仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

【昔の手帳から】 10月2日

2011-10-02 01:33:31 | 昔の手帳から
【1979年】(浪人)

前期「數學Y」復習終了豫定

火曜日。
中學までは數學が得意だつた私だが、高校に入つて山岳部の活動にうつつを拔かしてゐる間に數學の進行について行けなくなつた。
2年生の1學期には赤點を取つたほど。
もつとも、これではいかんと次のテストでは頑張つて93點といふ高得點を取つたのだが、數學の教師に疑ひの目でみられてヤル氣をなくしてしまつた。
それ以來、赤點+10數點といふ低空飛行が續いた。
3年になるときに文系か理系かを選擇するのだが、數學の成績が良くないにも關はらず、私は天文學者になりたいといふ夢を捨て難く、理系クラスに進んだ。
しかし、やはり數學に正面から取り組む氣になれぬまま、秋を迎へたのだつた。
11月、自信をつけようと大手豫備校の中でも母集團の水準が低い代ゼミの摸試を受けたのだが、數學ができず、判定結果は6校すべて「志望校變更の要あり」の判定。
さすがの私もショックを受け、理學部志望から文學部志望に轉向した。(これを文系へ轉んだといふ意味で「文轉」と云つた)
共通一次まであと1ヵ月あまりといふ時點での「文轉」で、志望校の2次試驗の過去問にすら手をつけられなかつた。
「文轉」した時點で浪人が決定したと云つてもよいだらう。
浪人して、私は方針を立てた。
數學については今からどんなに努力してもトップクラスの水準には屆かないだらう。
數學の目標水準は、偏差値にして駿台55、代ゼミ60として數學にかける時間は最小限に抑る。
その分の時間は英語と古文、世界史に廻し、共通一次對策は夏と冬に集中して片付けてしまはう。
その方針に則り、數學はあれこれ手を伸ばさず、駿台の授業のなかでも一番わかりやすいものに集中することにし、「數學Y」の復習に着手した。
「數學Y」は、京都駿台の常任講師アオヤマ先生が東京へ出張して來て授業をしてゐる講座で、私にとつては他のカリスマ講師たちの授業よりわかりやすかつた。
この日は、その復習が終はる豫定の日。
實際に計畫通り終はつたのかどうかはわからない。



【1980年】(1囘生)

モギの下宿

木曜日。
モギの下宿に遊びに行つた。
私の記憶では、そのまま徹夜したと思つてゐたのだが、手帳によれば翌日に「サトシに手紙」とある。
といふことは、この日は歸つてサトシへの手紙を書いて、翌日それを投函したのだらう。



【1981年】(2囘生)

試驗(English)
11:10-12:00 多田 (A112) ○
15:10-16:00 松田 (A214 or 215) ×
麻雀 (カワムラ、ミヤシタ、ヨコタ) -44/-¥1,300

金曜日。
英語の試驗が2つ。
多田先生の試驗は自信があつたらしい。
それにひきかへ松田先生の試驗は撃沈したやうだ。
さうだらうなあ。
何せ松田と名前すら覺えてゐないのだから、授業にも殆ど出てゐなかつたのだらう。

夜から明け方にかけて麻雀。
じつにレアな面子だ。
カワムラは同じ高校出身で、枚方で一緒に塾の講師をしてゐた仲間。
ミヤシタも同じ高校の同級生で、岩倉在住なので、時々遊びにきてゐた。
確かこの2人は中學が同じだつたんぢやないかな?
中學、高校と一緒だつたのに、お互ひあまり話したことがないと聞いた氣がする。
ヨコタは産大の2囘生で、同じアパートの住人。
私の麻雀仲間のコアメンバーだつた。
カワムラとアパートの住人、ミヤシタとアパートの住人とで麻雀をすることは時々あつた。
でも、その2人とアパートの住人とで麻雀をしたのは、あまり記憶にない。



【1982年】(3囘生)

塾なし
ホサカに¥3,000貸與。

土曜日。
この年の土曜日は、小5の理社と中2の英語を教へてゐた。
それが、この日はなかつたらしい。
理由はわからない。
いつたい、何があつたのだらう。

ホサカに3千円貸したらしい。
線で消してあるので、後日返してくれたのがわかる。
家賃・共益費あはせて¥14,000~¥16,000といふ安くてボロい學生アパートに暮してゐる者同士、助け合つて生きてゐた。
1年目は私も嚴しい經濟状況だつたが、2年目から塾講師の職を得て生活にゆとりが出來たので、おもに貸す側に身を置いてゐた。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【2011 公式戰】 ● 阪神 3-... | トップ | 10月1日(土)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿