大正十年~大正十三年の十日町新聞を確認できたので、紹介していきたい。
まず、先日に示した、郷土史などから起こした年表を再掲する。
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として軽便の工事が開始される
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
以下、大正十年からの十日町新聞の記事を紹介する
十日町新聞 大正十年七月二十五日
鉄道省の地質調査 脇水博士来郡
政府計画に係わる発電事業に就いては本郡川西貝野村以北一帯がその要地となる次第にて、夫々測量中なるが、去る十九日には本邦地質学の大家理学博士脇水鐡五郎氏鉄道省の要務を帯びて来郡せるに因り二十日郡当局吏員並びに測量隊同道の上、貝野村以北の水路地の視察調査を遂げ、同日当町田畑屋旅館に投宿せる~(以下略)
十日町新聞 大正十年九月十日
逓信鐵道兩大臣來越 鐡道省の發電地 視察の爲十日町に一泊 ◇本郡としては未曽有の事也
来る二十四日、長野県飯山鐡道の開通式に際し中央より元田鐡相、野田逓相の両大臣臨場の事は別項記載の通りなるが、両大臣は挙式後午後一時飯山を発し、本郡に来られ、同三時大割野着の豫定なるが、一行の日程は次の如しと
▲二十四日午後三時大割野に於ける信越電力会社支部に休憩 同四時大割野発 同五時十日町着投宿
▲二十五日午前八時十日町発 同九時清津着 信濃川信越電力発電所及び鉄道省発電所取入口予定地視察 同十一時清津発 正午十日町着 午後一時半十日町発 同二時半北魚沼郡吉平着、鉄道省発電所予定地視察の上四時半来迎寺着
十日町新聞 大正十年九月二十日
大臣来郡延期 飯鐡崩壊の爲め
十日町新聞 大正十年九月二十五日
飯鐡の開通式は十月十日 大臣の臨場は廿日
十日町新聞 大正十一年四月二十日
魚鐡線路踏査 買収価決定の爲
魚沼鐡道買収準備調査の為め、鐵道省総務課石川属外数名は十五日來越し来迎寺魚沼鐡道会社楼上において調査に着手せるが、更に十六日には喜安総務課長來越 ~ 黒河内信濃川電気事務所所長、長岡保線区技手数名を従え魚鐡線路実地調査として同日午前九時十二分来迎寺発列車にて小千谷町に到着、喜安総務課長、黒河内電氣所長は途中平澤新田駅にて下車し同所より自動車にて本郡大割野に向ひ~(以下略)
十日町新聞 大正十一年六月五日
魚鐡が国有に 十五日から
鐵道省の信濃川水電と其の在勤者
鐵道省信濃川水力電氣事務所へ配置されたる主任は左記諸氏にしてそれぞれ着任し執務し居るが、尚は用地買収等のことは同事務所直接之を行うものにて取扱い主任として鐵道局福井高三氏任命されたり
田 澤 鐵道技手 樋口操
貝 野 同 後藤憲平
吉 田 同 佐藤俊策
千 手 同 川越温
眞 人 同 田部新吉
市ノ澤 同 鈴木久兼
吉 平 同 千葉菊太郎
大正十一年九月五日
鐵道省の運転手は罰金三十円
~ 八月中本郡田澤村から小千谷に向け鉄道省の自動車を運転して水澤村字大黒澤の入口に差し掛かると ~ (信濃川発電所工事関係者が自動車を運転していて人を撥ねて罰金刑になったという話でだが、取水堰堤建設予定地の田澤から小千谷までの工事全域に渡って自動車などで移動をしていたということが読み取れる。大正時代に自動車ってかなり珍しいだろうに、信濃川でも移動手段として積極的に導入されていただろうことを伺わせる。)
大正十一年九月二十日
水電工事と軽便鐵道敷設 平澤驛~山邊迄
信濃川水電の爲魚鐡平澤驛を起点とし軽便鉄道敷設を見るべきが先ず以って同駅より北魚山邊村大字山本に至る四哩二十三鎖余りを起工するものにして、右に関し去る十五日黒河内信濃川水電事務所長は北魚沼郡役所に於いて関係地町村長と会見し其の承諾を求めたり。而して該線路は平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり
大正十一年十月三十日
信濃川水電の軽便鐡道も近く工事着手
鐡道省信濃川水力電氣事業に要する材料運搬の爲め敷設さるる軽便鐡道は盛んに本郡眞人、吉田間の土工工事中にして続いて吉田、貝野間も十一月早々開始の運びに至るべく魚沼軽便線平澤驛を起点とし同驛より山邊村大字山本に至る間も同月中に起工の予定なるが、以上の敷設工事中土工丈は総て来年九月一杯にて終了せしむるものなりと
大正十二年六月十五日
廿世紀(20世紀)文明は電氣より 電氣の源は本郡より
工費正に一億圓を投ずる 信濃川發電工事着々進捗 先ず第一に鐵道を敷設する
工費一億円を投ずる鉄道省信濃川発電わ工事は取入口を本郡外丸村付近に設けて山腹に数マイルのトンネルを掘削し北魚沼郡小千谷町の上流でこれを放流するという大仕掛けなものである。
これが準備工事として同省は私設魚沼鉄道を買収して発電工事用材料運搬をなすべく同線の終点たる小千谷駅から更に二十三マイルを延長して本郡貝野村迄鉄道を敷設する。
この鉄道を二十三マイル延長すると言うだけでもこの工事が如何に大仕掛けのものであるかが想像することが出来る。
右工事視察のために出張した信濃川発電所長黒河内四郎氏は曰く
「鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである。この工事に使役している人夫は約千人で内三分の一は鮮人である。なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。発電事務所は上越北線東小千谷駅前にあるが近く北魚沼郡平沢新田に移転する。この鉄道は旧魚沼線を通ずれば約三十マイルになる。」
見落としがあるかもしれないことは予め断っておくものの、十日町新聞でも工事について取り上げていた。
これらを元に年表を加筆修正すると以下のようになろう。
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として詰所や軽便の工事が開始される(軽便については測量がメインか?)
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収 材料運搬線についての地元協議と工事着手
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
特に大正十一年の魚沼鉄道の買収から具体的な工事の進捗が加速して行く。
魚沼鉄道買収と同時期に、田澤、貝野、吉田、千手、真人、市ノ沢、吉平と川西の各地域に鉄道技手を配置したという記事が出ているのもそれを裏付けているように見える。
魚沼線を国有化したと思ったら、目まぐるしく軽便敷設について地元と協議、そして工事の着工。
十月の着工だとしたら、もう雪の季節が目の前の感じもするが、
>鐡道省信濃川水力電氣事業に要する材料運搬の爲め敷設さるる軽便鐡道は盛んに本郡眞人、吉田間の土工工事中にして続いて吉田、貝野間も十一月早々開始の運びに至るべく魚沼軽便線平澤驛を起点とし同驛より山邊村大字山本に至る間も同月中に起工の予定なるが、以上の敷設工事中土工丈は総て来年九月一杯にて終了せしむるものなりと
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。
とあり、更に大正十二年までに千手に軽便の機関車が来ていたとされているから、それまでに小千谷~千手間の線路が繋がっていたものと推測される。
大正十一年の記述では来年(大正十二年)九月には工事が凡そ終わりそうなことが書いてあるが、
大正十二年の記述では工事の完了時期がかなり後ろに下がっている。
それでも地元郷土史などでは大正十二年には千手まで機関車が来たとされている。
若干引っ掛かるのが、当地にとって初めて走行した蒸気機関車だったろうに、それについての記述を十日町新聞で見つけられなかったことだ。
何しろ、飯山鐡道はまだ遥か上流の桑名川あたりまでしか来ていなかったし、十日町線もようやく測量や着工といったような時代である。
当地にとっては確実に大ニュースだと思うのだけれども、そういう記述が見つからない。
とは言え、大正十二年の試運転は当地には知れ渡っていたようで、試運転時は上野停車場に見物人が50人も集まったような話も残っているので、やはり線路は繋がっていたのだろう。
余談ではあるが、十日町線の岩澤あたりの工事の材料運搬について小千谷からの軽便を活用し、市ノ沢から索道で信濃川を越えて岩澤まで材料運搬するという検討もしたらしく、
後の昭和の三期工事では小千谷からの軽便は既に廃れ、飯山線を活用して岩沢から市ノ沢に索道を渡して材料を運搬したことの立場の逆転が面白い。
また、小千谷付近の軽便については割と具体的な記述が出て来ている。
>平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり
この記述を参考に、空中写真と記述を比較したい。
昭和の戦後のものではあるが、小千谷付近の空中写真だ。
当然、山本調整池も発電所もない。これから建設する。せいぜい、国鉄小千谷駅から伸びてきた専用線の信濃川橋梁が架けられた頃だ。
さて、大正期の軽便であるが、大正十一年かそこらに着工されて大正十二年から放置されて来たと捉えると、
工事は完了していたとしても軽く20年以上、間もなく30年近く経ってはいる。
にも関わらず、空中写真を見るとまだまだ軽便の跡らしき線が明確に見える。
ポンチ絵で示すと、上のようになる。
これを更に拡大すると、以下のようになる。
確かに船岡停車場と言えそうな敷地も見えるのである。
更に北寄りにある平沢の分岐付近も見てみよう。
明らかに分岐している線が見える。
例によってポンチ絵で落書きをする。
魚沼線と魚沼鉄道とを分けているが、魚沼線の西小千谷駅は昭和戦後の開業なので敢えてそういう記述にした。
これを見ると、魚沼線西小千谷駅は軽便の線路上に造られたことも分かる。
ただ、USA-R446-46 1947/11/01(昭22) 小千谷という米軍撮影の空中写真なので、
この年に既に存在しているそれらしい敷地が西小千谷駅の工事のものとも思えず、
ひょっとすると材料運搬線関連の何らかの資材置き場的な敷地であったのかもしれない。
戦後の運転再開時(1954年)に移転開業した西小千谷駅がこの敷地を転用したのかどうか、それを示す資料は私は見付けていない。
せいぜい、一枚の写真を見付けたのみで、戦後の西小千谷駅の工事の写真だろうと思われる。
これが本当に西小千谷駅だとすると、背景の段丘の形から小千谷の街を背にして北を向いて撮ったものだろうか。
もの凄く軽便っぽいし、奥に映っているロコとそれに連なるトロッコは何なんだ。
材料運搬線とは直接は関係ないと思われるが、紹介しておく。
また、今の地理院地図を見ても「平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり」が納得いくことが分かる。
平澤驛はもう少し北寄り(来迎寺寄り)にあり、県道を渡って「平沢ー(1)」と書いてある辺りにあったことは上に紹介したポンチ絵の通りで、その辺りで魚沼鐡道と分岐していた。
当時の新聞記事の記述からも、これらのポンチ絵で示した線が、おおよそ大正時代の材料運搬線の位置らしいと言うことは言えるのではないだろうか。
これは余談だが、船岡停車場から南に分岐している線が見える
今回の調査でも一切の記述は見られなかったので、あくまで「私の希望」的な軌道跡だ。
大正当時の計画水路に向かって線が伸びているように見える。まぁ、余談だけども。
まず、先日に示した、郷土史などから起こした年表を再掲する。
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として軽便の工事が開始される
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
以下、大正十年からの十日町新聞の記事を紹介する
十日町新聞 大正十年七月二十五日
鉄道省の地質調査 脇水博士来郡
政府計画に係わる発電事業に就いては本郡川西貝野村以北一帯がその要地となる次第にて、夫々測量中なるが、去る十九日には本邦地質学の大家理学博士脇水鐡五郎氏鉄道省の要務を帯びて来郡せるに因り二十日郡当局吏員並びに測量隊同道の上、貝野村以北の水路地の視察調査を遂げ、同日当町田畑屋旅館に投宿せる~(以下略)
十日町新聞 大正十年九月十日
逓信鐵道兩大臣來越 鐡道省の發電地 視察の爲十日町に一泊 ◇本郡としては未曽有の事也
来る二十四日、長野県飯山鐡道の開通式に際し中央より元田鐡相、野田逓相の両大臣臨場の事は別項記載の通りなるが、両大臣は挙式後午後一時飯山を発し、本郡に来られ、同三時大割野着の豫定なるが、一行の日程は次の如しと
▲二十四日午後三時大割野に於ける信越電力会社支部に休憩 同四時大割野発 同五時十日町着投宿
▲二十五日午前八時十日町発 同九時清津着 信濃川信越電力発電所及び鉄道省発電所取入口予定地視察 同十一時清津発 正午十日町着 午後一時半十日町発 同二時半北魚沼郡吉平着、鉄道省発電所予定地視察の上四時半来迎寺着
十日町新聞 大正十年九月二十日
大臣来郡延期 飯鐡崩壊の爲め
十日町新聞 大正十年九月二十五日
飯鐡の開通式は十月十日 大臣の臨場は廿日
十日町新聞 大正十一年四月二十日
魚鐡線路踏査 買収価決定の爲
魚沼鐡道買収準備調査の為め、鐵道省総務課石川属外数名は十五日來越し来迎寺魚沼鐡道会社楼上において調査に着手せるが、更に十六日には喜安総務課長來越 ~ 黒河内信濃川電気事務所所長、長岡保線区技手数名を従え魚鐡線路実地調査として同日午前九時十二分来迎寺発列車にて小千谷町に到着、喜安総務課長、黒河内電氣所長は途中平澤新田駅にて下車し同所より自動車にて本郡大割野に向ひ~(以下略)
十日町新聞 大正十一年六月五日
魚鐡が国有に 十五日から
鐵道省の信濃川水電と其の在勤者
鐵道省信濃川水力電氣事務所へ配置されたる主任は左記諸氏にしてそれぞれ着任し執務し居るが、尚は用地買収等のことは同事務所直接之を行うものにて取扱い主任として鐵道局福井高三氏任命されたり
田 澤 鐵道技手 樋口操
貝 野 同 後藤憲平
吉 田 同 佐藤俊策
千 手 同 川越温
眞 人 同 田部新吉
市ノ澤 同 鈴木久兼
吉 平 同 千葉菊太郎
大正十一年九月五日
鐵道省の運転手は罰金三十円
~ 八月中本郡田澤村から小千谷に向け鉄道省の自動車を運転して水澤村字大黒澤の入口に差し掛かると ~ (信濃川発電所工事関係者が自動車を運転していて人を撥ねて罰金刑になったという話でだが、取水堰堤建設予定地の田澤から小千谷までの工事全域に渡って自動車などで移動をしていたということが読み取れる。大正時代に自動車ってかなり珍しいだろうに、信濃川でも移動手段として積極的に導入されていただろうことを伺わせる。)
大正十一年九月二十日
水電工事と軽便鐵道敷設 平澤驛~山邊迄
信濃川水電の爲魚鐡平澤驛を起点とし軽便鉄道敷設を見るべきが先ず以って同駅より北魚山邊村大字山本に至る四哩二十三鎖余りを起工するものにして、右に関し去る十五日黒河内信濃川水電事務所長は北魚沼郡役所に於いて関係地町村長と会見し其の承諾を求めたり。而して該線路は平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり
大正十一年十月三十日
信濃川水電の軽便鐡道も近く工事着手
鐡道省信濃川水力電氣事業に要する材料運搬の爲め敷設さるる軽便鐡道は盛んに本郡眞人、吉田間の土工工事中にして続いて吉田、貝野間も十一月早々開始の運びに至るべく魚沼軽便線平澤驛を起点とし同驛より山邊村大字山本に至る間も同月中に起工の予定なるが、以上の敷設工事中土工丈は総て来年九月一杯にて終了せしむるものなりと
大正十二年六月十五日
廿世紀(20世紀)文明は電氣より 電氣の源は本郡より
工費正に一億圓を投ずる 信濃川發電工事着々進捗 先ず第一に鐵道を敷設する
工費一億円を投ずる鉄道省信濃川発電わ工事は取入口を本郡外丸村付近に設けて山腹に数マイルのトンネルを掘削し北魚沼郡小千谷町の上流でこれを放流するという大仕掛けなものである。
これが準備工事として同省は私設魚沼鉄道を買収して発電工事用材料運搬をなすべく同線の終点たる小千谷駅から更に二十三マイルを延長して本郡貝野村迄鉄道を敷設する。
この鉄道を二十三マイル延長すると言うだけでもこの工事が如何に大仕掛けのものであるかが想像することが出来る。
右工事視察のために出張した信濃川発電所長黒河内四郎氏は曰く
「鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである。この工事に使役している人夫は約千人で内三分の一は鮮人である。なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。発電事務所は上越北線東小千谷駅前にあるが近く北魚沼郡平沢新田に移転する。この鉄道は旧魚沼線を通ずれば約三十マイルになる。」
見落としがあるかもしれないことは予め断っておくものの、十日町新聞でも工事について取り上げていた。
これらを元に年表を加筆修正すると以下のようになろう。
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として詰所や軽便の工事が開始される(軽便については測量がメインか?)
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収 材料運搬線についての地元協議と工事着手
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
特に大正十一年の魚沼鉄道の買収から具体的な工事の進捗が加速して行く。
魚沼鉄道買収と同時期に、田澤、貝野、吉田、千手、真人、市ノ沢、吉平と川西の各地域に鉄道技手を配置したという記事が出ているのもそれを裏付けているように見える。
魚沼線を国有化したと思ったら、目まぐるしく軽便敷設について地元と協議、そして工事の着工。
十月の着工だとしたら、もう雪の季節が目の前の感じもするが、
>鐡道省信濃川水力電氣事業に要する材料運搬の爲め敷設さるる軽便鐡道は盛んに本郡眞人、吉田間の土工工事中にして続いて吉田、貝野間も十一月早々開始の運びに至るべく魚沼軽便線平澤驛を起点とし同驛より山邊村大字山本に至る間も同月中に起工の予定なるが、以上の敷設工事中土工丈は総て来年九月一杯にて終了せしむるものなりと
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。
とあり、更に大正十二年までに千手に軽便の機関車が来ていたとされているから、それまでに小千谷~千手間の線路が繋がっていたものと推測される。
大正十一年の記述では来年(大正十二年)九月には工事が凡そ終わりそうなことが書いてあるが、
大正十二年の記述では工事の完了時期がかなり後ろに下がっている。
それでも地元郷土史などでは大正十二年には千手まで機関車が来たとされている。
若干引っ掛かるのが、当地にとって初めて走行した蒸気機関車だったろうに、それについての記述を十日町新聞で見つけられなかったことだ。
何しろ、飯山鐡道はまだ遥か上流の桑名川あたりまでしか来ていなかったし、十日町線もようやく測量や着工といったような時代である。
当地にとっては確実に大ニュースだと思うのだけれども、そういう記述が見つからない。
とは言え、大正十二年の試運転は当地には知れ渡っていたようで、試運転時は上野停車場に見物人が50人も集まったような話も残っているので、やはり線路は繋がっていたのだろう。
余談ではあるが、十日町線の岩澤あたりの工事の材料運搬について小千谷からの軽便を活用し、市ノ沢から索道で信濃川を越えて岩澤まで材料運搬するという検討もしたらしく、
後の昭和の三期工事では小千谷からの軽便は既に廃れ、飯山線を活用して岩沢から市ノ沢に索道を渡して材料を運搬したことの立場の逆転が面白い。
また、小千谷付近の軽便については割と具体的な記述が出て来ている。
>平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり
この記述を参考に、空中写真と記述を比較したい。
昭和の戦後のものではあるが、小千谷付近の空中写真だ。
当然、山本調整池も発電所もない。これから建設する。せいぜい、国鉄小千谷駅から伸びてきた専用線の信濃川橋梁が架けられた頃だ。
さて、大正期の軽便であるが、大正十一年かそこらに着工されて大正十二年から放置されて来たと捉えると、
工事は完了していたとしても軽く20年以上、間もなく30年近く経ってはいる。
にも関わらず、空中写真を見るとまだまだ軽便の跡らしき線が明確に見える。
ポンチ絵で示すと、上のようになる。
これを更に拡大すると、以下のようになる。
確かに船岡停車場と言えそうな敷地も見えるのである。
更に北寄りにある平沢の分岐付近も見てみよう。
明らかに分岐している線が見える。
例によってポンチ絵で落書きをする。
魚沼線と魚沼鉄道とを分けているが、魚沼線の西小千谷駅は昭和戦後の開業なので敢えてそういう記述にした。
これを見ると、魚沼線西小千谷駅は軽便の線路上に造られたことも分かる。
ただ、USA-R446-46 1947/11/01(昭22) 小千谷という米軍撮影の空中写真なので、
この年に既に存在しているそれらしい敷地が西小千谷駅の工事のものとも思えず、
ひょっとすると材料運搬線関連の何らかの資材置き場的な敷地であったのかもしれない。
戦後の運転再開時(1954年)に移転開業した西小千谷駅がこの敷地を転用したのかどうか、それを示す資料は私は見付けていない。
せいぜい、一枚の写真を見付けたのみで、戦後の西小千谷駅の工事の写真だろうと思われる。
これが本当に西小千谷駅だとすると、背景の段丘の形から小千谷の街を背にして北を向いて撮ったものだろうか。
もの凄く軽便っぽいし、奥に映っているロコとそれに連なるトロッコは何なんだ。
材料運搬線とは直接は関係ないと思われるが、紹介しておく。
また、今の地理院地図を見ても「平澤新田より土川魚沼神社の裏を通り小千谷上之山町南端を横切り、山本に至るものにて中間に船岡停車場を設ける設計なり」が納得いくことが分かる。
平澤驛はもう少し北寄り(来迎寺寄り)にあり、県道を渡って「平沢ー(1)」と書いてある辺りにあったことは上に紹介したポンチ絵の通りで、その辺りで魚沼鐡道と分岐していた。
当時の新聞記事の記述からも、これらのポンチ絵で示した線が、おおよそ大正時代の材料運搬線の位置らしいと言うことは言えるのではないだろうか。
これは余談だが、船岡停車場から南に分岐している線が見える
今回の調査でも一切の記述は見られなかったので、あくまで「私の希望」的な軌道跡だ。
大正当時の計画水路に向かって線が伸びているように見える。まぁ、余談だけども。
かなり具体的になってきたけどやはり断片的なものばかりで、このへんが限界でしょうか
山本までの路盤は明瞭すぎてもしや一時的に使われたのではと思えるほどですね
昭和の工事再開まで機関車はどこにかくしていたんじゃー(笑)
西小千谷のキャプションがついた写真は初見ですが、古写真の解題に熱心な郷土史家は少なく
決定打にならないのが残念です
今回は当時に中魚沼郡一帯の出来事を記事にしてきた十日町新聞を題材とさせていただきました。
文章として当時の言葉で書かれている点において非常に参考になる資料ですが、おっしゃる通り断片的な記事しかありませんでした。机上調査としても限界を感じています。
これらの十日町新聞の記事が、戦後の空中写真から推測した軽便跡と比較しても有効な記述なのかなと考え紹介した次第ですが、ご納得いただける内容でしたでしょうか。
機関車を昭和の一期工事開始までどうやって維持していたのかは気になる部分で、その時からの機関車が昭和の工事で当たり前に動いていたことは事実でしょう。大正期に所属する信濃川電気事務所が廃止されてしまったのに機関車だけ残すといったことの根拠までは私は見付けられていません。