いえ、今回もまたカミーユ・クローデルとロダンの恋について、ちょっと書いてみたいと思います(^^;)
というのも、カミーユとロダンがかなり長い間(15年間)恋愛関係にあったのはわかっていたものの、でも別れた時の年齢など、そうした細かいことまで覚えてませんから、そのあたりは軽くググってみることにしたのです。。。
そしたら、「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」、「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(ジュリエット・ビノシュ主演!)、など、他にもカミーユのことを描いた映画があるとわかり――これ、そのうち必ず見たいと思います!!
と、それはさておき、↓のほうも、妻と夫と愛人の三角関係について、はっきりしつつあることから……ちょっとロダンと彼の内縁の妻ローズ、愛人カミーユについて、あらためて何か色々考えさせられたと言いますか(^^;)
いえ、前回書いたとおり、ロダンが内縁の妻ローズと正式に籍を入れたのって、お互いに七十過ぎてからであり(ローズ73歳、ロダン77歳)、この内縁の妻が死にそうだというので、それでようやく最後に……といったところだったわけですよね
なので、正確にはロダンとカミーユの恋って不倫じゃありませんし、でもおそらく、周囲にはそのように受けとめられていたっていうことだと思うんですよね。わたし、ローズさんがどんな感じの人だったのかとかってわからないんですけど(汗)、でもロダンに対して内助の功を発揮した、家庭的な女性でなかったかと想像します。
それで、ローズさんはロダンが彫刻家として名をなす前からずっと支えてきた女性でもあり、実際のところ、ロダンにはカミーユ以前にも愛人なんていたし、そうしたロダンの性格についてもローズさんはよく知っていたわけです。つまり、ロダンに女性の気配を感じるたびに何か言ってたら、とても身が持たないでしょうし、もうそのあたりは「子供もいるから、彼の浮気は見て見ぬ振りをしよう」ということで、彼女の中では決まっていたのではないでしょうか。
また、ロダンもローズが自分の浮気や愛人のことで色々うるさく言わないので、それで最後まで関係が続いたんじゃないかな……なんて思います。何分、当時の世間的風潮からしても、ロダンに捨てられて困るのはローズさんでもあるわけですから、彼女は本当に忍耐する芸術家の妻として、ずっとロダンのそばにいたのだと思います。
一方、カミーユとロダンの関係は、彼女が19歳、ロダンが42歳の時にはじまっており、その年の差、実に23歳。あの、これ、実際に不倫を経験したかどうかは別として……「あ~、なんかわかる☆」っていう方、女性には多いかもしれません。
まあ、既婚の男性で今42歳の方は、「いや~、流石に19歳っていうのはな。でも、向こうが美少女でグイグイくる感じだったら、やっぱ行っちゃうかな!!」くらいの感じ(?)かもしれませんが、このくらいか、あるいは二十代前半くらいの女の子って、向こうが尊敬できて大人な感じのする男の人が相手なら、四十代くらいでも全然よかったりするんですよね(^^;)
きっとカミーユもロダンに対してそんな感じだったのかなって思うのですが、でもロダンはローズの他に愛人を持つのなんてこれが初めてというわけでもない。でも、カミーユの瑞々しい才能と美貌の前には、彼女が19歳だとか23歳年下だとかなんとかいうことは、もうどっかにすっ飛んじゃってたんじゃないでしょうか。。。
そして、十五年もそのような関係が続いたことからもわかるとおり、ロダンにはカミーユと結婚したい気持ちはあったと思います。ただ世間的にもおそらく、ローズの内縁の妻としての地位は知られていたのでしょうし、彼女との間に子供もいたことから……ロダンにとっては苦しいところだったのだろうと想像します。愛人がいてもローズはそうやいのやいの言う感じじゃなかったんでしょうし、一方で、カミーユはとうとう堪りかねて自分かローズかと、ロダンを追い詰めてしまったわけですよね
最終的に、この三角関係では、見て見ぬ振りをした(内縁の)妻が勝利したということなのかもしれません。でも、ローズもロダンにそんな年下の若い美人の愛人がいることは知っていたでしょうし、彼女もまたカミーユ同様ロダンへの愛憎ということでは苦しんだ女性だったのではないでしょうか。
彫刻家としての才能も、容貌の美しさも持っていながら、悲劇的恋愛を経験したがゆえに、最終的に精神病を発症し、長い入院生活ののち(29年)、精神病院から出ることなくそこで亡くなったカミーユ。
しかも、弟がポール・クローデルという詩人であり、彼は作家として姉のことを書き残していたと思うんですけど……そこからも、確かカミーユが誇り高く激しい性格をしていたことが伺えたように記憶しています。
つまり、ロダンはカミーユと結婚したい気持ちがありつつも、家庭をうまくおさめてくれるという意味では、ローズのほうが便利で楽というか、そうした部分で安らぎを感じるところがあったのではないしょうか。また、若い頃には本当に心から愛しあっていたという関係でもあったわけですから……愛人の元へ走った彼のことさえ許容してくれたローズのほうにロダンは戻ることにしたのかな、という気がします(というか、カミーユのように「白黒はっきりつけようじゃねえか!」みたいになるのが普通なのに、ローズさんはやっぱり「そこらへんはグレーでいいから、最後はわたしの元へ帰ってきて」みたいなスタンスだったのかな、と想像します^^;)
んで、わたし、こうしたことはぼんやりおぼろげに覚えている……くらいの記憶しかないもので(汗)、以前はカミーユとロダンのことを中心に、それもカミーユ寄りの視点で見ることしか興味なかったんですけど、今はローズさんが愛人と同棲まではじめたロダンを何故許容できたのかとか、そうしたことに実は結構興味が出てきまして(^^;)
たぶん、この三人の三角関係って、ロダン視点で小説を書いた場合、カミーユ視点で描かれた場合、またローズさん視点で書かれた場合で、まったく異なってくると思うんですよね。なので、今はそうしたことに興味出てきたので、そのうち機会があったらこのあたりのことをあらためて調べてみたいと思っています♪(^^)
なんにしても、↓の三角関係のほうは、「奥さんの小百合さん、とうとうブッちぎれる☆の巻」……といったところです(笑)←いや、笑いごとではww
それではまた~!!
不倫小説。-【11】-
こうして、奏汰のほうでは「一体妻にいつ離婚のことを切り出すか」と機会を伺い、小百合のほうでは「一体いつ夫に対して浮気の追及をするか」との機を見続け、先に動いたのはやはり女――小百合のほうだったというわけなのである。
事の経緯はこうだった。結局、夫のことを目の前にすると、小百合はやはりなかなか聞きたいことを言えない自分に気づき、清宮明日香のマンションまで何度も出かけると、あたりを不審者のようにうろついたり、またもう一度車の中へ戻ったりといったことを繰り返していたのである。
そして小百合が(わたしは刑事や探偵には絶対なれないわねえ)などと思い、マンションの入口前で清宮明日香が現れるのを待つのを諦めようとした時のことだった。それは一月中旬の、とても寒い日のことだった。小百合は急いで車から出ると、明日香のことを追おうとした。けれど彼女が信号機を渡った先にある、市電の停留所に立ったままでいたため――小百合は声をかけられなくなってしまった。何より、午後一時過ぎというこの時間帯、停留所にはすでに七人ほどの列が出来ており、小百合はなんとはなし、スーツ姿の中年男を間に挟み、その後ろから夫の愛人を観察することになったのだ。
(この時間帯に出勤なんていうことはないわよねえ。土曜で夫がゴルフへ行くっていうから、これは絶対愛人と会ってるはずだと思ったんだけど……違ったみたいだわ。それとも、これからどこかで夫と待ち合わせてるのかしら)
けれども、それはないというのは小百合にもわかっていた。というのも、夫は郊外のカントリークラブへ「まったく、これも医局のつきあいでさ」などと、ブチブチ言いながら朝早く寝ぼけ眼で出かけていったからだ。対する小百合の態度というのは、「そうなの。でもたまには気分転換になっていいんじゃない?」というものだった。とりあえず小百合は、娘の目のあるところでは、今まで通りの態度を通すだけの理性がまだ残っていたのである。
(ということはあの人、本当にゴルフに行ったんだわ。じゃあ、彼女は……愛人はどこへ行くのかしら)
明日香はこのあと、停留所を六つほど乗り過ごし、七つ目の図書館前で下車したため、小百合もまた急いでそこから降りた。
市電に揺られている間も思ったことだが、小百合はこの時妙にドキドキしていた。サングラスもしているし、向こうはこちらには絶対気づかないはずだとの自信もある。けれど、自分は一体何をしているのだろうと思うと……胸のドキドキが妙に止まらなかったのである。
小百合はある程度距離を置いて明日香のあとをつけていった。すると明日香は藤色の四階建てのアパートの中へ入っていく。それほどボロいということもなく、外見上はモザイク柄に見えるレンガ素材で出来ているが、取り立ててそう目を引くような特徴もない平凡なアパートだ。
小百合は明日香が階段をのぼり、四階まで上がっていく姿を見た。というのも、外階段を囲む外壁が透明なアクリルガラスで出来ており、そこを上っていく彼女の姿を確認できたからだ。そして、四階の一番奥の部屋の前で明日香が足を止め、呼び鈴を押すのを見ると、小百合はすぐに一階部分にある集合ポストのところに取りついた。
一階に並ぶ部屋番号を確認し、明日香の訪ねたのが403号室とわかると、小百合は鍵がかかってなかったため、403号室に届いていた郵便物を物色した。
(如月玲花……チッ。相手は女友達ってところかしら。せめても相手が男だったら、夫以外にも男のいる淫乱女かもしれないって想像することも出来たのに……)
小百合はなんの良心の呵責も覚えることなく郵便物やダイレクトメールの束を元に戻し、もう一度四階の、403号室のほうを見上げた。
(どうしよう。友達の家に遊びにきたのなら、ちょっとやそっとじゃ出てこないわよね。まあ、いいわ。収穫はゼロってわけでもなかったんだから……わたしは夫は絶対愛人と会ってるって決めてかかってたけど、今日はとりあえず嘘ついてなかったんだわ。それなら、帰ってきた時優しくしてあげてもいい)
そう思い、黒のコートの襟元を合わせ、小百合がその場をあとにしようとした時のことだった。明日香と、おそらくその友達と思しき女性が外に出てくると、アパートの階段を下りてくる。
そして、表通りのほうへ向かうと、そこからタクシーを拾って乗りこむところだった。小百合もまた運良くすぐにタクシーを捕まえ、多少気まずくはあったが、「前のところにいる黄色いタクシーを追ってください」と頼んだのである。
その後、十五分ほどで目的地らしい病院に辿り着き、小百合もまたタクシーを降りた。千円ちょっとの料金だったが、二千円を出し、「お釣りはいいわ!」と言って急いで後部席を出る。
(ここ、市立病院よね……どこの科に用があるのかしら)
お見舞い、という可能性もあったが、どうやらそうでないらしいことは、小百合にもわかっていた。何故といえば、如月玲花は明日香の肩に体をもたせかけており、見るからに具合が悪そうだったからである。
このころになるとあれほどドキドキしていた心臓の鼓動も静まり、小百合はかなりのところ冷静かつ客観的な視座をもってあたりを眺めることが出来ていた。小百合はこのS市へ越してきて約三年ほどになるわけだが、この市立病院へは来たことがなかった。自分や娘が風邪を引いた時には近くにある個人病院へ通っていたし、場所的にあまり近くもなかったからだ。
なんにしても、患者が雨や雪に濡れることを慮ってだろうか。病院の正面の門から玄関までの間、頭上にはフードがついており、その下を歩いていく夫の愛人と友人と思しき女性のことを小百合は追っていった。
土曜ということもあり、病院には人がまばらだった。それでも売店やカフェなどは営業していたし、会計のところの椅子などで見舞い客と話しこんでいる入院患者や、点滴台を押しながら歩くムチウチの中年男性の姿など、そうした中に小百合は紛れつつ、夫の愛人の後ろ姿を追っていったのだった。
ただ、ふたりがエレベーターの前で待機しているのを見、その時ばかりは少し焦ったかもしれない。何階へ上がっていくのかさえわかれば、他のエレベーター、あるいは階段を使うことも出来るとはいえ……小百合は再び胸の鼓動が速まるのを感じつつ、迷った末、ふたりと一緒にエレベーターに乗った。
「何階ですか?」
振り返った明日香にそう聞かれ、小百合はギクリとしたものの、すでに8階のボタンが押されていたため――「……同じ階です」と声を押し殺すように小さな声で言った。
とはいえ、後ろの各階に何科があるのかが記されたパネルを見て、小百合は少しばかり(しまった)と思ったかもしれない。
(精神科ですって!?)
脳神経外科医の妻として、精神のことに興味を持ってもおかしくない気もするが、小百合がこの時思ったのはとにかく、そんな場所へ行って自分はどうしたらよいのかということだったかもしれない。
しかも、よく見るとこの8階には精神科外来と精神科病棟しかない。8階へ到着したら、自分はまたすぐに取って返してこなくてはならないだろう。しかも、明日香はなんとも御親切なことに、<開>のボタンを押しっぱなしにしたまま、「どうぞ」などと言っていたのである。
けれど、小百合は一度フロアへ出て隅のほうまで行くと、鞄の中に何か探し物があるといった振りをし、明日香と友人の如月玲花のことを先に行かせていた。
エレベーターを降りたすぐ左に<精神科病棟>と書かれた扉があるが、そこは閉じられており、また鍵もかかっているようだった。小百合は通路を少しばかり歩いて精神科外来のほうに足を向けると、そこで受付を済ませる明日香の後ろ姿を見た。
(土曜の午後に診療してるなんて、市立病院じゃ珍しいんじゃないかしら……)
とはいえ、患者の数はそう多くなく、実際に診察を受けるわけでもないのに待合室のソファにいるというのは不自然でないのかどうか――小百合はそう感じつつも、夫の愛人の声を聞き、もはや好奇心を抑えきれず、大胆にも彼女たちふたりの後ろに座っていた。
「大丈夫、玲花?何かジュースでも買ってこよっか?」
「う、うん……カルピスか何かがいいな」
このあと、「ちょっと待っててね」と言って明日香が姿を消して戻ってくると、彼女は友達のためにカルピスのプルリングを引いていた。
「あー、カルピス。めっちゃ美味しい!」
「ほんと?何かちょっと飲むと気分がよくなるってこともあるもんね。いくら予約制とはいえ、結局いつも三十分くらいは待たされるんでしょう?」
「そうだね。前の患者さんが『ぼく死にます』なんて言ってたら、当然時間のほうも長引くんじゃない?それにその点はあたしも時々似たようなことしてるから、お互いさまって気もするしね……」
本来なら笑うべきところでないのだろうが、何故か如月玲花は笑っていた。死ぬのでないかというくらいの恐怖感に襲われる彼女にとっては、<死>というのは馴染みが深すぎたという、そのせいかもしれない。つまり、一周して死を回避したと思ったら、また相手が追ってきた……といったような皮肉な関係性を何年も続けていたといっていい。
「そうねえ。なかなか精神科の先生っていうのも大変そうよね。患者さんがまだまだ悩みを話したがっていても、ある程度の時間が来たらまた来週って言わなくちゃいけないんだろうし……」
「ま、そのあたりは脳神経外科だって同じか、それ以上に大変なんじゃない?それで、例のお医者さんとはどーなってんの?」
如月玲花は、どこか脳の感情を司る部位が欠損しているから話し方が平板なのではないか……といったような、あるいは抗欝薬の飲みすぎで頭がぼんやりしているといった、いかにもやる気なさげな、小さな声で話す女性だった。
そして、この時もおそらく小百合はある意味ラッキーだったのかもしれない。というのも、明日香は玲花以外には誰も、自分が不倫をしているとは伝えていなかったからである。
「どうって……去年の十二月の末ころに、結婚しようって指輪を渡されたんだけど……奥さまに話すには時間がかかるんじゃないかなって思うんだ」
自分が知りたいと思っていた情報について聞けそうだと思った次の瞬間、小百合は奈落の底に突き落とされるようなショックを味わっていた。しかもここで、玲花の名前が呼ばれ、待合室には明日香と小百合のふたりだけになる。そして、後ろから若い愛人の緩やかに三つ編みに結われた髪を見て……間違いない、と小百合はあらためて確信する。髪の毛がいつも軽くウェーブしているのは、おそらくこの三つ編みのせいなのだ。それにこの、おそらく染めてはいないのだろうが、茶色がかった髪。夫は、この髪を撫でながら、この女に愛の言葉を囁いたりしたのだろうか?もちろん、キスだって何十度となくしたことだろう(もうふたりは最低でも一年半以上はつきあっているはずなのだから!)。小百合は、夫のピアニストのように長い指が彼女の服を脱がせたり、さらにそれ以上のことを一度、二度ではなく何度となく行ったかと思うと今にも理性を失いそうなほどだった。
愛人の女の髪の毛を引っつかみ、「この売女の淫売が!どうやってうちの夫を誘惑したのよ、ええ!?」と、もし今脳内にあるそんな妄想を実行に移したとしたら――(ああ、わたしもすぐそこの精神病棟に入ることになるわ)……そう思い、小百合はどうにか理性を保ったが、それ以上そこにい続けるということだけは出来なかった。
しかも癪に障るのが、例の探偵社の資料を見て感じた直感が当たっており、夫の愛人の性格がいかにも良さそうに見えたということだったかもしれない。
(その上、去年の十二月に結婚の約束をしたですって!?あの人、わたしの前じゃずっと、「いつもと何も変わりない」って顔しながら、ずっとそんなことを考えてたってわけなの!?それとも、「結婚する、結婚する」って言いながら、次に転勤するのと同時にさようならとでも考えてるのかしら。ううん、夫の性格上、それはありえない。あんな若い、世間ずれしてないような子を騙くらかして……)
――うちの夫だけはそういうことはない、という信頼が崩れ去り、小百合は何もない病院の廊下で転びそうになりさえした。これまではずっと、自分の心を騙し騙し(最低でもあの人は家庭を捨てるほど馬鹿ではない)、(あの人の性格からいっても離婚ということだけはないだろう)と小百合は思い続けてきた。けれどもう、彼女にもこれが我慢の限界だった。よく考えてみたら、夫の浮気を知っていながら二年近くも耐えた自分がなんともいじましく思えたし、もうこれ以上自分が夫に対し我慢しなくてはいけない理由は何もない気がしていたのである。
そしてこの日の夜、夫がゴルフバッグを抱えて戻ってくると、その中のドライバーを引き抜き、夫を撲殺してやりたい衝動を堪えつつ、小百合は能面のような顔にどうにか微笑みすら浮かべ、娘や奏汰と一緒に食事をした。
その日の晩ごはんは豚の生姜焼きだったが、怒りにまかせてキャベツを多く切りすぎ、「おかーさん。これ、おおくなーい?」と言われてハッとしたものだった。とにかくこの夜ほど小百合は夫に腹が立ち、「腸が煮えくり返る」というのはまさにこのことだというほどの怒りを感じつつも、どうにかそうした感情のすべてを抑えなくてはならなかった。
(まったく、こんなことなら浮気を疑いはじめたあの最初の頃に、愛人のあの髪の毛を突きつけて、「これがどういうことか、説明してみなさいよ!」とでも怒鳴り飛ばしてやればよかった。そしたら、こんなに長い間夫に対する不信の感情に悩まされ、苦しむこともなかったのに……)
自分のそのいじましい苦労のことを思うと、小百合は思わず涙が出そうになった。そしてこの時、夫と娘がテレビ番組を見ながら何かのこで笑っていると――それに反して小百合は本当に涙が出てきた。生姜焼きなど呑気に食べている夫のことが信じられなかった。今まで、ずっと夫はケロリとした顔をして嘘をつき続けてきたのだ。何故、今もこんなふうに家族団欒の場で笑ったりできるのだろう?この幸せをこれから壊そうとしているくせに、よくも笑ったりなんか……。
「おかーさん、どーしたのー?」
本当は箸など夫の顔にでも叩きつけてやりたかったが、小百合は娘に対する愛情から、どうにかそれだけは堪えた。けれど、自分でも気づかぬうちに指が震えていた。そして、彼女自身悟った。自分ももう、これが限界なのだということを……。
またこの時、奏汰のほうでも妻を見てハッと息を呑んでいた。一応、表面上は小百合は微笑んですらいたが、食事のほうは半分も食べてはいない。そして、奏汰はもともと勘の鋭いほうだったため――この時、妻が自分の浮気に関することで「何かを知った」ということがはっきりわかっていたのである。
このあと、娘の七海が九時ごろ眠ると、夫婦の寝室で奏汰と小百合はふたりきりになった。とうとう来るべき時がきた……小百合とは違い、奏汰は妻に悪いと思いながらも、いつかは言わなくてはならないと覚悟していたため――「もう白状せざるをえない」という張り詰めた空気になったことを、ある意味感謝していたかもしれない。
「それで?俺に何か言いたいことがあるんだろ?」
風呂から上がってくると、バスタオルで髪を拭きながら奏汰は小百合に聞いた。彼は妻にどんな恨みごとを言われることも、なじられることにも、耐える覚悟があった。彼にとって心配なのはとにかく、娘の七海への離婚の精神的影響のことだけだったのだから。
「今日、あなたの愛人に会ったわ。若くてとても可愛い人ね」
この時、奏汰はピタリと体の動きを止めると、後ろを振り返って妻のことを見た。小百合は夫が風呂から上がったら話をしなくてはならないと思い、心臓が震える思いだったが、一言そう話してからは突然冷静になった。
(結婚して十年にもなるのに、わたしにもまだ、あなたの知らないそんな顔があっただなんてね……)
「まさか、彼女のマンションにまで行ったのか!?」
この時の夫の反応で、(この人はもう駄目だ)ということが、小百合にははっきりとわかった。それがいつからだったのかは、小百合にもわからない。けれど、夫の中ではおそらく随分前から脳の中で、占める比重が自分や七海ではなく、そちらの愛人のほうへ重く傾いていったということなのだ。
「安心してちょうだい。会ったなんて言っても、『夫と別れてちょうだい』なんていう話をしたわけでもなく、ちょっと顔を見てあとを尾けたってだけよ」
「…………………」
(あとを尾けただって!?)
そう驚きはしても、奏汰としては黙りこむ以外にない。まずは、妻の言い分――言いたいことをすべて彼女が吐きだすのを待ってから、自分は離婚のことを切りだそうと彼は考えていた。
「あなた、あの可愛いらしい介護士さんにプロポーズしたんですって?ほんとう、わたしもびっくりよ。それじゃあなた、本物の最低なゲス男じゃない。だってわたしと離婚しない限りはあの若い子と結婚なんて出来るわけもないのに……どういうつもり?あんな純粋そうな子を騙くらかして……可哀想だとは思わないの?」
(というより、可哀想なのはわたしのほうよ。あなたの今わたしと話してる顔を見てるだけでわかる。あなたの目には透明人間みたいに、妻のわたしのことがまるで映ってないらしいってことがね!)
そして小百合は気づいた。自分は夫にとっては随分前から妻という名の幽霊のようなものだったのだと。しかも、自分にとって都合のいい時だけ、現実世界でもその実体を確認できるといった種類の幽霊だったのだ。おそらくは、もうずっと前から……。
「騙してなどいない。俺は確かに、あの子と……明日香と結婚する約束をした。もちろん小百合、おまえと離婚した上でだ」
「なんでよ!」
小百合は鋭く叫んだ。自分には妻として落ち度など何もないはずだ。そのことについては、彼女は自信を持っていた。
「あなたねえ、馬っっ鹿かじゃないのっ!?最低でもね、わたしときちんと離婚してから愛人には結婚の約束をしなさいよ。それに、わたしがそう易々と離婚したいってあなたに言われて、「わかったわ」とでも言うと思ってたの!?わたしはね、ぜーったいぜーったい、ずええええったいに、あなたと別れたりなんかしませんからね!」
「わかってる。もちろん、慰謝料と養育費は支払うし、今まで貯めた貯金もすべておまえのものっていうことでいい。七海の親権も譲る。ただ、七海が俺と会いたい時には会うし、父親として出来る限りのことはする。だから……」
小百合はカッと頭に血が上って、思わず寝室のタンスの上にあった白い天使のリヤドロを夫に向かって投げつけた。天使は夫の体の横を通りすぎ、壁にぶちあたって真ん中から砕け散る。ちなみに、五万六千円(税別)もする品物だった。
「親権を譲るですって!?何言ってるのよ!第一譲るって何よ。わたしがもし「だったら娘はあなたが引き取って」なんて言っても、そんな気全然ないくせに!ただ愛人とよろしくやりたいだけでしょうが。ああ!?」
奏汰としても、こんなに興奮した妻の姿を見るのは、これが初めてのことだった。もちろん、小百合の怒りは当然のことだと、奏汰も理解してはいる。それでも、肩でハーハー息をしている妻の小百合は、顔つきがどこか精神病患者のように見えた。
「落ち着けよ、小百合。俺の意志はもう堅いんだ。親父が何を言おうと、おふくろが何を言おうと、もう俺には関係ない。俺は……もう明日香がいない生活は考えられないんだ。四十を過ぎた親父が何を無責任なことをと、おまえにも世間にもなじられて構わない。だが、そうでもしないと俺はもう生きてる感じがしないんだ!」
(生きてる感じがしないですってえ!?)
そう言いかけて、小百合は今度は笑いがこみあげてきた。自分はてっきり、頭のいい聡明な男と結婚したとばかり思っていたのに、一時的な激情から夫は脳に雲がかかり、若い娘に対する欲情からか、目にも霧がかかっているのだろうとしか小百合には思えない。
「へえ。そうなの。この家でわたしと娘の七海がいるってだけじゃ、あなたは生きてる感じがしないってわけ。だったら……」
小百合はクローゼットを開くと、そこにしまってあるゴルフバックの中からドライバーを取りだした。数十万円もする五番アイアンだった。
「今すぐこの家から出てけよ!」
ドカッ!と奏汰の頭上の電気スタンドがガシャっ、バリバリバリッという物凄い音とともに破壊され、床に転がる。
「おまえなんかなあ、おまえなんか、おまえなんかっ!人の気も知らないで、ただこっちの作ったメシだけ食らいやがって、こんちくしょうめがッ!!人を何をしても壊れない家電ロボットか何かだと思ってんのか、こんにゃろうはっ!こっちはなあ、てめえが医者なんかやってるから、これでも色々気ィ遣ってやってたんだよォっ!!てめえが手術の時手許が狂ったら、こっちも殺人に加担したことになるかもしれねえと思ってなあっ!!」
もちろん、小百合には夫をドライバーで打ちのめすつもりはなかった(それこそ殺人罪になってしまう)。ただ、夫の近くにある何がしかの物を破壊しつつ、逃げる彼のことを追っていった。
「逃げるな、この野郎っ!!てめえのその腐った根性、叩きのめしてやるっ!!」
50インチのテレビの大画面が、ドライバーによって傷がつくのと同時、横に倒れる。
「わたしから逃げられると思うなよォっ!!こちとら、離婚なんか絶対してやるもんかァっ!!」
窓台のところにあった十ばかりもの鉢植えが、すべてドライバーによって叩き壊され、その花弁が舞い散る。シクラメン、ベゴニア、ポインセチアにセントポーリア……毎日夫の浮気からくるストレスの癒しになっていた可愛らしい花たちが、すべてすっかり犠牲になった。
「しかも、わたしと七海を捨てて愛人と幸せになるだとォ!?なんて野郎だっ!!その前にてめえをたたっ殺して、わたしも死ぬ!!」
小百合はドライバーをバットのように構えると、壁の額縁に入った絵、サイドボードに置かれた皿や壺などの調度品、またサイドボードのガラス部分……といった順に、リビングにある物を次々叩き壊していった。
「わ、わわ、わかった、小百合っ!!わかったから……冷静に話しあおう、なっ!?」
夫に直接危害を加えるつもりはなかったものの、それでも奏汰は小百合が壁の絵の額縁に嵌まったガラスを壊した時、頬に怪我をしていた。そして、そこから血が流れていたことと――「おかあさん、もうヤメテェっ!!」と娘が泣きながら叫ぶ声によって、ようやく正気に返っていたのである。
「おとうさんもおかあさんも、もうやめてよォっ!!一体どうしたちゃったの!?」
奏汰はさっと七海のほうを振り返ると、彼もまた妻の小百合とは別の意味で正気に返り、娘を子供部屋のほうまで連れて行った。もちろん奏汰は今、「お父さんとお母さんは別れるけど、七海のことは娘として心から愛してる」といった話をするつもりはなかった。ただ、お母さんが怒ったのはお父さんが悪かったこと、また、七海のせいで喧嘩になったわけではないということを、一緒にベッドの中で眠りながら話して聞かせたのだった。
「じゃあ、どうしてお母さん怒ってるの?ナナ、聞いちゃったよ。お母さん、ナナのこと捨てたいとかって。ナナが悪い子だったから、お母さん、ナナのこと、嫌いになっちゃったのかな?」
「違うよ。ママが怒ってたのはパパに対してだからね。明日、パパはママにあやまって、仲直りするつもりでいるよ。だから、ナナはなんにも心配しないで、ぐっすり眠るといい。パパも、そばについてるから……」
そしてこの時、七海は奏汰の手をぎゅっと握って縋るような眼差しでこう言ったのだった。
「パパ、ナナのそばにずっといてね。どこにも行っちゃやだよ。ずーっとずーっと、ナナだけのパパでいてね!」
「うん。パパはずっと、ナナだけのパパだよ」
「ほんとう!?わあ、よかったあ……」
半分眠くなっていたためだろう、ナナは最後にそんなふうにつぶやいて、目を閉じて眠りに落ちていった。そして奏汰は、娘の規則正しい寝息を聞くと、そっと子供部屋を抜けだして、妻と話しあうためにおそるおそるリビングのほうへ行った。そこでは、感情的に冷静さを取り戻した小百合が、飛び散ったガラスなどを静かに片付けているところだった。
「なあ、もうそんなことは明日でいいだろう?何より、人の気配がすると七海がまた起きだしてくるかもしれないし……」
「そうね」
ポツリとそれだけ答えて、小百合は玄関のほうまで行った。そこで、集めたガラスの破片をビニール袋へ入れ、再びリビングのほうまで戻ってくる。
この時、憔悴しきったような妻の顔を見て、奏汰にしても……今までどれほど妻に負担をかけ、彼女にとって夫の浮気を見逃し続けることがいかにつらい重荷であったかを知った。しかも自分は、妻が苦しんでいる間も愛人のことしか頭にはなく、そうした夫の様子というのは、彼女には手にとるようにわかっていたに違いない。
「悪かったよ。でも本当に、離婚のことはいずれ言うつもりでいたし……」
奏汰が妻の顔を直視できず、目を逸らしたままそこまで言いかけた時のことだった。小百合はおもむろに服を脱ぎはじめると、全裸になって夫に抱きついてきた。
「お、おい……」
今度は小百合は夫の服を脱がせようとしてくる。そして、妻のことをここまで追いつめた責任もまた自分にあると思い――その日の夜、本当に久しぶりに奏汰は小百合と寝た。小百合のほうでも夫のことをかつてなく激しく求め、彼にしてもこんな妻の姿は見たことがなかったため……小百合の求めに答えるように、いや、はっきり言ってしまえば、奏汰はこの時明日香のことは思い浮かべなかったにしても、彼女とセックスする時のように妻とも寝たのである。
翌朝、小百合は夫に抱かれた満足感からか、艶々した輝くばかりの顔をしており、リビングや他の部屋の惨状は相変わらずだったが、もはやそんなことも関係なく、以前と同じように……いや、以前以上に良き妻、良き母親として優しく振る舞っていた。
家族三人の中で一番訳がわからなかったのは、もちろん娘の七海である。きのうの夜、自分の母はゴルフクラブを片手に父のことを追っていたはずなのに(実は七海は、天使のリヤドロが壁に当たる音で目が覚めていたのだ)……今朝、ママはパパととても仲良そうにしている。もしや、きのう見たのは自分の幻だったのだろうか?もし両親の喧嘩の証拠たる、壊れた絵の額縁や鉢からこぼれた土、ガラステーブルの破片――そんなものがなかったら、七海は両親が喧嘩していたのは全部、自分の夢だったのだとすら思いこんだかもしれない。
「ねえ、ママ、一体どうしたの?」
七海は思わず、新聞を読むパパの耳元にそう小声で聞いたほどだった。
「ああ。パパはね、七海が眠ったあと、お母さんにちゃんと謝ったんだよ。それでママもパパのことを許してくれて、すべては元通りといったところかな」
だがこの時、奏汰は新聞で顔を隠したまま、小百合のほうは見なかった。いくら娘に小声で返事したとはいえ、自分の言ったことは彼女にも聞こえたはずだった。
この一月中旬の日曜日、奏汰は論文のためにほとんど書斎に篭もったままでいたが、文献を片手にパソコンを打つ合間合間に、彼はやはり明日香のことを考えていた。小百合が言っていたとおり、指輪など渡すのではなかったと、そのことを後悔していたのである。
奏汰が何故明日香にティファニーの指輪をプレゼントしたかといえば、そのことには当然理由があった。というのも、奏汰は熟考に熟考を重ねた上で妻と離婚することを決意したのであり、その、もう引き返せない道を選ぶことを心に堅く決意したあとであったため――妻に離婚を切りだす勇気をさらに鼓舞するといった意味もこめ、明日香に指輪を贈っていたのである。それに、今までも彼はある種の良心の呵責から、妻の誕生日や記念日には高価なブランド物のバッグ類などをプレゼントし、明日香にも彼女の喜びそうなものをよくプレゼントしていたのである。
けれど、明日香が高価なプレゼントをしてもあまり喜ばないらしいと奏汰は知っていたし、そんな彼女でも唯一これなら間違いなく喜ぶだろうと思ったのが、あの結婚を約束した婚約指輪だったのである。
確かに奏汰も、小百合がそう簡単に離婚に同意はすまいとわかってはいた。だが、彼女がいかに「離婚なんか絶対しない!」とヒステリックに喚こうとも、奏汰は自分が意志の固いところを見せさえすれば、小百合も最終的に離婚届けに判を押さざるをえないと思っていたのである。
ところが……奏汰が想像していた以上に、彼の妻は手強かった。きのうの夜はきのうの夜で、そのつもりもなかったのに熱い夜を過ごしてしまったし、再び暫くの間様子を見るにしても――きのうとは打って変わって小百合は上機嫌であり、彼女はその日、きのう自分で壊した装飾品を掃除すると、バスルームやトイレまでもピカピカにし、さらには奏汰の革靴まで磨いていたのだった。
夜には夜で、家族三人で家具屋のカタログを見ながら新しいテーブルをどれにするかといった話をし、「ねえ、あなた。テレビも新しく買っていいでしょう?」と小百合が言うので、「おまえに任せるよ。好きなのを買ったらいい」と奏汰は答えていた。
テレビのほうは映ることには映るし、画面を消すと中央に傷がついているとはっきりわかるのだが、テレビをつけている分には気にならないのが不思議だ、といった映り方だった。
そもそも、奏汰は家の装飾のことなどはすべて妻任せにしてきたし、唯一彼が拘っていたとすれば、それは自分の書斎の机や棚、あるいは座り心地のいい椅子などであり――リビングの家具・調度品のことについては、彼はほとんど無頓着だったといっていい。
そして、この奏汰の「妻の様子を暫く見る」という期間は、結局のところ半年以上も続くということになるのである。何分、小百合はゴルフクラブをバットのように構えて暴れたあの夜以来――基本的にいつも機嫌だけはいいのである。それだけでなく、今まで以上に美味しい料理を作ったりなんだり、夫のことをとても大切にするといった態度だった。ただ、そのにこやかな微笑みの裏側には例の鬼の顔が張り付いていると、今は奏汰にもわかっている。そして、妻の小百合はただ、瞳だけでこう強く訴えかけてくるのだった。『あなた、もちろんわかってるわよね?あなたが離婚のリの字でも口にしたら、一体どうなるか。でも、離婚の二文字さえあなたが出さなければ、この快適で平和、かつ幸せな毎日が続いていくのよ』と……それに、小百合はあの夜以来、これも夫婦の務めとばかり、奏汰に週に一度は体を求めてくるようにもなっていた。また、確かにこの夜以来、夫婦生活のほうは以前とは違うものになっており、奏汰はこの妻の求めを断ることが難しくもなっていたのである。
こうして小百合のほうでは、愛人の存在を「そもそもいなかった」こととして脳内から抹殺することに成功した。自分のほうから二度、三度と夫に夜の夫婦生活の履行を求めるうちに、彼女のほうでは「これでもう絶対に離婚はない」と確信することが出来ていたからである。
だから小百合は、恥かし気もなく夫の体の上に乗った翌日、娘と夫を学校や病院へ送りだしたあと、クローゼットにいそいそと駆け寄っていた。そこに積まれたひとつひとつの箱からエルメスやシャネルのバッグなどを取り出し、それらに頬ずりしながらこう報告する。
「ああ、あなたたちのこと、ようやく可愛がってあげられるわ。あの人がよその女と浮気してる間、機嫌でも取るみたいに高価なものを買ってくれても、ちっとも嬉しくなかったけど……でも、そんなあれやこれやもすっかり解決したわ。だからね、祝福してちょうだい!わたし、とうとう愛人に勝ったのよ!!」
小百合にとっては、夫と愛人が別れるのは時間の問題だとの思いこみがあるため、奏汰の買ってくれたバッグや靴などに何度もキスを繰り返しつつ、嬉し涙さえとめどもなく流した。
夫婦の危機と彼女自身の精神的危機とが去った今……小百合は幸せだった。もちろん、夫があの可愛いひとに別れを切りだす時、彼は非常に苦しい思いをし(何故なら彼女の夫はとても優しいから)、女性のほうでも不倫の代償として悲しい思いを……いや、胸が潰れるほどつらい思いをするだろう。だがそれらは小百合にはあまり関係のないことだった。とにかく小百合は、これで自分と娘の幸福は恒久的に保証されたも同然だと思っていたし、今まで自分が不幸のどん底でもがき苦しんだかわり、今度は夫と愛人がそうした感情を味わうのは当然のことだと思っていたのである。
>>続く。