【雌豹のささやき】(邦題……いえ、単に若かりし頃のシャロンのイメージってだけです・笑)
あ、今回はかなりのとこ、どーでもいい話です(笑)。
次かその次くらいに、シャロンの過去話みたいのが出てくると思うんですけど、シャロンのお姉さんが不美人で、妹の彼女が美人だったことから家族から外されることになったというか、シャロンのお母さんが成績のいいお姉さんのことばかり可愛がり、妹のシャロンは家族からちょっと外されるような関係性だったというお話。。。
ええと、ここのところだけ人から聞いた話が少しだけ元になっていなくもないというか、なんというか。聞いたのは相当前のことなんですけど……成績のいい不器量なお姉さんのほうが、容姿の可愛い妹を家庭内で迫害し、家に居づらくさせて追いだしたということだったんですよね(^^;)
で、わたし話を聞いた方に、「珍しいねえ。普通はやっぱりさあ、美人の姉か妹が周囲からちやほやされて、不細工側のほうが割食っていじけるみたいになるような気がするけど……」みたいに言いました。
「そこの家、変わってんだわ。両親がふたりとも、成績のいいお姉さんにすべての期待をかけてるみたいな感じで、妹のZ子はまあ、美人だから結婚したら家を出ていくだろう……そしたら親の面倒なんて見ないに違いない。そこいくと長女のA子は、結婚しようとしまいと、とにかく自分たちの面倒を必ず見てくれるだろう、的な?」
んで、この長女のA子さんの妹に対する迫害というのが相当ヒステリックなものだったらしく、Z子ちゃんが自分の目の見える範囲内にいようものなら――「オレの目のつくところにいるんじゃねえ!!」という感じで、部屋の壁やらドアやらを激しく叩くくらいだったそうです。しかも、親御さんのほうでも多少は止めるのでしょうが、かなりのとこA子さんのほうの行動を容認し、Z子ちゃんの言うことにはあまり耳を傾けない……そういった感じだったのだとか。
そんなこんなで、Z子ちゃんは高校在学中、おつきあいしていた同じ高校の男の子の家へ転がりこむことに。最初は週に一回くらい泊まっていくとか、そんな感じだったそうですが、やがて学校帰りに毎日やって来て、ほとんど家へは帰らない……みたいになってきて、心配したのは彼氏Yくんのお母さんでした。年ごろの娘さんが毎日うちに泊まっていく――親として、そんなことでいいのだろうか、向こうの親御さんにも知らせたほうが……等々、それが普通の親御さんの心配というものですよね(^^;)
ところが、Z子ちゃんは姉がいかに恐ろしいか、家族は全員姉の味方で自分が家庭内で迫害されていかにつらいか、さめざめ泣きながら話すし、それでもYくんのお母さんはZ子ちゃんのおうちのほうへ電話で連絡しました。「うちとしては、ごはんとかそういうことはいいんですけど、やっぱり年ごろの娘さんですしねえ……」みたいな話をしたそうなのですが、この親御さんのほうでは「ああ、Z子の好きなようにさせてやってください」くらいの、ものっそ淡白な対応だったそうです。
こうしてYくんの部屋のある二階にふたりは住み、Yくんの両親は一階に住んでいる……といった、共同生活がその後も続きました。Yくんのお母さんはZ子ちゃんとも気が合って可愛がってましたし、こうした生活というのはいわゆる嫁vs姑といった感じではまったくなかったと言います。が、ですね。その後ふたりが高校を卒業し、Yくんが働きはじめて半年だか一年もしない頃、Yくんは「家をでてZ子とふたりで暮らす」と言ったそうです。Yくんのお母さんにはわかっていました。息子のYは自分からそんなことを言う子ではない。きっとZ子ちゃんが実はここにいるのが前から本当は窮屈だったのだろう、と……。
Yくんのお母さんはよく出来た方だったので、「若いんだからそれも当然」くらいな感じで、その後もZ子ちゃんと関係が悪くなるでもなく、快く引っ越しの手伝いをし、家から送り出してあげることにしました。また、社会人になってそんなになってない息子が大して貯金がないのもわかってましたから、引っ越し費用や新居の初期費用なども、すべて出してあげたそうです
さて、こうしてYくんとZ子ちゃんのふたりきりの生活がはじまりました。Yくんは某社で正社員として働き、Z子ちゃんはコンビニで週に3回4~5時間くらい働くといった感じだったそうですが、ふたりは二年もしないうちに別れることになったそうです
ええと、今回前文に使える文字数このくらいなので、YくんとZ子ちゃんが別れた理由についてはまた次回!と思いますm(_ _)m
それでてはまた~!!
ユトレイシア・ユニバーシティ。-【13】-
その後も、ロイとリズの間の交際は順調に続き――やがて、春がきた。もっとも、春休みが終わると同時(あるいは春休み中からすでに)、ユトレイシア大学の学生たちは大忙しになると言われている。というのも、6月に進級試験があるため、試験に備えて勉強する、それ以前に提出すべきレポートなどを揃える、履修し忘れていた単位を取得する……などなど、やるべきことはたくさんあったからである。
流石にリズもロイもこの時期はデートの回数を減らしたのみならず、ボランティア施設へ行く回数も自然減ってしまった。もっとも、このあたりについては毎年のことなので、事情については軽く説明しただけで誰からもすぐわかってはもらえるのだが。
そんな中、お互いに時間を合わせて会えるひと時というのは貴重なもので、四月中旬のその週末、ロイはるんるん気分でリズのアパートへ向かった。地下鉄を降りると、通りはチェリーブロッサムが満開であり、他にも木蓮や連翹など、春の訪れを知らせる花々があちらでもこちらでも美しく咲き乱れており――空気の中に混ざる、春という季節にだけ特有の香気に、ロイは幸せな酔い心地すら覚えるほどだった。
リズのアパートへやって来るまでの途中にある、例の不気味な公営住宅も、とうとうすっかり解体され、新しくマンションが建設される予定らしい。リズ曰く、「このあたり、少しずつ地価が上がってきてるらしいのよ。ほら、ここ十年くらいかな。正確にはもっと前からとは思うけど、右岸にいた元は中間層くらいの生活ぶりだった人たちが、景気が悪くなってことで下層階級になって左岸のほうへ移動してきたのね。そしたら、大体橋のたもとから少しいったところくらいの場所から少しずつ、街並みが変わってきて……まあ、そこの公営住宅の跡地も、そうした人たち向けの住居に生まれ変わるというわけなのよ」――とのことだった。
昼間、当然リズは留守にしていることが多いため、この斜め向かいのブロックにある建物の建設中の音などは、ほとんど気にしていないことが多い。だがこの土曜日、しょっちゅう生コンクリートミキサー車が行ったり来たりするのみならず、カン、カーンというボルトか何かを撃ち込むような音もしょっちゅう響き……ロイはその音の響きのうるささに、階段を上がる途中からでもすぐ気づいていた。
そして、(通りの1ブロック向こうだっていうのに、結構うるさいもんだな)と思いつつ、すっかり上り慣れた階段を、軽く汗ばみつつ三階まで上がり――例の芸術的セックス・サスペンス絵画については、すっかり壁を飾る名画としてお馴染みになった――それから彼が四階へ階段を数段のぼった時のことだった。踊り場に置かれた例のアンティーク風ベンチに、妖婆が座って煙草をふかす姿と出会ったのである。
「こんにちは」
もう何度もここで出会うのみならず、リズと一緒に世間話をしたりもしているため、ロイは気安く挨拶した。いつも、ロイひとりの時には彼女――シャロン・キャノンはろくに返事すらしない。だが、ロイはまったく気にしなかった。彼女のようなタイプの老人というのは、ボランティア先の福祉施設などではまるで珍しくなかったからである。
「あんた、ちょっと時間あるかい」
ゆえに、この時五階へ向かおうとした背中にそう声をかけられた時には……ロイは心底驚いたものである。
「なんだい?もしかして副流煙でも気にしてんのかい?三十年後に肺ガンになりたくないから、煙草の火を消してくれっていうんなら、喜んでそうするけどね」
「いえ……べつにそういうことじゃなくて、いつもオレとリズが並んでると、ミズ・キャノンは『自分はリズとだけ話してるんだ。あんたなんか及びじゃないよ』という態度だったので、なんかびっくりして」
「ふふん。ミズ・キャノンときたもんだ。あんた、知ってるかい?フランスじゃね、随分前からマドモワゼルって言葉が禁止になってるそうだよ。なんでも、未婚かそうじゃないかとか、まだ一人前の女じゃないといった意味があるもんで、女性に対して使うのに適切でないという理由かららしいよ。あたしの若い頃なんか、マドモワゼル・シャロンとパリあたりで言われては、よくちやほやされたもんだけどね」
ロイはとりあえず、シャロンの隣に座ることにした。彼女のほうでは煙草を消すつもりはないらしく、フーッと白い煙を口や鼻から吐きだしている。
「いいんだよ。こんな気味の悪い妖怪ババアがマドモワゼル?バカも休み休み言えとか、そうはっきり言ってくれても。あたしゃ、なんでも白黒はっきりしてるほうが好きなもんでね」
「リズからは、マドモワゼル・シャロンは若い頃はそれは綺麗だったらしいと聞いてますよ。ハープを弾きながら歌を歌うコンサートを世界各地で開いて、どこの国でも歓迎されたとかって……」
「まあ、そんなのも今は昔の話さ。もし仮にあんたが四階に住む妖婆はホラ吹き上手だと内心思ってようとどうだろうと、あたしにとっちゃどうだっていい話だしね。それより、手っ取り早く本題に入ろうか。あたしがあんたに話があるとすりゃ、それはリズのことに決まってるってのはわかるね?」
もちろん、ロイはシャロンが嘘をついているとは思っていない。今は年齢とともに容色も衰え、昔は蜂蜜のように艶やかだったであろうブロンドがすっかり色褪せ、白髪にしか見えなくても……五階のリズの寝室で寝ていると、ほんの時折、ハープのそれは美しい、陶然とするような音色が聴こえてくることがあり――それは彼女の過去の真実を裏打ちするものだったといえる(もっとも、ロイはシャロンがそのハープを弾いているというより、彼女が森で捕まえた妖精でも鞭打ってハープを弾かせているに違いないと疑ってはいたが)。
「まあ、今のところオレとあなたの間にリズ以外の共通点はありませんからね」
「今のところね。なんにしても、耳をかっぽじってよくお聞き。あんた……ロイって言ったね?なんでも父親が有名な物理学者のお坊ちゃんで、右岸のいいお屋敷に住んでるそうじゃないか。だったら、そのうち機会を見て、リズをここから――このうらぶれた左岸地区から連れだすんだよ。あたしの言ってる意味が、あんたにはわかるね?」
「…………………」
シャロンからそれほど詳しく説明されずとも、彼女の言いたいことがロイにはわかっていた。ロイにしても、ずっと前、すでにリズとつきあいはじめたほんの初めの頃から――(自分が費用をだすから、ここから引っ越さないか)とは、何度となく言いかかったことがある。何故といって、この近辺であったわけではないにせよ、ラジオやテレビなどを通し、左岸のどこかで殺人事件だのレイプ殺人といったニュースが流れるたび……ロイとしてはいつでも胸の奥に不安のざわめきを覚えずにはいれなかったからである。
「そうともさ。確かに、橋から比較的近いこのあたりはね、まだしもちったあ治安のほうもいいよ。でもそれも、ほんの地獄の一丁目あたりにこの近辺が相当するってだけのことで……今新築のマンションが建とうとしてるあそこだって、夏には一体何してるやらわかんないような連中が随分出入りしてたもんだよ。そして、ここから数ブロックも行きゃ、そんな場所なんかまだまだいくらだってある。あたしゃ心配なのさ。あたしみたいな年食ったババアが物盗り目的でそんな連中にぶん殴られて死ぬとか、そんなのは大したこっちゃない。けど、リズみたいないい子がこんなババアより先に死んだとなったら……何故あの子のかわりに自分が死ななかったと、悔やんでも悔やみきれないからね」
「その、オレも一応、機会を見て遠まわしに言ってはいるんですよ。あとオレ、携帯のアプリ売って作ったりした金があるもんで、大金持ちではありませんが、ちょっとした小金持ちではあるので……金のほうは自分が出すから、頼むから右岸のオートロック付きのところにでも引っ越してくれって、縋りついて頼みたい気持ちはあるんです」
「そうだろ?わかるよ……けどあの子、結局のところなんだかんだで、ここの左岸を自分の故郷みたいに思ってんのさ。若い頃、世界中色んな国へ行ったがね、流石にアフリカのソマリアへはあたしも行ったことがない。けど、随分昔に紛争中のドキュメンタリーを見てたら……あそこの国の人たちは、あんなひどい状態の国でも、ソマリアが一番だなんて言うんだね。『ここはソマリ・ランド。自分たちの生まれた国だもの、ここよりいいとこなんてあるわけない』ってね。すぐそばでドンパチやってて、いつ死ぬかもわかんないのにだよ?あたしが思うにはね、リズにとってのソマリ・ランドがこの左岸なのさ。大袈裟な言い方をしたとすればね。だから、こっちにまだ困窮してる人や貧しさの極みにいるとか、食うや食わずで、麻薬で空腹をまぎらすってな子供がひとりもいなくなるとかしない限り――あの子はここから出ていくつもりがないんだと思うよ。直接そういう手助けをしてるってわけじゃなくても、ここから出ていくってことは、そうした人の全部を見捨てる象徴的行為だみたいに、心のどっかで思ってんのさ」
「わかります。だからオレも……リズをどう言って説得したらいいかわかんないんですよ。寝る前と朝に、チャットアプリで必ず連絡しあうんですけど、たまたま彼女が返事し忘れて寝たとかってなると、必ず電話しますしね。リズが右岸のここより安全な地域に引っ越してさえくれたら……オレのそういう精神的負担もかなり減るんですけど、そのあたり、うまく説明しないと『左岸の貧乏娘とつきあってるのが恥かしいわけ!?』とか言われて、喧嘩になりかねないんですよ」
ここで、シャロンは皺だらけの喉をのけぞらせて、さも愉快そうに笑った。
「いかにも、あの子の言いそうなこったね。かと言って、あたしがそのあたりのことをとっくり言って聞かせても、リズは聞く耳持たないだろうしね……まあ、わかったよ。ロイ、あんたにそういう気持ちがあるってことがわかっただけでもあたしにとっちゃ良かった。そのあたり、これからどうすればいいか、あたしとあんたで考えなきゃいけないね」
白い煙を吐きだすのと同時、シャロンが(もう行っていいよ)と目線で促した気がして――ロイはベンチから腰を浮かせかけて、もう一度座り直した。
「なんだい?まだなんか話でもあんのかい?」
「あのう……これもリズから聞いたことなんですが、シャロンさんは昔、ユトレイシア交響楽団で、ハーピストだったことがあるとかって……」
「そうだね。まあ、それだって遥か昔の話だよ。ハープが必要な楽曲の時だけ、よく呼ばれてたっていうね。それがどうかしたのかい?」
「もし良かったら……今度、一緒にコンサートに行きませんか?今のユトレイシア交響楽団の人の中には、もう知りあいも誰もいないかもしれませんが、もし今もクラシック音楽がお好きなら、ただで聴ける方法がなくもないというか……」
シャロンは驚いたような顔をしてロイを見たのち、おかしそうに鼻を鳴らして笑った。
「あの子はそういう言い方をする子じゃないけど、なんだい?可哀想な老婆をたまには外へ連れだしたほうがいいとか、そんなことなのかい?まあ、いつものあたしなら『余計な世話を焼こうとするんじゃないよ』とでも言って、つっけんどんにドアを閉めて部屋に入るところだけど……リズの彼氏が相手じゃ仕方ないさね。まさかとは思うけど、ただだなんて言って、実はあんたのほうでこっそり金払ってチケット買うとか、そんなことなんじゃないのかい?」
「いえ、オレやリズが定期的に行ってる老人福祉施設に、昔ユトレイシア交響楽団でヴァイオリニストをしていたっていうおじいさんがいるんですよ。で、大体月に一度ある定期公演の時、ボランティアのつきそい人が二名まで無料で入れるんです。だから、オレとシャロンさんがボランティアってことにすれば……」
「ふう~ん。でも、そんなふうに人を騙すのはやっぱりよくないよ。それに、あたしだってそんな場所まで行くのは億劫さ。だけど、差し支えなきゃ、そのヴァイオリニストとやらの名前を聞かせてくれないかい?今老人福祉施設でご厄介になってるというと、あたしが知ってる人である可能性もあるからね」
こういう時、守秘義務というのがあって、ロイのほうではそうした個人情報については一切洩らすことが出来ないことになっている。けれど、ロイはついアーロン・グリーナウェイの名前を口にしてしまっていた。可能性は低いが、もしシャロンのほうでアーロンのことを知っていたとすれば……昔話に花が咲く、そんなこともあるかもしれないと思ってのことだった。
「その人、現役時代は副コンマスをしてた人らしいんですよ。昔の若い頃のビデオを見せてもらったりしたんですが……よく考えたら、曲によってはシャロンさんも映ってる可能性、ありますよね。ええと、名前のほうがアーロン・グリーナウェイさんとおっしゃって……」
「アーロン・グリーナウェイだって!?」
その名前を聞いた途端、シャロンはまるで電撃にでも打たれたかのようだった。それまで、比較的和やかに、心通じて話すことが出来ていた気がするのに――シャロンはこれからその人物が階段の下からやって来るとばかり、急いで灰皿に煙草を押しつけて消し、深緑のドアをバシンッ!と閉め、中へ入ってしまったのである。
(もしかして、知りあいだったんだろうか……)
ロイは、やはりなんとしても守秘義務については守るべきだったのだと後悔しつつ、階段を上がってリズの部屋のインターホンを押した。合鍵のほうはすでにもらっていたが、彼女が中にいる時にはそうするのが当然の礼儀と思っていたのである。
リズはちょうど6月にある進級試験に向け、勉強しているところだった。リビングのテーブルの上には何冊もの本が積み上げられ、ノートには彼女がこれまで受けてきた講義内容について、ぎっしり書き込まれたものが広げられている。
「これ、勉強中の差し入れ」
そう言うと、ロイはノースフェイスのリュックの中から、母親が持たせてくれたフルーツケーキを取り出した。今まで、ロイの兄たちが連れてきた中の、どのガールフレンドも気に入らなかったアリシアであったが、リズのことはどうやら本当に好きらしく――ロイは彼女の悪口について聞かずに済んで、心からほっとしていた。
「わあ、わたし、ロイのお母さんの焼いたケーキ、大好き!今、紅茶入れるわね」
「ああ」
ロイはリズがフランス語で何か文章を書いていたらしいのを見て、驚いた。彼にしても、フランス語やドイツ語の講義については基礎教養の講義として受けてはいるが、あまり流暢にしゃべれるという感じではない。
「あれ?もしかしてこれ、ユゴー?」
「わかる?『レ・ミゼラブル』の有名な、ミリエル司教が銀食器を盗んだジャン・ヴァルジャンに対して、食器のみらず、銀の燭台も持っていけっていうところ。ねえ、そこの寝室の窓から夜になると遠くの教会の白い十字架が輝いているのが見えるでしょう?あそこの教会ってね、今まで、わたしの知る限り……四人くらい、右岸から左岸にやってきた牧師さんが死んで埋葬されてるのよ。簡単にいえば、そのまま右岸にいればいいのに、わざわざ左岸までやって来て、貧しい人たちと生活をともにして布教したってこと。で、こういう界隈なもんだから、そのことを面白くなく思ったマフィアの手下や、あるいは犯罪に巻き込まれるかして殺されたってことなんだけど……毎年、この牧師さんたちの殉教聖会が開かれるとね、教会中、人でいっぱいになるの。彼らはただ意味もなく危険な場所へやって来て、犬死にしたっていう人もいるけど、わたしはそうは思わないわ」
「……う、うん………」
ロイは黙り込んだ。特段盗み聞きしたというわけではないのだが、両親がリビングで息子が聞いていると気づかず、こんな話をしていたのを思い出したのである。アリシアがリズのことを手放しで褒めそやすのを聞いて――ハリーのほうではこう言った。「私はね、どっちかっていうとロイには、ジニーみたいな子とつきあって欲しかったね」、「まあどうして!?あんな上辺だけ綺麗な子より、リズみたいな子のほうが、ロイにはよっぽど似合いよ」、「学生の間は、そんな程度の軽い、浮わついたくらいの恋愛のほうがいいさ。確かにリズはいい子だと思う。でも、年齢以上に大人びているというか……どことなく殉教者的な暗い情熱を内に秘めているところが、私は気になるんだよ」――ロイとしては複雑だった。いつもは、母親が兄たちの連れてきたガールフレンドの悪口を言い、ハリーのほうでは宥める役柄だったからではない。殉教者……時々ロイは、リズがそうしたことのために本当に死ぬのではないかと、心配になることがあった。
「リズはここから……引っ越す気がないんだよね?」
リズが切り分けてくれたケーキを食べながら、ロイは珍しくそう直截的に聞いた。いつもは物凄く遠回りをして、それとなく仄めかす言い方をするのだが、下の階に住む妖婆が心の味方となり、そのお陰で力づいたせいかもしれない。
「ええ、まあね。この間取りの割に、家賃だって安いし……夏はこの五階に上がってくるまでの間に汗だくになるけど、そんなのも大したこっちゃないわ。ここの窓からは煌びやかな対岸の景色や、ユージェニー大橋の美しいイルミネーションも見ることが出来るし……どこだって住めば都よ」
「住めば都、ね。だったら、リズにとって右岸だってそうなんじゃないかな。ほら、前から言ってることだけど、オレ、やっぱりリズがここに住んでると心配なんだよ。四階に住んでるシャロンさんも言ってたよ。自分のような年寄りより先にリズみたいな若い子が死ぬことになったりしたら、死んでも死にきれない、みたいなこと」
言い方は少し違ったが、意味は同じだとロイはそう思っていた。
「まさか、一緒に暮らしたいとか、そういうことじゃないんでしょ?」
もしリズに多少なりともその意思があるのであれば、もう少し嬉しそうな顔をするはずだった。けれど、彼女はそれこそ殉教者のような、暗い顔つきをしている。
「リズがここから出て右岸の安全な地域の……それも、最低でもオートロックが付いてるようなところに引っ越してくれるんなら、オレはそれでもいいよ。だけど、リズの顔にははっきりこう書いてある。『そんなの絶対イヤだ』って」
「絶対イヤってわけじゃないわ。ただ、わたしはまだ二年で、ロイは一年……ううん、もうすぐわたしが三年であなたが二年よね。でもわたし、自分が同棲とかしてうまくいくタイプとは思えないのよ。ほら、ロイの二番目のお兄さんの奥さんと同じ感じになると思う。でも、アリスさんの場合は仕方ないわよ。旦那さんと同じレジデントで、お医者さんとして物凄く忙しい毎日を送ってるんだもの。家事のほうが疎かになっても仕方ないって、旦那さんのほうでも理解してくれると思う。だけど、わたしの場合は……」
「違うんだ、リズ。オレと一緒に暮らすのはまだ早いとか、学生のうちは勉強に専念したいとか、そういうのはオレも同じだから。ただ、毎日君が無事この部屋に辿り着いたかどうかとか、そんなことが気になって仕方ないんだ。引っ越し費用は全部オレが持つからとか、そんなのがイヤだっていうのは、オレもわかってる。だけど、大学を卒業するか、あるいは大学院に進学したとしたらそのあとも……そんな心配を続けなきゃいけない自分がイヤなんだ」
「要するに、自分のためってこと?」
「そう思ってくれてもいいよ。根本的には違うけど……この話をしようとすると、リズはそんなふうに少しずつオレの意図を変えようとしたり、悪いほうに取った振りをしてやり過ごそうとするだろ?で、オレもこんなことで喧嘩するのはイヤだから、自分の意見を引っ込める。だけど、さっきそこで下のシャロンと話したんだ。彼女も、リズのことをなるべく早くここから連れだせって。右岸でだって、殺人事件やらレイプ殺人やら、毎日のようにそうした犯罪に関するニュースはあるよ。だけど、比率として左岸のほうが犯罪の発生率が高いっていうのは、ユトレイシア市内に住んでる人間なら、誰もが知ってることなんだから」
「うん……じゃあ、少し考えてみる」
ロイはただ、溜息を着いてリズに返事をした。彼女のこうした返答というのは実は、あまりアテにならない。たぶん、自分は半月後くらいにはまた同じようなことを提案し、お互い喧嘩にならない程度のやりとりが繰り返されて終わるに違いない。
このあと、ロイは気分を変えて話を切り換えた。せっかくの美味しいフルーツケーキがまずくなると思ったせいでもある。
「さっきシャロンに、ユトレイシア交響楽団のコンサートに行かないかって誘ってみたんだ。ほら、ユトレイシア敬老園のアーロンおじいさんについて、月に一回くらい定期公演に行くだろ?だからその時、リズとシャロンのふたりでボランティアとして一緒に行くのはどうかと思って」
「それ、すごくいい案ね!」
ロイの言っていることのほうが正論であるとわかっているためだろうか、リズは拗ねたような態度をとるのやめ、途端、いつもの素直な明るい笑顔に戻っていた。
「うん……だけど、アーロン・グリーナウェイの名前を聞いた途端、怒ったみたいになって、ドアをピシャッと閉めて中に入っちゃったんだ。もしかして、知ってる人だったのかなあと思って」
「わかったわ。わたしは名探偵とは言えないけど、そのうちシャロンにそのあたりのこと、うまく聞いてみるわね。たぶん、ユトレイシア交響楽団の昔の知りあいか何かじゃない?わたし、クラシック音楽のことはよくわからないけど、ハープって、毎回毎回そう必要になるって楽器じゃないらしくてね。シャロンはもともとは声楽科の学生で、ハープのほうは仲のよかった親戚のおばさん……お母さんの妹さんに小さい頃から教わってたんですって。この妹さんもプロのハーピストだったのよ。それで、このシャーロット・ランブルさんもレコードを出してて、シャロンもCD出してるの。びっくりじゃない?」
「へええ……それはすごいね。よく考えたらネットで調べたらそういうの、出てくるかもしれないね。なんか、オレにもさっき言ってたよ。世界中あちこちコンサートをしにいったとかって」
「そうなのよ!シャロンの部屋にいったら、ロイもきっとびっくりするわよ。昔のレコードのジャケットとか、居間に飾ってあるから……ほんと、ギリシャの美神っていうくらい、そりゃ神々しくて綺麗なの。今はすっかり声も変わっちゃったけど、レコードのシャロンの歌声ときたら、コンサート会場がいつも人でいっぱいだったっていうのがよく理解できるくらいなんだから」
「ふうん。それはオレも一度聞いてみたいな」
この時、左岸から右岸へ引っ越すという話も、シャロン・キャノンの昔話についても、それきりになった。お互い、その週に大学の学部内であった面白かったことや、ボランティア先であったことを情報交換したり……そんな話で盛り上がった。夕食は一緒にスパゲッティを作って食べ――そのあと、ロイはリズと映画を一本見てから帰ってきたのである。
翌週の金曜日、ロイは<ユトレイシア敬老園>へ行き、七階の703号室にあるアーロン・グリーナウェイの部屋を訪ねた。介護職員たちの話では、ロイに心を開いて以来、他の職員たちに対しても随分打ちとけて話をするようになったとのことで……ロイ自身は大したことをしたとはまるきり思ってないのだが、時折アーロンじいさんが「遺産がどうこう」という話をする時だけ、注意するよう気をつけている。
その日も、これで一体何度目になるかわからない、「わしももう長くない……」という話が、嘆息とともにはじまる瞬間があった。すると、ロイのほうでは(またはじまったか)と思い、なるべく話を逸らすべく、心の覚悟を決めるのである。
「わしの娘は、麻薬までやっとってその後行方が知れんというのは、前にも話したろう?妻のほうはな、つい三年くらい前まで、ここの施設の別の部屋でひとり住まいしておった。ここの施設には、夫婦が住むのにちょうどいい部屋もあるのに、もうわしと一緒に暮らすのはイヤだと言ってな……いや、夫婦仲が悪かったわけではないぞ。ただ、そんなふうにお互いの部屋を時々行ったり来たりするくらいが、年を取ってからはちょうどよくなったという、それだけのことだて。ここからちょっと行った先の坂の上に墓地があるわな。妻のエマはそこに眠っておる。わしはこの通りのつむじ曲がりだもんで、親戚ですら滅多に見舞いには来ん。となると、遺産のほうはどうすべきだと思う?なあ、ロイや、ええ?」
「そうですね。オレなら慈善団体にでも寄付するかもしれませんね。あとは、ここのお世話になった介護職員の誰かに少しくらいは何か残すとか……差し出がましいようですが、行方不明の娘さんがその後どうしたか、探すという手もあるんじゃないですか?」
「はははっ。娘のジョゼフィンのことなぞ探しても、きっとろくなことはないわい。むしろ、行方なんか捜さんほうがよかったことがわかるくらいなもんだろう。それよりわしはな、ロイ、おまえさんに残したいと思っておるんじゃよ」
「前から何度も言ってるでしょう。そんなことをするなら、オレはもう二度とここへは来ません。それより、アーロンはそんなにお金を持っているのなら、新聞にでも<尋ね人>として娘さんの名前を出したらどうですか?『父、危篤』とでもその横に書いておけば……実際に今そうでなくても、きっと連絡をくれますよ。あるいは、娘のジョゼフィンさんを知っている誰かからでも……」
「ジョゼフィンは新聞なぞ読むような娘ではないわな。それに、もしジョゼフィンが『実は自分の親父は結構な金持ちだ』といったようなことを洩らしたら――まわりにいるろくてない連中にけしかけられて、確かにわしに会いに来るかもしれん。で、そんなんで実は自分の絶縁した親父はもう暫くは死なんらしいとなったらどうなる?はははっ。もしかしたらわしは殺されるかもしれんわな、遺産目当てに自分の娘にじゃぞ。わしが実の娘でも連絡なぞ取らんほうがええ言うのは、そういう意味だわい」
ロイは溜息を着くと、ちょうどかけていたCDが切れたので――「ブラームスの『運命の歌』の次は、何がいいですか?」と聞いた。「まあ、おまえさんの好きなのでもかけるがいい」とのことだったので、ロイは(どれがいいだろうな……)と思い、整然と並べられたCDの棚を、じっくり眺めやった。
(ストランヴィンスキー、ウェーバー、アーロン・コープランド、マーラー……う~ん。久しぶりにオペラでもいいかな。あ、これエディット・ピアフかあ。てか、フレンチ・ポップスの名盤がある。セルジュ・ゲンズブールやシャルル・アズナブールの懐かしの名盤も……その時代を知らないにも関わらず、懐かしいとか思っちゃう不思議さだよな)
そしてこの時、ロイはふと、その他のシャンソンやジャズ系のCDに混ざって――シャロン・キャノンの名前を発見し、心底驚いたのである!
言うまでもなく、ロイはこの時、あの妖婆の若かりし頃と言われても一切信じられない、妖精のように美しい女性がジャケットのCDを聞いてみることにしたわけである。
だが、2台のスピーカーから、陰影のある美しい歌声が流れてくるなり……アーロン・グリーナウェイの顔色が一瞬にして変わった。曲のほうはノルウェー民謡で、ロイが他にも収録曲を見てみると、スペインやイタリアの悲歌の他に、ロイが知らないような曲も随分あった。基本的にはピアノが伴奏を取っているものの、その中に時折流れる、シャロンの弾くハープの音色が、なんとも幻想的な響きを持って聴く者の耳朶を打つのだった。
「……ロイや、何故そのCDを選んだ?」
「ええと、特に深い意味はありませんよ。フレンチ・ポップスとかシャンソンでも良かったんですが……CDジャケットの女性が、あんまり美人だったもんで」
ブロンドの髪を高く結い上げ、ハープの前に座っている女性は、ギリシャ神話の女神のような白いドレスを着ていた。これを見る限り、あの今は見る影もない妖怪婆が若い頃はモテモテだったというのは本当なのだろうと――ロイにしても納得するばかりである。
「嘘をつけ!おまえさん、さては何か知っておるのだろう?言え!一体誰に何を聞いたんだっ!?」
アーロンが興奮のあまり咳き込み始めたため、ロイは痰を吐くためのプラスチック容器を彼に手渡し、背中をさすった。やがて、大きな黄色い痰を彼が吐き出すと、ロイにしてもほっとする。キッチンのほうで軽く洗ってすすぎ、それを再び床頭台の上へ戻しておく。
「ふう……やれやれ。大きな痰がでたら、何故か急に怒りまで静まったわい。そういや、おまえさん、父親だったか母親だったかのどっちかだかに、ユトレイシア交響楽団に所属しとる友人がおると言うておったな。わしはな、もうそこらへんの昔のことは蒸し返したくないもんで、ただ一言『ほう、そうか』と答えたあとは黙っておった。じゃが、そこらあたりからわしが昔どの程度のヴァイオリニストだったのどうだの、色々聞きだしたんじゃろう!?ええっ?」
「違いますよ」
病人を興奮させてすまなかったと思い、ロイは正直に話すことにした。アーロンは、以前よりは打ち解けて色々話すようになったとはいえ、疑り深い性格のほうはまるで変わりなく、一度ひとつのことに疑問を持つと、それを徹底的に追求せずにおれない性格をしていたのである(また、老人扱いされるのを嫌う割に、自分にとって都合の悪いことについては忘れた振りをするのだから困ったものである)。
「ほら、オレのガールフレンドにリズって子がいるでしょう?彼女の住んでるアパートの真下に、このシャロン・キャノンさんって人が住んでるんですよ。家庭的な料理がすごく上手な人で、オレも何度か食べさせてもらったことがあって……リズの話によれば、若い頃は歌を歌いながらハープを弾いて、世界中でコンサートしてたってことなんですよ。オレのほうでは「あの妖怪みたいな婆さんがねえ」……といった具合で、半信半疑だったものの、今、どのCDをかけようかと棚を見てたら、彼女と同じ名前を見かけたってわけなんです」
「その話、作り話ではないな?」
アーロンはなおも、疑い深げな眼差しを注いで、そう念を押した。
「こんなことで嘘をついて、一体オレにどんなメリットがあるっていうんですか?あなたからもし全財産をもぎとりたいのであれば、それこそうまいこと機嫌をとってるはずじゃないですか?でも、資産家のご両親から莫大な遺産を受け継いだとかいう小憎らしいじじいは、美人のハーピストのCDをかけたら機嫌が悪くなった……訳がわからないのは、むしろこっちのほうですよ」
「その女はな……わしの最初の妻だった女だ。エマの前のな。だが、信じられん。家庭的な料理が得意だとな?わしと結婚してる間、ろくに料理など作ったことなぞないような女だったぞ、シャロンは。そう考えた場合、まあ人違いということもありうる」
「…………………」
ロイのほうでは、人違いとは思わなかった。何故といって、アーロン・グリーナウェイの名前を聞いた時の、シャロン・キャノンのあの態度の豹変ぶりから見ても――このふたりには過去、確かに結婚していた時期があったのだと、そう考えるのが妥当というものだった。
「人というのは変わるものですよ。オレの母も言ってました。甘やかされて育ったので、結婚するまで料理ひとつしたことはなかったって。でも、家庭に入って家事をせざるをえないとなると、何分毎日のことですからね。だんだんと上達していって、今じゃ母が料理できなかった頃のことなんて、四人いる子供たちのうち、誰が聞いてもとても信じられないとしか思えないくらいですよ」
「まあな。それに、わしと離婚したあと、誰か別の男と結婚しとったかもしれんしな。それで?あの女は元気にしておるのかね。もし仮に今は年を取って聖女のように性格が丸くなっておるのだとしても……わしと結婚していた頃はそうでなかったもんでな。あんな性悪の、とんでもない女はそうはおらんかったろう。結婚する前からもあっちの男、こっちの男と浮気な女ではあったが、それは結婚してからもさっぱり変わらんかった。ある日――地方へ演奏旅行へ行って戻ってきたら、わしの知ってる男とベッドでよろしくやっておったよ。ま、それが離婚した理由さ。言うまでもなくな」
「でも、愛していたんでしょう?シャロンさんのことを……」
他に、何を聞いたらいいかもわからず、ロイは最初に頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「愛だって!?バカも休み休み言うがいい!あんなものが愛なものか。結婚しておったのは、大体二年くらいの間かね。わしにしてみれば、地獄のような苦しい二年間だったぞ……あの女はな、わしに結構な財産があると知っておったから、他の有望な若い男どもを軒並み振って、わしと結婚することを選んだのだ。そのことについてはわしも薄々気づいてはおった。が、まあ、それが若さというものなのではないかね。あんな美女が他のどの男に対してでもなく、自分に振り向いてくれた……わしのほうではシャロンのほうが金目当てだろうとなんだろうと構わんと、そう思っておった。だが――いや、これ以上のことは何も言うまい。すべてはもう済んでしまったことだ。今さらそんな過去にあったことを蒸し返したところで始まるまい」
このあと、フィンランドに古くから伝わる民謡が流れる中、ロイは暫く沈黙を守った。彼の記憶違いでなければ、随分前にリズから『若い頃はモテにモテたけど、結婚はしなかったらしいわ』と聞いた覚えがある。けれど、今ロイはシャロンがもしかしたらこのひねくれ者のアーロン・グリーナウェイのみならず、その後も誰かと再婚していた可能性もあると思っていた。その結婚が幸福なものであったかどうかはわからないし、結婚生活がうまくいかなかったからこそ、そのあたりのことを説明するのが面倒で『そもそも結婚していたことなぞない』と言ったのかもしれない。というのも、こうした老人福祉施設で入居者の話をずっと聞いているとわかるのだが――アーロン・グリーナウェイのように、自分の過去について輝かしい功績については大文字で話し、抹殺したいような語りたくない過去については小文字で話す老人というのは、実に多かったからである。
(まあ、オレだって年をとって七十くらいにでもなればそんなものだろうな。そもそも認知症にでもなってなきゃの話だけど……)
ロイがそんなことを思いつつ、CDのブックレットにある歌詞を眺めていた時のことだった(ファンに対するサービス・ショットだろうか。そこにも若かりし頃のシャロンの写真のアップが随分盛り込まれている)。アーロンは突然「わしは寝る!」と言いだし、自由の利く右手で電動ベッドを操作すると、ウィィィン……と、背もたれのあたりがゆっくり後ろへ下がっていく。
ちなみに、アーロンは自分が寝る前のことでは小うるさかった。小さな枕を脇やら足の下やらに配置したり、細長い抱き枕を抱いて寝たりするのだが――「もうちょっと上にしろ」だの「微妙に右だ」だの言っては、介護者を困惑させるのだった。週に一度来る程度のロイにとっては(このじいさんなりに人に頼ったり甘えたりしてるんだろうな。本人はそう思ってないだろうけど……)くらいなものだが、介護員たちにとってはやはり毎日のことなので、「あの偏屈じじいめ!」と、陰ではそうとしか言われてないらしい。
「眠りに就く前の音楽として、シャロンさんの歌声が適当でないなら、別のに変えますよ」
だがこの日は、ロイがいつも通りといったように枕を配置してもアーロンのほうでは特に何も言わなかった。「もう少し部屋を加湿しろ」だの、「少し温度が暑いようだわな。一度下げてくれ」といった指示もなく、「ふん!好きなのをかけるがいいわい」とだけ言って、目を閉じていた。
ロイのほうでもアーロンが本当には寝たとは思ってなく、その証拠に結局、二十分もすれば、「腰に置いた枕の位置がどうこう」と言いだしたり、あるいは「トイレに行くから車椅子を持ってこい」だの言うのが常であり、この日もちょうどそうだった。アーロンは十五分もしないうちに、「下の売店へ行くぞ」と言って、電動ベッドを再び操作して、背中のあたりを上げはじめたのだった。
「売店へ行く」=「車椅子に乗って散歩したい」の意だとわかっているロイは、アーロンに軽く手を貸し車椅子に移譲させると、彼にとっての3点セット――すなわち、左の肘下あたりに入れる小型枕、それとすっかり痩せ細っている足を隠すための高級ブランケット、最後に財布を用意して、アーロンのことを外の廊下へと連れだした。
ロイはこの日も<ボランティアの駄賃>としてコーヒー牛乳を奢ってもらい、彼が気に入りの菓子や週刊誌を買う間、ただアーロンの話につきあった。たとえば、ゴシップ誌の見出しに、某有名俳優と女優が離婚したと書いてあるのを見ては、「このことでは誰もが予言者だったわな」と言ったりといったことである。「あとは一年後に離婚するか二年後に離婚するかの違いがあるだけで……そこんとこが外れておったわけだ。結婚して半年!まったく、若いもんは堪え性がないわい」
こういう時、老人福祉施設の入居者に、「そんなこと言ったらあなただって……」などと言ってはいけないというより、詮無いことである。そもそも、人は誰しもそれが他人の家庭のことであれば、素晴らしい裁判官になれるということを見てとっても、黙っているのがいちばん穏当な態度というものだった。
結局、その後アーロンが前妻のシャロン・キャノンについてその名を口にすることはなく、娯楽室のあたりをぶらついて戻ってきてからは、「疲れた」と一言いい、今度は本当に眠ってしまった。ロイのほうでももう、「彼女と一緒にユトレイシア交響楽団の演奏を聴きにいく計画が実はあった」などとバラすつもりはない。むしろ、そんなことをする前にアーロン・グリーナウェイとシャロンの関係性がわかって、ロイは心からほっとしていたくらいだったのである。
>>続く。