(※萩尾望都先生の漫画『スター・レッド』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
届いた本が思った以上に分厚くてびっくりしました♪(笑)
それはさておき、文庫本にあるあらすじをとりあえずコピペ☆してみますね
>>太陽系第4惑星・火星。赤い風の吹く夢魔の星。23世紀末の地球に、夜空を見つめる1人の少女がいた。
白い髪、真紅の瞳のレッド・星。
火星に生まれ、火星に恋する第5世代の火星人。
しかし、夢にまで見た故郷に帰った時、火星の大いなる災いが始まった。
火星と火星人の呪われた運命を救うため、銀河系の中心で少女が見たものは……。
萩尾望都が描く壮大なSF叙事詩。
そのですね、ウィキのとこ見て、自分的にびっくりしたのが――>>本作について作者は、編集が突然連載を依頼しに来て、カラー予告の締切を3日後に指定され、先を考えぬまま1話を描き、2話を描きと続けて、かろうじて最終回でまとまったという苦労話を記載している。また、「最初は、『地球で育てられた火星人の子が火星に帰るまでの話』という構想だけでした」と、恩田陸との対談で語っている。……とあることです!!!
いえ、自分的に読んでて、「きっと萩尾先生はこのお話を書きたくて書きたくて、ずっと構想を練りに練っておられたに違いない」としか絶対的に思えなかったというか(そのくらい設定のスケール大きくてスゴすぎるww)。
ただ、自分的に途中までは設定・展開・登場人物その他、すべてにおいてパーフェクト!だったのですが、正直、主人公のレッド・星が何故突然死んでしまうのか、わたし的にはよくわかりませんでした(^^;)。
でもこれも、「わたしの頭が悪すぎてわかんないってだけなんだろうなあ」という、何かそんな感じのことなわけです。また、先に『トーマの心臓』の解説で、>>「こともあろうに物語の途中で死んでしまう真紅の目の美少女は、死をもって世界をつなぎとめる」と書いてあるのを読んでいたことから……それほどショック☆のようなものは受けずにすんで良かったと思います。
なんにしても、『スター・レッド』はあまりにも物語として壮大すぎると思いますし、ストーリーについて順を追って書いていっても、やたら長くなるだけで(わたしの書き方では)つまらないと思うので、すでに物語について読んだ→わたしが馬鹿なのでわからないだけなのだろうけれども、自分的にはこう思った……的なことを、なるべく短くまとめるような形で書いてみたいと思いますm(_ _)m
物語として特に面白い、というか、読者のすべてが即刻惹かれるのが、主人公の星(セイ)の、黒い髪をしてコンタクトをしているけれど、彼女が実は文庫本表紙のような、銀髪に赤い瞳をしているということでしょうか(&彼女の火星のような激しい気性)。これが第一。そして、彼女が異星人のエルグと出会い、恋焦がれる火星へと赴き、真実を知る……という展開が第二と第三。第二がまあ、このエルグが何者か?ということであり、第三が火星で今起きていること――地球人と火星人が争っているのが何故かがわかっていく展開と、新しい他の火星人の登場といったことがあり、彼らもみな、キャラクターとしてすごく魅力的だという点。
また、地球人には超能力者ってそんなに数多くないらしいのですが(1万人ほどいて、90%がF級以下☆)、火星人はこのエスパーとしての能力が、主人公のセイだけでなく、とにかく半端なく高いんですよね(^^;)
そして、このSFにはつきもの(?)のESP設定ですが、読んでいて自分的にすごく面白いことが作中で語られていたので、ミスター・ペプシマン……じゃないや、ぺーブマンさんのお言葉を引用させていただきたいと思います。ヤ!(笑)。
>>ヘッブマン:「超能力というものは、人間の退行現象ですよ!いったいあの火星人たちが火星でどう生活してるか知ってますか。おそらくは原始に近い生活ですよ!」
アン・ジュ:「もともと火星には何もありませんし――」
ヒップマン:「なにもない!ないとこで十分生きられる!てことは、あれ以上進化したり発展したり発明したりすることがないということですよ!たとえばあの目!」
アン・ジュ:「目!?(四次元的な……)」
ピップエレキバン:「視力はゼロ――超感覚でものをとらえてる――てことは、あの目は全然必要ないわけでしょう。念動力があるのなら、指や手がなくったってかまわないってこっちゃないですか?テレポートができるんだから、足だっていらない!テレパシーがあるんだ。声帯はいらない。そうそう、言葉もいらない。そのうち鼻も口も耳もいらなくなる。岩みたいになって転がってるってのはどうです!考えてるだけ――それすら不要になる――生きることすら不必要になってしまう!これが退化でなくてなんです?」
いえ、自分的に今まで一度も考えたことのないESP考察でしたたとえば、ファンタジー作品などで、エルフに暗視能力(インフラビジョン)があって、エルフには闇をも見通せる視力がある……そしてその時、エルフの目は赤く光って見える――という設定は、誰が使ってもいい共通認識設定ですが、それが「何故か」というところまで説明した作品というのは、とりあえずわたし、出会ったことがありません(^^;)
まあ、暗視能力の説明はそんなに難しくないとは思いますが(人間が暗視スコープをつけた時、闇の中で物体を識別できるのと同じ原理と思うので)、萩尾先生はそこを、「火星人は実は目が見えておらず」、「超能力によって四次元的にものを見ている」、「ということは当然、意識や考え方も地球人とは変わってくるはず」……といったように、キチッ☆と設定を詰めているわけです。
火星のような厳しい環境下で育つためには、超能力が必要不可欠な能力だったと同時、何故火星の地下でだけ赤ん坊が無事生まれ、育つのかなど……これはわたしが「たぶんそういうことなのかな」と思ったことなので、ここから先はあくまで一読者の考察として、間違ってる可能性も大いにある――くらいな感覚でお読みくださいませm(_ _)m
最終的な答えとしては、火星というのはエルグが元いて滅んだ惑星と同じ原因、夢魔(宇宙の超精神生命体)に取り憑かれていればこそ、火星人は超能力を持ち、火星へ移住してきた地球人たちが産んだ子供でさえも、火星で生まれた赤ん坊は超能力を持つに至るという、そうしたことだと思うんですよね。
夢魔という別次元・宇宙の外側からやってきた超精神体に取り憑かれた惑星は、その後、超能力を持つ人々によってお互いを滅ぼす結果に終わる――だから、この宇宙中でもっとも古い種のひとつであるゼ スヌセル系の異星人たちというのは、この夢魔に取り憑かれた惑星を、取り憑かれていることがわかり次第、すべて破壊するなどして排除してきた。そうした強い超能力を持つ種族の、エルグは生き残りなわけです。
自分的に、この夢魔(アミ)と呼ばれる存在がどこからやって来るのか、この夢魔と呼ばれる存在がどのようなもので、何を考えているのか、その思考能力は人間が持つのと同じようなものなのか……といったことについては、説明がなくても納得はできます。たとえば、わたしたち人間だって「何故生きているのか?」、「その存在理由は何か?」なんて聞かれても、はっきしゆってわかりません(笑)。大体それと同じようなことで、夢魔にとっては夢魔にとっての理由があるというのか、彼/彼女にとってはどこかの惑星に取り憑き、そこに住む存在を知的生命体にまで進化させ、最終的にその夢を叶えるために超能力までを授けることが生きる理由であり、もしかしたら生存目的でさえあるのかもしれません(あるいは、知的生命体の存在する惑星にのみ取り憑くのかも)。
けれど、どのような存在にも天敵はいるというべきなのか、あるいはそのようにして宇宙というのはバランスを保っているものなのか――夢魔に取り憑かれた星は、そこに住む人々が争って滅びるということが繰り返されたことにより、そのことがわかり次第破壊するということに、ゼスヌスル系の人たち(委員と呼ばれてる・笑)の間では決定しているわけですよね。
>>セイ:「その超生命体――あなたがたの言葉でアミと呼ぶもの。これはどこから来たものなの?」
エルグ:「異次元から……われわれの宇宙の存在の外から……としか、言いようがないらしい。古文によれば、星に巣食うのは巨大なアミのからだ――いや、意識体のほんの一部分らしいのだ」
火星に恋しているセイは、いくらこの夢魔なる超精神体が巣食っていて危険だからと言って、もちろん自分の故郷である火星を失いたくない。そこで、現在は立入禁止区域となっている、かつて夢魔に取り憑かれ、滅んだ一番古い星へとエルグとともに乗り込んでいきます。何か、このアミという存在を追い払えるような方法がないかどうか、あるいは人々が精神を荒廃させずにすむ、なんらかの方策がないだろうかと求めて……。
ところが、この立入禁止区域にエルグとセイが入り込んだとわかるなり、ゼスヌセル系のアーブ人たちは、そこへ有機体を分解する無人機を向かわせ、エルグとセイを抹殺しようとします。何分ふたりともほとんど無敵としか思えないほどのESP能力の持ち主。ところがこの時、惑星の中に残るテレパシーの共鳴の力に囚われたことにより、セイはまったく姿も残らぬ形で死ぬことになります。
このあたりはわたし的に、頭悪すぎてよくわからない展開だったかもしれません。セイはとてつもない超能力の持ち主であればこそ、テレパシーの共鳴に囚われる力も大きいものだった……ということなのかなと思うのですが、肉体としての姿を失っても、セイは精神・心・魂といったような形によって生きています。
超精神生命体である夢魔の意識の一部にそのような形で迷いこんでしまったらしいのですが、ここでセイは彼女を守るために自殺したセイの義父のあとを追い、肉体から魂の離れていたヨダカと出会います。そして、彼が火星人の百黒老によって呼び戻されるのと一緒に、ヨダカの中へセイも一緒に戻ってゆきます。
いえ、このあたりもこうして文章にして書くと「流石に無理があるんでなあい?」という気がしますし、その後、元は男性であったヨダカが妊娠して女性っぽくなり、セイを赤ん坊として産む……という展開は、「いくら漫画でSFったって、流石にそりゃねえだろう」と感じるのが普通、という気がします。
ところがですね、『闇の左手』といった作品や、あるいはわたしの場合この前に読んでるのが『マージナル』だったこともあり――こうした展開を「流石に萩尾先生も展開として苦しい……と、そう思っておられたのではないだろうか」と少しくらいは思いますが、こうしたラストでも、「物語として破綻している」とか、「ひどい終わり方だな、ええをい!」みたいに読者としてあまり思わないというのが……まあ、わたしも読んでて不思議なわけです(^^;)
どっちかっていうと、「SF的HP9,999,999な萩尾先生には深いお考えがあってのことであり、逆にそのあたりのHPがゼロに等しいわたしが馬鹿すぎてわかんないってだけのことなんだろう……」という気持ちのほうが強く、「そのうち『火星年代記』でも読んでみようかなあ」くらいな感じで、満足してページを閉じることになるわけです。
ただ、「物語として面白く、その点では満足した」とはいえ、読み終わった瞬間、確かに頭@グルグル状態にはなります(笑)。「ええと、これはつまりこういうことだよね?」とか、「あれがこーなってあーなってそうだからエルグは……」とか、色々考えることにはなるわけですが、萩尾先生の作品の「容易に読者に理解を許さず考えさせる読後感」というのは、非常に貴重なものだと思っております(^^;)
あ、そーだった。エルグはセイの姿が失われてしまってのち、頭にあった能力封印のためのツノを全解放(?)し、セイのことを「愛している」と思いながら惑星とひとつになり、死んだこの星を甦らせた――というそういうことなのかなって思うんですけど、どうなんでしょう?(泣いていた惑星はエルグの愛によって慰められ、再び豊かさを取り戻した……といったように思いました)。
そして、セイがヨダカが未来で産む自分……ジュニア・セイと出会っていることから、セイの魂は確かにそちらに移っているわけですよね(ただ、ジュニア・セイはセイ自身の記憶を受け継いで生まれてくるのではなく、記憶の部分はおそらく白紙だろうと言われています)。だから、このジュニア・セイが成長した時――もしかしたら、あるかもしれないわけですよね。エルグが甦らせた惑星に、セイが会いに行くかもしれないという、そうした夢の奇跡的瞬間が……。
だから、セイは彼女という意識を所有している肉体を失ったにしても、それは死でも無でもなかったと思いますし、エルグとも未来で出会える希望がある……という意味で、物語のほうは途中で主人公の肉体が死亡しても、アン・ハッピーエンドというわけでは決してないのだと、そう思いました
>>「エルグ、六千年生きてなにを見て?生きることには意味がないのよ。存在には意味がないのよ。わたしたちは終わるのよ。静かな饗宴へ向かうのよ」
「惑星が泣いてる……」
「そう?そうかしら――わたしには何かが見えたように思われたの。それがわたしの心臓の上をこすっていくのよ。高いトーンで……」
「すごいわ。生命の存続はこの星ではそれほど罪悪なのね」
「否定、否定、否定……」
「しょうがないわ。無には無の、死には死の、意味があるかもしれないから……」
これはすべて、セイの言葉ですが、「無には無の、死には死の、意味がある」というのは、個人的に、それは確かに真理だろうと思います。意味がないからこそ、<無>というのだ……とは、何故かならないのですよね。たとえば、「この無の衝撃のなんと痛いことか」とか、「無の痛みと虚しさに引き裂かれ、泣き叫びながらわたしは死んでいく」――などと書く時、それが一体どのようなものか、人々に想像しうるという点で、やはり<無>には意味があり、戦争などで犬死にしたと思われるような方の死さえも、後世の人々にとってはやはりその「犬死に」ということが強く胸に迫ってくる……という意味で、重い意味を持っていると思うわけです(たとえば、『スター・レッド』の作中におけるシラサギと黒羽の死もそうだと思います。彼らの死にもまた、やはり意味と役割があった)。
ヨダカについてはわたし、最後に女性化してセイの生まれ変わりを産むとは思いませんでしたが、登場時から「彼だけは絶対死なないだろうな」と思ってました。何故かというと、たぶん宮沢賢治の『ヨダカの星』から彼の名前は来ているんだろうなあ……と思っていたからです(^^;)
そしてヨダカは、地球へ向かう宇宙船の中で――途方もない宇宙の深淵を見て、>>「おそろしい……この深淵から何を聞くのだ。死の語りか、無の音か」と思っているわけですが、わたしもその昔、『2001年宇宙の旅』を見て、大体似たようなことを思った記憶があります。「人間はこのような恐ろしい宇宙の孤独に、決してひとりで耐え得まい」と。
ちょっとこのあたりのことはちゃんと調べてないのですが、以前宇宙飛行士の方が――確か、月へ行った方だったと思うのですが、宇宙へ行って帰ってきたら、突然神さまのことを信じだしちゃったという話。「それほどの恐ろしい極限を体験したためだろうか」と最初は思ったのですが、宇宙空間へ出た途端、強い力によって「神を感じた」というのがその理由だったと思います。
そして、この方は宇宙へ行く前までは「神だって?何を言ってる。我々は科学の信徒だぞ」みたいな考え方だったそうなのですが、宇宙へ行くという経験を通してその後、「神はいる」側に、180度変わってしまったということなんですよね(^^;)
「そんなものかなあ……」と思ったりもしますが、なんとなくわかる気もするんですよね。あんな真空の、人間が到底生きることの出来ぬ宇宙空間すべてが――実はこんなにも神の愛で満ちている……というのがどんな感じのことなのか、想像しか出来ないにせよ、もし宇宙の彼方にあるものが、この上もない孤独どころか、この上もなく深くて強い愛だったとしたら……こんなに素晴らしくて素敵なこともないだろうと、何かそんなふうに思うのです
まあ、読み終わったあと、大体こんなよーなことを思いだしたわけですが、「オレの頭が悪くてよくわかんなかったところを、誰か説明してくれ!」と思ったので、旧文庫版の①巻のほうを取り寄せてみることにしました。その巻末のほうには、萩尾先生のあとがきっぽい文章と、光瀬龍先生の解説っぽい文章が載ってるみたいなので……届くのが今から楽しみです!
それではまた~!!