
さて、今回は前回の前文の続き……と思ったんですけど、またしても本文だけでかなりのところギリギリ気味に……というわけで、誰にとってもどーでもいい(笑)YくんとZ子ちゃんの愛の行方については、次の【15】の前文でと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
ユトレイシア・ユニバーシティ。-【14】-
(それがいくら「よかれ」と思い、善意でしたことであったにせよ……むしろその余計なお節介が仇になったなんていうことが、世の中にはいくらもあるってことなんだろうしな)
このあとロイは、ボランティアではリズにしか心を開かないという頑固な偏屈婆あの元を辞去した彼女と合流し、「今日のグリーナウェイ将軍のご様子」について報告した。すると、リズのほうでは「わたしのエカテリーナ女帝も、大体似たようなものよ」と笑っていたものである(その老女は、正確には名前をエステルと言ったのだが)。ボランティアで侍女役を演じているといったところのリズとしては、ロイの話を聞くたびに笑いを禁じえなかったものだった。何故といって、アーロン・グリーナウェイとエステル・エスカローエは双子といってもいいくらい性格が似通っており――もし仮にこのふたりが食堂あたりで向かいあわせに座り、二十分ばかりも話をしたならば、おそらく老人とは思えないほどの罵声の浴びせあいに発展したろうと、そのように想像されたからである。
「でもあのふたりが結婚していたことがあるだなんて、本当にびっくりね。人に歴史ありっていうけど、そのとおりだわ。世界には暗殺されていまだに犯人が捕まってない事件がいくつもあるけど……そのどれかの真相がわかっても、わたし、今ほど驚かないかもね」
アーロンから、「棚にあるCDは好きなのを持ってってええぞ」と言われていたロイは、その日ブラームスやマーラーのCDの中にシャロン・キャノンのCDも一枚混ぜて借りてきたのである。そのジャケットを丸太小屋の喫茶店で見るなり、リズはそう言っていた。
「オレもさ、アーロンからその話を聞いた時は真面目くさって聞いてたけど……今にして思うと、随分恐ろしい計画を自分は立てようとしてたんだなって思うよ。シャロンがもし仮にユトレイシア交響楽団の演奏会に『どれ、わたしも重い腰を上げていってみようかね』なんて言って、あのふたりが顔を合わせてたとしたら――たぶんきっと、とんでもないことになってたんじゃないかっていう気がする」
「そうよねえ。あのあと、わたしもシャロンから聞いたのよ。正確にはわたしの口からあれこれ聞いたってことじゃなくて、彼女のほうから色々話してくれたってことなんだけど……『わたし、シャロンが上の階にいる人間がどっかいってくれたらどんなにいいかってくらい、うるさく生活してるかしら』って聞いたらね、『リズが引っ越すっていうんなら、あんたの聞きたがってることはなんでも話してやろう』って言って、例のベンチのところでアーロンと結婚した経緯とか、大体のところ話してくれたの」
そして、アーロン・グリーナウェイとシャロン・キャノンの結婚生活というのは、大体が次のようなものだったらしい。結婚前に、コンサート活動のようなことは一切やめて家庭に入って欲しいと言われ、実際その通りにしたのだが(離婚後、そのことを後悔した)、アーロンが何かと嫉妬深く、ほんのちょっとしたことで「男に色目を使った」、「浮気した」と騒ぎ立てたこと、そして次第にそんな生活が窮屈になり、「実際には浮気してもいないのにそんなに疑うなら、本当に浮気してやれ」と思い、一度だけある男と関係を持ったところ――折悪しく、そんなところへアーロンが帰ってきて現場を見られ、離縁されたこと……「まあ、あいつも不幸な男だよ。ありもしないことを『絶対にそうだ』と思い込み、疑い深いがゆえに、悪いことが最後には本当にそうなっちまうんだからね」
ロイはリズの話をここまで聞くと、どうしても笑いを禁じえなかった。飲んでいた抹茶ラテを、思わず吹きだしそうになったほどだ。何故なら、介護員たちがこんな話をしているのを聞いたことがあったからである。『アーロン・グリーナウェイにかかったら、犬がわんわん吠えてても、「嘘つけ!おまえは猫だろう」ってことにされちまうんだからね』とか、『あの人はヴァイオリニストじゃなくて、刑事になるべきだったんだろうよ。それも、犯人にありもしないことを自白させる専門のね』といったように。
「その……さ。アーロンのそういう性格形成の成り立ちっていうか、そういうことのうちにはたぶん――厳しい音楽学校の教育ってことがあったんじゃないかと思うんだ。なんでも、中学生の時にはすでにユトレイシア音楽学校の寮の寄宿生だったってことでね。オレ、前に夜中にやってたドキュメンタリーで見たことあるよ。ようするに、そういう競い合いの厳しい環境なんだ。寮で同室になった奴より上へ行けといった感じのね……そのテレビ番組が放映になったあと、随分批判的な意見が殺到したらしい。『見ていて嫌な気分になった』とか、『子供にはもっと伸び伸び音楽教育すべきだ』とか、そういう。つまり、人間性が若干歪むような感じの教育方針で、ユトレイシア交響楽団のヴァイオリニストの椅子に座りたいとなると、そのくらいの厳しい倍率をくぐり抜けるってことになるらしい。寮の同室者が同じヴァイオリニストだったりすると、友達になるどころか、ろくに口を聞かないこともザラだって話。『将来ライバルになる奴と、何故仲良くしなきゃならないんだ?』って、14、5くらいの子が真顔でほんとにそう言うんだよ」
「なるほどねえ。しかもそれ、今から何年前かくらいの映像なんじゃない?もしそうだとしたら……アーロンが音楽学校の寮生だった頃なんて、今以上にもっと、異常なくらい厳しかった可能性もあるものね。それが世界屈指というか、世界で五指に入る楽団のひとつと言われる地位を保ち続ける秘密だなんてことになったら――わたしが親だったら、何か別の職業を子供に選ばせるところだけど、アーロンの御両親にはどうしても息子をヴァイオリニストにしたいような理由でもあったのかしら」
リズは黒糖入りタピオカ・ミルクティーを飲んで、溜息を着いた。<ユトレイシア敬老園>でロイと一緒になった時には、ボランティア後にこの丸太小屋へ立ち寄るというのがふたりの定番コースになっている。
「どうなんだろうね。なんでも、聞いたところによると、アーロンのお父さんは実業家で、お母さんはピアノが弾けたらしいけど、女学校を出たあとすぐ結婚したとかで、子供たちには金持ち子息の教養として音楽を習わせたってことらしい。だから、アーロンはヴァイオリン、アーロンの妹さんのモリーンはピアノを習ってたってことでね。それでアーロンは三歳の頃からヴァイオリンをはじめて、絶対音感があったせいかどうか、音楽の先生たちが『この子は天才だ!』とか騒いだらしくて……ええとね、これもアーロンの言葉によるとだよ。お母さんが中途半端に音楽の教養があったから、すっかりその気になっちゃったんだね。だから、家から切り離されて行きたくもない音楽学校で寮生となり、嫌々ながら音楽教育を受けていたところ、実際にはソリストになれるほどの天才的才能などはなく、ようやくのことでユトレイシア交響楽団の椅子に座ることになったって。あとはもう、他の世界のことは何も知らないから、ずっとその椅子にしがみつくことになったとかなんとか」
「ふう~ん。あの小憎らしいおじいさんがそこまでぺらぺら色々しゃべるってことは、ロイ、あなたよっぽど気に入られてるのね。それで、自分の財産をあなたに残してもいいって言ってるくらいなんでしょう?そのモリーンさんっていう妹さんは今、どうしてるのかしら?」
「随分前に亡くなったらしいよ。子供がいたかどうかまでは聞いてないけど、親御さんの決めた堅苦しい男性と結婚したとかって。でも、親戚がまるきりいないってわけでもないようだし、何もオレじゃなくても誰かしらいるんじゃないかな。単に、進んで財産を残したいほど親密ってわけじゃないとか、そういうことなんであって……」
ここで、リズはなんとなく複雑な気持ちになった。アーロン・グリーナウェイが前妻に少しばかり気前のいいところを見せて、彼の莫大な財産のいくたりかをシャロンにも残してくれたら……彼女だって息を切らせつつアパートの四階の部屋まで上がって来る必要はなくなるだろう。かたや、毎月びっくりするような金額を老人福祉施設に支払いつつ、なおかつブツクサ文句を言う金持ち老人、かたや、公的扶助によって毎月切り詰めつつ、どうにか暮らす貧乏老女――このふたりを分ける仕切りは一体なんなのだろうと、彼女は考えずにはいられない。
「リズが考えてること、わかるよ」
春の宵に包まれつつある、窓外の景色を眺めながら、ロイは言った。リラの樹の下にある花壇では、スミレやアイリスといった花が妖精のような彩りを添えている。
「あの偏屈じいさんが、他に誰にも財産を残す気がないんなら、せめてもシャロンにそのいくたりかでも残してくれたらって思ってるんだろう?」
「そうなの。だけど、問題はアーロンじいさんのことばかりでもないわ。仮にアーロンのほうで『そこまで可愛いロイが言うのなら、わしも五百歩ばかりも譲って、前の妻に金を残したろうかな』となったにしても……シャロンのほうで『そんな金、受け取りたくもないね』って感じで地面に唾を吐くんだろうから、どの道このことは考えるだけ無駄なことなんだろうなと思って」
「シャロンにとっても、二年くらいの結婚生活っていうのが、そんなにつらいものだったってことかい?」
「そうね。あんまり詳しくは聞かなかったけど……アーロンのほうではその後再婚したってことはシャロンも知ってて、三年くらい前に亡くなってるって聞いたら、随分残念がってたわ。アーロンのことなんかどうでもいいけど、後妻さんの苦労したろう気持ちはわかるから、逆にアーロンが死んでその奥さんのほうが生きてたら、クソ亭主の悪口で大いに盛り上がれただろうにってね」
「なるほどなあ」
――ロイとリズが丸太小屋の喫茶店でこんな話をした約二週間後のことだった。ロイが五月の初旬にリズのアパートの階段を上がっていくと……いつものようにシャロンは、引きずるくらいの長いガウンを着て、スパスパ煙草を吸っているところだった。
ロイにしても最早、彼女の前でアーロン・グリーナウェイの名を口にしようとは思わない。それで、『自分は何も知らない』といった顔をして、軽く会釈して通りすぎようとした時のことだった。
「そのうちあんたがやって来るのを、ずっと待ってたんだよ」
五階へ上っていこうとして、ロイは足を止めた。『今、なんとおっしゃいました?』というほとではないにせよ、多少驚きはしたからである。
「そうですか。それは嬉しいですね。オレのほうでは今も時々、あなたのCDの歌声を聴いたりしてますよ。あれ、デジタル配信できるようにしたらどうですか?そしたらお金も入ってくると思うし……」
「ふん!あんなもの、わたしにとっちゃとうに過去の遺物にすぎないからね。それに、一体どこの誰がわざわざダウンロードしてまであんな古い歌を聴くもんかね。それよりまあ、お座りよ。どうせリズから色々聞いてるんだろ?あたしはね、アーロン・グリーナウェイのことなんか今じゃもうちっともどうとも思ってやしないからね。ただ、あの時は少しびっくりしたのさ……あんたの口から誰か昔の知ってる楽団員の名前を聞くことがあるにしても、昔の亭主の名前が出てこようとは思ってもみなかったもんでね」
「まあ、確かにあのじいさんは多くの人にとって気持ちのいいじいさんとは言えないでしょうが……オレは結構好きなんですよ。財産家だから、生きてる間に媚を売って少しくらいなんか残してもらおうとか、そういうことでなしにね」
「ふふん。それを言ったらあたしだって、多くの人間にとって気持ちのいいババアとは言えないだろうさ。けどまあ、あんたと同じく、わたしにはわたしで、リズっていう気に入ってる可愛い子がいるよ。それであんた、あのひねくれ者のアーロン・グリーナウェイにどうやって取り入ったのかね?」
ロイがベンチの彼女の隣に座ろうとすると、驚いたことにシャロンは、自分の部屋の玄関のドアを開けていた。どうやら「入れ」ということらしい。
もちろん、間取りのほうは五階のリズの住んでいる部屋とまったく同じである。だが、ロイは一瞬まったくべつの異空間に足を踏み入れたような錯覚を覚えていた。廊下に敷かれたマットや、壁に並ぶドライフラワー、それに古い絵画など……すべてが、時という名の埃とともに古びた感じなのに、それが不思議とノスタルジーという名の心地よさをロイの脳に訴えてくる。ロイはシャロン・キャノンの402号室の部屋へ入るのは今が初めてではあったが、懐かしい匂いがするような気さえしていた。居間のほうも、廊下のベンチと同じ雰囲気の、アンティークなソファや家具セットで統一されており――壁には名前もわからない画家の立派な額装に包まれた絵や、年代物のフロア・スタンド、それからこれもまた古めかしいレコード・プレーヤーなどが並べられている。
ロイの個人的な意見としては、70年代の名画のワンシーンを見るような、簡単にいえばそんな雰囲気の部屋だったといえる。
「すごく趣味のいい部屋ですね」
「あんたも、リズと同じことを言うんだね。なんにせよ、見た目はともかくすべて安物だよ。アンティーク風というだけであって、本物のアンティークではないからね。どうせリズに聞いてるだろうけど、あの子とあたしは骨董品店巡りが好きなのさ……あとはユトレイシア広場で時々立つ蚤の市とかね。そういうところで、自分が本当に気に入ったものを値切って買い揃えたという、それだけのことさね。昔はわたしも、本物のビーダーマイヤー様式の家具に囲まれたお嬢さまだったってのに、まったく落ちぶれたものだよ」
特段、覗き込もうとしたわけではないのだが、ロイが開いていた寝室のほうへ目を向けると、シャロンはそちらに行って開け放していたらしい窓を閉めにいった。
「たぶん、あんたには馬鹿くさく聞こえるだろうけどね……そっちのクローゼットには昔若い頃着てた舞台衣装なんかがぎっしり入ってるんだよ。ただ、ずっとそのまんまにしてたらすっかりナフタリンくさくなっちまってね、まだ窓を開けるには寒いけど、時々そうやって空気の入れ換えをしなきゃならないんだよ」
(うちのおばあちゃんのクローゼットも、そういえば同じような樟脳の匂いがしてたっけ)とロイは思い出したが、余計なことだと思い、口には出さないでおいた。『あたしはあんたのおばあちゃんじゃないよ!』と言われそうな気がした、というのもある。
「上じゃ、リズがあんたの来るのを待ってるんだろうからね。手短に話させてもらうとすると……あんた、あの人から何を聞いたね?あたしが浮気性のどうしようもない売多だったとかなんとか、そんなことを言ってようとあたしはそんなこと、一切気にしやしない。ただ、あたしにはあたしで、あの人に多少言いたいことがなくもないもんでね。あとはあんたとリズが、あの人とあたしの話の両方を聞いて、大体その真ん中くらいのところが真実なんだろう……とでも思ってくれれば十分さ」
「まあ、それに近いことは言ってましたが、オレはあまりあのじいさんの言うことはまともに取り合ってないんですよ。特に、アーロンが自分の過去について話す時はともかくとして、そこに伴う人の評価といったことについては……あのおじいさんから見た、あくまで事の一面といったように思って、ただうんうん言って頷いてるってだけです」
「なるほどね。それがあの頑固者があんたを気に入った一番の理由かも知れないね」
そう言って、シャロンは手作りらしいパウンドケーキと紅茶をトレイにのせて、キッチンからビーズののれんをくぐって戻ってくる。この時、寝室の他にもうひとつある部屋のほうから、ピィチチチッ!と鳥の鳴き声がして、ロイはなんとなくそちらへ目をやった。
「ああ、うちではセキセイインコを飼ってるんだよ。時々籠から出して部屋の中を飛ばしてやるんだが……なんていうことはどうでもいいことさね。あたしはね、リズからアーロン・グリーナウェイのことを聞いて、自分でも驚いたのさ。何に驚いたのかというと、あんな男のことはすっかり忘れていたし、今じゃ過去の小さな汚点くらいにしか思ってなかったっていうのに――あいつが高級老人福祉施設でふんぞりかえって誰からも嫌われてるって聞いて、心の中で喜びを感じた自分に何より驚いたのさ。こんなことを言うからって、勘違いしないでおくれよ。あたしにはあの男と会いたい気持ちなんて、これっぽっちもありゃしないからね。ただ、あんたにわかるかどうか知れないが、別れた男が金はあっても不幸に暮らしてる……そのことに暗い喜びや嬉しさを感じたってだけの話さ。そして、そのくらいにはあたしの中にもあいつのことを色々思い出したり、感慨に耽ることの出来る思い出ってものがあることに、何よりあたし自身が自分で驚いたってだけのことだからね」
「実のところ、オレはシャロンのことはアーロンにほとんど何もしゃべったりはしなかったんですよ」
(公的扶助を受けて、うらぶれた暮らしをしている)とか、(その後麻薬に彩られた没落人生を送ったらしい)とも、ロイは少しも口にしたりはしなかった。
「ただ、オレがアーロンの部屋でシャロンの昔のCDを見つけてかけたら、『何か知ってるはずだ』みたいに、詰問口調で話しはじめて、あとのことは大体、オレが大して何も聞いてもいないのに、向こうで色々しゃべってくれたみたいな……そんな感じのことだったんです。アーロンのほうでも驚いてましたよ。でも、あの疑い深いじいさんも、オレのガールフレンドのアパートの真下にシャロンが住んでるだけだっていう事実で十分納得したみたいでした」
「ふうん、そうかい。あたしもね、何もあの人の過去の栄光に傷をつけてやろう……なんて目的で、こんなことを話すんじゃないよ。ただ、実際のとおりのことをそのまま話すというより――あの人は多少見栄えよく盛りつけて若いあんたに話したんじゃないかと思うわけだ。また、それの何が悪いというわけでもない。第一、年をとったら誰もがそんなものだし、そんなふうに過去のいいことだけ覚えてる老人のほうがボケずに長生きするとも、この間テレビの健康番組でやってたしね」
シャロンはソファに浅く腰かけると、どこか上品な仕種で紅茶を飲んでいた。ロイのほうでは袖椅子のほうに座っていたわけだが、背もたれにかかった古めかしいレースカバーなども、どうやら手作りの物らしい……そう見てとっていた。
「まあ、この間もらったあんたのおっかさんのケーキほど美味くはないだろうけどね、良かったらそのパウンドケーキも食べるといいよ。残ったら、リズに持っていくのに包んであげるし……それはそうと、あの人の二番目の奥さんのエマ・キャンベルはね、表向き親友だったコンサートマスター、ジャスティン・デュークの別れた奥さんなんだよ。あたしの言ってる意味、わかるかね?」
「いえ……」
(そりゃそうだろうとも)といったようにひとり頷いて、シャロンはロイのほうへは目をやらず、どこか遠い過去でも眺めるような目つきで、そのまま話を続けた。
「アーロンとジャスティンは同じ音楽学校の寮生でね、同室だったこともあったらしい。ジャスティンは大らかな性格をしていたから、特段人を押しのけて上へ行こうといったような、そうした男じゃなくてね……それでいてヴァイオリンの才能についてはズバ抜けたものを持っていたし、ピアノも上手くて、一時期は指揮者になろうかと考えてたこともあったらしい。もしジャスティンがそうしていて、指揮者になってたとしたら、アーロンはあんなに嫉妬やらライバル心やらなんやらで苦しまなくて済んだんだろうにね。言ってみればまあ、裏ではハンカチをギリギリ破れるほど噛みしめながらも、ジャスティンの前では親友面してたって時代が随分長かったってことでね。あたしも、時々ハープが必要な楽曲の時に呼ばれてたってだけだから、詳しいことは知らないよ。だけど、ユトレイシア交響楽団のコンマス及び副コンマスっていうのは、楽団員の公正な投票によって決まるものでね、そのせいもあってアーロンは、随分票取りのために頑張ってたという話だね。何分百人も楽団員がいたら、仲良しこよしの音楽クラブってわけにもいかない。個性というか、才能はあるけどアクの強い楽団員ってのが多いらしくて、まとめ上げるのはそりゃ大変なことさ。そのあたり、ジャスティンのほうに天分というか、はっきり言えばカリスマ性があったんだね。アーロンは裏で色々気配りしてたらしいけど、それでも最後まで副コンマス止まりだったわけだ……で、あたしと別れたあと、あの人はジャスティンの元奥さんのエマに急接近したらしい。これはあくまであたしの勘だがね、アーロンは自分のそういう複雑なルサンチマンを埋めるためにエマさんと再婚したんじゃないかと、そう思うわけだ」
「ええと……実は昔からエマ・キャンベルが好きだったけど、彼女はジャスティンと結婚してしまった。それが別れたので言い寄った……という可能性はありませんか?いえ、オレはあんまりそこらへんの細かいことについては、アーロンから何も聞いてないんですが」
パウンドケーキを食べながら、ロイは軽くそう疑問を口にした。アーロンの部屋にはエマ夫人の写真が飾ってあるが、昔エマ夫人と親しかった介護員が、こう言っていたことがある。『旦那さんの機嫌を窺ってばかりの、苦しい結婚生活だったみたいよ』と。これはあくまでロイの想像ではあるのだが――長年に渡って自分の癖のある性格や横暴を耐え忍んでくれた夫人を、彼は本当に愛していたのではないだろうかと、そう思わないでもなかったのである。
「そうだねえ。どう言ったらいいんだろうねえ」
シャロンは肺の奥から吐くような溜息を着いて言った。
「あたしが残念なのは、何よりその点さ。アーロンがあの人なりに奥さんを大切にしてたっていうんなら、それが一番いいんだよ。あたしは何もその事実をねじ曲げてまで、自分の言い分のほうが正しいんだなんて言うつもりはないんだからね。エマが今も生きてたら、アーロンはともかくして、彼女にならあたしも会いにいったろうね。で、『そうだよね、あいつはそういうとこあるよね、ぎゃははっ!!』なんて言って、アーロンのことを笑ってやれたらどんなに良かったか……それはそうとね、あんたはまだ若いから、ずっと密かに妬んできた男の別れた奥さんと再婚することがなんでルサンチマンを埋めることに繋がるのか、よくわからないかもしれないね。つまりそれはこういうことなんだよ。ジャスティンはカリスマ性のあるいい奴だったけど、その分モテたらしくて、いつも誰かしら女性の影があったらしい。エマが別れたのもそれが理由だった。ところが、そのジャスティンが幸せに出来なかった女と自分は結婚し、十分すぎるくらいの生活をさせてやっている……ちょっとした心理的プレッシャーじゃないかね、これは。あたしにしてみれば、これ以上もないあの性格のねじ曲がった男の復讐法だったんじゃないかと、そう思うわけだ」
「エマさんと結婚したのは、真心からの愛ではなく、策略だったということですか?」
「そこまでのことはあたしにもわからないよ。エマは美人だったし、元はユトレイシア音楽大学の在校生でもあったからね。そういった種類の音楽的教養もあれば、あたしと違って性格も優しかった。アーロンじゃなくても誰でも、エマのことを好きになったり愛したりするのは、少しも不思議なことじゃない。だけどね、あたしの時もあの人は大体似たようなことをしたからねえ。やれプレゼントだ、豪華旅行だの……あの人は風体も悪くないし、女にしてみたら『こういう人と結婚したら幸せになれるかも』なんて、ちょっとふらつくところがあるんだね。こんなに色々涙ぐましいくらい努力してくれるんだから、女は愛されてこそ幸せって言うし……みたいな具合でね。だけどねえ、簡単にいえばあの人は強迫神経症なのさ。本人は絶対認めないだろうけど、それも病院で治療を受けたほうがいいくらいのね。あんた、ピアニストのグレン・グールドのことは知ってるかい?」
「ええ、まあ。うちにCDもありますし、オレもファンですね。ピアニスト界のレジェンドのひとりなんじゃないでしょうか」
ここでもシャロンは(そうだろうとも、そうだろうとも)というように、何度も頷いている。
「アーロンは、グールドほど音楽的才能があったかどうか知らないが、ちょうどあのグールドをヴァイオリニストにしたような具合の男だったんだよ。グールドが細菌を恐れて誰とも握手しなかったっていうのは、有名な話さね。他にも、ピアノを弾けなくなったらどうしようと、色々なことを神経質すぎるくらい気にするんだね。あの人もそうだった。自分からヴァイオリンを取り上げたら何も残らないと強固なまでに思い込んでいたのさ。親から受け継いだ十分すぎるくらいの資産があるんだから、そんなに苦しいならヴァイオリンなんかやめちまえばいいのに……そうもいかないんだね。しかも、いつでもあらゆる点で自分よりも少し上をゆく壁のような男が目の前にいるわけだ。アーロンはそうしたジャスティンに対する嫉妬心やライバル心といったものを必死で隠そうとしてた。その努力が功を奏してか、楽団員の中にはそのことに気づく者はなかったようだがね……あたしがあの人と結婚してわかったのは、そうしたアーロン・グリーナウェイという男の真実の姿というやつさ。一生懸命健康のことを気にして、ちょっと手に震えが走ったというだけで、すぐ病院へ行くんだね。医者のほうでも呆れてたよ。本当にどこもなんともないというのに、『パーキンソン病か何かなのに、自分のショックのことを考えて黙ってるんじゃないか』とね。だから、『ただの風邪だ』と向こうは言ってるにも関わらず、『本当は違うんじゃないか』と疑っては、自分の担当医のことを質問攻めにするんだね。あたしに対してもそうだった。演奏旅行やなんかで家を空けるたび、『浮気してるんじゃないか』と疑っては電話してくるんだよ。しかも向こうはアメリカやらヨーロッパやら、アジアのなんとかいう国にいるわけだから、真夜中あたりに電話が来れば、あたしの声だって機嫌が悪いのが普通ってものだよ。それなのに、あたしがブツクサ文句を言うのは、『部屋に男がいるからだろう』だのなんだの……被害妄想もいいとこだよ」
その時のことを思い出したのかどうか、シャロンはさも忌々しげに「チッ」と舌打ちまでしている。
「だからね、あの人のああいう性格ってのは、ちょっとやそっとじゃ治るはずがないのさ。簡単にいえば、あたしもエマも、大体同じ運命を辿ったんじゃないかということでね……つきあってる間は、自分にそうした性癖があるってことは、気ぶりも見せやしない。普段、本当はイヤなのにグッと我慢して指揮者や音楽関係者の誰それと握手するみたいに――女を自分の罠にかけて結婚するまでは、グッと我慢して性格のおかしなところなんかはすべて全力で隠し続けるわけだ。おそらく、エマにもそうだったろうと思うよ。向こうはグッと首を死なない程度に絞めてくるんだけど、死なない程度だから、こっちもつい我慢してしまう。そうともさ……あの人は一度だってあたしに暴力を振るったことなんかなかった。女を殴るような勇気のない人だったし、何よりそうすることで自分が嫌な気持ちになるのが嫌なんだね。だけど、アーロンのあの強迫神経症には、まったく我慢ならなかったよ。なんでって、ああいう精神病っていうのは、一緒に住んでる人間とか、共感して理解しようとする人間に移ってくるものだからさ。あたしも心理学については詳しくないけど、それが転移ってものらしいよ、どうやら。それで、とうとうこのままいったら自分も頭がおかしくなるんじゃないかと思って……別れるためにわざと浮気して、家に男を引っ張り込んだんだよ。そうでもしない限りあの人とは別れられないとわかっていたからね」
「…………………」
ロイは黙ったままでいた。ただ隣の部屋から、ピィチチチッ!という、インコの鳴く声だけが聞こえてくる。
「いいんだよ。べつに、あたしが単に自己弁護してるだけなんじゃなかって言ってくれたって。ただ、あたしはアーロンと別れたことを後悔はしてないにしても、その後は悪い運命だけがあたしを待ってた。あのまま夫婦で神経症を患いながら苦しみ続けるのと、麻薬中毒になるのとどっちが苦しみとして上だったかはわからないがね……そもそも、あたしがあの人と結婚したのも、アーロンが相手なら厳しい両親も納得するだろうというのがあってね。家柄とか財産とか、釣りあいも取れててちょうどいいと思った。その上、めくるめくような愛の炎だのなんだの、そんなことまで望むのは贅沢だと思ったんだよ。それとも、愛してもいないのに結婚しようとしたから罰が当たったってことなのかどうか、あたしにもよくわからないがね……」
「本当に、アーロンのことを愛してなかったんですか?」
ロイは、ふと胸に浮かんだ疑問を口にした。もちろん、今聞いた話によれば、ロイは自分が女性でも、アーロン・グリーナウェイのことを愛せていたとは思わない。それでも、結婚の少し前くらいや結婚式の間くらいは……本当に愛していると思え、幸福でなかったのかと思ったのである。
「今までのあたしの話、聞いてたかい?なんて言うつもりはないよ。ロイ、あんたが言いたいことは大体わかるからね。そうだねえ。そもそもあたしは家族運がないのさ。両親は厳格で、上にふたつ年上の姉がいるんだが、容姿のほうがコンプレックスだらけでね。簡単にいえば、不器量というか、平たくブスと言えばいいのか……そのかわり、成績のほうはすごく良くてね、両親の気に入りは姉のほうで、あたしじゃなかった。特に母がね、明らかに姉のことを可愛がり、あたしとは差別して育てたのさ。何故かわかるかね?」
「もしかして……シャロンのお母さん自身が、同じ苦しみを持ってたからなんじゃないですか?」
ロイがこう推察したことには理由がある。というのも、シャロンにハープを教えてくれたのは、母親の妹のシャーロット・ランブルだと、リズから聞いた言葉が頭に残っていたからである。
「リズから何か聞いたかい?その通りだよ。母はね、美人の妹に強烈なコンプレックスを持ってた。自分がどんなにいい成績を取ろうがなんだろうが関係なく、いつも注目されるのは美人の妹……そしてシャーロットのほうではまた、そういうあたしの気持ちをよくわかってくれるんだね。だけど、彼女も男運がなくて、結婚することもなく若くして死んでしまった。あたしはいつでも家族から外される存在だったし、ハープを弾きながら歌を歌ってるなんて聞いた両親は、まるであたしがキャバレーで生足を上げ下げしてるみたいに思ってたくらいだからね……『恥かしい仕事だ』と言って、一度もコンサートに来てくれたことはなかったよ。わかるかい?そんなこんなであたしは、両親に認めてもらうためには『ちゃんとしたまともな男』と結婚する必要があると思ったんだよ。そしてそんな時、アーロン・グリーナウェイが涙ぐましいまでの努力をして、必死でアピールしてきたってわけさ。離婚後はね、両親の言う恥かしいような仕事をしたのは確かだね。場末のバーみたいなところで歌ったりしてるうちに……悪い男に騙されて麻薬漬けみたいな生活を送ることになったからね。あとはもう見事なまでの転落人生の標本みたいな人生だよ。最終的に麻薬の更生施設に入って、随分長い間そこにいたね。そしてその間に両親は死んだし、姉は財産をそっくり受け継いで、あたしにはビタ一文たりとも渡そうとはしなかったわけだ……今は弁護士と結婚して、子供がふたりいるようだよ。あたしの目には金目あてで結婚したみたいに見える狡猾な男なんだがね、絶縁したも同然な仲だもんで、まあまったく関係のない話ともいえるねえ」
「その……離婚したあと、再びハープを弾いて生活することは出来なかったんですか?」
「結婚する前にね、アーロンが結婚後は家庭に入って欲しいって言うもんで、結構派手な引退コンサートってのを開いちまったのさ。そんなことさえしてなけりゃ、あんなに年いってからまであの人はハープ弾いて歌うたってんだね……なんて言われても、あたしはずっと歌い続けていたろうよ。場末のバーみたいな場所じゃ、もっと流行ってる歌を、裸みたいな格好で歌わなきゃならなかったし、それでも自分の力で暮らしていけるうちは良かったがね……人はどうしたって年を取るし、そんなことばかりじゃ暮らしていけやしないよ。麻薬をやめるのはつらかったねえ。やってる間はそういう色んな人生の嫌なことを忘れてられるんだもの。ジャニス・ジョプリンも孤独を麻薬で紛らわしてたんだろうが、今にして思えばあたしも似たようなものだったんだろうね……その頃と今で何が違うかといえば、さらにそんな時期も越えて孤独ってものにもすっかり慣れちまって、なんとも思わなくなったってことだけだからねえ」
ロイは胸を突かれる思いがした。リズがここから出ていこうとしないのは、真下に住むシャロン・キャノンの存在もきっと大きかったに違いない。ロイにしても、リズに引っ越せと次に言うのは……シャロンの今の生活についても、なんらかの変化が生じない限りは無理だろうと、そう覚悟した。
「まあ、悪かったね。年寄りのくだらない愚痴話につきあわせたようなもんだし……ただ、あんたの口からアーロン・グリーナウェイの名前を聞いた途端、そういや自分はそんな名前の男と結婚していたことがあるって事実について、色々思い出したもんでね。随分長いこと、そんなことも忘れて暮らしてたってのに、一度思い出したとなったら随分昔のことが次々脳裏に閃いて――そのことについて、今はもう『あの時は苦しかった』とかなんとか、『幸せな瞬間も少しはあった』とか、評価する気すら今のあたしにはないんだよ。それが年を取るってことなんだろうけど、あの人が引退後、半身不随になったことについては……唯一気の毒に思うね。例の強迫神経症については、その後も治ったとは思われないから、いつでも張り詰めた思いでコンサートには臨んでいたんだろうし、そんなのが引退と同時にどっと緩んだあと――それまで蓄積してきたストレスが引き金になったかどうかわからないにせよ、脳梗塞なんて起こしちまったんだろうしね。その点についてだけは、あたしもあの人のことを、心底気の毒に思いますよ」
「伝えておきましょうか、アーロンにそのこと……」
「よしとくれよ」
シャロンはそう言って、さもおかしそうに手を振った。
「もちろんわかってるよ。あんたとリズは同じ種族だろうからね……あたしが今しゃべったようなことも、もし伝えるにしても、綺麗にオブラートに包んで、うまく取捨選択して、いいように言うんだろうなとわかってはいるよ。まあ、あたしのほうでは、離婚後は不幸だったらしいと伝えてくれても、まったく構わないがね。そしたらあの人は大喜びして、『自分と離婚したから罰が当たったんだ』と、鬼の首でもとったように喜ぶだろうよ。それが長生きする活力になるっていうんなら、ま、それでもいいんじゃないのかね」
このあと、シャロンはパウンドケーキの他に、美味しいミネストローネやグラタンなどを容器に入れて、ロイに持たせてくれた。彼女が話してくれたことは、ロイにとって非常に重いことだった。リズの部屋でふたりきりになってからも、ついそのことを考えてしまうあまり――心ここにあらず、というようにぼんやりしてしまったほど。
「オレさ、シャロンとアーロンは会わないほうがいいって、最初はそう思ったんだ。だけど……シャロンの話を聞くうちに、むしろ逆に会ったほうがいいんじゃないかっていう気がしてね。もしアーロンが半身不随になってもいなくて、今も矍鑠とした老人だったとしたらともかく、本人は『こんな姿、元妻どころか、他の誰にも見られたくない』っていうのが、あのじいさんの元に見舞い客がほとんど来ない理由なんだろうから……」
「でもそれは、流石に荒療治というものよ」
リズは、少し話を聞いただけで、ロイが何を考えているかわかったため――彼に合わせて同じことを考えていた。すなわち、アーロン・グリーナウェイとシャロン・キャノンが再会したとしても大事にならない方法が何かないものかどうかということを……。
「うん。そうなんだ。だから、どうしたものかと思って考えてるんだけど、なかなかいい案が思い浮かばないというか……」
だがこののち、ロイとリズが(自分たちは単にお節介なことをしようとしてるだけなんじゃないだろうか)と迷ううち、事態に変化が起きた。肺炎は老人の友、というが、この言葉は年寄りは肺炎になりやすい……という意味ではない。年を取ってなかなか死ねずに苦しんでいるが、肺炎がようやくのことで彼を天国へ召した――という、そうした意味の<友>である。いまや友達など、ほとんど誰も見舞いに来ないアーロンの元に、この肺炎という名の友が訪れ、実際のところ一時期彼は命が危うくなったのだ。
その後、やはり友達ではないとわかったのかどうか、肺炎すらもこの偏屈な老人の元を去ったあと……アーロン・グリーナウェイは一層老け込んだように見えた。そして、次にこの打撃が訪れた場合、自分は到底耐ええまいと思ったのだろう、アーロンはロイが会いにいくなり、「遺言書を作成した」とおもむろに宣告したのである。
「アーロン、お気持ちは嬉しいですが……今度こそ、本当に娘さんを探したほうがいいですよ。実際、あなたにそうする気がないなら、勝手ながらオレのほうでそういう尋ね人の広告でも出そうと思ってたくらいですからね」
「ふん!だったら、わしが死んでから、ロイよ、おまえさんの受け取った金をわしの娘を名乗る娘にでも与えればいいだけの話だろうが。いいかね、わしは随分長い間、自分はなんと不幸な人間であることだろうと自己憐憫の情に悩まされてきた。本当はな、心の奥底のほうではわかっておるのだよ。自分で思うほど自分は不幸ではない、ということはな。だが、どんなに苦しくともヴァイオリンからは離れられんし、ようやくその魔力から解放されたかと思えばこのザマよな。もしわしが、おまえさんともっと早くに出会っていて、親父さんの話を聞いておったら……間違いなくもうちっとは違う人生だったわな。だが、一生気づかずに済むよりは遥かにマシだったわい。その、ほんの小さく見える差が、どれほどのものかおまえさんにわかるかの?その後も金では買えんものをおまえさんは随分与えてくれた……まあ、簡単にいえばそういうことだて」
もう弁護士も呼んで、手遅れにならないうちに書類も作成させた、などと言うので――ロイにしても困りきってしまったのだが、この時ある妙案が彼の脳裏に閃いたのである。
「その……もしある条件を飲んでいただけるなら、アーロンの資産を少しくらいなら受けとってもいいとは思います」
「ほう、なんだね?この死に損ないに出来ることならいいがね」
アーロンはオーバーテーブルを震える手で掴み、吸いのみから水を飲んでいる。これでも、うまく飲むようにしないとすぐ咳き込んでしまう。
「シャロン・キャノンと一度だけ、会ってほしいんです」
ごほっとアーロンが噎せるのを見て、ロイは彼の背中をさすった。だが彼はこの時珍しく、「わしを殺す気か!」とまでは言わなかったのである。
「な、なんでだね?あのCDの一件以来、わしにあの女のことは少しも話しはしなかったというのに……まさかとは思うが、あの女のほうでわしに会いたがっておるとでも?」
「いえ、そんなふうには一言も言ってませんでした。ただ、脳梗塞のことを聞くと、気の毒だと……ヴァイオリンだけが生き甲斐だったのに、そんな不幸に見舞われて、神さまも随分ひどいことをなさるものだと……」
もちろん、シャロンはそんな言い方はしていない。ロイの脚色である。だが、一目さえ会えば何かが変わるのではないかと、ロイはそこに賭けたいような気がしていた。
「ふう~ん。ああいう手合いの女というのはな、ロイ、わしは年を取っても性格がそう変わるとは思わん。このわしと同じでな……が、まあ五百歩譲って、シャロンのほうでわしにどうしても会いたいというのであれば、まあ会ってもいいじゃろうな。何故といってわしはそう遠くないうちに天に召される運命なのだろうし、その前に前妻と5分くらい面会したところでどうということもないだろうよ」
「本当ですか!?」
最後の最後には承知するにせよ、相当長くごねるだろうと覚悟していただけに――案外あっさり承諾してもらえ、ロイは驚いた。
「ああ、ええとも。が、まあ、シャロンのほうで早々承知するとはわしには思えんな。ほいで、おまえさんはあれじゃろ?今度はシャロンのほうを説得するということなのだろうな。あのべっぴんのガールフレンドと一緒に……そこまで若いもんが手間暇かけて死ぬ前に一度だけ会え言うんなら、それもよかろうよ。『こんな無様に痩せ細っちまって、自分にビタ一文寄こさず離婚なんてするから罰が当たったんだろう』とあれが思おうとどうだろうと、わしはもうどうでも構わん」
「その件なんですがね、アーロン」
年寄りの逆鱗に触れるかもしれぬ、とロイにもわかっていたが、それでもやはり、言わずにはいられなかった。
「シャロンが言うには、アーロンは自分では認めないにせよ、強迫神経症だったのではないかと言うんですよ。だから、日常生活でその症状に巻き込まれることが耐え難かったと……浮気したというのも、あなたにバレるようにわざとしたことらしいです。ただ単に、あなたと別れるためだけに……」
「はははっ!そんなことをわしが今さら聞いて、驚くとでも思うのかね?わしはな、そんなことはわかっておったわい。あれがわしから解放されて自由になりたいと思っとることはな。結婚後、エマもまったく同じような様子を見せたが、エマのほうは離婚しようとまではしなかったわな。それが二度目の結婚で、他の男と結婚しようと、なんかしら似たようなもんに苦しめられるのは同じことだ……そう思っとったかどうかは知らんし、わからん。それに、エマとの間にはジョゼフィンがいたからな。ジョゼフィンが小さい頃は、とにかく子供のためとあれも思っておったろう。何より、エマがわしを恨んでおったとすればそのことだわな。わしはジョゼフィンが自分の思い通りに育たないとわかるやいなや、娘がそんなふうになったのはおまえの養育法がなっとらんかったからだと責任をすべて押しつけた。たぶん、エマは腹が立つあまり、あの時ばかりは本気でわしと離婚することを考えたかもしれん。が、エマがどんなに涙ぐましい努力を続けようと、ジョゼフィンのほうでは素行が悪くなるばかりだった。厳しいミッション系の女学校の寄宿舎にも入れてみたが、まるきり無駄だった……金をドブに捨てたようなものじゃな。わしと娘の間には大して、親子としての関係性というやつがなかった。ただ、母親のエマがあれほど愛情をかけて育てたにも関わらず、何故あんなふうにグレたのか、理解できないというそれだけでな。わしは結局、ジョゼフィンの母親に対する反抗的な態度や生意気な口答えに我慢できず、最後にはあの娘のことを打ち据えて、家から追い出した。エマにも向こうから泣いてあやまってくるまでは追うなと言った……あれからもう、何年になるかの。本当に今の今まで一度も連絡すらなく、三十年ほどにもなるわい。わしはな、ロイ。ジョゼフィンのことは探しとうない。何より、自分がしたことの結果を知るのが怖いのだ。ましてや、もっと早くにあれのことを探しておれば今ごろは……などと、そんな恐ろしいことを、この年になってから後悔とともに思い知るのが怖いのだよ」
この時もロイは、胸の奥が苦しくなった。そしてその感覚は、シャロンと彼女の部屋で話していた時のそれと酷似していたと言える。
「『後悔は、神でも癒せぬ病い』と言いますからね」
「ほう。それは一体誰の言葉だね?」
話しすぎたせいか、アーロンは一度深呼吸し、嘆息してからそう聞いた。
「詩人のエミリー・ディキンスンですよ。それで、その続きの言葉は『何故ならそれは地獄と同じものだから』と続くんです」
「フフフ……まさしく、今のわしにぴったりの言葉じゃな。ディキンスンの詩ではわしは、他に『額の汗の球の連なりは偽ることなど到底出来ない』というのが好きだわい。こうしてベッドにずっと座ってばかりいると、その言葉の意味が骨身に染みてつくづくわかるような気がするもんでな」
――こうして、ロイは気難しい老人に元妻と面会することを了承させたのであるが、問題はやはりシャロン・キャノンを説得できるかどうかであった。自分の口から言うよりも、リズからシャロンに説明してもらったほうがいいかともロイは思ったが、やはり自分から彼女の部屋を訪ね、正攻法で頼むことにしたわけである。
すると、シャロンのほうでも案外あっさりアーロンと会うことを承諾したため、ロイはむしろ狐につままれたような思いを味わうことになった。
「いや、あの人にわかっているように、あたしにもわかってはいるのさ。アーロンは特別あたしに会いたいなどとはこれっぽっちも思っちゃいまいとね。ただ、可愛いロイがそこまで言うのなら、まあ頼まれてやっても構わないという、そのくらいの気持ちだろうね。だったら、いいとも。あたしだってあの人になんぞ、ちっとも会いたくなぞありませんがね、まあ、本人が今日死ぬ、明日死ぬ、明後日死ぬ、いいや、今度こそ本当に死ぬ……と毎日言っておるのであれば、確かに偏屈者のアーロンじいさんに一度会っておいても損はあるまいよ」
――というわけで、日程の調整がなされ、その六月も近い、<ユトレイシア敬老園>の庭にも、薔薇の花が咲きはじめようとする美しい季節、シャロンはかつて二年ほど結婚生活を共にしていた男に会いにやって来た。リズはシャロンとバスで一緒に付き添ってきたのだが、アーロンの703号室の中までは入らなかった。
それは気を利かせてのことだったのだが、同じように室内にいたロイが「じゃあオレ、少し外しますね」と言うと、アーロンは「ここにいろ!」と怒鳴り、シャロンはといえばまったく同じタイミングで「ここにいておくれ!」と叫んでいたわけである。
>>続く。