2月1日の日記に「匿名希望」さんから頂いたコメントが頭の中に谺してゐる。
どうしても頭から離れない。
一部を引用させていただく。
<以下、拔萃して引用>
夜眠れないつらさは私にもよくわかります。
でも、飲み会へ行って遅くなり、翌日休む、
ちょっと甘いのではないでしょうか?
また、回りの皆さんの温かさにも甘えていませんか?
私は復職後はできるだけ以前の生活リズムに戻すべく、まずは『早く寝れるように』、ということを心がけています。
このあたりのことができないと、復活はできないと考えているからです。
いまの仙丈さん、まだそれができていない、っていうか、やろうとする意識が薄いように感じます。
<以上、引用終り>
この「匿名希望」さんは強い人だ。
それに引き換へ、私はあまりにも弱い。
彼もしくは彼女もこの1月に「うつ」から復歸したさうだけれど、私とは比較にならないほど強い。
私は甘えてゐる。
それは自分でもわかつてゐる。
かつて私が新入社員に言ひ聞かせてゐたこと。
「飮んだら翌日は這つてでも出てこい!それも誰よりも早く!」
ただ、ひとこと言ひ譯をさせて貰へば、私がダメージを受けたのはアルコールの所爲ではない。
超一流企業でばりばりと仕事をしてそれなりの地位にゐるかつての仲間と、いまの情けない自分とをひきくらべてしまつて、氣持ちが落込んでしまつたのが原因なのだ。
單に「宿醉」でからだがしんどくて休んだ譯ではない。
いま、私の中で、「おまへは甘えてゐる」といふ聲が耳から離れない。
甘えてゐてはいけないのか?
それはやはりいけないだらう。
何故?
周圍に迷惑をかけるから。
周圍に迷惑をかけるくらゐなら、また休んだはうがいいのだらうか?
周圍の人からすれば、そのはうがましなのかもしれない。
でも、私は今度休んだら、もう立直れないやうな氣がする。
わがままだけれど、なんとか、綱渡りを續けたい。
そのためには、利害關係のない、かつての仲間たちとの雜談が、私の癒しなのだ。
ところが、その一方で、そんな努力すら抛棄したくなる自分がゐる。
この我が心の奧底に潛む「自分」をだまくらかすのが至難の業なのだ。
私のいまの據り所となつてゐる聖書の言葉。
「ゆゑに汝ら明日を思ひ煩ふことなかれ。明日は明日みづから思ひ煩ふべし」(01:51)
少なくとも會社に出られる状態ではなささうなので、上司に有休申請のメールを出した。
それじたいが「甘え」なのだと思ふと、悶悶として眠れない。
どこまで考へても「甘え」といふ言葉にぶちあたる。
1986年11月29日、マリー・クレール・アランのオルガンを聞いた時、リスト編曲によるバッハの何かの曲を聞いて、「おまへがすべて惡いのだ。みづからの存在を消滅させて宇宙と同化せよ」といふ聲が聞えて來たやうに感じたのを思ひ出した。
あの頃も危なかつた・・・
いかんぞいかんぞ思惟をかへさむ。
過去の輝かしい時代、特に高校山岳部時代のことを思ひ出すやうにした。
あの頃は樂しかつた。
ところが、その思ひ出の中で、ばてた後輩に向つて云つたセリフが思ひ出されてしまつた。
「バテただと?甘えるな、ザックを背負つて歩け!登らなければ、いつまでたつても目的地には着かないんだぞ」
3時、このままでは危ないと思ひ、眠劑をビールで流し込み、思考を強制終了させた。
8時。
とほくから嫁はんの聲がする。
夢の中のやうだ。
8時45分、耳元で嫁はんが「會社休むの?」。
それでやうやく意識がはつきりとしてきた。
「休む」。
けふは家から出よう。
小人閑居して不善を爲すと孔子さんも仰つてゐる。
さういへば、デュアリスをまだ運轉してゐないなあ。
醫療費控除の申請でもしようか。
六甲山から下界を見はるかすのも良いかもしれない。
とにかく家にゐてはダメだ。(09:38)
どうしても頭から離れない。
一部を引用させていただく。
<以下、拔萃して引用>
夜眠れないつらさは私にもよくわかります。
でも、飲み会へ行って遅くなり、翌日休む、
ちょっと甘いのではないでしょうか?
また、回りの皆さんの温かさにも甘えていませんか?
私は復職後はできるだけ以前の生活リズムに戻すべく、まずは『早く寝れるように』、ということを心がけています。
このあたりのことができないと、復活はできないと考えているからです。
いまの仙丈さん、まだそれができていない、っていうか、やろうとする意識が薄いように感じます。
<以上、引用終り>
この「匿名希望」さんは強い人だ。
それに引き換へ、私はあまりにも弱い。
彼もしくは彼女もこの1月に「うつ」から復歸したさうだけれど、私とは比較にならないほど強い。
私は甘えてゐる。
それは自分でもわかつてゐる。
かつて私が新入社員に言ひ聞かせてゐたこと。
「飮んだら翌日は這つてでも出てこい!それも誰よりも早く!」
ただ、ひとこと言ひ譯をさせて貰へば、私がダメージを受けたのはアルコールの所爲ではない。
超一流企業でばりばりと仕事をしてそれなりの地位にゐるかつての仲間と、いまの情けない自分とをひきくらべてしまつて、氣持ちが落込んでしまつたのが原因なのだ。
單に「宿醉」でからだがしんどくて休んだ譯ではない。
いま、私の中で、「おまへは甘えてゐる」といふ聲が耳から離れない。
甘えてゐてはいけないのか?
それはやはりいけないだらう。
何故?
周圍に迷惑をかけるから。
周圍に迷惑をかけるくらゐなら、また休んだはうがいいのだらうか?
周圍の人からすれば、そのはうがましなのかもしれない。
でも、私は今度休んだら、もう立直れないやうな氣がする。
わがままだけれど、なんとか、綱渡りを續けたい。
そのためには、利害關係のない、かつての仲間たちとの雜談が、私の癒しなのだ。
ところが、その一方で、そんな努力すら抛棄したくなる自分がゐる。
この我が心の奧底に潛む「自分」をだまくらかすのが至難の業なのだ。
私のいまの據り所となつてゐる聖書の言葉。
「ゆゑに汝ら明日を思ひ煩ふことなかれ。明日は明日みづから思ひ煩ふべし」(01:51)
少なくとも會社に出られる状態ではなささうなので、上司に有休申請のメールを出した。
それじたいが「甘え」なのだと思ふと、悶悶として眠れない。
どこまで考へても「甘え」といふ言葉にぶちあたる。
1986年11月29日、マリー・クレール・アランのオルガンを聞いた時、リスト編曲によるバッハの何かの曲を聞いて、「おまへがすべて惡いのだ。みづからの存在を消滅させて宇宙と同化せよ」といふ聲が聞えて來たやうに感じたのを思ひ出した。
あの頃も危なかつた・・・
いかんぞいかんぞ思惟をかへさむ。
過去の輝かしい時代、特に高校山岳部時代のことを思ひ出すやうにした。
あの頃は樂しかつた。
ところが、その思ひ出の中で、ばてた後輩に向つて云つたセリフが思ひ出されてしまつた。
「バテただと?甘えるな、ザックを背負つて歩け!登らなければ、いつまでたつても目的地には着かないんだぞ」
3時、このままでは危ないと思ひ、眠劑をビールで流し込み、思考を強制終了させた。
8時。
とほくから嫁はんの聲がする。
夢の中のやうだ。
8時45分、耳元で嫁はんが「會社休むの?」。
それでやうやく意識がはつきりとしてきた。
「休む」。
けふは家から出よう。
小人閑居して不善を爲すと孔子さんも仰つてゐる。
さういへば、デュアリスをまだ運轉してゐないなあ。
醫療費控除の申請でもしようか。
六甲山から下界を見はるかすのも良いかもしれない。
とにかく家にゐてはダメだ。(09:38)
足をケガした人が足を上手に動かせないのと同じように、「うつ」の人は自分の心を上手にコントロールできない。
匿名希望氏の発言に対し何度も言い訳をし自分を責めていること自体が、君が「うつ」であることを如実に表している。
匿名希望氏は強いのではない。簡単に自分の心をコントロールできる程度に症状が軽かっただけだ。
症状が軽い人間が自分より重症の人間を非難することが許されるのだろうか。
捻挫を1週間で治した人間が骨折で2ヵ月休んでる人のことを「甘えている」と言うのは正しいのか。
症状も環境も理解せずに単に同じ「うつ」であるということだけで、上から目線で他人を軽々しく非難する匿名希望氏に私は大きな憤りを感じる。
繰り返すが、君はまだ「うつ」という病気だ。そのため自分の心とそれに基づいた行動を上手にコントロールできていないだけだ。
症状も回復の経過も人それぞれ。自分にあった方法とペースで治していくしかない。
そのために気にしなければならないのは主治医の言葉であって、ネット上で「匿名希望」を名乗る人間の言葉ではない。
それに「のせられてしまう」のが仙丈さんにとって良い効果があるのだったら、次の日休んでしまうことになっても、むしろいいことなのだ、ということは、「匿名希望氏」さんはお分かりになりますか?
「うつ」はかかる過程が人様々なのと同じように、どうしたらそこから回復できるか、の過程も人様々です。
「匿名希望」で一個人に対して「やる気」云々する姿勢も、如何なものでしょうか・・・などということを私が綴ると、胸を痛めてしまうような仙丈さんなんですけれど・・・
どうもありがたう。
やうやく目を覺したところです。
思考囘路がまるで傷のついたレコードのやうに、いつまでも「甘えてゐる」といふところに戻つて來てしまひ、昨晩は3時まで悶悶としてゐました。
このままでは危ないと思ひ、ビールとトリアゾラムの力を借りて、意識を強制終了させました。
けふも「甘える」ことにして、昨晩のうちに上司にメールを出しておきました。
何も考へずに濟むやうに、けふは家を出て見やうと思ひます。
繰り返しますが、お二人とも、ほんたうにありがたう。