅が残っており、工事の名残をにおわせている。
きっと、そこいらの官舎から歩いて出勤して来ていたのだろうななんていう妄想もはかどる。
意気揚々と、河原まで降りて来ての光景だ。
山本山大橋のある斜面はコンクリートの近代的な法面が施され、上流側である画像左には用途は不明ながら水路鉄管のようなものが斜面に横たわり、
そもそもその附近も割と最近になって土を盛られた様子を呈している。
とりあえず、橋の下まで行ってみる。
何も無い。画像の上の方、橋の桁の脇に信濃川らしい石垣があるけど、位置が高すぎるので材料運搬線との関連は考えられない。
もう投げやり気味に更に斜面に近づく。暑いし、薮だし。
どこか、段差を感じないか。
更に近づいて、現地で私は飛び上がりそうになった。
その段差を造っていたのが、いかにも信濃川発電所工事の様々な現場で見てきたような、丁寧で端正な信濃川の川石を使っただろう石垣だったからである。
もはや苔を毟るまでもなく、この石垣は信濃川の工事だと思う。
これはあくまで思いだ。根拠はないし、この石垣が例え大正時代の材料運搬線のものではないにしても、信濃川事務所の関係した石垣であろう。
美しすぎる、そんな石垣が山本山大橋の下で、今でも存在している。
改めて、石垣の位置を示そう。
いかにも、それらしい場所に、河岸段丘の崖に沿うように石垣が築かれている。
青色で囲った場所以外は、発電所工事での土捨て場になっていたりする斜面であるから、痕跡はないと思われる。
あくまでひょっとしたら土捨て場を除いた箇所は手付かずに残っているのでは?という推測で現地を訪れたが、石垣だけでも見付かって良かった。
それでも、大正期の材料運搬線の線路を支えていた石垣とも言い切れないのであるけれども。
しかし、ひょっとすると、ひょっとしたら、大正年間にここを試運転列車が走っていたのかもしれない。
これが現在においてはその痕跡と言える痕跡が消えてしまっている大正時代の信濃川発電所の材料運搬線の一部であったらと思いながら、ここに紹介した次第である。
今までも念仏を唱えるように何度も言っているが、大正時代に信濃川電気事務所が設置され、
信濃川発電所工事材料運搬線が魚沼鉄道から分岐して敷設されたことは事実だろう。
この材料運搬線の具体的な資料について私は見付けられていないが、各地の郷土資料でも紹介されている程度の線路ではある。
参考に、小千谷市の郷土資料に掲載されている当時の地図を載せる。
魚沼鉄道平沢駅から延び魚沼神社の裏を抜け、船岡山を迂回して信濃川へ向かっている鉄道を示す線が信濃川発電所の大正時代の材料運搬線であると考えられる。
地元郷土史にも発電所工事のための線路が魚沼神社の裏をかすめ、船岡山の下を通っていたという記述があるので、これが材料運搬線であることは疑わない。
化石燃料、当時は主に石炭だが、エネルギー資源に乏しい日本においては当時から鉄道も省エネルギー化が求められていた。
そこで、本格的に鉄道電化が検討される。
1919年(大正8年)の7月11日に鉄道院は「鉄道電化の大方針」を決定したとされている。
更に同年7月31日には鉄道院内に電化調査委員会を設置し、本格的に鉄道電化の動きを加速させているように見える。
鉄道省における詳しい鉄道電化の動きは私は存じ上げないのだけれども、諸々の検討の結果として、
電車運行の自営電力確保のため信濃川における水力発電所の建設が計画され、1921年(大正10年)の6月7日に信濃川電気事務所が設置された。
翌1922年(大正11年)6月15日には魚沼鉄道が国に買収された。
時代は1920年(大正9年)に宮内~東小千谷間の開通など、国家事業としての鉄道開通が推し進められている時代の中での魚沼鉄道の買収。
上越線はこれから1931年9月1日の清水トンネルの開通を待って、首都圏まで通じる路線である。
例えその時はまだ東京に通じていなくとも、小千谷から長岡・新潟方面へ上越線が通った際の当地の貨客流動の大きな変化は計り知れなかったろう。
事実、上越線の延伸まで、魚沼鉄道と言えば日本有数の利益を叩き出していた軽便線であったらしいものの、上越線の延伸と共に一気に収支が悪化したらしい。
国が軽便規格の魚沼鉄道を買収した理由について、魚沼鉄道の買収と信越線との接続を確保することで、
信濃川発電所工事材料運搬線の輸送の安定を求める動きがあったと考えられるが、諸説あるようなので余談である。
当時の計画は貝野(宮中ダム)から小千谷まで水路隧道を引くという一段発電の計画であったから、
今日のような千手にも発電所を建設し千手で発電に使った水を導水して小千谷でも発電するという二段発電計画ではなかったので、
当然、十日町専用線の信濃川橋梁も計画されていなかったはずだし、
上越線小千谷の専用線信濃川橋梁も計画に無かったはずだから、
川西の軽便による資材輸送こそが信濃川発電所建設の生命線として計画されていたと考えている。
準備工事が具体的にいつ始まったのかは定かではないが、小千谷から宮中に至るまでの約30kmに渡る信濃川沿線について、
材料運搬線の軽便を含めて、各工区での宿舎や倉庫などの準備工事はほぼ完成したとされている。
(昭和7年架設とされてる材料運搬線の鉢沢川橋梁の写真が残っていることから、あの谷をどうやって越えていたのだろうか。準備工事の段階で軽便が宮中まで繋がっていたのかは怪しい。材料運搬線といっても鉄道の建設なので、そうそう簡単なことではないはず)
それに関連してなのか、書類上の車両認可なのか私は判断できないが、あくまで情報として
1923年3月17日に信濃川発電所工事のために発注された蒸気機関車であるケ170形タンクが使用開始とされている。
国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 によると
大正12年(1923年)5月2日付達261号 ケ170(大正12年3月17日) ケ171、ケ172(3月22日)
~~
大正12年(1923年)8月8日付達537号 ケ179~ケ183(4月30日)
上記のようなスケジュールで使用開始となり、ケ170~ケ183までの14両が信濃川に新製配置され、使用開始されたようだ。
いよいよ機関車も配置され、準備工事も完成し、本格的に着工という段階まで来ていた。
その直後、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。
当然、人も資材も金も首都圏の復興へ集中されていく。
材料運搬線や工事区ごとの宿舎や倉庫などもほぼ完成していながら、人員や物資も滞り、信濃川発電所工事は開店休業状態に陥ったことだろう。
そして、1924年(大正13年)の12月22日に信濃川電気事務所は廃止される。
ここから、材料運搬線や工事付帯設備はほぼ完成しながら、事実上放棄される。
信濃川発電所開発の復活は1931年(昭和6年)4月1日の信濃川電気事務所再設置まで待たなければならない。
時は、2020年、大正期計画の信濃川発電所に関する準備工事が行われてから約100年後の話になる。
2020年は家でも空中写真が見られるから便利だ。
この二枚の比較で特に注目したいのが、日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路と、山本山大橋の付け根部分にある河岸段丘の崖である。
上の写真は小千谷発電所建設中の写真である。
日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路の延長線上に、日吉神社の裏を迂回するようにカーブし、
水田の中を突っ切るように細い線が残っている。
これが大正期の材料運搬線の跡であると考えられる。
これは戦後に撮影された空中写真にも写っているので、当時はまだ農地改良されておらず、その痕跡が濃く残っていたと考えられる。
再三の掲載になるが、戦後の空中写真に私が落書きしたポンチ図を参考までに貼っておく。
この記事は、基本的にこのポンチ図を証明するための材料探しをするものである。
日吉神社と山本山大橋の付け根部分に至る工事用の道路自体が、大正期の材料運搬線の切取り部分を発生残土で埋めたものであると考えられるから、
工事用道路としてまっすぐ山本山に向かわず、集落内は材料運搬線の土地を活用し、その線形をトレースする形になったものと思われる。
工事用道路と勝手に言っているが、山本山調整池が造られた戦後の時代は残土輸送含めて自動車がメインの輸送手段となっており、
この道がいかにもトラックが通ってそうな道で、かつ山本山調整池に向かって伸びているからそう判断した。
国鉄は山本山調整池だけで工事誌を残してくれているので、ひょっとしたらそちらの方に具体的な記述があるかもしれない。
さて、日吉神社は境内にある石碑から工事の以前からここにあったと推測される。
神様はあまり動かしたりしないはずなので、本殿が改築されていても、おおよその位置は当時と変化がないと考えている。
そして、境内の様子である。
おそらく、この境内の左側から裏を掠めて、奥に見える水田を材料運搬線は走っていたはずである。
ストリートビューで申し訳ないが、日吉神社を裏手から見てみよう。方向としては信濃川を向いている方向である。
正面右の軽自動車が走っている道路が工事用道路で、軽便の切取部分であったはずである。
正面左に日吉神社が写っている。
おおよそこの交差点の辺りで軽便は切り取りが始まり信濃川へ向けて急激に高度を下げつつ、
カーブしながら日吉神社を掠めていたのだろう。
また、左に切れている建物は発電所工事に伴って小千谷市が建てたとされる山本振興会館である。
ここに石碑があり、これにも大正時代から当地が工事のために土地を提供してきたとある。
工事用道路としている道を信濃川へ向けて進んで行くと、山本山大橋の袂に辿り着く。
おおよそ軽便をトレースしていると思われる工事用道路だから、軽便もこの下を通っていたことだろう。
軽便自体は切り取りにより、ここより数メートルは高度を下げて走っていたはずだから、実際の廃線跡を歩いているわけではないのだけども。
ここからは話が変わって、山本山大橋付近の話になる。
改めて最初に紹介した写真を見てみよう。
材料運搬線はちょうど山本山大橋の架かっている辺りで河岸段丘を掘り下げた切り取りを抜けながら、信濃川の上流へ進路を90°変える。
ポンチ絵でオレンジ色に示した線が材料運搬線の推定で、左側が信濃川の上流である。
進路を変えて材料運搬線は河岸段丘の崖にへばり付く様に、国道のほぼ真下を通っていたはずだ。
しかし、上のポンチ絵を見ても分かるように、調整池造成時の発生残土で発電所の周囲の河岸段丘の崖が覆われている。
材料運搬線の平場のようなものがあったとしても、それは残土の下か、もしくは発電所の鉄管工事で完全に消失している。
しかし、手付かずのように見える箇所もある。
それが、山本山大橋の付け根付近、材料運搬線が河岸段丘を掘り下げた切り取りを抜けて信濃川の上流へと転進する辺りなのだ。
予め断っておくと、切取部分も発生残土で埋め戻されているのは事実だ。
しかし、崖下がどうなっているのか気になる。
果たして何かそれらしいものは残っているのだろうか。
私は早朝の山本山大橋の上にいた。
橋の上から交差点を見る。
先の山元山大橋の袂として紹介したストリートビューの交差点を、橋の上から、逆方向に見ている。
右に見える河岸段丘の崖をつづら折りに降りて行く道がチラっと写っている。
これは先の山本発電所工事の鳥瞰写真でも写っており、おそらく当時から河原へと降りて行く道だろう。
橋を横切り、下流側を見る。
鬱蒼としており、パッと見で何も残っていなさそうである。
例によってポンチ絵で示すと、おおよそこんな感じに材料運搬線は通っていたのではないかと考えている。
正面左よりのこんもりとした斜面はおそらく、発生残土で盛られた斜面だろう。
工事から数十年、すっかり森になっている。
今度は河原へと降りて行く。
さっき紹介したつづら折りを降りて行く。
私はこういう時、発電所工事中も工事関係者がここを通っていたのだろうなという妄想をして興奮する。
この付近には国鉄の社宅も多い。
特に、上越線や小千谷駅が川の東側にあるにも関わらず、川の西側にも国鉄の社宅が残っており、工事の名残をにおわせている。
きっと、そこいらの官舎から歩いて出勤して来ていたのだろうななんていう妄想もはかどる。
意気揚々と、河原まで降りて来ての光景だ。
山本山大橋のある斜面はコンクリートの近代的な法面が施され、上流側である画像左には用途は不明ながら水路鉄管のようなものが斜面に横たわり、
そもそもその附近も割と最近になって土を盛られた様子を呈している。
とりあえず、橋の下まで行ってみる。
何も無い。画像の上の方、橋の桁の脇に信濃川らしい石垣があるけど、位置が高すぎるので材料運搬線との関連は考えられない。
もう投げやり気味に更に斜面に近づく。暑いし、薮だし。
どこか、段差を感じないか。
更に近づいて、現地で私は飛び上がりそうになった。
その段差を造っていたのが、いかにも信濃川発電所工事の様々な現場で見てきたような、丁寧で端正な信濃川の川石を使っただろう石垣だったからである。
もはや苔を毟るまでもなく、この石垣は信濃川の工事だと思う。
これはあくまで思いだ。根拠はないし、この石垣が例え大正時代の材料運搬線のものではないにしても、信濃川事務所の関係した石垣であろう。
美しすぎる、そんな石垣が山本山大橋の下で、今でも存在している。
改めて、石垣の位置を示そう。
いかにも、それらしい場所に、河岸段丘の崖に沿うように石垣が築かれている。
青色で囲った場所以外は、発電所工事での土捨て場になっていたりする斜面であるから、痕跡はないと思われる。
あくまでひょっとしたら土捨て場を除いた箇所は手付かずに残っているのでは?という推測で現地を訪れたが、石垣だけでも見付かって良かった。
それでも、大正期の材料運搬線の線路を支えていた石垣とも言い切れないのであるけれども。
しかし、ひょっとすると、ひょっとしたら、大正年間にここを試運転列車が走っていたのかもしれない。
これが現在においてはその痕跡と言える痕跡が消えてしまっている大正時代の信濃川発電所の材料運搬線の一部であったらと思いながら、ここに紹介した次第である。
小千谷発電所付近、路盤は消失済だと思い込んでる場所だけに大戦果でしたね!
軌道に関する記述がなさ過ぎと嘆きつつちゃんと文献資料を重視する姿勢は立派だと思います
でも軽便跡の断定は考古学的根拠だけでもう充分でないかと
うーん、すぐにでも藪の刈り払いしたいですね(笑)
コメントありがとうございます。
まさに、大正期の準備工事のみとなった区間の路盤と思われる石垣があったのは嬉しかったです。
軽便跡の断定についても、「もう充分」と後押しいただけると調べた甲斐があります。公式と言えるような資料が無い中で、どうにか書いてきた次第です。
薮の刈り払いすればもう少し見えて来るのかなと考えています。すぐにでも草刈り機を持ち込みたいです。次の実地探索は雪解け直後を狙いたいと思います。