>>2001年に、東京の新大久保駅構内で、プラットホームから落ちた男性を救おうとして、二人の男性が線路に降りたものの、結果的に三人とも死亡してしまったという事故がありました。
今時、不慮の死であっても、よほどのニュースバリューがないとメディアは大きく扱おうとしません。ところが、この場合は違いました。翌朝、新聞各紙は一面に、これを大きく報道し、犠牲となった二人の行為を英雄的なものとして称え、悼んだのです。
ある英字新聞も第一面に「Two Samaritans」という大見出しでこれを報じました。「二人のサマリア人」という見出しは、聖書を読んだことのない人には理解しにくいものだったかもしれません。これは、聖書の中に書かれている有名なたとえ話の一つです。
(『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子さん著/幻冬舎より)
「善きサマリア人」と聞いても、日本人的にはあんましピンと来ない……というほうが一般的と思うので、一応、聖書からこの「善きサマリア人」についての箇所を引用してみたいと思いますm(_ _)m
>>すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
イエスは言われた。
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」
すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります」
イエスは言われた。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、誰のことですか」
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリア人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」
彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい」
(ルカの福音書、第10章25~37節)
簡単にいえば、これはイエスさまの別のお話の黄金律、「自分にしてもらいたいことを相手にもしてあげなさい」という実践であり、当時の律法学者やレビ人(祭司階級にある人々)はいかに自分たちが律法を守っているかを誇示してはいても、「自分の隣人を愛する」ということについては実質的に守っていない……ということに対する、イエスさまの痛烈な批判でした。
↓にも、「医者とホームレスが倒れていて、どちらか一方しか救えないとしたら、どちらを助けるべきか」というたとえ話がちらっと出てきますが、これはマイケル・サンデル教授のハーバード大学白熱教室のアレです(^^;)
ただわたし、例によって本のほうがダンボールのどっかに……(以下略☆)といった状態なので(汗)、「大体のところ意味は同じかな」くらいの説明で申し訳ないのですが――結論をいえば、結局のところこうした道徳に関することって「答えはない」わけですよね
医療とか看護の領域にはたぶん、「最善を尽くして結果が悪かった場合は仕方ない」、「だが、本当に自分は最善を尽くしたのといえるのだろうか?」、「あの時もしこうしていたら……」、「判断するのがもう少し早ければ……」といった、なんとも言えないグレーの領域部分で悩む、ということがあるのではないかと思います。
もちろん、こうしたことに対して、マザー・テレサの言葉を引用されることに抵抗を覚える方もいらっしゃるでしょうけれども、
>>私は、親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです。
>>私は、不親切で冷淡でありながら奇跡を行うよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたいと思います。
介護の仕事をしていた時、自分的にこのふたつの言葉にとても救われました。
自分では正しい動機で良いことを行おうとしたのに、人からは拒絶される、ということがありますし、周囲の理解を得られないこともあるかもしれません。
どちらにしても、「最初の動機が大切」というのでしょうか。
1.人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在です。それでもなお、人を愛しなさい。
2.何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるでしょう。それでもなお、良いことをしなさい。
3.成功すれば、偽りの友人と本物の敵を作ることになる。それでもなお、成功しなさい。
4.今日善いことをしても、明日になれば忘れられてしまうでしょう。それでもなお、良いことをしなさい。
5.正直で率直なあり方はあなたを無防備にするでしょう。それでもなお、正直で率直でありなさい。
6.最大の考えを持った最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。
7.人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついて来ない。それでもなお、弱い者のために戦いなさい。
8.何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。
9.人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
10.世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
これは、マザー・テレサが「カルカッタの孤児の家」書き記した言葉としても有名な、逆説の十箇条と呼ばれるものです(もともとは、ケント・M・キースさんの言葉だそうです^^;)。
もちろん、こうしたことに<神>という概念を入れると、「そもそも何故神は彼らを助けなかったのか」という問題があると思うのですが(汗)、けれども、脳死の問題などもそうだと思いますが、こうした医療や看護におけるグレーの領域の問題や、道徳に深く根差した結局のところ正しい答えのない問題を論じる時……神学や哲学といったものはとてつもなく大きな力を人の精神や心、あるいは魂にまでも及ぼす力がある、というのは事実だと思うんてすよね
それではまた~!!
不倫小説。-【16】-
「そうですか?俺なんてきっと、結城先生の足元にも及ばないと思いますが……たぶん、俺は今もあの頃のボンクラなままなんじゃないかって気がします。そりゃ、あの頃先生から教わった気管切開も中心静脈カテーテルを入れるのも、今は当たり前みたいにうまくなったにしても。それで、実は先生……俺が結城先生に電話したのは、今同棲してる彼女とつきあいはじめてから、時々先生のことを夢に見るようになったからなんです。俺――ついこの間、地下鉄の駅で心臓発作の男性を助けたんですけど、実は、朝の出勤時で急いでいたせいもあって、そのまま通りすぎようとしました。そしたら、明日香が……ええと、今つきあってる女性なんですが、同じ病院の脳外科で介護員をしてるんです。その彼女が、『先生、だめです。どうか、お願いします』って、俺の袖を引いたんですよ。俺は……触らぬ神に祟りなしと思って、そのまま通りすぎようとしてた。いや、朝の出勤時だったからとかなんとか関係ないな。その日が休日で、たっぷり余裕があってさえ、俺は面倒に巻きこまれるのが嫌で、無視したと思うんですよ。たぶん俺、あの頃に先生から教わったことが、心から抜けていたんじゃないかって、そんな気がして……」
ここで結城医師は、こんなおかしいことがあるか、とばかり、げらげらと大笑いしていた。
『ほうほう、なるほどなあ。まだそんな青くさいところが医者になって十何年経ってからもあるだなんて、それだけでも上出来じゃないか。それに、触らぬ神に祟りなしってのも本当のことだぜ。あとから医療訴訟だなんだと難癖つけられる可能性もなくはない。ほら、日本じゃアメリカやカナダなんかと違って、善きサマリア人の法ってのが適用されるわけじゃないからな』
「ああ。良い動機で人を助けようとした場合、その過程で何かミスがあったとしても罪には問われないっていうあれですか」
『そうだ。それに、その人の助かることがいいことなのかどうかなんて、誰にもわからんからな。だってそうだろ?実は事業で借金が八百万あって、毎日自殺のことばかり考えてるとかだったら、むしろ助けないほうがいいかもしれない。医者ってやつは神じゃない。大学時代、哲学の授業なんかで習ったみたいにな』
「…………………」
奏汰はこの時、電車のホームの下でホームレスと医者が同時に倒れていたとして、どちらかひとりしか助けられないとしたら、どちらを助けるべきか……といった、大学の哲学の授業であった設問を思いだしていた。
もちろん、多くの医学生が「医者」と答えていた。何故といえば、医者を助ければ、その後彼はたくさんの人の命を助けることができるだろうからだ。また、中には「ひとつの命という観点から見れば、医者もホームレスもなく、そうした基準で命をはかるのは間違っている」との反論も当然あったが――結局のところ、こうした道徳に深く根差した問題に答えというものはない。
「でも、その人の場合は……俺が助けてよかったんですよ。倒れたその日のうちに、奥さんや子供や孫までが一時に面会に来ていたっていう話でしたから。それに、その人がどんな人物かなんてわからない以上、あらゆる可能性を取捨選択した場合、とりあえずどんな悪人の命も助ける、で、あとはのことはあとで考えるっていう、結城先生としてはそういうことでしたよね?」
『そうだな。第一、救急外来みたいな場所に運ばれてきた時点で、そいつが善人か悪人かなんて、考える余裕なんかあるまい。いかにもいかついヤクザみたいなおっちゃんが来たって、助けなけりゃならんし、医者ってのは客というか、患者の選り好みの出来ない、まあなんとも不自由な職業だからな』
この時奏汰は、自分が大学の救命センターで研修医だった頃、実際にヤクザ同士で喧嘩して運ばれてきたAという患者とBという患者のことを思いだし、その話を結城医師にした。何分、患者Aは頭部を殴られ、一時的に記憶喪失になり……その間彼は実に気弱で大人しい人物だったのだが、記憶が戻るなり今度は以前の喧嘩っ早く凶悪な人格のほうが戻ってきたという患者であったため――結城医師のほうでも覚えているかもしれないと思ったのだ。
『ああ、あのおっちゃんな。俺も名前までは覚えてねえが、そうしたことがあったのは覚えてる。患者Aが歯科かどっかを受診して戻ってきた時に、患者Bと偶然鉢合わせて、そのせいで患者Aの記憶が戻ってきたわけだ。で、今度は患者Bのほうが喧嘩で大怪我をして昏睡重態になっちまって、結局そのまま意識が戻ることなく死んだっていうな。藤原なんかは、「こんな奴ら助けるんじゃなかった」なんて言ってたが、医者はろくてねえヤクザだって助けなきゃならん、世知辛い職業だからな』
「先生……研修医って、各科をすべて一通りまわるじゃないですか。でもその中で救命センターのことだけ今も夢に見たりするのは、結城先生に教わったことが俺にとって一番身についたっていうそのせいだと思うんです。本当に、ありがとうございました」
『ハハッ。そんなの、あの頃はそれが俺にとっての仕事だったっていうそれだけのことだろ。それに俺は、研修医たちにとって、お世辞にもいい指導医とは言えなかっただろうしな。むしろ、この年になってもう少しマトモな教え方をしておけば良かったと、後悔してるくらいだよ』
「そんなこと、ありません。まあ、大体最初の洗礼と言いますか、不満のピークが通りすぎて下り坂になる頃には――今度はみんな結城先生に憧れだしますからね。俺も、結城先生が煙草を吸ってるのを真似して吸いはじめたって口でしたから」
『まさか、今も吸ってるわけじゃあるまい?確か昔何かの論文で、喫煙は脳梗塞のリスクを1.7倍にするとかいうのを読んだ記憶があるぞ。いっぱしの脳外科先生が患者に禁煙を勧めておきながら自分はストレス解消のために吸ってるなんていうんじゃ、示しがつかんだろ』
「いえ、研修医だった頃の夢を見るようになってから……ずっとやめてたのを、最近ちょっとだけ吸ったりしてます。先生は物凄いヘビースモーカーだったと思うんですが、今は?」
『ああ、やめたよ。結婚してからはずっとな。ワイフのやつが俺の健康状態を異常なまでに気するっていう、そのせいでな』
このあと、奏汰は結城医師が立ち上げた民間の救命センターのことについて、色々と聞いた。ハーバード大卒の医師と共同経営ということは、MRIなど、設備だけでも相当高額になるし、果たして元など取れるものなのかどうか、少しばかり下世話な話についても奏汰は彼が相手であれば、不思議と遠慮なく聞くことが出来たのである。
「そりゃまあ、救急医療ってのは、馬鹿高い診察料ってやつをちょうだいするからな。だからどうにかうまく回ってるっていうより……うちの医事課の部長に天才的な取り立て屋がいるのさ。人当たりがソフトでスマートで、不満を一通りぶちまけたあとは、この人になら支払わざるをえないって感じのうまくやってくれる人がな。結局、命が助からなかった場合でさえ、物凄い医療費がかかったりするわけだから、そんなもん、家族だって払いたくないわけだ。けどまあ、そこらへんのことをうまく説明していい感じに事を収めて金を回収してくれる部長がいるもんで、重宝してるよ。あと、俺の腕はヤブでも、相方の脳外科先生の腕がいいもんでな。向こうは俺の三倍以上稼いでるんじゃねえかな』
「えっと、でもそれで結城先生は不平等とは思わないんですか?」
『さあ……俺はもともと金の勘定に興味なんかねえし、むしろ先生のお名前と顔があるせいで、民間の救命センターなんていううさんくさいところにも患者が来てくれて助かってるくらいだ。それに、最初に出資した金のほうは、向こうの先生のほうが段違いで多かったし、気違いみたいなカミさんと結婚してる人なもんで、そこらへんの同情心も差し引いたとしたらとんとんといったところかな』
気違いみたいなカミさんと結婚している脳外科医……自分にも少しばかり通じるところがあるような気がして、奏汰は暫しの間黙りこんだ。
『ああ、気違いなんて言っても、この場合はいい意味なんだ。動物好きの動物気違いで、家の中でモモンガとか亀とか、色んな動物を飼っていてな……ま、ちょっとした動物園だ。その気違いの奥方が、ある日、道路を鹿が走っていくのを車で追いかけて、うちの建設途中だった病院に入っていくのを見たっていうもんで、それでうちは鹿光救命センターなんていう、変てこな名前なんだ。旦那のほうは至極まともな人なもんで、「妻がそんなことを言ってるんだが、結城先生もこの名前が嫌なら嫌と言ってくださって構いませんから」みたいに前もって聞いてくれてな。俺は病院の名前なんか最初からどうでもよかった。だから、「むしろ縁起よくていいんじゃないスか?」みたいに話して、今日に至るってところか』
このあと奏汰は「もし近くへ行くことがあったら、必ずお邪魔します」と約束して、研修医時代の恩師との電話を切った。なんでもそこでは、藤原聖也やチリ半島こと、名倉健二も、少しばかり手伝いをしていたことがあったらしい。
奏汰は電話を切ったあと、心のあたたまる何かを胸の奥に感じていた。後進の指導といったことについては、奏汰としても考えなくはない。けれど、自分ではおそらく脳外科医の後輩がいつまでも覚えているといった類の指導医にはなれまい……と、そんな気がしていた。
(結城先生に話したからって、何か悩みが根本的に解決したってわけじゃない。でも、今俺が感じている気持ちは、何よりもかけがえなく大切なものだ。金がどうとかじゃなく、親父がこう言うとかああ言うとかいうことがなかったら、俺だって脳外科医として先生の病院を手伝いたいくらいだ)
そしてこの時奏汰はハッとした。
(そうだ!もし俺がいずれ無事離婚できたとしたら……結城先生の元で働かせてもえないだろうか?結城先生の奥さんと明日香はきっと気が合うだろうし、知り合いなんていない土地柄でも、きっといい暮らしをしていけるんじゃないだろうか。給料的な面では贅沢は言えなかったにしても……)
奏汰はこの計画を思いつくと、俄かに興奮してきた。なんだったら、今勤めている総合病院には辞表をだし、そちらへ移るということだって出来る。かなり強引なやり口かもしれないが、これなら小百合も自分とはもう離婚する以外にないと納得するのではないかと、そう思ったのだ。
このあと奏汰は、鹿光救命センターのスタッフ紹介のページを見て、結城医師の下には四名ほどの部下である医師がいるのに対し、脳外科医は雁夜医師ひとりらしいと知った。彼の年齢は54歳。奏汰よりも約十歳年上なわけだ。それでも、奏汰は自分の年齢が四十三にもなることを思うと……(やっぱり、俺みたいのを下で使うっていうのは若い奴らよりやりずらいかな)と思いもしたが、雁夜医師の自己紹介文に最後、「妻と子どもと動物に囲まれて暮らしています」とあるのを見て――(いや、意外とうまくやっていけるのではないだろうか)と思いもした。
そして奏汰は、この胸の沸き立つ計画を、買い物から帰ってきた明日香にせずにはいられなかった。「まったく誰も知らない土地で一からやり直す」というよりも、少しばかりの知り合いがいたほうがいいし、給料面では確かに、今勤めている総合病院より落ちるにしても――明日香とふたりなら、そうしたことは気にせず暮らしていけそうだ、といった話を……。
「そうですね。わたしは異存ないですよ、先生。確かに今の病院は居心地いいですけど、ほら、病院って結局、職員の出入りが激しいじゃないですか。わたしはここに勤めてもう七年以上にもなるわけですけど……看護師さんは気の合う優しい人ほど早くやめちゃうしっていうことの繰り返しでしたから。そういう意味では、わたしも先生さえいてくださったら、たぶんあとのことは大体平気だと思うんです」
「そっか。もちろんこんな話、まだ結城先生に聞いてもいないし、『いや、うちは職員足りてるからもういらない』って言われるかもしれないんだけどさ。なんか俺も楽しみだよ。この年になってまさか、色んなことを一からやり直せるとは思ってなかったし、そういう希望のある、明るい心持ちでなれるとも思えなかった。なんでだろうな。第一俺、あの時なんで車を車検にだして、そのあと代車を頼まなかったんだろう。川田さんはなんで、あの時あの場所で心臓発作を起こしたんだろう……もちろん、全部偶然なんだろうけど、なんかこう、俺にしてみたらそのすべてが一本の糸で繋がってたみたいなさ、何かそんな気がするっていうか……」
その日の夜はミルフィーユ鍋だった。そこで奏汰は、美味しい豚肉と白菜を堪能しつつ、あらためて幸せな気持ちになっていたかもしれない。
「きっと明日香、結城先生の奥さんとは気が合うよ。彼女、その救命センターでも看護師として働いてて、一見大人しそうだけど、なんていうか結局、結城先生とは根っこのところで似てるんだろうな。金云々といったことより、患者の命とケアが第一とか、そういう損得計算を勘定に入れないところなんかがさ。脳外科先生のほうの奥さんは動物好きだっていうし、確か、明日香も動物好きだもんな」
「ええ、まあ。それに、仕事で疲れた時に動物園に行ったりするのってすごく癒しになりますし……そっかあ。わたしはただの介護員だから、もし働くとしたら場所はどこでもそう大差ないにしても、先生が「ここなら」って思えるところがあって本当によかったです。でも先生、よく考えてみてくださいね。もう今の病院で働いて長いんですから、辞表だしたって、まず受理してもらえませんよ。院長先生や副院長先生自らが「何故かね、どうして辞めるのかね」って説得しにくるでしょうし、辞表が受理されたとしても、本当に辞められるのなんていつになるか……」
「わかってるよ。代わりの脳外科の先生っていったって、誰かがすぐに来てくれるわけでもない。そうだなあ。結局、来年の三月にようやく辞められるとか、そんなところかな。まあ、このことはまず、小百合に話してみるよ。結城先生に頼んで断られてからより……そういった計画でいる、だから離婚してくれって言ったほうがいいんじゃなかっていう気がするからね」
――こうして、奏汰はこの件について翌週の土曜に小百合に話をしにいった(結局、その週奏汰は未来の計画に心が高揚するあまり、明日香と一緒にいることにしたのである)。彼にしても、離婚すると決めていたにせよ、今まで支えてくれた妻に対して愛情がゼロになったとか、これはそうした話ではない。ゆえに、このことを切り出すのは、彼としてもつらくはあったのだ。妻にとっては、これが大きな胸のダメージになるということがわかっているだけに……。
だが、実際にその話をした時、小百合は至極冷静なように見えた。以前と同じようにヒステリックに泣き喚かれるかもしれないと覚悟していたが、彼女はただ「わたしは七海とそんなところへ行こうだなんて思わないわ」と、軽蔑に満ちた眼差しで告げたというそれだけだった。
「それに、わたしが結婚したのは、今の病院に勤めているあなたよ。そんなおかしな民間の救命センターなんていう危なっかしいところに勤めてるような人じゃない。第一あなた、大丈夫なの?そんな四十も過ぎた年になって、向こうだって迷惑かもしれないじゃない。救命なんて、若い体力のあるうちはともかく、四十や五十になっても続けられるような仕事じゃないって、あなた、昔わたしに言ってたことなかった?」
「確かにな。けどまあ、救命には脳梗塞とか脳外傷とか、そのあたりの疾患で運ばれてくる患者っていうのが実際多いんだ。雁夜先生は脳外科学会なんかで俺も会ったことがあるが、こっちが年上の向こうを立てさえすれば、きっとうまくいくんじゃないかと思ってる。救命の仕事と普段の手術と両方やってるんなら、もうひとり脳外科医がいてもいいはずさ」
もちろん、奏汰にしてもまだ結城医師と具体的に何か交渉したというわけではない。給料のほうは今より相当落ちるにしても、今の奏汰にとっては、明日香とふたりで暮らしていけるだけの収入さえあれば――それだけで十分だと思えるのだった。
「それで、お給料のほうはどうなの?わたし、自分が悪いわけじゃないんだから、そのあたりの慰謝料と養育費のほうはあなたからきっちりいただくつもりでいますからね。そんな金額払えないなんていうんなら、借金でもなんでもして支払ってちょうだい」
血も涙もない鬼、といった冷たい顔つきのまま、小百合は冷ややかにそう言った。だが、奏汰はむしろこのことを顔に見せないながらも喜んだ。彼女が愛しているのは、それなりに名の通った全国展開している総合病院に勤める脳外科医の奏汰なのであって――鹿光救命センターなんていう、なんて読むのかわからない病院に勤める彼ではないのだ。
「もちろん、わかってる。それに、東京から馬鹿みたいに離れた場所にあるってわけでもないから、七海の学校の行事とか色々、必要な時にはきっと会いにいけると思う」
(そうだといいけど)といったような、疑り深い眼差しで小百合は夫のことを見ていた。奏汰は結城医師に電話して離婚のことを相談して良かったと、この時心からそう思っていた。まだ実際に離婚届けの紙に判を押していなかったにしても――とにかく、これで何かが一歩先に進んだのだと、彼はそう思っていたから。
けれども、日曜の夜になり、奏汰が去っていくと……小百合は夫婦の寝室に閉じこもってひとしきり泣いた。いずれこうなるということは、一応彼女にも予想はついていたし、何より小百合自身、こんな生活には耐えられなくなっていたのだ。
本当は、小百合にとって離婚という問題は、一時間でも先延ばしにしたいことだった。けれど、今のように週に一度は「七海のために」帰ってきて欲しいという彼女の提案は、実は小百合自身の首を絞めることになっていたのだ。
確かに夫は、「娘の七海のために」帰ってきた。けれど、娘の姿がダイニングやリビングにない時の、奏汰のあの、刺すような冷たい眼差し……もちろんそんな時でも、子供部屋から七海が出てくれば、奏汰は再び、その昔自分にも向けていたのと同じような、優しい顔になる。けれど、小百合とふたりきりになった途端、「俺はもうおまえになんの感情も抱いていない」という顔をされることに――小百合はもう耐えられなかった。
最終的に、これが小百合が夫の求める離婚に同意した一番の理由となることだった。実際の離婚については、一秒でも遅らせることによって、その間に奇跡でも起きてくれはしまいかと小百合は願っていたが……実はこのあと、さらなる不幸が小百合を襲うということになる。
まだ離婚届けに判は押してないとはいえ、一応そうした方向で話しあいのほうはまとまったと見られた、その二週間後――娘の七海が交通事故に遭ったのである。バレエ教室へ行った帰り道、七海は大好きなパパの姿を車道の向こうに見かけた気がした。よく考えると、その金曜日の午後五時という時刻、まだ彼女の父親は病院にいるはずだった。事実、その頃奏汰は病院の手術室にいて、脳腫瘍の手術をしているところであった。
けれど、この時七海は、背の高い父親によく似た男性が車道の向こうにいると思い、信号が赤だったにも関わらず、急いで飛び出して行ったのだ。突然歩道から小学生の女の子が飛びだしてきて――トラックの運転手のほうでも驚いたことだろう。
七海は軽く八メートルばかりも体を飛ばされると、街路樹のあった土の上まで一瞬にして落下していった。歩道を歩いていた人々は驚きと悲鳴の声を上げ、すぐに通行人によって救急車が呼ばれる。その日の救急の当番病院はS市の市立病院で、小百合は急いでこちらのほうまで駆けつけた時、夫の愛人のことを思いだしてなんとも言えない運命の皮肉を感じずにはいられなかった。
(ああ、神さま……っ!!夫のみならず、娘のことまでわたしから奪おうというのですか。不幸になるべきなのは夫とその愛人のはずなのに――向こうは未来への希望と期待でいっぱいだっていうんですよ。こんなのってあんまりだわ……っ!!)
半分泣きながら病院の総合案内のところまで行くと、ちょうど帰るところだったボランティアの女性が、救命センター付属のICUのほうまで連れていってくれた。ただ、現在処置中ということで、すぐには会わせてもらえず――廊下のほうで待機する間、小百合は普段祈ったことのない神に、必死でお願いしていたかもしれない。
娘の命が助かることに比べたら、離婚なんてこれから十回でも夫としてもいいことや、娘がどんなにいい子であるかということや、もし七海のことを助けてくれるのなら、これから自分はなんでもするということや――夫との離婚後、再び就労しなくてはいけないことは、小百合にとって気の重いことだった。けれど、夫から慰謝料や養育費を一円ももらえず、自分が朝から晩まで働くことになってもいいから、娘の命のことだけは助けてほしいと、必死になって祈っていたのである。
そして、医療用のガウンや帽子をした上、手も消毒してからようやく病床で眠る娘と会うことが出来たのだが、小百合はそこでも泣き崩れるということになった。何故といって、体中管だらけで、おそらく頭部についてはかなり大きな手術をしたのだろう。包帯やガーゼが文字通りミイラのように巻かれていた。しかも、右目までガーゼで隠されていたとあっては、小百合に正気を保てというほうが残酷だったろう。
「先生っ、先生……な、七海は……わたしのナナちゃんはっ!!」
小百合自身、自分でも何を口走っているのかまるでわからなかった。唇も裂けて腫れ上がっており、小百合はもしかしたら人違いなのではないかと信じたくなったほどだった。けれど、綺麗な左側の頬の部分や目のあたりは、見紛うことなく自分の娘だと確信できていたのである。
「お母さん、首から下の外傷については、右足を骨折していますが、それ以外の腹部の損傷も、手術しましたからいずれ良くなっていくでしょう。ただ、脳挫傷のほうがあまりにひどく、今後予断を許さない状態です」
「よ、予断を許さないって、どっ、どういう意味ですか、先生っ!!」
小百合は、マスクの奥の顔を硬直させながらそう聞いた。
「最善は尽くしましたが、このあと再び意識が戻ってくるかどうかは、娘さん自身の生きる力、あるいは運命次第と言いますか……」
五十代くらいに見える医師もまたマスクをしており、顔の半分が隠れていたが、それでも眼差しを見ただけで、沈痛な物思いを小百合も感じることが出来た。手術帽をしており、そこから白髪混じりの黒髪が少しばかりはみだしていたが、小百合は第一印象として、誠実そうな医師だと感じた。
そのため、確かに彼は娘のために最善を尽くしてくれたのだろうと信じることが出来たとはいえ――ぴったりと左目を閉じたままの娘が半死人のように見えて仕方なく、小百合はその場にわっと泣き崩れていた。
その日の夜、かなりの遅い時刻ではあったが、東京のほうから小百合の両親もやって来た。とはいえ、面会時間も過ぎており、孫に会うということは出来なかったものの、家族が休憩するための部屋で小百合が生きる気力もないといった姿をしているのを見て……彼らにしても、かなり状態が悪いのだろうとは予期できたのである。
「奏汰くんはどうしたんだ?」
小百合の父は、あたりをきょろきょろ見回しながらそう聞いた。
「あんな人、わたしの中じゃもう死んだも同然よ。今はもう家を出ていって、愛人と一緒に暮らしてるわ。七海がこんな目に遭ったのも、みんな全部あの人のせいよ……!!」
「だけど、奏汰さんは七海ちゃんのお父さんでしょ?それに、娘が事故に遭ったなんていう大変なことをあとで知ることになるなんて、あんまりじゃないの」
小百合の母の暁子は小百合の隣に座ると、彼女の腕や背中をさすりつつ、なんとか娘のことを慰めようとした。幼い頃の小百合の感じ方がどうであったにせよ、暁子自身は今では奔放な性格の長女より、この次女のほうが可愛いのだった。
「それにもしかしたら今度のことで、奏汰さんだって家庭に戻ってくるかもしれないんだし……」
「戻ってきてどうするのよ!?今度のことでわたしたちの家庭はもう壊れてしまったんだし、七海だってどうなるかわからないのに……」
小百合がわっと泣き崩れるのを見て、自分たちが最初思った以上に悪いらしいと知り、智久も暁子も悲嘆に暮れた。というのも、彼らにとって孫と呼べる存在は七海ひとりきりだったから、この翌日の午前中にICUで孫の姿を見た時には――ふたりとも言葉を失い、瞳の奥からとめどもなく涙が溢れてくるばかりだったのである。
そしてこの日の夕方、奏汰が市立病院の救命センターのほうまでやって来た。小百合が頑として「連絡はしない」と言い張るので、智久が病院の携帯をかけられるエリアから義理の息子に連絡していたのである。
「いや、実はその……相当悪いのだよ。きっと奏汰くんは医者として、同じような子供の手術をしたりしたことがあるだろうが……七海には覚悟して会いに来てくれ」
『悪いって、どのくらい……』
奏汰は、自分が手がけたことのある交通外傷の最悪のケースを思い浮かべたが、それでも自分の娘はそこまで悪くないはずだと信じていた。
「何より、意識が戻ってこないんだ」
智久は、まわりに聞いている人間がいるわけでも、聞かれてまずい内容でもないのに、小さな声でそう言った。
「医者の話では、脳挫傷がひどいということで、今後ナナちゃんの意識が戻ってくるかどうかは、ナナちゃん本人の生きる力と運命次第ということだった」
『…………………っ!!』
奏汰はこのあと、娘の七海が搬送された病院を聞き、すぐにそちらへ向かった。この時、明日香は院内の友人とボーリングしに出かけており、不在だった。そして奏汰にしても、いつもの週に一度のお勤めに出かける……という予定でいたのである。
脳座礁がひどくて意識が戻って来ない――というケースを、奏汰自身一体何人見てきたことだろう。ある患者はそのまま意識が戻ることなく亡くなり、事故後三か月が過ぎ、(もう駄目だろうか……)と思っても、その後奇跡的に意識が出てきたという場合もある。
(何より、七海は子供だ。意識さえ戻れば、あとの体の機能的なことは、事故後のリハビリ次第で、きっと元に戻ってくるはずだ……)
奏汰は自分がまともに運転できるとは思えず、タクシーで市立病院のほうへ向かった。この時、奏汰の頭にあったのは、自分が愛人などという存在を作って家を出たからこのようなことになった……といったことではなく、純粋に事故の程度や七海の怪我の重さのこと、また、自分が手がけた患者で、交通事故後元気になった子供のことばかりが次から次へと思い浮かんでいた。もっとも、その中には両足が麻痺し、車椅子生活を送ることになった子供もいたのだが、奏汰は(七海だけは絶対にそんなことにならない)と信じていたのである。
智久が奏汰に事故のことを電話で伝えたと聞くと、小百合が尋常でなく怒り狂ったため、暁子は一度娘を連れてICUを出ることにした。ガウンに帽子、それに消毒液を手に吹きかけると、変わり果てた姿の娘と奏汰は対面するということになったのである。
今の今まで――彼が何百人となく診てきた頭部に外傷を負った患者というのは、あくまで冷静に眺められる赤の他人であった。もちろん、不慮の事故に遭ったことを気の毒に思いもし、医師としても最善を尽くしてきたつもりである。
けれど、こうして自分の娘が同じ目に遭ってみると……それはまるで違うことだった。奏汰が次の瞬間にしたことは、娘の隣のベッドで、同じように意識不明の状態で眠る女性患者の記録を取る看護師に――「担当の医師を呼んでいただけますか?」と、かなり高圧的な態度で頼んだということだった。
「す、すみません。高柳先生は今……他の患者さんの処置などに当たっていまして」
「私も、救命センターのようなところがどのくらい忙しいか、知っているつもりです。ですが、同じ医者として、娘の状態がどうなっているのか、今すぐにでも詳しく知りたいものですから」
奏汰が冷たい軽蔑に満ちた眼差しで見下ろしてきたためだろう。ICU付きの看護師は一度外に出ると、看護助手をひとり捕まえて、「高柳先生、呼んできて」と頼んでいた。
もちろん、奏汰にしてもICUの看護師がどのくらい大変かというのは、よくわかっているつもりだった。けれど、患者の家族側に立つというのはこういうことなのだと思い知っていたのである。
もしその高柳という担当医師が、頼りなさそうな若い医師であった場合、徹底的に突っ込んでやろうと奏汰は身構えつつ、七海に「パパ、来たよ。良くないパパでごめんな」と声をかけていた。それから、脳に入っているドレーンや、繫いである点滴の種類はもちろんのこと、娘の全身状態をチェックし、最後には「ちょっ……何するんですかっ!!」と制止する看護師を振り切って、娘のカルテの記録まで、すべて調べていたのである。
そして、若い看護師がマスクの下で困りきった顔をしていた時、ICUへ担当の高柳医師が入ってきたわけである。
「もしかして、同業のお方ですか」
高柳医師の態度は落ち着き払っていた。自分も、患者が自分の娘でさえなかったら、今までずっと彼のように落ち着き払って色々なことを説明していたものだと、奏汰はそんなふうに皮肉に思う。
「すみません。あんまり突然のことで、つい冷静さを失ってしまいまして。もう先生のほうから説明の必要もないくらい、大体のところはわかりました。それで、どうして娘は車になんて轢かれたんでしょうか?」
「詳しいことは、まだよくわかっていません。ただ、トラックの運転手やまわりの人々の目撃情報だと、赤信号にも関わらず、突然飛び出してきたということで……」
「まさか。七海はそんな――」
(赤信号で道路を渡ったりする子じゃありません!)と言いかけて、奏汰は口を噤んだ。ということは、青信号で渡っていたところを轢かれたというわけでもなく、そのトラックの運転手とやらは悪くないということになる。奏汰はなんだか堪らなかった。これとよく似たケースの交通外傷の治療に当たったことなど、奏汰自身何十度となくある。けれど、今はどうしても誰かを悪者に仕立て上げて攻撃したいような獰猛な気分だったのだ。
「いえ、今は原因云々といったことより、大切なのは娘さん自身のことです。その、失礼ですが、ご専門のほうは……」
「脳神経外科です。ですから、なるべく早く意識が戻ってくればいいが、最悪の場合、このまま植物状態になるか、脳死もありえるとわかっています」
そこまでのことは聞かされていなかったのかどうか、智久はマスクの下でハッと息を飲んでいた。自分のこんなにも可愛い、目に入れても痛くないほどの可愛い孫が……しかも、赤信号で道路を渡っていたところを轢かれたのだから、誰をも恨むことさえ出来ないのだ。
「確かにそれはそうですが、それはあくまで、最悪の場合ということで、わたしたちも最善の治療をすべく努力しますから……」
「最善の治療だって!?」
奏汰は激昂した。
「ただこのまま、出来るだけのことをして、あとは運良く意識が戻ってくるのを待ちましょうっていうのがかっ!?あんたらは本当に何もわかってないな。それで、運が悪かったらどうなるっ。意識が戻ってこなかったら、最善を尽くしたんだから仕方ないって、たったのそれだけかっ!?」
奏汰自身、矛盾したことを言っているとわかっていた。そして彼自身、こうした患者家族に対し、実に慈悲深く、それでいて冷静な態度で慰めたり、あらためて別の角度から患者の状況を説明したりといったことを試みたということが――これまで一体何度あったことか。
「手厳しいですな。ですが、わたしにも娘がいますから、桐生先生のお気持ちはわかります。こんなことは私事として言うべきでないかもしれませんが、娘は小児ガンで数年前に亡くなりました。わたしは自分が医師でありながら、娘に何もしてやれませんでした。そしてその時に……思ったものです。担当の医師が一生懸命やってくれていることはわかっている。だが、苦しむ娘を見ていて、他にもう少し何かないのか、とはずっともどかしい思いで感じていましたから」
「すみません。つい、カッとして……」
奏汰はようやくのことで落ち着きを取り戻すと、カルテを見て自分でもある程度状況を把握していたとはいえ、あらためて高柳医師から説明を受け、最後には「娘のこと、どうかお願いします」と頭を下げた。何故といって、患者の家族が医療スタッフと喧嘩して良いことなどひとつもないからだ。
そのあと、担当の看護師にもあやまっておいたのだが、こちらの看護師のほうは不審の目で奏汰のことを見ていたかもしれない。その気持ちが何故か、奏汰にはわかる気がする。年齢から見て、看護師としてベテランというわけではなく、おそらくはICUの仕事も覚えてそれほど経っていない……そこへ、自称医師なる男が入ってきたのでは、実にやりにくかろうと思ったのである。
このあと、奏汰は自分が良くない父親であったことをあやまり、元気になったらなんでもしてやること、また明日には七海の好きなKポップのCDを持ってくるから、一緒に聞こうということや――とにかく一方的に色々なことを一生懸命話した。こうしたことが少しでも七海のことを刺激して、意識が戻るきっかけになればと思ってのことだった。
「元気になったら、また山登りをしにいこう。あとは、冬にはスキーにも行かないとな。リハビリすれば、バレエも出来るようになるし、ピアノだってまた絶対弾けるようになる。だから、頑張るんだぞ、七海……」
奏汰の父親として娘を思う気持ちがあまりに痛々しく、智久は一度ICUを出ると、そこで目頭の涙を拭いた。ところがそこへ小百合が現れて、七海の体を蒸しタオルで拭く奏汰の手を引き離そうとしたのである。
「汚い手で七海に触らないでよ……っ。あんた、愛人にも同じようしてやってんでしょ?ええっ!?七海がこんなふうになったのは、全部ぜんぶ、ぜええんぶっ、あんたのせいよっ。あんたが七海の勉強見たりして褒めてあげないから、成績もちょっと落ちたしねっ。一週間に一度だけ帰ってきて父親面して、それで自分の良心ごまかして……だからわたし、何度も言ったじゃないのっ。あんたはそれで良くても、七海のことはもっとちゃんと考えてあげてって!」
もちろん、奏汰の今の立場ではぐうの音も出なかった。それで、小百合がどん、と体を押してくるままに、そのままICUの外へ出るということになる。
「あー、その、奏汰くん。事情のほうは大体、小百合から聞いて知ってはいるんだ。まあ、男なら大体、一度はそういうことがあるもんだし、奏汰くんくらいの男となれば、なおさらそうだろう。小百合も今は気が転倒しているから、ああしたキツイ物言いになったんだろうが、そのうち落ち着けば……いや、その前にナナちゃんの意識さえ戻ってくれば……」
「すみません。今度のことは、全部俺が至らなかったそのせいで起きたことです。俺は医者として、今の七海の状態については大体わかりますから、毎日来て、しっかり見張ろうと思ってます。仮に小百合がなんと言おうとも」
「見張るって、奏汰くん……」
ICU付きの先ほどの看護師が、カウンター部分に並んでいる点滴を取りに来るのと同時、一瞬だけ奏汰のことを意味ありげに見て去っていく。(見た目だけ立派そうに見えて、浮気して奥さんから怒鳴られる、その程度の人なんですね。さっきは随分エラそうでしたけど)と彼女が思ったかどうかはわからない。
「いえ、心配ですよ。べつにここの医療スタッフが手抜きするだろうとか、そういうことじゃなく……ただ病院勤めが長いとわかるんです。家族に最初から医療関係者がいて色々わかって睨みを利かせてるとなったら、やっぱり普通の患者以上に気を遣いますからね。逆に、家族も誰も見舞いに来ない患者となると、変な話、軽く見られるというか……もちろん、分け隔てなくっていうのが医療の基本ではあるでしょうが、何分、ひとりの患者に色々な人間が関わりますからね。とにかく、俺は明日からも毎日やって来てしっかり見張ろうと思ってます」
奏汰は娘の七海がベッドで眠る傍らに小百合がいるのを見て――一度、患者家族が休憩するための部屋のほうへ引っ込むことにした。これから、彼女とも色々話さなくてはならないことがある。もちろん離婚がどうのということではなく、七海の今後のことについて、である。
だが、やはり奏汰は一時間と時間を置かずして、再びICUのほうへ行き、娘の手を握りながら、じっとその顔を見ている小百合の向かい側に、丸椅子を置いて腰掛けた。
今度は睨まれもしなけはれば、罵られるということもなく、小百合はただ疲れたようにぐったりしており、その目尻にも頬にも涙の跡があった。
「小百合、俺が悪かった。何もかもおまえの言うとおりだし、俺のせいで七海は……」
「それは関係ないわよ」
いつもよりずっと、弱々しい調子で小百合は言った。
「それに、原因とか誰が悪かったからどうだとか、そんなこと今言ってもしょうがないじゃないの。それでもし七海の意識が戻ってくるならいいけど……実際はそうじゃないんだから。それより、あなたが医者で良かったわ。七海、あなたの目から見てどう?」
「子供っていうのは、無限の可能性がある。普通の成人した人間が同じ状況だったらどうかはわからない。でも、子供は脳を損傷しても、それがまた新しい細胞と置き換わったりして、前とまったく同じ健康な状態になるのを、俺は何度も見てきた。ただとにかく、意識が戻ってくれればと思う。それはもう本当に、絶望的でも戻ってくることがあるし、医者にもなんとも言えないことだ」
「そうね。わたしもバレエとかピアノとか、少しうるさく言いすぎたと思ってるの。もし、七海の意識が戻って元気になったら、あとはもう、なんでも、この子の好きなことだけさせてあげるつもり……」
小百合がくしゃくしゃのハンカチを片手に再び泣きだすと、奏汰は彼女のそばまで行き、そっと妻の肩を抱いた。そして、暫くの間ずっとそのままでいたのだが、そんなふたりの様子を見て――智久と暁子はICUへ入るのをやめ、娘婿と娘のために何か食べるものでも買いに行くということにしたのである。
>>続く。