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死ねばいいのに

2018-08-28 22:48:13 | 趣味人的レビュー

講談社文庫(だけではないが)の京極夏彦作品には、その作品を象徴する妖怪のフィギュアの写真が表紙とカラー口絵になっている。だがこの『死ねばいいのに』は妖怪ではなく「菩薩」で、それがこの奇妙な連作短編集のラストを暗示しているとともに、この作品の本質を表している。


『死ねばいいのに』は、渡来(わたらい)健也と名乗る男が鹿島阿佐美という女について、彼女の知り合いに尋ね歩く物語だ。といっても阿佐美はもう死んでいる。殺された。そして健也は生前の阿佐美の知り合いだ。4回しか会ったことのない、肉体関係もないただの知り合い。阿佐美の知人に彼女のことを尋ねるのも、阿佐美のことを知りたいというただそれだけの動機で、事件のことを独自に調査しているとかそんなことではない。

で、この健也、若いがマトモに働いておらず、口が悪く態度も悪い。だから、どこに行っても邪険にされ、なかなか話も聞いてもらえない。それでもしつこく食い下がる健也に人はポツリポツリと話し始めるのだが、彼らが語るのは自分のことだけ。健也と話した6人の中で「六人目」はちょっと事情が異なるが、残り5人はそれぞれ何らかの形で阿佐美と関わった人たちでありながら、阿佐美について語る言葉を持っていなかった──。

この作品には、いくつかのどんでん返しが用意されているが、どんでん返しには見えない最大のどんでん返しが、これであると私は思う。例えば、あなたが知り合いの誰かについて語ろうとして、あなたの自分語りを含めず純粋にその人について、どれほど語ることができるだろう? あるいは、その人にまつわるいくつかの属性から、その人のことを勝手に類型化して、その人がそういう人であるかのように語ってしまっていないか? よく人は「自分のことはわからないが、他人のことはよくわかる」などと言うが、本当は自分のことはもちろん他人のことも少しもわかりはしないのかもしれない。

『死ねばいいのに』は「一人目」から「六人目」までの6編で構成された連作で、各話の扉にはそれぞれタロットカードのような絵が裏表描かれている。表はこの先の物語を象徴する絵で、裏の絵はすべて共通だが、私には裏の絵が人の泣き顔のように見える。泣いているのは誰なのか、なぜ泣いているのか──それは口絵の「菩薩」とともに最後まで読むとわかる仕組みだ。とはいえ「五人目」の最後で明らかになることや、「六人目」で判明する事件の全貌などは、ある程度ミステリを読み慣れた人なら容易に想像できるだろう。この物語が凄いのは、それでもなお読み終えた後に心の中に去来するものがある、というところなのだ。


──と、ここまでは書評サイト「本が好き」に投稿したレビューを再録したものだが、そこには書かなかったことを追記しよう。それは『死ねばいいのに』というタイトルについてだ。

本田健さんが『きっと、よくなる!』を出した時、なぜこのタイトルにしたのかを語った話がある。この本は電車広告などで大々的にプロモーションすることが前から決まっていたのだという。で、「その人が仮にこの本を買わなかったとしても、電車の中で『きっと、よくなる!』という言葉を見たら、『きっと悪くなる』という言葉を見た時よりも気持ちが前向きになって、もうちょっと頑張ろうというふうに思うんじゃないか。この本のタイトルは、そういうことも考えてつけた」と。

だとしたら『死ねばいいのに』はどうなのだろう?と、ふとそんなことを考えてみた。

今はSNSでうっかり誰かに対して「死ね」なんて書こうものなら、通報されて下手したら逮捕されかねない。スピ系の連中はしたり顔で「許しましょう」なんて言うが、そんなことが簡単にできたら誰も苦労などないし、無理矢理怒りや憎しみを飲み込むことがいいことだとも思わない。

そういう時、「死ねばいいのに」という言葉を見たら、どこか救われたような気持ちにならないだろうか。本当は言いたかったのに言えなかった言葉。「殺してやる」でも「死ね」でもない、どこか他力本願のようでありながら、相手に放たれた間違いなく呪いの言葉に。

そういえばスピ系の連中は「この世界の最高の原理は愛」とか言ってたっけ。ちなみに私が定義する「愛」とは、「何らかの形で相手を呪縛する、あるいは相手に呪縛されること、またはその行為」である(ついでに言えば、呪縛するには強いエネルギーが必要だが、誰しも持ちうるエネルギーは無尽蔵ではないから、どんな愛もいつかは冷める)。そして「呪」も「縛」も「何かを縛る」という意味を持つ。つまり「呪う」とは相手を「縛る」ことなのだ。

そう「死ねばいいのに」は、愛の言葉だ。

※これは「本が好き」に投稿した記事を再録したものである。


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