さて、今回でとうとう(?)最終回です♪(^^)
でも、だからといって特にこれといって書くようなこともなく……そうですねえ。前回の前文からの続きということでいえば、<浮気>とか、あるいは旦那さんのほうでそれが本気で、愛人と結婚することを真剣に考えていたとしても――そこに<子供>という存在を間に入れて考える人って、たぶんあんまりいないんじゃないかなって思います(^^;)
なんていうか、うちの父や母がちょうどそうだったんですよね。「外に女性というか、愛人がいても、それは自分と女房の間の問題であって、べつに子供に迷惑をかけているわけではない」、「これはお父さんとお母さんの問題だから、子供のあんたたちには関係ないのよ」……でも、父は愛人に頭の思考の多くがいっていて視野狭窄、母は母で、父の浮気のことで悩むあまり鬱病で欲求不満で苦しい姿を子供たちに見せている――まあ、こんな状況で「子供は関係ない」とか、あんましない気がするというか。。。
ただ、うちの兄のように、やっぱり今でいうリア充系で、「両親は両親。でも、自分には外に他に楽しいこといっぱいあるし、関係ないや☆」みたいに影響を受けない子がいる一方、仮に三人兄弟がいたら、そのうちのひとりに何か家族問題の<症状>が出るって、よくあることだと思います。
わたしこれ、自分では「家族病」って呼んでるんですけど、たとえば、その三人の子の上と下の子はリア充系で、外に友達がいたり、あるいは彼氏や彼女がいて割と楽しくやってる……でも唯一真ん中の子だけ非リア充系で、性格も内向的で何考えてるのかわかんない。それで、学校のほうも不登校だったり、社会人になってからも仕事のほうが長続きしなかったり、何かと問題が多い。
でもこうした場合、親は思うんですよね。上と下の子は健全に育ってるから、自分たち親の育て方に落ち度があったわけではない(=責任はない)。単に、真ん中の子は自分の性格や何かに問題があるのであって、それは真ん中の子自身の問題だ――みたいに。。。
まあ、これはあくまでわたしが思うに、ということなんですけど、家族の中にひとりそうした子がいるっていうのは、多くの場合、家族の中で誰かが背負うべき症状を、その子だけが引き受けているっていうことなんじゃないかなという気がします。なので、その両親にも上や下の子にも、自分たちもまた本当はそうした<何か>を一緒に背負うべきなのだということが見えにくい。
学校や職場での人間関係にも似たところがあると思いますが、その子にだけ<症状>が集中していることで、他の人は楽が出来たり安心だったり優越感を味わえたりということがあると思うんですよね。そして、一人に集中している<なんとも名状しがたい嫌なもの>を少しくらいは自分も引き受けるって、なんか面倒くさいし、誰かに押しつけておいたほうが絶対何も考えなくてよくて楽だし……みたいな部分があると思います。
そして、こうした問題の解決法としては、家族の中でその真ん中の子と比較的近い関係性で仲の良い人物(お母さんとか、下の妹とは上の姉より仲がいいとか、そうした人)が窓口というか入口になって、「本当は何をどんなふうに考えているか」っていう本音を聞いたり、あるいは心療内科にかかって、そちら経由で本当の本音について聞くなどする……というのが、関係改善の第一歩という気がします。
これは学校や職場などでも大体一緒かなと思うんですよね。そうした人と比較的仲のいい話せる人が、「本当は何をどんなふうに感じ、考えているか」について情報交換できたとすれば、硬直した人間関係が変わるとすれば、そうしたところからかな、という。。。
もっとも、子供っていうのは何か自分に問題があっても「親に心配かけたくない」との思いから隠そうとしますし、あるいは自分が「本当は何をどんなふうに感じ、考えているか」を話せる人が誰もいなかったということで――今日も日本のどこか、あるいは世界のどこかで自ら命を絶つ人がいるのだろうなと、そんな気がします。
何か最後、真面目な話になってしまいましたが(汗)、↓の本文と、こうしたこととはほとんどなんにも関係ないですね(^^;)
ではでは、次の連載小説としては、「ティグリス・ユーフラテス刑務所」というのを予定してるんですけど、まあ、これも「一体どーなるやら(@_@;)」といった趣きのある小説だったりなかったり。。。
この「不倫小説。」は軽い気持ちで書きはじめたんですけど、思いの他、自分でも結構気に入ったお話になりました(笑)なので、同じように軽い気持ちで読んで、「結構好きかな~☆」くらいに思ってもらえたとしたら、わたしとしても嬉しいです♪(^^)
それではまた~!!
不倫小説。-【19】-
明日香は、泣きながら橋を渡りきると、新しく借りたマンションにまでどうにか辿り着き、部屋のドアを閉めるなり、わっと泣き崩れた。
人を好きになることが、恋をして誰かを愛することが、こんなにもつらいことだとは明日香は思ってもみなかった。それも、お互いにこんなに思いあっていても結ばれずに終わることがあるだなんて……そんなのは、ドラマや映画の中だけのことと思っていたのだ。
明日香はその日も泣きに泣いて、ようやくのことで感情の興奮が静まってくると、大きく息を吐き出した。もう二度と、病院で奏汰の姿を見かけることはない。そう思うと、もう働く気力どころか、生きる力さえ湧いてこない。けれど、それでも明日香は生きて働き、そうして生活のほうをどうにかしていかなくてはならない。
(瑠璃香、どうかわたしに力を貸して……)
そう思いながら、明日香は本棚から一冊の本を取り出した。トルストイの『アンナ・カレーニナ』だった。瑠璃香はドストエフスキーやトルストイなど、ロシアの文豪の小説が好きだったようで、明日香も読み通すのは骨だったが、読んでみると自分の人生に一本筋が通るような、精神的影響力の大きさに驚いたものだった。
『アンナ・カレーニナ』は一言でいえば不倫の物語であり、アンナは社会的地位はあるがつまらなくて退屈な男カレーニンと結婚している(ふたりの間にはセリョージャという名前の一人息子がいる)。美貌の人妻アンナに恋焦がれる、若き貴族将校のヴロンスキー。アンナも最初は彼の愛を拒んでいたが、ついにはヴロンスキーの愛の前に陥落する。だが、何分時は十九世紀のこと、今以上に社会は不倫というものに厳しい目を向けており、アンナとヴロンスキーの愛もまた、そうした世間の障壁にぶち当たり、苦しいものとなっていく。アンナは、年下のヴロンスキーの愛を自分に留めておけるかどうかわからぬことへの不安や、世間の厳しい無理解の眼差しなどに苦しみ……最後には死を選びとるのだった。
本の冒頭には、『復讐は我のすることである。我は仇を返さん』という、聖書の言葉の引用がある。明日香は奏汰と恋仲にある間、『アンナ・カレーニナ』を読み返そうと思ったことはない。それは冒頭のこの言葉によるところが大きかったかもしれない。人には、その人にしかわからない心の地獄というものがあり、不倫の罰とはつまり……そういうことではないかと明日香は思いはじめていた。一頃、<ゲス不倫>という言葉が世間を賑わせたが、『不倫』とはつまり、世間の道徳という光に照らされてはじめて「悪い、よくないこと」として裁かれるという向きがある。つまり、世間にそのような形で露呈さえしなければ、本人同士はそれほどそのような形の恋愛を本当の意味で「悪い、よくないこと」といったようには自覚しないものなのだろう。何より、世間が裁くのはおそらくその点である。その「自覚のなさ」や、妻子、あるいは夫がいても自分の欲望を第一に置くという無分別に対する批判……だが、もし仮に世間というものが道徳や倫理という名の元に裁かなくても、それと同じ種類のものは返ってくるものなのだ。少なくとも明日香は今、そう感じていた。
実をいうと今の今まで、明日香は奏汰の妻や娘に対し、あまりリアルな現実的重みを感じていなかったかもしれない。ただ、そのような美しく完璧な奥さまと結婚し、娘のことも心から愛している桐生奏汰のことを立派な男性であるように感じ、そのようによく家庭を治めている医師である彼に対して、強く憧れていたのだ。また、最初のきっかけに関しては自分から誘ったわけでもなく、見方によってはレイプともいえるものだったせいだろうか。そうした意味でも明日香には罪悪感が薄かったのかもしれない。
けれど、これが愛してはならぬ人を愛した罰なのだ……と自己憐憫に陥るでもなく、明日香は奏汰と過ごした四年という歳月は、今思い返してみても「あって良かった」と思えるものだった。もちろん、別れたばかりの今はとてもつらい。もう生きていく気力もないとさえ感じ、(死んでしまおうか)との気持ちが脳裏をよぎったこともある。でも、それでも……。
(先生のような人を、愛せてよかった。そして先生のほうでも、同じくらいわたしのことだけを考えて愛してくれた。この経験があるかないかでは……本当に、わたしにとって人生の何もかもが違ってくることだもの)
そして、『アンナ・カレーニナ』をぱらぱら読み返しながら、明日香は最後、頬に残った涙を手の甲でぬぐった。仮に自分が、たとえばカレーニンのような退屈な男と結婚し、本当の恋や愛を知らなかったら、やはり思うだろう。辿る末路がたとえ破滅でも、本当の愛を知る喜びのほうを選ぶのではないだろうか、ということを……。
『アンナ・カレーニナ』は悲しい物語だ。精神的に追い詰められたアンナは、最後、汽車の前に身を投げだして自殺する。明日香はそのアンナの死のことを思うと――彼女の死後、恋人のヴロンスキーがどれほどつらく苦しい思いをしたかを想像して、少なくとも自分はそのような死を選ぶことだけは出来ないと感じた。
そしてこの時、パニック障害の友人、如月玲花から電話がきた。彼女には不思議なテレパシーのようなものがあり、普段は彼女のほうが明日香に頼っているような精神的関係なのだが……明日香が何かのことで悩んでいたり困っていたり不安だったりする時、彼女は何故か必ず電話をかけてくるのだった。
最初、話していたことはどうということもない、他愛のないことばかりだった。けれど、そんな話をしている途中で明日香が泣きだしたため、『明日香、どうした?そっち、会いにいこうか』と玲花は聞いた。それが彼女にとってどのくらい大変なことか、明日香は知っているつもりだった。一歩外へ出れば恐怖の世界が広がっているといって過言でない玲花にとっては、自分のいるマンションまでやって来るだけでも、相当な精神力を消耗する。けれど、親友がそこまでのことをしてもいいと言ってくれるだけで……そこに玲花の深い愛を明日香は感じることが出来た。
「ううん。わたしのほうからそっちに行くよ。何か買ってきてほしいものとかない?」
このあと、玲花はバナナやゼリーやコンビニの某唐揚げやおでんなど、明日香に長い買い物リストを作らせていた。そしてこの日、明日香は自分の結婚がすっかり駄目になった顛末について、幼馴染みの親友に語り……最後、玲花は「わたしが男だったらな」と言っていた。「絶対、明日香のことを泣かせたりしないのに」と。
玲花はレズビアンというわけではなかったが、まるで脳から恋愛感情といったものが削除されているように、そうした種類のことにほとんど興味を示したことがない。ただ、「男はみんな馬鹿だから、わたしはもしどうしても結婚しなきゃならないんだったら絶対女の人のほうがいいな」とはよく言っていたものの。
そして明日香は、親友の玲花に自分の恋愛話を聞いてもらいながら――今まで、自分はずっと他の人には「誰もつきあっている人などいない」という振りをしなくてはいけなかったことも、実はつらかったのだと気づいていたかもしれない。そして、玲花に話を聞いてもらっているうちに……自然と心がほぐれていくものを感じていた。
(そういえば、何かの本に書いてあったっけ。自分の悩みや問題を誰かに話して言葉にできた時点で、それは癒しの第一歩にすでになってるとかって……)
明日香は玲花に話を聞いてもらっているうちに、心が自然、前向きになってきた。何より、奏汰との恋が終わった心の傷が癒えるにはもちろん時間はかかるにしても……明日香には仕事があった。毎日、人間関係的なことでは特に問題もなく、同僚との横の連携も厚い職場に通い、目の前の患者さんひとりひとりの助けとなることを考えることで――結局、自分のほうが助けられることになるのだと、明日香にはよくわかっていたのである。
* * * * * * *
――あれから、約五年の時が過ぎた。奏汰は院内で副院長として三年の間うまく立ち回り、実は副院長として務めた四年後、景山院長の覚えもめでたく、院長にまで昇進していた(ちなみに景山院長は今、理事長の職にある)。
本院の脳神経外科のトップであり、院内のチームで画期的な論文もいくつか発表し、奏汰は脳外科医としては医学界でもそれなりに知られる存在になっていたといってよかっただろう。
明日香と別れてから、とにかくそのように奏汰は仕事のことに没頭していた。八時前には病院へ出勤し、新聞などを読みながら世間の時事の動向をある程度頭に入れる(副院長や院長ともなると、人とのつきあいが広いため、一通りそうしたチェックをするのは大切なことだった)。この時、医療秘書がお茶を持ってきてくれるため、奏汰は彼女相手にいつも世間話をするのを習慣にしている。
「医者に口説かれても、医師なら誰でもいいなんて思っちゃ駄目だよ。よくよく見定めて、一番いい相手を選ばないとね」
「桐生先生、それ、セクハラに当たるってわかってます?」
「ハハハ。わかっているよ。訴えたければ訴えればいい。院長先生ときたら、毎日そんなようなことしか口にしないんだからって」
また、本院の副院長から奏汰が院長にそのまま昇格できたことには、やはりそれなりに理由があったといっていい。奏汰は景山院長の御機嫌を伺いつつ、まずは事務局長と懇意になり――院内の赤字をどうにか減らそうと会合を重ねた。そして、一年目から大幅に削減が出来たといったことではないが、それでもひとつずつ支出を見直していく中で……景山院長にももちろん相談しつつ、赤字を少しずつ減らしていくことに成功したのである。
奏汰は総師長との関係も良好であり、それまでどこの病院のほうへ転勤しても概ねそうだったように、看護師たちからは医師としてよく好かれた。医局の食堂や喫煙室にもよく出入りし、脳外科以外の医師ともなるべく交流するようにして、その他、病院の清掃員、リネン係の職員、警備員や病院のボイラーマンに至るまで――自分から声をかけて仕事のことを聞いて歩いた。結果、病院の食事を作っている管理栄養士には「こんなところに挨拶にきたのなんて、桐生先生くらいなものですよ」と言われ、警備員たちとは飴ちゃん友達となり……「あんな気さくな先生はいないねえ」と誰からも言われたものだった。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」っていうのは、あの人のためにあるような言葉だよ」とも……。
手術室の中央材料室の責任者とも、これは主に経費削減のことに関連してということだったが、色々と相談して手術室をより効率的に稼動していくにはどうしたらいいかと――もちろん、看護師や麻酔科医などの他の職員も含め――話しあったりもした。
結局、経費削減のために派遣社員を雇うと弊害があることがわかり、職員に長くいついてもらうため、そのあたりの福利厚生については手厚く遇することにしたり、他にどこかに無駄を省けるところはないかと探したり……こうした出すぎない隠密の奏汰の医療改革を通し、彼は院内ではちょっとした有名人になっていたといえる。単に副院長だから、偉い院長先生だから、といったことを越えて。
もっとも、奏汰がこうしたことに夢中になったのは、本院の院長の椅子が欲しかったからではなかった。ただ、明日香を失った喪失感を埋めるため、彼には夢中になれる何かが必要だったのである。
そして奏汰にとっては、こうした変化を与えてくれたすべてが、明日香からはじまったことだった。彼女と不倫関係になる以前、奏汰は自分でも視野の狭い人間とわかってはいたが、かといってそうした自分をどうすることも出来ずにいた。病院の医師や看護師とのつきあいも、広く浅くであり、相手のプライヴェートなことまで深く知りたいといったように思ったことは一度もない。けれど、明日香と親密になるにつれ、彼は自分の中に別のもうひとりの人間がいるのを見出していたのである。
以降、奏汰は誰とでも気やすく笑顔で話すようになり、「桐生先生って格好いいけど、ちょっととっつきにくいわよね」とか、「患者さんには優しいけど、冷たい壁があるような感じがする」といった以前の評価がガラリと変わっていたのだ。
こうしたことは、一度わかってみると「なんだ。そんなことだったのか」というようなことではあるが、奏汰は今も、自分の人生が180度変わったのは、明日香のお陰だと思っている。
奏汰の院長室にも、自宅の書斎にも、机の上にはゼラニウムの鉢が置いてあり、彼はその花を実によく手入れしていたものだった。妻の小百合は、それが元愛人の何かに繋がるものらしいとは気づいていたが、黙認することにしていた。それでも、もし娘の七海の交通事故のことがなかったら――おそらく金属バットで叩き潰して捨てていたのは間違いのないところである。
東京のほうへ来てからは、小百合にとって奏汰は以前の理想の夫に戻っていたといっていい。といっても、副院長になり、外科部長だった頃以上に忙しくなり、家に戻ってくるのはいつも早くて九時頃ではあった。しかも、土曜や日曜も何やかやと人とのつきあいがあり、家のほうには滅多にいないということが多い。もちろん、小百合としては、娘のためにもっと家のほうに帰ってきて欲しいと思ってはいる。けれど、愛人のところに行っていていつもいないというのに比べたら……今のこちらの環境のほうが遥かに天国だったといっていい。
奏汰にしても、娘の七海のためにこそ、明日香と別れたのだから、これからは家庭を大事にしようとの思いは当然あった。だが、一度副院長や院長に自身がなってみると――父の総一郎が何故いつも家を不在にしていたのかが、彼にも身に沁みてよくわかったものである。もっとも、奏汰の父の場合は大学病院の教授職であり、外来診療や手術や学術研究の他に、医学生らをも授業を持って教えていたのであるから……実際のところ、今の奏汰以上に遥かに多忙だったはずなのである。
また、あのあと奏汰は父の総一郎に何か政治的な力を働かせたのかどうかを確認していたのだが、『ホテルのラウンジで食事をした時に、「自分の息子がそちらの系列病院のほうで世話になっている」と話したことはある、だがそれだけだ』とのことだった。
「その、父さん。変なことを聞くようだけど……以前、俺に小百合の姉さんのことで電話してきたことがあっただろ?あの時も思ったんだ。どこかの病院の役職に俺のことを推薦するのに、身辺がクリーンなのかどうかって、そう聞きたかったのかなって……」
『ふふん。あの淫売はなかなかうまくやっておるようだな。まあ、それはさておき、景山の奴が言うにはな、「院長に直接話がしたい」とかいう電話があったらしい。奏汰、おまえ、一度地下鉄だかどっかの駅で、心臓発作を起こした人を助けたことがあるそうだな。なんでも、その人の親戚にS市の市長がおって、わざわざ院長に電話をしてきたんだと。もしおまえが助けなんだら、その心臓発作を起こした男の家庭は長男がダウン症で、次男が自閉症ということでな、お母さんは途方に暮れておったろうという話だ。唯一、一番上の娘さんだけがいわゆる健常児というやつで、すでに結婚して子供もおるそうだが……まあ実際、わしだってそこを通りかかった場合、助けるかどうかはわからんな。先に遅れるわけにいかない講演会だのなんだの、そんなのがあったら無視するかもしれんし……』
「なんだか嘘くさいですね。俺は本当のところが知りたいんですよ。単に父さんが口を利いたということなのかどうか。今後の身の振り方のこともあるし……」
最初は、父の息のかかった役職になど、就く気のなかった奏汰だったが、明日香よりも娘の七海のことを選んだ以上――もうそれでも構わないと思うようになっていたのである。
『おまえも拘るなあ。まあ、口を利いたとかなんとかいうより、景山の奴には内心で思うところがあったんだろうよ。奴の家も上にアメリカで開業してる心臓外科医の兄貴がいるのさ。で、景山の奴のほうは外科医としては十人並みでな。まあ、それでもコツコツコツコツ人脈を作ったりなんだりして、最終的に今の地位に収まることが出来たわけだ……わしが何を言いたいか、わかるか、奏汰よ。実質的に医療を動かしているのは、ドラマに出てくるようなスーパー外科医なんかじゃない。経営者側の立場として見ればな、ああしたスタンドプレイが得意なタイプの天才外科医が一人いるより――十人並みの外科医が十人いたほうが、病院経営のほうはずっとうまくいく。フフフ。おそらく、これと同じ話を景山は会った時におまえにするだろう。つまりはそういうことなのさ』
事実、そのとおりだった。景山院長は「何故わたしが君を副院長の座に引っ張ってきたか、わかるかね?」という話の次に、そうした文脈のことを語っていたものである。
『ところで、七海はどうした?元気に学校に通っておるか?』
「そうですね……俺としても一番つらかったのは、意識の戻って来なかった最初の一月の間で、あとは回復のほうは早かったですからね。父さんと母さんにも、忙しい中、何度も見舞いに来てもらって、有難いと思ってます」
『まあ、こんなことを言うのはなんだがな……わしは孫の中では七海のことが実は一番可愛いんじゃ。聡一のとこの子はな、ハーフだからということもあるんだろうが、あまり自分の孫という気がしないのさ。会っても、子供らしくない、こましゃっくれた口を利くし、その点、七海は女の子であるせいもあって、純粋に孫として可愛い。母さんもまあ、そんなようなことを言っておったな。単にわしの意見に同調してそう言ったということではなくな』
このあと、奏汰は以前電話したのが何故だったのかを聞かされ、実に驚いたものだ。単に、正月に七海の顔が見れなかったので、次はいつ来るのかと話すつもりだったのに、結局全然違うことを話して電話を切ることになったというのだ。
『まあ、おまえが東京か近郊の病院で勤務するということにでもなれば、七海に会える機会も増えるだろうと思ったんじゃ。今回の景山の人選はたまたまだがの、母さんも孫の顔を見るのを楽しみにしとるから、そうわしらを邪険にせずに、会いに来るといい』
電話を切ったあと、奏汰は随分長い間、自分は父や母のことを誤解してきたのかもしれない、自身の認知に実は歪みがあったのではないかと疑った。奏汰の家に子供は七海ひとりきりだが、それでも親になった今はわかる……下の子が上の子に比べて不出来でも、むしろ不出来であればこそ可愛いと思えることもあることを。
何より、父との電話を切った時、奏汰が感じたのはあれほど厳しく矍鑠としていた父親の、<老い>ということだったかもしれない。そして、「この人だけはいくら年を取っても変わることはない」と奏汰は父、総一郎に対して思っていたわけだが――だが、東京へ転居して以降、七海を実家へ連れていくたび……(両親も随分変わったな)と、奏汰はそう感じていた。
(もしあのまま明日香と駆け落ちしていたら……たぶん、俺はこうしたことを知らずに、両親と関係を断絶したかもしれないんだな)
このことは、奏汰にとってぎりぎりのところで家庭を壊さなかったことで、良かったことのひとつである。他に、副院長としてのやり甲斐のある仕事や、気の合う優秀な脳外科医の同僚に恵まれ、学術研究に熱中できたことなど――奏汰にとって、確かにいいことはいくつかあった。
けれど、奏汰はあれから五年が過ぎた今も思う。そうしたすべてと引き換えにしてでも、出来ることなら明日香のことを選びたかったということを……彼は、あれからもよく明日香のことを夢に見る。
奏汰とつきあっている間、いつもそうだったように、夢の中で明日香はいつも優しく笑っている。彼女の部屋で一緒に会うこともあれば、どこか別の場所で人目も気にせず気ままにデートしていたり、スポーツクラブでテニスをしているということもあった。
そしていつでも、目が覚めるたびに思う。あの日……河畔公園の石段のところで別れ、明日香が橋のほうへ向かって走り、一度だけ振り返った時――何故自分は彼女のことを追いかけて行かなかったのだろうと。実際、このことをその後、奏汰は何度も夢に見た。けれど、夢なのだから現実とは違う選択をすればいいのに……やはり奏汰の足は歩道の灰色の地面と繋がってしまったかのように夢の中でも動かない。
(それにしても、何故別れの場所が橋の手前のところだったんだろうな……)
この夢を見るたびに、奏汰はいつも苦々しい思いでそう感じる。そして、切ない思いで恋焦がれるのだ。もしあの橋を明日香と一緒に渡ることさえ出来ていたら――自分の人生は180度変わっていたに違いないのに……。
奏汰は、自分が選べなかった道を美化して考えているとは思わない。ただ、明日香の夢を見たあと、いつも思うのだ。彼女の背中に向かって「愛してる、明日香っ!!」と、年甲斐もなく叫び、「やっぱり二人で逃げよう」と言って、橋の向こうまで一緒に歩いて渡ることさえ出来ていたら――今の自分の医師としての安定した地位など、二束三文で売り飛ばせる程度のものでしかない、ということを……。
けれど、現実として奏汰はそうしなかった。そしてそのことを悔いながら、ゼラニウムの鉢植えをいまだに未練がましく可愛がっているのだ。
(きっと、明日香のことだ。相手があの御堂でも誰でも……とにかく、誰かといい縁に恵まれて、今ごろはきっと子供だっているかもしれない。そして、そのことに今も嫉妬を覚えることの出来る自分にまったく驚くよ)
彼の夢の中の明日香は、今も年をとるということがない。だが、現実の奏汰のほうは、鏡を見て愕然とする。あれからまだたったの五年しか経っていないというのに、奏汰は病院の激務をこなすうちに、今では部分的に出来た白髪を染めるようになっていたし、酒量が増えたせいで腹のあたりもたるんできた。
(今、明日香がもう一度俺と会っても、こんな親父にはなんのときめきも覚えないだろうな……)
そう思うと奏汰は、<あったかもしれないもうひとつの道>のことは忘れ、目の前に山積している現実的な問題と取り組むことが出来た。なんにせよ、もう引き返すことは出来ない以上、人は前だけを見て進む以外にないのである。
(愛している、明日香。君が他の誰かと巡りあい、俺とのことはただの過去になっていたとしても……俺はこれから死ぬまでの間一生、あの時一緒に橋を渡らなかったことを後悔し続けるだろう)
だが、奏汰もまた明日香と同じく――最後にこれほど苦しい別れを経験するとわかっていても、やはりあの四年があるのとないのではまるで違うとわかっていた。
(あの四年という年月は、俺にとってはまさしく永遠の四年だ)
奏汰は、娘に誘われて、よくバレエを観にいくことがあるのだが、実は彼が今くらいの年になってバレエに嵌まったのには理由があったかもしれない。「白鳥の湖」など、一度話の筋さえ知ってしまえば、そう何回も見る意味などあるのだろうか――くらいの理解力しか、以前の奏汰にはなかった。けれど、奏汰は娘に誘われるたび、色々なキャストの色々な「白鳥の湖」を何度も繰り返し見に行った。
多くのシナリオではハッピーエンドになることが多いようだが、奏汰が好きなのは、オデットが死を選び、ジークフリート王子がそのあとを追うという、ふたりが愛の力によって来世で結ばれるというものだったかもしれない。
そしてその日、奏汰はバレエの『ジゼル』を観ていて泣いた。観客席にも泣いている人など誰もいないようだった。奏汰はただ、彼個人のある理由によって泣いたのだ。婚約者がいながら、美しい村娘ジゼルにも手を出したアルブレヒト。結ばれることが叶わないと知ったジゼルは、死を選ぶが――死の世界で魂だけの存在となった彼女は、未婚の娘たちが精霊となり、生きた男たちを死に引きずりこむという時、アルブレヒトを助ける。
(俺がアルブレヒトなら、絶対にジゼルを選んで、彼女を離さないのに……)
「お父さん、一体どうしたの……?」
奏汰は、ポケットティッシュで目頭の涙をぬぐうと、すっかり年頃になった十七歳の娘、七海に向かって言った。
「いや、なんでもないよ。それより七海、次にあるバレエのコンクール、いつだって言ってたっけ?お父さん、必ず観にいくよ」
奏汰の娘の七海はその後、バレエのコンクールで賞を獲るようになるほどの踊り手となっていた。彼にとって唯一、明日香と別れたことを理性によってどうにか納得できるのは――七海の美しく成長していく姿を見る時だけかもしれない。
彼女がよく「理想の恋人はパパみたいな人」と口にするため、小百合などは「七海の婚期は絶対遅れるわねえ」と溜息を着くのだが、この日も奏汰はバレエを観たあと、娘とデートでもするように食事を楽しんでいたものだ。
奏汰自身、奇妙に思うことには、七海は容姿が、ではなく、性格のほうが明日香によく似ているのだ。ああした交通事故を経験してから、医療関係の仕事にも興味を持ち……今はバレリーナとして留学するか、それとも父と同じ医学を志すかで迷っているようだった。
そしてこの時、フランス料理店で食事しながら、窓の外の夜景を見て、奏汰は自分の記憶が約六年以上も昔に戻るのを感じていた。ようするに、前にこれとまったく同じ状況に自分があったのを脳が感じる――デジャヴの感覚に捉えられ、目の前にいる娘の七海のことを、まるで最愛の恋人であるかのように錯覚しそうになったのだ。
「お父さん、どうかした?……」
学校であった女友達との楽しかった出来事を話している途中であったため、七海は不思議そうにテーブルの向こうの、自慢の父のほうを見つめ返した。
「いや、なんでもないよ」
そう答えながらも、奏汰はフォークとナイフを動かす手が止まり、そのあとは気もそぞろだった。娘の七海のほうでも、自分の父親が時々こんなふうになるのをよく知っている。母の小百合が時々、「お父さんは今フヌケてるから、何か話しても無駄よ」と言うことのあるあの状況だ。
大抵の場合は、予後の気になる患者がいる、あるいは見通しの暗い難しい手術をしなくてはならない当日や前日であったり、あるいは手術後、患者の回復が捗々しくないなど、理由は様々あったろうが、他にもうひとつ、別の理由があるらしいのを、七海は大きくなるにつれ初めて知ったのである。
『愛してる、アスカ……』
以前に何度か、父親がそんな寝言を洩らすのを、七海は聞いたことがある。母は「お母さんとつきあう前に交際していた女性か何かじゃない?」と笑っていたが、今ではそうでないと彼女にもわかっていた。
そして七海はいつか、自分がもっと成長して大人の女性になったら――その女性のことを聞いてみたいと思っている。いくら寝言にしても、母も彼女の名前を聞いたのは一度や二度ではないはずだったから……。
父が仕事の忙しさを理由に家を空けるのには、もっと他に深い訳があってのことらしいと七海も気づいていた。もっともそれは、今現在奏汰に愛人がいるといったことではない。彼女にとっての父は、尊敬すべきいい父親であり、自分のことを何より第一に考えてくれる母のことも、七海は心から愛している。けれど、そんな両親の間にも世間一般によくある夫婦の問題が横たわっているらしく、それは過去に何かあってのことらしいと感じていた。
七海は今も、父と母がその昔一度だけとても深刻な夫婦喧嘩をしたことがあるのをよく覚えていた。またその後、一時期父が週に一度しか帰って来なくなった時のことも……けれど彼女は父・母双方にその頃何があったかを聞けないながらも、純粋にその<謎>の部分を知りたいと思う気持ちがあるのだった。
(わたしは、お父さんがわたしのことを娘としてこの上なく愛してくれてるってわかってるし、過去に一度くらいそんなことがあってもお医者さんの仕事って大変だから仕方ないかなって思う感じなんだけれど……でもこんなこと、お母さんには口が裂けても言ったりは出来ないものねえ)
また、その過去のことが原因なのかどうかはわからなかったが、父が家で真に寛げるのは自分の書斎以外ないらしいということも、七海は見て取っていた(東京の一等地に、あんなにいい家を建てたのに!)。またそれが、父が家を留守がちにして居つかない理由のひとつだろうとも理解していたのである。もっとも、純粋に仕事に関する何かで土日ですらいないことが多いというのはわかっているつもりであったものの……。
家に帰ると、普段の疲労の蓄積のためだろう、奏汰はリビングのソファの上ですぐ横になっていた。小百合のほうは偶然、お風呂に入っているところであり――七海は、ウニャムニャと何か口篭もっている父の体にタオルケットをかけると、両目を閉じている父親の口許に人差し指を当てて言った。
「お父さん。寝言だからそりゃ責められないけど……少なくともお母さんの前でだけは、他の女の人の名前を口にしたりしちゃ駄目なのよ」
すると、父親の唇から洩れていた意味不明の言葉が消え、突然すーすーと呼吸が規則的になり――七海はくすりと笑った。そして思う。(いつかわたしも、お父さんみたいな素敵な人と巡り会って、素敵な恋が出来るかしら)と……。
終わり