転位・21の舞台を観たのは13年ぶりくらいだろうか。最後に観た舞台『エホバの使者は現れず』はザ・スズナリだったと記憶しているが、たった3人の役者で演じられた、この上ない密度を持った濃密な作品だった。だが劇団は休止。その後、オウムの事件があり、劇団を主宰する山崎哲が、コメンテーターとしてテレビに出た際、オウム擁護とも取れる発言をしたことで非難を浴び、テレビ界から事実上、追放されるなどといったことがあった。
そして2001年から、劇団方式を取らない演劇集団として、新転位・21を立ち上げ、現在までに10回の公演などを行っている。
実は、新転位・21の公演が行われていとことは、しばらく前から知っていたのだが、ちょうど治療院を立ち上げたばかりで、精神的にも金銭的にも余裕がなく、その後も予定が合わなかったりしたこともあって、すっかりご無沙汰の状態だったのだが、このたびやっと第10回公演『ホタルの栖(すみか)-育ヶ丘団地一家心中事件』を観に行くことができたのである。
この『ホタルの栖』は転位・21時代の旧作の再演で、私にとっても二度目になる。俳優陣も転位・21とはすっかり変わったが、圧倒的な迫力と心をえぐられるような怖さはそのままで、不思議なうれしさと懐かしさがあった。
サブタイトルからもおわかりのように、この『ホタルの栖』は実際に起きた事件──兵庫県小野市にある育ヶ丘団地で起きた、借金苦による一家心中──を山崎哲自身が取材し、シナリオを書いている。『ホタルの栖』だけでなく、<犯罪フィールド・ノート>と呼ばれた転位・21の作品群は、全て実際の事件をもとにしたものばかりだ。例えば、私が観た最初の作品『マーちゃんの神曲-藤沢悪魔払い儀式事件』は、「悪魔に取り憑かれた。自分の中の悪魔を追い払ってくれ」と頼まれた家族が、その人を“悪魔払いのために”バラバラにして死に至らしめた(「殺した」のではなく)という、神奈川県藤沢市で起きた事件をもとに書かれたものである。
そこに立ち現れる世界は、ある意味、とてつもなく怖い。演じられるものが実際にあった事件だから怖いのではない。それこそ再現ドラマ、再現フィルムなんてものは、世の中に腐るほどあるのだから。転位とそれらとの本質的な違いは、山崎哲が舞台で再現しようとしたのが、事件に至る経緯や社会的な背景ではなく、事件に関わった人たちの心象風景だったからだと、私は考える。だから、時としてそのセリフは過剰なまでの繰り返し、リフレインに満ちている。『ホタルの栖』には、借金を背負ったハラダが語るこんなセリフが出てくる。
「そうだハラダ、返さなきゃーって、返さなきゃーって、早く返さなきゃーって…。ええ、そう思ってきたんです。返さなきゃーって、お金を返さなきゃーって、ええ、いつもいつも、返さなきゃーって、返さなきゃーって、早く返さなきゃーって、返さなきゃーって…」
転位・21の舞台は、こうしたセリフ全てが、いわゆる「転位節(ぶし)」で語られるのである。私は演技法とかはよくわからないが、一般的には、演じる場合は、力を抜いて、自然体で、情感を込めてセリフを言うように指導されるのだと思う。しかし転位ではその反対で、不自然に力を入れ、体を固くして、早口で平板に、叫ぶようにセリフを言うことを求められる。これが「転位節」。このセリフ術でこのセリフを話す(と言うか叫ぶ)時、そこに転位独特の劇的空間が生まれるのである。その空間の向こうから立ち現れてくるものが、当事者たちの心象風景だ。それは時として外的な風景と渾然となって異様なズレを作り出しながら、彼らを逃れられない1点へと導いて行く。
以前、ブログでマーガレット・ミラーについて述べた時、『これよりさき怪物領域』について書いた。この作品のタイトルは、登場人物の一人が地図の中で人間が住む領域と怪物の住む領域を明確に分けている、というエピソードから来ているが、ミラーの真意は「そんな明確に分かれた領域など存在しない」ということにある。怪物と人間との間には、実は本質的な差などなく、人は時として知らず知らずのうちに怪物になってしまうもの──彼女はそう言っているのだ。転位の舞台の怖さは、当事者たちの心象風景を辿りながら、いつしかそんな“人が怪物に変わっていた瞬間”を見てしまうことにある。重要なのは、それが“人が怪物に変わってしまう瞬間”ではない、ということだ。人が怪物になるのには、越えるべき、どんな境界も存在しないのだから。私たちが気づくのは、“怪物になった”ことではなく“怪物になっていた”ことだけなのである。
新転位・21のHPはこちら。なお、ブラウザはIE(Internet Explore)とOperaでは正常に見られるが、FF(FireFox)では何も表示されない。FFでもアドオンでIE Tabを入れれば見られるが、何とかしてください、山崎さん!
そして2001年から、劇団方式を取らない演劇集団として、新転位・21を立ち上げ、現在までに10回の公演などを行っている。
実は、新転位・21の公演が行われていとことは、しばらく前から知っていたのだが、ちょうど治療院を立ち上げたばかりで、精神的にも金銭的にも余裕がなく、その後も予定が合わなかったりしたこともあって、すっかりご無沙汰の状態だったのだが、このたびやっと第10回公演『ホタルの栖(すみか)-育ヶ丘団地一家心中事件』を観に行くことができたのである。
この『ホタルの栖』は転位・21時代の旧作の再演で、私にとっても二度目になる。俳優陣も転位・21とはすっかり変わったが、圧倒的な迫力と心をえぐられるような怖さはそのままで、不思議なうれしさと懐かしさがあった。
サブタイトルからもおわかりのように、この『ホタルの栖』は実際に起きた事件──兵庫県小野市にある育ヶ丘団地で起きた、借金苦による一家心中──を山崎哲自身が取材し、シナリオを書いている。『ホタルの栖』だけでなく、<犯罪フィールド・ノート>と呼ばれた転位・21の作品群は、全て実際の事件をもとにしたものばかりだ。例えば、私が観た最初の作品『マーちゃんの神曲-藤沢悪魔払い儀式事件』は、「悪魔に取り憑かれた。自分の中の悪魔を追い払ってくれ」と頼まれた家族が、その人を“悪魔払いのために”バラバラにして死に至らしめた(「殺した」のではなく)という、神奈川県藤沢市で起きた事件をもとに書かれたものである。
そこに立ち現れる世界は、ある意味、とてつもなく怖い。演じられるものが実際にあった事件だから怖いのではない。それこそ再現ドラマ、再現フィルムなんてものは、世の中に腐るほどあるのだから。転位とそれらとの本質的な違いは、山崎哲が舞台で再現しようとしたのが、事件に至る経緯や社会的な背景ではなく、事件に関わった人たちの心象風景だったからだと、私は考える。だから、時としてそのセリフは過剰なまでの繰り返し、リフレインに満ちている。『ホタルの栖』には、借金を背負ったハラダが語るこんなセリフが出てくる。
「そうだハラダ、返さなきゃーって、返さなきゃーって、早く返さなきゃーって…。ええ、そう思ってきたんです。返さなきゃーって、お金を返さなきゃーって、ええ、いつもいつも、返さなきゃーって、返さなきゃーって、早く返さなきゃーって、返さなきゃーって…」
転位・21の舞台は、こうしたセリフ全てが、いわゆる「転位節(ぶし)」で語られるのである。私は演技法とかはよくわからないが、一般的には、演じる場合は、力を抜いて、自然体で、情感を込めてセリフを言うように指導されるのだと思う。しかし転位ではその反対で、不自然に力を入れ、体を固くして、早口で平板に、叫ぶようにセリフを言うことを求められる。これが「転位節」。このセリフ術でこのセリフを話す(と言うか叫ぶ)時、そこに転位独特の劇的空間が生まれるのである。その空間の向こうから立ち現れてくるものが、当事者たちの心象風景だ。それは時として外的な風景と渾然となって異様なズレを作り出しながら、彼らを逃れられない1点へと導いて行く。
以前、ブログでマーガレット・ミラーについて述べた時、『これよりさき怪物領域』について書いた。この作品のタイトルは、登場人物の一人が地図の中で人間が住む領域と怪物の住む領域を明確に分けている、というエピソードから来ているが、ミラーの真意は「そんな明確に分かれた領域など存在しない」ということにある。怪物と人間との間には、実は本質的な差などなく、人は時として知らず知らずのうちに怪物になってしまうもの──彼女はそう言っているのだ。転位の舞台の怖さは、当事者たちの心象風景を辿りながら、いつしかそんな“人が怪物に変わっていた瞬間”を見てしまうことにある。重要なのは、それが“人が怪物に変わってしまう瞬間”ではない、ということだ。人が怪物になるのには、越えるべき、どんな境界も存在しないのだから。私たちが気づくのは、“怪物になった”ことではなく“怪物になっていた”ことだけなのである。
新転位・21のHPはこちら。なお、ブラウザはIE(Internet Explore)とOperaでは正常に見られるが、FF(FireFox)では何も表示されない。FFでもアドオンでIE Tabを入れれば見られるが、何とかしてください、山崎さん!
「ホタルの栖」の感想ありがとうございました。
「新転位・21のHPFF(FireFox)では何も表示されない」というのはどういうことなのでしょうか。わたしはPCは長くやっていますが、いまだに素人同然で、HPFFということばもわからない始末です。困りました。HPはわたしがホームページ・ビルダーで作っています。よろしければこんどぜひご教授ください!
まさか、山崎哲さんご本人からコメントいただけるとは、思っていませんでした。
(余計なことを書かなければよかったなぁ)
これからも機会があれば、公演を見に行きたいと思います。
FireFox(FF)は、元々Netscape社のブラウザが後にオープン・ソース化されて開発されたもので、InternetExplore(IE)より軽く高機能なために、かつては95%を越えていたIEのシェアを奪いつつあります(一説には、現在のFFのシェアは10~15%とか)。
ですから、FFできちんと表示できないと、HPにアクセスした人の10~15%に門前払いを食わせてしまうことになり、マズイのではないかと思う次第です。