何と第4部を書くことになってしまったぁー
第3部では『代替医療のトリック』(新潮社)の言説に対して、自分なりの反論の1つを示したが、「代替医療で治療効果と言われているもののほとんどは、科学的根拠の(ほとんど)ない単なるプラシーボ(プラセボ)にすぎない」という、この本の主張の根幹に明確に反証できる材料を持っていないのだから、反論もどうしてもスパッと胸のすくようなものになりようがない。今回も、そんな搦(から)め手からの反論を2つほど。
『代替医療のトリック』が主張しているのは、実は「代替医療はダメで、通常医療はいい」ということではなく、「医療とは、そこで用いられる治療法が厳密な意味で効果が科学的に実証されていなければならない」ということなのだ(これが前提にあるからこそ、「代替医療の効果は科学的に実証できない→だから代替医療はダメ」という論理が成り立つわけだ)。
で、この本を読んでいて疑問に感じるのは、「科学的効果が実証され」ているはずの通常医療では、その治療について調査・研究で「科学的に」実証された通りの結果が実際に臨床でも出ているのだろうか、ということだ。この点について、この本は何も語っていないが、以前聞いた話では、治験段階では非常にいい結果を出した薬が臨床では思ったほど効かない、といったケースはかなり多いという。
そんな話を持ち出したら、著者らは待ってましたとばかりに「その研究は多分、製薬会社から多額の費用が出ていたはずで、公平・中立な立場から信頼できるものではなかったのだ」と言うだろう。だとするなら、そうした治療は全て著者らが言う「科学的な根拠を持ったもの」とは言えないので、通常医療から外さなければならないはずだ(そう、治療というものは科学的根拠が実証されていなければならないのだから)。そうすると今、通常医療として行われているものうち、治療として残せるのは一体どれくらいだろうか。
例えば、症例数の少ない病気や、ゴッドハンド医師に頼らなければならない難しい疾患は、その治療効果を「科学的に実証」できないので、著者らの主張する「科学的な根拠に基づく」べき治療の扱う範囲からは明らかに逸脱してしまう(注)。著者らは「科学的根拠を持たない」代替医療について、「『この治療法には科学的根拠はなく、効果はプラシーボである』という表示を義務づけろ」と主張しているが、その主張に従うなら、通常医療でも、そうした難病には「ここで行うことは科学的根拠に乏しく、治療とは言えない人体実験である」という表示を義務づけなければならないだろう。
(注)自身が神経内科の医師でもある米山公啓氏は、著書『医学は科学ではない』(ちくま新書)の中で、科学の定義を「誰がやっても同じ結果が出る」ことだと述べた上で
そう考えると、通常医療の中にも(著者らが主張する意味での)「科学的根拠」に乏しいものがたくさんあることがわかる。著者らは「代替医療の効果はプラシーボにすぎない」と言うが、そういう意味では通常医療もまた、かなりを部分をプラシーボ効果に頼っているという点で、実は代替医療と大差ないとも言えるのだ。
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さて、上記とはまた違う視点から『代替医療のトリック』を見てみよう。著者らは、さまざまな治療法を真に「科学的」な形で調査・研究していけば、その治療法の真の姿が自ずと浮かび上がってくる、という一貫した立場からこの本を書いている。もちろん今、科学的評価とはそのように行われているわけだが、そのようなやり方を用いることで本当に医療の分野で何事かを評価できているのだろうか?
治療とは、ある行為を行うことで人体に起こる変化を予測することでもある。数学の学位を持ち、数学、生物学の研究者でもあるデイヴィッド・オレルは、著書『明日をどこまで計算できるか? 「予測する科学」の歴史と可能性』(早川書房)の中で
著者らが支持する治療効果の科学的検証とは、管理されたごく限定された条件設定の中で何らかのことを行い、その結果を統計的に検証するというものだ。実際、近代以降の科学実験とはそうして行われてきたわけで、それがそのまま医学などにも導入されたのは、ごく当然のことではある。
しかし気象、経済、医療のような、局所の変化の総体が必ずしも全体の変化を表さない複雑なシステム=複雑系には、そうした思考法や方法論が通用しないことが明らかになってきている。複雑系では「局所の総和≠全体」だから、局所的な変化をどれだけ調べて積み上げてみても、そこから系全体の変化を導き出すことはできないのだ。
しかも、複雑系は設定条件を微妙に変えるだけで系の様相が全く変わってしまったりする(上の「こうしたシステムのモデルは、パラメーターの変化に敏感な傾向がある」というのがソレ)。代替医療に関して(だけではないが)、明らかな効果があったとする研究と全く効果がなかったとする研究が同時に存在する理由は、こういったことにもよるのではないだろうか。そもそも複雑系の中の変化を単純モデルで調べて、まるで系全体が「科学的」に検証できたかのように主張するのは、それこそエセ科学者の欺瞞としか思えない。
著者らは2人とも物理の学位を持っているのだから、そのようなことは当然わかっていたはずだ。にも関わらず『代替医療のトリック』にはそうしたことは何も書かれていない。もし、知っていたのに(自分たちの出した結論を守るために?)それを書いていないのだとしたら、それこそ著者たちが読者に仕掛けた最大の「トリック」と言えるのではないだろうか?
第3部では『代替医療のトリック』(新潮社)の言説に対して、自分なりの反論の1つを示したが、「代替医療で治療効果と言われているもののほとんどは、科学的根拠の(ほとんど)ない単なるプラシーボ(プラセボ)にすぎない」という、この本の主張の根幹に明確に反証できる材料を持っていないのだから、反論もどうしてもスパッと胸のすくようなものになりようがない。今回も、そんな搦(から)め手からの反論を2つほど。
『代替医療のトリック』が主張しているのは、実は「代替医療はダメで、通常医療はいい」ということではなく、「医療とは、そこで用いられる治療法が厳密な意味で効果が科学的に実証されていなければならない」ということなのだ(これが前提にあるからこそ、「代替医療の効果は科学的に実証できない→だから代替医療はダメ」という論理が成り立つわけだ)。
で、この本を読んでいて疑問に感じるのは、「科学的効果が実証され」ているはずの通常医療では、その治療について調査・研究で「科学的に」実証された通りの結果が実際に臨床でも出ているのだろうか、ということだ。この点について、この本は何も語っていないが、以前聞いた話では、治験段階では非常にいい結果を出した薬が臨床では思ったほど効かない、といったケースはかなり多いという。
そんな話を持ち出したら、著者らは待ってましたとばかりに「その研究は多分、製薬会社から多額の費用が出ていたはずで、公平・中立な立場から信頼できるものではなかったのだ」と言うだろう。だとするなら、そうした治療は全て著者らが言う「科学的な根拠を持ったもの」とは言えないので、通常医療から外さなければならないはずだ(そう、治療というものは科学的根拠が実証されていなければならないのだから)。そうすると今、通常医療として行われているものうち、治療として残せるのは一体どれくらいだろうか。
例えば、症例数の少ない病気や、ゴッドハンド医師に頼らなければならない難しい疾患は、その治療効果を「科学的に実証」できないので、著者らの主張する「科学的な根拠に基づく」べき治療の扱う範囲からは明らかに逸脱してしまう(注)。著者らは「科学的根拠を持たない」代替医療について、「『この治療法には科学的根拠はなく、効果はプラシーボである』という表示を義務づけろ」と主張しているが、その主張に従うなら、通常医療でも、そうした難病には「ここで行うことは科学的根拠に乏しく、治療とは言えない人体実験である」という表示を義務づけなければならないだろう。
(注)自身が神経内科の医師でもある米山公啓氏は、著書『医学は科学ではない』(ちくま新書)の中で、科学の定義を「誰がやっても同じ結果が出る」ことだと述べた上で
しかし、前述したように、再現性があることが科学の条件であるということであれば、名医が存在するという現実は、医学の非科学性を示していることになる。なぜなら、外科手術に再現性があるのであれば、誰が手術を行っても同じ結果になるはずなのに、実際にはそうはならないからだ。と書いている。
そう考えると、通常医療の中にも(著者らが主張する意味での)「科学的根拠」に乏しいものがたくさんあることがわかる。著者らは「代替医療の効果はプラシーボにすぎない」と言うが、そういう意味では通常医療もまた、かなりを部分をプラシーボ効果に頼っているという点で、実は代替医療と大差ないとも言えるのだ。
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さて、上記とはまた違う視点から『代替医療のトリック』を見てみよう。著者らは、さまざまな治療法を真に「科学的」な形で調査・研究していけば、その治療法の真の姿が自ずと浮かび上がってくる、という一貫した立場からこの本を書いている。もちろん今、科学的評価とはそのように行われているわけだが、そのようなやり方を用いることで本当に医療の分野で何事かを評価できているのだろうか?
治療とは、ある行為を行うことで人体に起こる変化を予測することでもある。数学の学位を持ち、数学、生物学の研究者でもあるデイヴィッド・オレルは、著書『明日をどこまで計算できるか? 「予測する科学」の歴史と可能性』(早川書房)の中で
●予測モデルは、方程式の組をもとにしている。トップダウン式のアプローチを使って細かい点を省くことで、大気や生物、経済のシステムをシミュレーションしようという試みは、数理解析に適しており、わかりやすいストーリーが展開する。と述べている。
●しかし、根本的なシステムを方程式に還元することはできない。そうしたシステムは局所的なルールに基づいており、その全体的な「創発」特性は計算できない。
●こうしたシステムのモデルは、パラメーターの変化に敏感な傾向がある。このモデルを調整して過去のデータに合わせることはできるが、これは、未来を予測できるという意味ではない。
●データを多くしたり、強力なコンピューターを用意しても、必ずしも役に立たない。細部を追加しても、逆にうまくいかなくなることが多い。未知のパラメーターの数が爆発的に増えるからだ。
●統計的な手法が使えることもある。しかし、そうした手法は、漠然とした相関関係をもとにしていることが多く、未来に似ている過去に依存しており、原因と結果を説明できない。
●単純なモデルでも、予測を行うのに使えることがある。その場合の予測は通常、正確な予測としてではなく、個人的な見解や注意書きといった形になる。
著者らが支持する治療効果の科学的検証とは、管理されたごく限定された条件設定の中で何らかのことを行い、その結果を統計的に検証するというものだ。実際、近代以降の科学実験とはそうして行われてきたわけで、それがそのまま医学などにも導入されたのは、ごく当然のことではある。
しかし気象、経済、医療のような、局所の変化の総体が必ずしも全体の変化を表さない複雑なシステム=複雑系には、そうした思考法や方法論が通用しないことが明らかになってきている。複雑系では「局所の総和≠全体」だから、局所的な変化をどれだけ調べて積み上げてみても、そこから系全体の変化を導き出すことはできないのだ。
しかも、複雑系は設定条件を微妙に変えるだけで系の様相が全く変わってしまったりする(上の「こうしたシステムのモデルは、パラメーターの変化に敏感な傾向がある」というのがソレ)。代替医療に関して(だけではないが)、明らかな効果があったとする研究と全く効果がなかったとする研究が同時に存在する理由は、こういったことにもよるのではないだろうか。そもそも複雑系の中の変化を単純モデルで調べて、まるで系全体が「科学的」に検証できたかのように主張するのは、それこそエセ科学者の欺瞞としか思えない。
著者らは2人とも物理の学位を持っているのだから、そのようなことは当然わかっていたはずだ。にも関わらず『代替医療のトリック』にはそうしたことは何も書かれていない。もし、知っていたのに(自分たちの出した結論を守るために?)それを書いていないのだとしたら、それこそ著者たちが読者に仕掛けた最大の「トリック」と言えるのではないだろうか?
コメントありがとうございます。
『鍼灸OSAKA』は未読です(って言うか、『医道の日本』さえ読んでません)が、全日本鍼灸学会理事の小川卓良先生などは、ずいぶん前から「鍼灸も早くEBMを確立していかないと、医学の流れから取り残されてしまう」ということを言ってました。現在それがどうなっているのかは、残念ながらよく知りませんが。
実はここに書いたもの以外にも、2つほど反論を用意してますが、さすがにこのネタも飽きたので、この辺で終わりにしようと思います。どれだけ突き詰めてみても
>「あ~言や こ~言う」的な反論が展開される
のはわかりきってますから。
>西洋科学の名の下で行われている医療がどれだけEBMに基づいているかというと全く心もとない状態だったりするわけです。
現在のEBMはある意味、医療側が今やっている治療を正当化するためのお題目として使われているだけだったりします。
そして、そのEBM自体も実は単なる医学統計でしかありません。母集団を増やして個々の人間の持つ特異性を0に近づけた「(現実にはどこにも存在しない)標準的な人」に対する治療効果を調べて、統計的に導き出されたもの──それがEBMです。
それに対して代替医療は「人は1人ひとりみんな異なる」というところから出発していると私は思っているので、現在考えられているような意味でのEBMには、そもそもなじまないのではないでしょうか。
そうは言っても、「統合医療」ということが言われる中、「陽の当たる場所」に出て行きたいと思う代替医療の施術者も少なくないでしょう(ちなみに、私はその中の1人「ではありません」)。恐らく彼らの最大の課題となるのは「新しい EBMのあり方を構築すること」でしょう。それができて初めて通常医療と代替医療とが共同で医療を行えるわけで、そうでなければ、代替医療はせいぜい通常医療の穴をふさぐための体のいい「あて布」で終わりでしょう。
「鍼灸OSAKA」2008年夏号が『鍼灸とEBM』特集号で、ドイツのメガトライアルの事等が載っていて、かなり勉強になります。
閃きとか直感とかを除くために研究するのがEBMと思います。
しかしこういう人は理論のための理論の域を出ないことが多いでしょうから
「あ~言や こ~言う」的な反論が展開されるんでしょうね
意外に現場で幅を利かすのが閃きによる判断力ということもご存じなさそうですしね
本の中では説明してないわけですね。
それはズルイですよね~
自分でも守れないようなルールをよその土俵にまで適用してきて「おまえらおかしい!」とか言ってくるのはおせっかいを通り越して言いがかりもいいとこです。
そこを判っててやってるのがまたズルイ!と思うわけですよ。
先生にそこをハッキリ指摘していただいて、少しスッキリしました。
ありがとうございました。
ところでEBMがないから科学的でないとするのは論理に飛躍があるというか、無理があると思いますが、本の中ではどう説明してるのでしょう?