「古代史を疑う」 古田武彦
駸々堂出版
1985年10月21日發行
お薦め度:☆☆☆+α /
2006年10月25日読了
古田武彦がいくつかのポイントに絞つて自らの史觀を語つた本。
内容は以下のとほり。
要旨だけなので、立論根據の詳細については充分ではないが、彼の獨自の史觀世界を知るには適してゐる。
率直にいつて、<その八・九>あたりになると、あまりに根據薄弱でついていけなくなる。
<その一> 疑考・小林秀雄---本居宣長論
銅鐸が「記・紀」には登場しない。
銅鐸は天皇家が大和に乘込んでくる以前の文化で、「大和朝廷」はその文化をもつ國を滅ぼしたのだ。
神武東征説話がその時のことを物語つてゐる。
「天皇家一元主義」では説明がつかないので、本居宣長や宣長を讚美した小林秀雄はこのことについて「目をつぶつた」のだ。
<その二> 疑考・柳田國男---歴史民俗學論
對馬の下縣郡にある阿麻テ留神社が天照大御神の本籍だ。
「天」とは對馬海峽周邊に存在した「アマ國」を指してゐる。
神無月に神々が出雲に集まるといふのは、出雲に王朝があつたことを示す。
つまり天照大御神は大國主命の家臣だつたのだ。
「國讓り説話」はオホクニヌシからアマテラスへの「禪讓譚」であつた。
<その三> 疑考・柿本人麻呂---萬葉論
「近江の荒れたる都を過ぎる時」といふ詞書のある、柿本人麻呂の長歌と反歌。
これは天智天皇による近江遷都を歌つたものではない。
なぜなら、それ以前の天皇ですでに一度近江に遷都した天皇がゐたからだ。
すなはち、景行天皇もしくは成務天皇である。
そして仲哀天皇が遠征先で不審の死を遂げた後、留守を守つてゐた香坂・忍熊の二人の皇子のうち、香坂は猪に殺され、忍熊皇子は神功皇后の叛亂軍により近江で殺されてゐる。
この悲慘な出來事があつたからこそ、人麿は哀切きはまりない歌を詠んだのだ。
<その四> 疑考・大國主命---「大國古事記」論
古事記で、大國主命の正妻・須勢理毘賣が嫉妬する場面がある。
その部分で、大國主が「出雲より倭國に上り坐さむとして」と書かれてゐる。
ここで書かれてゐる「倭國」は筑紫にある。
なぜならば、その後で、大國主は筑紫の奧津宮(沖ノ島)に坐す多紀理毘賣を娶ることになるからだ。
ここで「上がる」といふのは、對馬海流を遡つてゆくからである。
ちなみに對馬海流に從つて對馬から筑紫へと向ふことを「天降る」といふのである。
<その五> 疑考・萬葉集---大王之遠乃朝廷
「筑紫國に下りし時」と詞書のある人麻呂の歌。
「大王の 遠の朝廷(みかど)とあり通ふ 島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ」
この歌は關門海峽あたりで筑紫を歌つた歌である。
「遠の朝廷(みかど)」とは、通説によれば地方の政廳のことだとされてゐる。
しかし、萬葉集の全用例8つのうち6つまでは筑紫に關聯した歌で出現してゐる。
つまり「遠の朝廷(みかど)」とは、かつて筑紫に存在してゐた朝廷のことを指してゐるのだ。
殘る2用例は家持の「越」に關聯した歌だが、「越」は繼體天皇の出身地だといふことで、家持が本來の用例(筑紫の朝廷)を轉用したのだらう。
<その六> 疑考・好太王碑---王健群説をめぐつて
好太王碑に登場する「倭」は、通説の「大和朝廷」でも、王健群説の海賊でもなく、九州王朝である。
そして、朝鮮半島には「倭地」が存在してゐた。
「倭人その國境に滿ち城池を潰破し奴客をもつて民と爲す」といふ新羅の使者の言葉にある「國境」とは新羅と倭國の國境を指してゐる。
<その七> 疑考・「古代出雲」論---門脇禎二説をめぐつて
1984年7月、出雲の荒神谷で大量の銅劍が出土した。
その總數は358本。
古代出雲に一大勢力が存在したことは疑ひえない。
その背景には隱岐島を中心とする黒曜石の出土状況がある。
すなはち出雲古代文化は繩文時代の黒曜石文化が基點となつてゐる。
<その八> 疑考・「古代出雲」不信論---未來像への試行
繩文時代の眞脇遺跡で直徑1mもの柱が出土するなど、繩文時代の巨大建築が實在してゐることが判明してゐる。
さうしてみると大國主の宮殿も實在してゐた可能性は充分にある。
出雲神話の内容は後世の造作だとはいへない。
また、大國主の宮殿には「天の日栖の宮」といふモデルが存在してゐた。
その「天の日栖の宮」とは隱岐島の島前・中の島、海士町にあつたと考へられる。
この海士町が「天國(アマクニ)」の始原の地なのである。
<その九> 疑考・「エバンス説」不問主義---スミソニアンへの訪問
繩文土器と同じやうな土器がエクアドルのバルディビア遺跡から出土してゐる。
「エバンス説」は、繩文人が海流に乘つてエクアドルに流れつき繩文土器を作つたのではないかといふ假説である。
駸々堂出版
1985年10月21日發行
お薦め度:☆☆☆+α /
2006年10月25日読了
古田武彦がいくつかのポイントに絞つて自らの史觀を語つた本。
内容は以下のとほり。
要旨だけなので、立論根據の詳細については充分ではないが、彼の獨自の史觀世界を知るには適してゐる。
率直にいつて、<その八・九>あたりになると、あまりに根據薄弱でついていけなくなる。
<その一> 疑考・小林秀雄---本居宣長論
銅鐸が「記・紀」には登場しない。
銅鐸は天皇家が大和に乘込んでくる以前の文化で、「大和朝廷」はその文化をもつ國を滅ぼしたのだ。
神武東征説話がその時のことを物語つてゐる。
「天皇家一元主義」では説明がつかないので、本居宣長や宣長を讚美した小林秀雄はこのことについて「目をつぶつた」のだ。
<その二> 疑考・柳田國男---歴史民俗學論
對馬の下縣郡にある阿麻テ留神社が天照大御神の本籍だ。
「天」とは對馬海峽周邊に存在した「アマ國」を指してゐる。
神無月に神々が出雲に集まるといふのは、出雲に王朝があつたことを示す。
つまり天照大御神は大國主命の家臣だつたのだ。
「國讓り説話」はオホクニヌシからアマテラスへの「禪讓譚」であつた。
<その三> 疑考・柿本人麻呂---萬葉論
「近江の荒れたる都を過ぎる時」といふ詞書のある、柿本人麻呂の長歌と反歌。
これは天智天皇による近江遷都を歌つたものではない。
なぜなら、それ以前の天皇ですでに一度近江に遷都した天皇がゐたからだ。
すなはち、景行天皇もしくは成務天皇である。
そして仲哀天皇が遠征先で不審の死を遂げた後、留守を守つてゐた香坂・忍熊の二人の皇子のうち、香坂は猪に殺され、忍熊皇子は神功皇后の叛亂軍により近江で殺されてゐる。
この悲慘な出來事があつたからこそ、人麿は哀切きはまりない歌を詠んだのだ。
<その四> 疑考・大國主命---「大國古事記」論
古事記で、大國主命の正妻・須勢理毘賣が嫉妬する場面がある。
その部分で、大國主が「出雲より倭國に上り坐さむとして」と書かれてゐる。
ここで書かれてゐる「倭國」は筑紫にある。
なぜならば、その後で、大國主は筑紫の奧津宮(沖ノ島)に坐す多紀理毘賣を娶ることになるからだ。
ここで「上がる」といふのは、對馬海流を遡つてゆくからである。
ちなみに對馬海流に從つて對馬から筑紫へと向ふことを「天降る」といふのである。
<その五> 疑考・萬葉集---大王之遠乃朝廷
「筑紫國に下りし時」と詞書のある人麻呂の歌。
「大王の 遠の朝廷(みかど)とあり通ふ 島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ」
この歌は關門海峽あたりで筑紫を歌つた歌である。
「遠の朝廷(みかど)」とは、通説によれば地方の政廳のことだとされてゐる。
しかし、萬葉集の全用例8つのうち6つまでは筑紫に關聯した歌で出現してゐる。
つまり「遠の朝廷(みかど)」とは、かつて筑紫に存在してゐた朝廷のことを指してゐるのだ。
殘る2用例は家持の「越」に關聯した歌だが、「越」は繼體天皇の出身地だといふことで、家持が本來の用例(筑紫の朝廷)を轉用したのだらう。
<その六> 疑考・好太王碑---王健群説をめぐつて
好太王碑に登場する「倭」は、通説の「大和朝廷」でも、王健群説の海賊でもなく、九州王朝である。
そして、朝鮮半島には「倭地」が存在してゐた。
「倭人その國境に滿ち城池を潰破し奴客をもつて民と爲す」といふ新羅の使者の言葉にある「國境」とは新羅と倭國の國境を指してゐる。
<その七> 疑考・「古代出雲」論---門脇禎二説をめぐつて
1984年7月、出雲の荒神谷で大量の銅劍が出土した。
その總數は358本。
古代出雲に一大勢力が存在したことは疑ひえない。
その背景には隱岐島を中心とする黒曜石の出土状況がある。
すなはち出雲古代文化は繩文時代の黒曜石文化が基點となつてゐる。
<その八> 疑考・「古代出雲」不信論---未來像への試行
繩文時代の眞脇遺跡で直徑1mもの柱が出土するなど、繩文時代の巨大建築が實在してゐることが判明してゐる。
さうしてみると大國主の宮殿も實在してゐた可能性は充分にある。
出雲神話の内容は後世の造作だとはいへない。
また、大國主の宮殿には「天の日栖の宮」といふモデルが存在してゐた。
その「天の日栖の宮」とは隱岐島の島前・中の島、海士町にあつたと考へられる。
この海士町が「天國(アマクニ)」の始原の地なのである。
<その九> 疑考・「エバンス説」不問主義---スミソニアンへの訪問
繩文土器と同じやうな土器がエクアドルのバルディビア遺跡から出土してゐる。
「エバンス説」は、繩文人が海流に乘つてエクアドルに流れつき繩文土器を作つたのではないかといふ假説である。
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