今回は例の盗作疑惑云々関係なく、ただ、1冊の本を読んだことの感想といったところです♪
ジャン・コクトーという名前と、『恐るべき子どもたち』という本のタイトルについては、おそらく誰でも聞いたことがあるのではないでしょうか。また、この本は<大泉>関連に言及するとしたら、萩尾先生がハマって増山さんに薦めたところ、増山さんのほうではラディゲの『肉体の悪魔』を薦めてきたということが語られています。
>>前に私がジャン・コクトーの『恐るべき子どもたち』にすっかりハマって増山さんに読むのを勧めたら、増山さんは「こっちもいいわよ」と、レイモン・ラディゲを勧めてくれたのでした。
増山さんに言わせると「ジャン・コクトーとレイモン・ラディゲは愛し合っていて恋人同士だったのよ」「ジャン・コクトーはレイモン・ラディゲのことを完璧な天才だと思ってた、ラディゲは足が悪いのよ、コクトーはそれを〃不自由な片足を優しく引きずっていた〃と言っているのよ。素敵でしょ」などと教えてくれました。
(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)
さて、余計なことを書くといつも通り長くなるので(汗)、なるべく本の感想のみに絞ることにしたいと思いますm(_ _)m
>>第1次世界大戦直後のパリの街角。エリザベートとポールの姉弟にとって、その部屋は夢幻の王国だった。宝物遊び、夢遊び。無軌道な子どもたちの永遠に似た混沌。だが、思春期の情熱がまどろみを破り外の世界があらわれた時、すでに悲劇は約束されていたのだった……。ジャン・コクトーの小説詩をもとに子どもたちの純粋で危険な世界を描き出す、萩尾望都のアンファン・テリブル!
(『恐るべき子どもたち』萩尾望都先生/小学館文庫より)
――というのが大体のあらすじで、お話のほうはPART1.少年時代、PART2.夢幻世界、PART3.外界、PART4.無限世界の4つに分かれています。まず、物語のはじまりのPART1.少年時代で、ポールは憧れている級友ダルジュロスから石入りの雪球をくらい、気を失ってしまいます。
このダルジュロスというのは簡単にいえば悪童というのか悪ガキで(同じ意味やろ☆笑)、読者に強烈で忘れ難い印象を残しますが、彼は最後のほうに少し登場場面があるくらいで、個人的にはちょっと残念な印象です(^^;)
わたしがコクトーの『恐るべき子どもたち』を読む前に、「あれは同性愛の話」みたいにぼんやり聞いてたので、「そういうお話なのかな?」と思ってたんですけど、そういう要素はたぶん薄いような気がします。
物語の主要登場人物は4人いて、ポールと、雪球をくらった彼を送ってくれた親切で優しいジェラール、ポールの姉のエリザベート、彼女がのちに働く服飾店で出会うことになる――ダルジュロスとよく似た面差しの、アガートという名前の女性です。
4人は出会った時ともに10代で、全員が孤児でした。物語のPART2あたりでポールとエリザベートの母親は死んでいますし(父親もすでに他界している)、ジェラールも両親がいませんが、そのかわり心優しい叔父がいて、彼はのちにこの叔父さんの財産を受け継ぐことになります。アガートの生い立ちはさらに悲劇的で、両親はコカイン中毒でガス自殺しているのでした。
でも、物語の中にそうした悲壮感や悲劇的な調子といったものはあまり……というか、ほとんど感じません。萩尾先生の章区分に従ったとすれば、ポールとエリザベートはふたりで夢幻へ<出かける>というその世界を共有しあっており、そこへまずジェラールが参加し、その次にアガートがやって来て、そうした雰囲気をすっかり気に入るということになります。
さて、十代の成人するずっと前に母親を亡くしたとなったら――普通、そうした子供たちの末路というのは孤児院行きだのなんだの、何やら暗いものが立ち込めることになると思うのですが、物語の初めから終わりまで、ポールもエリザベートも、そうした現実的金銭問題で苦悩することは一度もありません(笑)。
>>富はひとつの天分、貧しさもまた同じ天分。彼らは富んでいる。どんな富もこれ以上生活を変えられないほど……将来や、将来の計画、勉強や地位、就職、安っぽい生活、風俗などにはいっさい無関係――かかわりなし。
でも、これは奇跡に近い。ポールとエリザベートにとっては、当然のような奇跡。医師とぼくのやおじさんが生活のめんどうを見ていることも……。
普通の人間であれば2週間も続かないような無秩序が、何年も続けられる。彼らは運命がおおめに見て、彼らを人生の闘争からへだてていることなど夢にも考えない……
ポールとエリザベートは、母親の死後、約三年もの間――<崖っぷちで揺れる神話>のような自分たちの部屋で、一般の人々から見れば「怠惰でだらけた」ようにしか見えない生活を送ります。つまりは、彼らの演劇のような夢幻世界(もっとも彼らは自分たちが何かの役を演じているとは思ってない)で、朝の4時くらいまで起きて過ごし、翌日はようやく午後遅くなってから起きてくる……といったような生活を。
食事などの面倒は、マリエットという女中のおばあさんが見てくれているのですが、彼女は何か分別くさいことを言ってこの姉弟の生活を変えようとはしませんでした。ジェラールはこのポールとエリザベートという姉弟に魅せられていながらも――医師や自分の叔父が面倒を見てくれているからどうにかなっている彼らの生活については、自分もそこへ参加できる光栄を感じつつも……彼らのように、子供時代から続く<部屋の精霊との遊戯>とも言うべきものに、完全に同化することまでは出来ないのでした。
こんな<閉じた世界>で朝の4時まで過ごし、翌日は午後遅くなってから起きてくる……そんな生活を14~16歳くらいから3年も続けていたとしたら――普通、よほどの差し迫った現実的脅威にでも迫られない限り、彼らが外へ出て働くなどということはないだろう……そう思うものだと思います(^^;)
ところがですね、PART2の最後のほうで、エリザベートは突然、「わたしもう19よ!」と言って、働く先を紹介してくれるよう、ジェラールに頼むのでした。彼女は何も、家賃の支払い云々、食費云々といったことが理由で働こうというのではなく――ジェラールが>>(また新しい遊びをはじめたな……)と感じたように、そんなような理由によって突然思い立ち、服飾店でマネキンの仕事をはじめます。そして、この同じ服飾店でモデルをしていたアガートと友達になり、彼女もまたジェラールと同じく、ポールとエリザベートの姉弟にすっかり魅了されてしまうのでした。
やがて、アガートはポールとエリザベートと一緒に暮らしはじめようになるのですが、アガートはポールが心から崇拝し愛していたダルジュロスと顔のほうがよく似ています。ところが、そのことに対する奇妙な反発心から、ポールはアガートに意地悪ばかりするのでしたが……その後、かなり時が経ってから、実は彼女のことを愛していると気づくのでした。
その前に、物語としてはエリザベートがアメリカ人の大富豪ミカエルと知りあって結婚する――というくだりについて語らなくてはなりません。このミカエル、非常に可哀想なことに、エリザベートと結婚後すぐ、スポーツカーで事故を起こして死んでしまいます。
>>新郎の数えきれない財産の管理者たちを立会人にして、慌しい結婚式を済ませたあと、エリザベートとアガートが新居に落ち着くまでのあいだ、ミカエルは南仏のエーズで一週間過ごすことに決めた。ミカエルはそこに家を建てさせており、建築家が彼の指示を待っていたからだ。ミカエルはスポーツカーに乗って出発した。戻ったら夫婦の生活が始まるはずだった。
だが、子供部屋の精霊が見張っていた。
こんなことを書きたくはないが、カンヌとニースのあいだの道路でミカエルは死んだ。
スポーツカーは車体が低かった。首に巻いていた長いマフラーが風に流され、車輪の軸に絡みついた。マフラーはミカエルの首を絞め、乱暴に引きちぎった。その間、車はスリップし、木に突っこみ、大破して、ものいわぬ残骸となった。一個のタイヤだけが宝くじの抽選盤のように空中で回転し、しだいに速度を落としていった。
(『恐るべき子供たち』ジャン・コクトー著、中条省平・中条志穂さん訳/光文社文庫より)
ミカエルの死に様があんまり素敵だったので、わたしの持ってる文庫本のほうから引用してしまいましたが(「部屋の精霊が見張っていた」という描写が素晴らしいです!)、簡単にいえば、このミカエル、美しいエリザベートと致さぬまま亡くなってしまったんですね。ジェラールはもともとエリザベートを愛していましたが、この鉄の処女(おとめ)を神殿から引きずり下ろして自分のものにすることは出来ないと諦めていました。。。
ですから、「ミカエル死んだし、今度こそ……!」といったようになることも出来ず、彼は結局アガートと結婚します。ポールはアガートを愛しているのに、何故そんなことになったのか――というのが、この物語の一番の核心部分かもしれません。
ジェラールはエリザベートを愛し、ポールはアガートを愛し、またアガートのほうでもポールを愛しているということが、物語の後半部分を読む読者にはわかるのですが、物語の中でそのことを知っているのはエリザベートひとりでした。いえ、正確にはジェラールにもわかっていたとは思います。ただ、彼には実行力がなく、エリザベートのかける精霊経由の魔力を打ち破る力も持ち合わせがないのです。
このことが悲劇を生むわけですが……エリザベートはアガートがポールを愛していると知りつつ、ポールにそのことを知らせず、アガートを愛していると告げるポールに、「彼女が愛しているのはジェラールだ」と告げます。そして、ジェラールには「アガートが愛しているのはあなたよ。プロポーズなさい」と命令し、アガートに対してもどうにかジェラールと結婚するよう説き伏せることに成功します。
エリザベートが<部屋の精霊>に操られるように、何故こんなことをしてしまったかといえば――時折激しい抵抗にあいつつも、弟のポールを自分の支配下に置いておきたいといった愛情、また嫉妬のためもあったと思います。アガートと心から愛しあうポールを見た日には、エリザベートは自分が気が狂ったようになってしまうと自覚していたでしょうし(物語の最後のほう、小説でははっきり「近親相姦」の四文字が出てきますが、それに近い危険な感情を持っていたということです)、また「それが彼らにとっても良いことなのだ」とエリザベートが自分を納得させていたのも、一応理解できます。
何故かというと、弟のポールはろくに世間も知らず働いたこともない若者ですし、そんな無軌道な男とアガートが結婚して、最初の頃はよくてもその後は一体どうなるのか?という問題があったでしょう。このあたり、物語には詳しく出てきませんが、ミカエルの財産を継いで裕福なエリザベートが面倒を見なくてはならないでしょうし、そんなことは到底、彼女には我慢ならないことです。何より、心から愛しあっているポールとアガートの姿など、見たくもないエリザベートなのですから!
ですが、その後ジェラールのプロポーズを受けてアガートが結婚してしまうと……ポールは目に見えて弱っていきました。そこへ、ダルジュロスがジェラールと出会います。ポールへの雪球事件ののち、今度は校長にコショウをぶっかけて、退学になってしまったというダルジュロス……その後、成長した彼は今、フランスとインド・シナの間を行き来して、自動車工場の代理人をしていると言います。
ダルジュロスはポールのことを覚えていました。そして、ジェラールが今もよくポールと会うことを知ると、ある毒薬をポールに渡してくれるよう、ジェラールに頼んだのでした。というのも、学校時代、彼らはそんな毒のことをよく話していたからなのでした。>>「雪の球にいっておくれ。おれは卒業してからも変わってない。いつも毒薬を集めたいと思ってたが、いまも集めている」――そう言って、シナやインドや西インド諸島やメキシコの毒のコレクションをジェラールに見せたのでした。
おそらくダルジュロスは、単に「学校時代の思い出の形見に」といったくらいの意味で、今もポールとよく会うというジェラールに、毒のコレクションのひとつを渡したものと思われます。ただ、この毒が出てきた時点で、読者はすぐにピン☆と来ます。「ああ、こりゃポールはこの毒を食らって死ぬんだな」と。
かつて崇拝し、愛していたダルジュロス。その彼とよく似たアガートはジェラールと結婚してしまった……これはもう、ポールにとっては、自殺する暗示にかかっても無理もないことだったのではないでしょうか。
そしてこの最後の最後の瞬間――ポールは毒によって死ぬ間際、そこへ駆けつけたアガートの言葉によって、彼は彼女もまた自分を愛していたということを知るのです。何故そんな悲しい行き違いが起きてしまったのか、そのことを即座に悟るポールとアガート。
姉のエリザベートに対し、「悪魔!」と叫ぶポール。「人でなし!」と泣き叫ぶアガート……「ポール!生きるのよ」とアガートは悲痛な声で言いますが、ポールのほうではもう息も絶え絶えで、「もう、おそい……!」と、すっかり顔色も青ざめています。
「わたし、妬いてたの。あなたを失いたくなかった。アガートなんか大きらいよ。あなたをさらっていくのがゆるせなかった」――拳銃を手にするエリザベート。殺されると思い、「撃つわ!あの人撃つわ!殺す気よ!殺されるっ!」と大声で叫ぶアガート。ですが、エリザベートは自殺しようとしていたのでした。そして、ポールが息を引き取ると、すぐにエリザベートは引き金を弾き、自分の頭部を撃ち抜きました。ズガアアン……!
――こうして、ふたりは一緒にあの部屋の<夢幻世界>から、今度は本当に<無限世界>へと旅立っていったのです……。
まあ、あまりわたしの説明もうまくありませんが(汗)、これが『恐るべき子どもたち』の大体のあらすじといったところです。「ちょっと感傷的だなあ」とか、「あんまり現実的じゃないな」とか、「所詮は人が頭の中で作った絵空事だよ」といったように感じる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
でも、ジャン・コクトーはこのお話を自身のアヘン中毒の治療中に(たったの3週間で!)書き上げたのですし、またコクトーのお父さんが拳銃自殺していることからも……「なんかあんまし現実的でないような」とか、「所詮は人の頭が作り出した絵空事」といったようには、言えない気がするのです。
また、わたしが持ってる光文社文庫版巻末解説によりますと、『恐るべき子どもたち』のポールとエリザベートにはモデルがいるそうです。そして、エリザベートのモデルとなったジャンヌ・ブルゴワンという女性は、その後自殺しているとのことでした
再び、『恐るべき子どもたち』の物語へ戻ろうと思いますが、「避けようもなくおそらく悲劇が起きるだろう」ことは、最初からあちこちにそうした暗示があるわけですよね。ダルジュロスの雪球をくらって仮死状態になるポール、消防車の放つ赤い光、『アタリー』を演じたというダルジュロスの写真、鏡に石鹸で書かれた「自殺は大罪」という文字、部屋の電灯を安っぽい赤い布で包み、真紅に照らしていたことなどなど(萩尾先生の表紙を見て、「流石!」と感じる方は多いと思います)……また、エリザベートが実際は一滴の血も直接流してはいないのに――自分をマクベス夫人になぞらえて手を洗う描写などは、もう引き返せない悲劇がすぐそこまでやってきていることを読者に予感させます。
ただ、「では、どうすれば良かったのか?」、「どうすれば悲劇を避けられたのか?」とは、『恐るべき子どもたち』の場合は、わたしはあまり考えませんでした(^^;)。ジャン・コクトーの原作のほうにある>>「この姉弟にとって、もはや神の法廷の知性だけでは裁きに十分ではなく、その霊感を当てにするほかないだろう。あと数秒、勇気をもって耐えれば、肉体が溶け、魂が結びついて、近親相姦など入りこめない場所に達するはずだ」という、ポールとエリザベートの死の場面。「この姉弟は小さな頃から十代を通してずっと、<あの部屋>から夢幻世界へと出かけていたように――そこから出ていくことが出来なかった。いや、違う、今度こそは本当にふたりして「出ていった」というべきなのだろうか」……みたいに思うのですが、ようするに簡単に言えばそうしたことなのだと思います。
ですから、他の世間の人々の目からしてみれば<悲劇>でも、物語として読む分には決して不幸とも言い切れない……何かそんな印象なんですよね。もちろん、『恐るべき子どもたち』を読んだ感想は人それぞれでしょうが、自分的には萩尾先生の漫画のほうはすごく面白く読めました♪(^^)
もしかしたら、コクトーの原作のほうを読まずに萩尾先生の漫画のほうだけ読んだ場合、「ちょっと尻切れトンボかな?」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。でも自分的には――最後の1ページ、エリザベートとポールがともに自殺し、夢幻∞無限世界へと出かけてのち、コンドルセ中学の最初の雪合戦にポールの意識が戻ってゆくところ……「いた。彼だ」と言って、ダルジュロスのことを見つけるところに、萩尾先生の優しさ、そしてズバ抜けた天才性を強く感じました(この最後の1ページのために、萩尾先生は『恐るべき子どもたち』を漫画化したのではないかと思ったほどです)。
どういうことかというと、金銭的に苦労しない、現実世界の垢によって汚れることのない、純粋無垢な子ども世界に生きるエリザベートとポールですが、物語が悲劇で終わるだろうことは、最初の段階からかなりの確率で読者には予想されています。そして、ギリシャ悲劇と同じく、<悲劇が起きるとわかっていて、避けようもなくその悲劇が起きる>わけで、「それはどうにか避けられないものだったのか」と読者は考えます。そして、萩尾先生版『恐るべき子どもたち』はコクトーの原作に忠実でありつつ――最後の1ページ、「いた。彼だ」とポールがダルジュロスを見つけるシーン、ここは唯一萩尾先生のオリジナルだと思うんですよね。
でも、この1ページが本当に素晴らしいんです!何故か?物語は、ポールがコンドルセ中学で、カリスマ性のある人気者、ダルジュロスを雪合戦の中で見つけようとし、彼の役に立とうとして逆に胸に雪球をくらい失神してしまう。もしこの時、ポールがダルジュロスの雪球をくらってなかったとしたら、<この悲劇の運命のすべてが書き換えられる>可能性があるということなんですよ。体の弱いポールは、この時胸に雪球をくらったことが原因で、その後静養が必要となり、そのまま学校へは通えないことになってしまうわけですが……そんなこともなく学校へ通って無事卒業していたら、おそらく何かが違っていたでしょう。<部屋の精霊>に姉とともに囚われる感覚もそう強いものでなく、その後、「大人のひとりの男」として自立し自活していた可能性だって十分あります。
もちろん、それじゃお話として面白くないというのはありますが(笑)、「うまく大人になることが難しい」と言われる現代において――おたまじゃくしがカエルになるためにはどうしたらいいのかということが盛んに議論されるわけですが、逆に『恐るべき子どもたち』を読む時、「何故カエル(大人)にならなきゃいけないのか。おたまじゃくし(子供)のままでいてはいけないのか」という疑問が心に浮かびます。エリザベートもポールも、大人になりきれなかったことが悲劇を招いたのかもしれません。でも、ミカエルが生きていて普通の結婚生活をエリザベートと送っていたとしたら……それはそれで別の問題が起きてくるでしょうし、その上でポールとアガートが結ばれていた場合、果たしてそれが本当に<大人になるということなのか?>という疑問だって拭いきれないのではないでしょうか。
最後に、ダルジュロスが『アタリー』役をやったという写真、ラシーヌの演劇のほうはどんななのかわからないとはいえ――なんであんなに男らしい感じのダルジュロスが女装してドレスなんて着てるのか、ちょっと不思議に思う読者の方は多いかもしれません。説明すると長くなるので端折りますが、『アタリー』というのは、旧約聖書の列王記や歴代誌に出てくる歴史上の人物で、簡単にいえば悪女です。
もしこのあたり、不思議に思った方は、旧約聖書の列王記第二、第11章のあたりや、歴代誌第二、第22~23章あたりをお読みになることをお勧めしますたぶん、名前のほうはアタリーではなく「アタルヤ(あるいはアタリヤ)」と出てくると思うのですが、この歴史上、ユダ王国でほんの一時期権勢を振るった女性は、王であった自分の息子アハズヤが殺されると、その後自分が王位に着き、他のユダの王の一族をことごとく殺すよう命じます。ところが、その中から殺されずに逃げのびた子供がひとりだけいて、その子ヨアシュがいずれ王位に着くことになるのでした(ちなみにアタルヤ(アタリー)はこの時、剣にかけられて死ぬことになります)。
というわけで、このあたりのことを思ってみても、物語の最初から悲劇が駄目押しとばかりに暗示されていると同時――そんな悪女の役であれば、ダルジュロスも楽しんで喜々として演じていたのではないかという、そういうことなんですよね(^^;)。
それではまた~!!