ええとですね、今回は本文のほうが長くて、またしても一章分入りきらず……なので、例によって変なところでちょん切って、次回に>>続く。ってなことになってます。。。
確か、何か色々置き去りにした前文的懸念事項があった気がするものの、今回は単に短く、よくある>>「どうして男の人は浮気するの?」的な話でも、と思います(^^;)
「脳のすべてがわかる本」という本の中に、
>>性欲中枢の男女差。
ヒトには発情期がなく、一年中が「恋の季節」である。前頭連合野が発達したことで、発情のタイミングを理性で制御できるようになったといえるだろう。
ヒトの性欲をつかさどるのは視床下部にある神経核だ。このうち、生殖行動を求める際にはたらくのが内側視索前野(ないそくしさくぜんや)で、男女共通の第一性欲中枢だとされる。ただし、男性の内側視索前野は女性の2倍の大きさがあり、セックスに対する欲求が女性より強いことがうかがえる。
一方、生殖行動を行うための第二性欲中枢は男女で異なり、男性は背内側核(はいないそくかく)、女性は腹内側核(ふくないそくかく)である。
(『脳のすべてがわかる本』ナツメ社さんより)
と書いてありまして、つまりはようするにそういうことなんだろうな……と、何かそんなふうに思ったと言いますか(=男性は女性よりも性欲が強い、という単純な脳科学的(?)事実の結果として、男の人は浮気するっていうことなんだろうな、というか^^;)。
簡単にいえば、女性のこの性欲を司るという部分が男性と同じくらい大きかったとすれば、一夫一婦制っていうのはとっくの昔に崩壊してたんじゃないかなっていう気がするんですよね
チンパンジーのメスは発情するとお尻が赤くなって、オスには交尾できることがそれでわかるそうなのですが、これがその後さらに進化した人間の場合、女の人を見ても(原始的な言い方をすれば^^;)「この人、オレと交尾してくれるのかな。それともしてくれないのかな」というのが、容易にわからないということになってしまった……と、以前HKでやってたのを見たことがあります
そこで、かつての太古の昔であれば、何か美味しいものを持ってきたりして、「オレはオスとして有能だぞう」といったところを示してメス(女性)の気を惹いたりして、女性のほうでもそうしたより有能なオスと結婚したほうが安全に家庭を守れる……といった基準で相手を選んでいたのだと思います。
そして、文明の進化とともに、このあたりの恋愛の駆け引きみたいのが除々に複雑になっていったと思うのですが、基本的に、男の人のほうでは「ひとりでも多くの女性と交わって子孫を残さねば」というDNAからの本能的な命令っていうんでしょうか(^^;)
そうしたものがあるので、一応文明社会的ルールとして一夫一婦制を取っている国では結婚後に他の女性とも関係を持つと道徳や倫理がどうこうと責められるわけですけど、本能からやって来るものを一回一回理性で「えい!」とタックルして倒していったとして――その本能vs理性がアメフトのフィールドで戦った場合、いつでも理性が勝つとは限らない、理性がタックルしきれなかったランニングバックあたりがボールをタッチダウンした結果……それが結婚している男の人の場合=浮気と見なされる、ということなのかな、なんて(あ、ちなみにわたし一応男じゃないんで、実際のとこはどうなのかってわかりません。あくまでこれは推測です・笑)。
まあ、この話を書くと長くなりそうなので、前文にもう少しスペースのある時に書いてみようかなって思うんですけど――仮に女性のほうが男性の二倍性欲があって、この部分が逆だったとしたらどうなのか、というのを、そのうちまた書いてみようかと思います(^^;)
あ、あと、これも一説ですけど、女性が真っ赤な口紅をつけてると、「あれは男を誘惑する悪い女だ」とか「きっと淫乱に違いない」というほどでなくても(まあ、普通はそこまで思いませんよね・笑)、「もしかしてちょっとお尻の軽い子かな」と男の人が無意識のうちにも思うのは(結局、真っ赤な口紅が似合うとなると、結構ケバくなると思うので)、DNAを遡っていくと、このチンパンジーのお尻が赤い=メスと交尾できるしるし……というのがあるからなんじゃないかっていう説があるそうです。
んで、これは「人は何故キスをするのか」の説のひとつでもあるそうで、唇に何もつけてない女性より、真っ赤な口紅をしている女性のほうと男の人がキスをしたいと思うのは――メスのチンパンジーのお尻の赤さと関連があるのではないか、という話(^^;)
それではまた~!!
不倫小説。-【13】-
奏汰と明日香が新居にふたりして引っ越したのは、その年の十月一日のことだった。奏汰は忙しい合間を縫って、明日香の部屋の荷造りを手伝いさえし、また、引越し費用のほうも彼が負担した。そして、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電子レンジ……といった家電製品については明日香の部屋にあったものをそのまま使い、唯一ベッドだけは奏汰の拘りで新調するということにしたようである。
もちろん、この間も奏汰には小百合や娘の七海にすまないと感じる気持ちはあった。だが、(ずっとこうしたかった)との夢が実現した喜びもまたあり、そしてその喜びを彼はこの日、恋人と分かちあっていたのである。
荷物の片付けがある程度済むと、奏汰はダイニングテーブルを挟んで明日香と向きあい、まずはシャンパンで祝杯を上げた。それから、宅配で取ったピザを食べ、これからはこの場所でふたり、心おきなく会えることを喜び祝っていたのである。
「広いダイニングキッチンにリビング、あとは寝室と先生の書斎……流石、わたしの一か月分の給料の大半が吹っとぶだけのことはありますよねえ」
シャンパングラスをカチン、とぶつけあったあと、ふたりはなすミートのピザを半分ずつ分けながら微笑みあった。
「まあ、明日香は毎月かかる生活費のことなんかは、全然気にしなくていい。これからは、明日香が自分で働いた分は、全部自分の小遣いにすればいいから」
「えーっ。でもなんかそれだとわたし、先生にお金で囲われてる愛人みたい」
「いや、それはないだろ」
奏汰はそう言って笑った。
「愛人を囲うっていうのは、正妻と別れる気のない男が結婚する気もなくそっちともよろしくやるってことであって……俺は妻と離婚さえ成立すれば、明日香と結婚するつもりがあるわけだから。まあ、明日香は基本的に仕事をやめる気はないんだろ?じゃあ、家事のほうも手抜きでいいよ。変に俺に気兼ねする必要もないし、あと、部屋のほうは誰か家政婦さんに来てもらって掃除してもらうとか。そうだな。それならこの家政婦さんに食事も作ってもらうっていうのでもいいかもしれない」
「そんな……そこまで先生にしていただくなんて、贅沢すぎます。まあ、洗濯のほうは休日にして、ごはんもそれなりに作りますよ」
「じゃあ、ルンバとか買ってみるか?で、俺たちがいない間はルンバにでもこの部屋を掃除してもらうとか」
「あれ、いくらするんでしたっけ?」
「まったく、明日香は本当に金のことばかり気にするな」
――そんな取りとめのない会話をする間も、奏汰と明日香は幸せだった。そして、引越しの片付けもそこそこに、その日のうちに家具業者から届いたキングサイズのベッドの上で、夜には愛しあい――翌日の月曜にはふたりとも、それぞれ病院に出勤することになっていた。
だが、当初明日香が想像していた以上に、仕事もしながら家事仕事もこなすというのは、心身ともにとても負担の大きいことだった。そのあたりについては奏汰も気遣ってくれ、自分でも弁当を買ってきてくれたりなんだりするのだが、まだ別れていない妻といた時、彼は身の回りの世話のことではおそらく何ひとつとして不自由などしなかったはずだと思うと……重い罪悪感が明日香の胸にはのしかかっていたのである。
もちろん、そうしたことを明日香が軽く匂わせるたび、奏汰は「俺は完璧に家事をしてくれる女とじゃなく、明日香と結婚したいんだよ」と慰めてくれるのだが――それにしても、だった。
(今さらというか、今ごろになってっていう話かもしれないけど……先生の奥さん、怒ってるだろうな。今はわたしにもわかる。先生は毎日忙しすぎて、たとえばクリーニングを取りにいくとか、そうした日常の雑事をこなすのさえ負担に見えるくらいの生活感覚だから、そうしたすべてを引き受けて先生のことを支えてきたのに――その上子供もいるのに、こんなふうに突然旦那さんが家を出ていったりしたら、わたしが奥さんでも「離婚なんて絶対しない!」って絶対そう言うと思うもの)
明日香の場合それだけでなく、長年に渡ってそのような形で奏汰を支えてきた妻の小百合と今の自分とを比べた場合……フルタイムで働いている以上、料理も休みでない日は手抜きだし、掃除もそんなにきちんきちんと毎日できるというわけもなく――奏汰が実は内心自分にがっかりしているのではないか、という不安まで加わっていた。
もちろん彼は色々なことを言って慰めてはくれる。「前の妻は専業主婦だったから、料理も掃除も洗濯もきちんと出来ただろうけど、明日香は働いてるんだからさ」、「俺はホコリで人は死なないと思ってるタイプだから」、「俺はほとんどのことにそう神経質じゃないんだよ。唯一、仕事だけは別だけど」……明日香にも奏汰が言わんとすることはわかる。食事にしても、「栄養満点のものを明日香がいなくて食べるより、俺は明日香がいて将来ガンになるような食事を毎日したほうが幸せなんだ」――けれど、それはもしや二人で暮らしはじめた<今>だけなのではないだろうか?
(もちろん、わたしだってもし先生が正式に離婚されたとしたら……仕事のほうを辞めることも少し考えようかなとは思うけど。でも今の段階じゃとても、なんだか不安で……)
そして、この明日香の不安の根源のひとつとなっているものに、「幸せすぎて不安」ということがあった。「こんな幸せはきっとそう長くは続かないのではないか」と直感的に感じるということ――そして明日香は毎夜、奏汰と寄り添って眠っている時、あるいは彼と気持ちが一緒でひとつになれていると感じられる時だけ、そうした不安から解放されることが出来るのだった。
また、一緒に暮らしはじめて三か月が過ぎた頃、こんなことがあった。夜勤から帰ってきて、洗濯物は溜まっているし、部屋も散らかっていれば、キッチンも洗い物が溜まって汚れ放題で……だが、寝室のほうを覗いてみると、奏汰はぐっすり眠っていた。
この時明日香は(もう!ちょっとくらいは片付けてよ)と思ったわけではない(何故といって、彼も一週間の激務が過ぎて疲れきっているのだから)。夜勤明けというのはその業務のあった日にもよるが、その日明日香は比較的穏やかで、夜勤の看護師さんも気の合う人ばかりであり、疲れてはいるが、そんなに物凄く疲れているといった精神状態というわけでもなかった(体は疲れているはずなのに、一晩起きていたせいで妙に脳がハイになっているというあの状態)。
ただ、洗濯機を回し、洗い物をしているうちに、何故か意味もなく悲しくなってきて涙が出た。そして、そんな時奏汰が明日香の帰宅に気づいて寝室のほうから出てきたのである。
「……よくわかんないけど、なんかごめん。たぶん、俺が悪いんだよな」
「ち、違うの!たぶん夜勤明けで、ちょっと脳が変になってるんだと思う。ただわたし、こんな状態がこれからもずっと続いたら、先生が嫌になっちゃうだろうなって思ったら、そのことがなんだか悲しくって……」
明日香が洗い物をしながら頬の涙をぬぐっていると、奏汰はそんな恋人のことが可愛くてたまらなくなり、後ろから抱きしめた。
「前から言ってるだろ?まず、食器なんかは食洗機でも買えばいいし、あとは週に二回くらい家政婦さんに来てもらうとかさ。俺も明日香もいない時に来てもらって、帰ってきたら部屋は綺麗で、晩御飯なんかも置いてあるっていう、そういう感じにすればいいよ」
「でも、そんなの贅沢すぎるし、食器もふたり分なんて、そんなにたくさん出るっていうわけでもないし……」
ここで奏汰は明日香のことを脇にどけさせると、自分で食器を洗いはじめた。ちなみに彼は、結婚して以降、小百合の妊娠時を除いて、こうしたことは一度もしたことがない。
「きのうも、少しくらいは片付けておこうとは思ったんだ。明日香が作り置きしていったカレー、美味しかったよ。とにかく、俺は今の生活と明日香に不満なんて何ひとつない。ただ、俺は今日、向こうに行かなきゃならないからさ。お互いに休みが重なるのなんて土曜か日曜のどっちかくらいしかないのに……ほんと、明日香には悪いと思ってる」
「そんなこと……奥さまのおっしゃることは当然だし、何より、七海ちゃんのこともあると思ったら、そんなことは当たり前だとしか思わないもの。わたしは、先生がここに帰ってきてくれさえしたら、それだけで十分っていうか」
このあと、洗濯物を干すのも奏汰は手伝ってくれ、昼食のほうは明日香が帰り道のスーパーで買ってきた<牛しぐれ弁当>なるものだった。つい何日か前、何気なく買ってみたところ、ふたりで「うまい!」となり、それを明日香はまた買ってみたのだった。
「あのさ。たぶん日曜の夕方か夜に俺が帰ってきたら……部屋の中が全部綺麗に片付いてるっていうのは俺にもわかってる。だけど、明日香だってせっかくの休みなんだから、ぐーたらーっとして自分の好きなことだけしてたらいいんだよ。俺は部屋が散らかってようとなんだろうと、そういうことは本当に大して気にしない。だから、明日香が不安になることなんて何もないんだ」
口でだけでそう説明しても説得力がない気がして――奏汰はちょっと照れくさかったが、明日香にこんな話をしてみることにした。
「結構前のことになるけど……冬の、四時くらいのことだったっけな。もうとっぷり日も暮れてて、外は暗くて病室は明かりが点いてた。確かあれ、705号室だな。四人いる患者さんが全員意識なくて植物状態の人ばっかりでっていう部屋。で、クリーム色のカーテンがかかった向こう側で、明日香が何か小声で患者さんに話しかけながら手浴や足浴をしてたことがあったんだ。「外は真冬で超寒いけど、病院の中にいる分には関係ありませんよねー」とか、そんな話を色々言ったりしてて。思わず笑いそうになったけど、その頃俺たちはまだ全然知らない者同士って振りをしてなきゃならなかったから……でも、暫くの間、ドアの内側に隠れるみたいにして、そこから離れることが出来なかった。俺が明日香のことが好きなのは、そういうところだよ。だから、毎日部屋が片付いてるとか、掃除してあるとか、そういう表面的なことはどうだっていいんだ」
「でも、表面的なことだって大事ですよ」
明日香は照れくさかったため、ごはんの上にのった牛しぐれ煮をもぐもぐ食べつつ、そんなふうに言った。
「まあ、ある部分は確かにな。でも、表面とその最奥にあるものとどっちが大事かっていえば、それは表面じゃないほうだってことになる。あの部屋は今、美津子さんが亡くなって、今度は代わりに別の意識不明の患者さんが入った。部屋に入るといつも、人工呼吸器の音とモニターの警告音が時々聞こえるっていうような、そんな病室だ。でも、明日香のこと見てたら、そんなに絶望することもないのかなと思ってね。四人とも、もう植物状態になって長いから、意識が戻るってことは今後もなさそうに見える人たちだけど……」
このあと、奏汰は食事のほうを終えると、「なるべく早く戻るから」と言って、明日香の頭のてっぺんにキスしてから<自宅>のほうへ出かけていった。奏汰が妻子の元へ戻り、週末はそこで一晩すごすということについて、明日香にはそれほど大きな不安はない。彼女自身不思議だったが、明日香が不安に感じるのは、<いつまでこのふたりきりの暮らしを続けられるか>、また、奏汰と小百合の離婚がようやくのことで成立する頃には――奏汰にとって自分はただの以前の妻のかわり、それも長く暮らすうちに気づいてみると、実際には前の妻よりもグレードが落ちる……といったように彼が感じはじめるのではないかという、そうした種類のことだったかもしれない。
もちろん、奏汰は優しいから、そんなことは自分に気づかせまいとするだろう。明日香が何より怖いと感じるのは、何かそうしたことについてだったのである。
一方、奏汰はといえば、今の自分の生活に120%満足しきっていた。明日香が気にしている食事の内容だの、洗濯物が溜まっているとか、部屋が片付いてない……といったことは、大体のところ彼の目に入ってきてはいない。何より、明日香と暮らすようになってから、仕事面でも心身ともに充実している結果としてよく集中してこなせているし、多少の面倒なことも余裕をもって笑ってやりすごすことが出来ている。
それもこれも、奏汰にとっては明日香がいてくれるそのお陰だったし、妻ときちんと離婚もしていない今の段階で、同棲することを強制したのも自分なのだ。ただ、奏汰は「家事が完璧にこなせない」といったことで明日香が悩んでいるらしいのを見て、(本当に気にしなくていい)という自分の本心というのは、いくら言葉を尽くしても伝わらないものらしいと感じてはいたのだが。
(それもこれも、元はといえば、俺が妻との関係をきちんとさせてないせいなんだよな。だから、罪悪感を感じなきゃいけないのは俺のほうなのに……なんだか幸せすぎて、小百合と顔を合わせても、何かこう、あまり……当然の幸福の代償と思えば、この二重生活もそうつらくはないと思える)
週末ごとに奏汰は<自宅>というのか、<元自宅>に通っていたが、帰るのは主に娘のためであって、妻の小百合のためではなかった。もちろん、娘の前では相変わらず、良い父と良い母との役割を演じ、寝室のほうで離婚云々について話しあうのは、娘の七海が眠ったあとということになる。
といっても、小百合はもうゴルフクラブを振り回すことなく、態度のほうは至極冷静そのものだった。その瞳には、七海のいる前では決して見せることのない冷たい軽蔑の情が宿っているが、奏汰としてはただ厚顔無恥に振るまい、「なんとでも言え」といったようなぞんざいな態度だったといっていい。
「それで?わたし、何度もあなたに同じこと言ってる気がするけど、わたしは離婚するつもりはないし、何より、わたしのことはともかくとして、七海のことを考えてほしいのよ。あなたが完全に愛人の元へ行ってこの家に帰らなくなったら、あの子にどういう精神的影響があるか。その部分は流石にわたしにもカバーしきれないもの」
毎週話しあいの中心になるのは、娘の七海のことだった。もちろん小百合は娘のことがなくても、奏汰には週に一度でもいいから家に帰ってきて欲しかった。また、夫のいない平日は彼が愛人とどんなふうに過ごしているかと想像しては気が狂いそうになる。そして、実はこれほどのストレスと打撃を自分が受けているのだとは――彼女は夫に少しばかりも垣間見せることなく、強気の冷たい態度で夫と交渉しなくてはならないのだ。
「わかってるよ。いざ離婚ということになれば、俺の口から七海には説明する。小百合が何度も言っているように、何もかもおまえ任せにするっていうことはしない。だが、離婚届けに判を押すことだけはしたくないっておまえが頑張り続ける限り、話のほうは全然進展しないんだ。すべて俺が悪くておまえには何も落ち度はないんだから、貯金のほうは小百合のほうで好きにしたらいい。それに、慰謝料も養育費のほうも出すって言っているのに、これ以上俺とおまえの間で何を話しあう必要がある?」
「あるわよ!それで?わたしは七海のことをひとり抱えてどうすればいいのよ。まだあの子は十歳なのよ。父親の力が必要な時、わたしだけの力じゃどうにも出来ない時が来たとして、あなたはそばにはいない。あなたは父親の自分が必要な時には会いに来るだなんて言うけど、先のことはわからないわよね?たとえばあなたがどこか遠い地方に住んでいて、わたしと七海は実家のほうにいたら?」
(またこの話か)と思い、奏汰は重い溜息を着いた。奏汰が週末にはこちらへ戻るという生活をはじめて三か月になるが、大体のところ毎週、しているのはまったく同じ話の繰り返しだった。
奏汰にしても、娘の七海のことを持ちだされることが一番つらいことなのだ。また、そのことがわかっていればこそ、その話を妻は何度も持ちだすのだとも、彼にはよくわかっている。
「俺は、自分の良心において、必ず出来るだけのことはする。それは本当にただの口約束ってわけじゃない。七海のことは心底娘として可愛いと思ってる。だから……」
「ほら!だからそれが口だけだって言ってるのよ。確かにあなたはいいわよね。他に女が出来て、そっちと一緒になりたいから、わたしや七海のことは捨てる……だけど、残されたわたしたちはどうすればいいのよ?ハッ、金は十分やるからいいじゃないかですって?笑わせないでちょうだい!あなたがもし医者って職業じゃなかったら、今ごろわたし、あなたがノイローゼになるくらい苦しめてやってるところよ」
怒りのあまり、この時小百合はワナワナと手が震えてきた。今のこの自分の気持ちは決して夫には届かない。そのことはよくわかっている。それでも彼女は同じことを繰り返し言わざるをえないのだ。
「だから、そうは見えないだろうが、俺は小百合には本当に心から感謝してる。今まで、医者としての仕事にだけ専念できたのは、おまえの内助の功があったそのお陰だ。離婚したいというのは俺のただの我が儘だし、四十を過ぎたいい大人の男がしていいようなことでもない。そして、それだけの犠牲は払うつもりだと俺は言ってるんだ」
「犠牲ですって!?自分の好き勝手なとおりにしておいて、わたしや七海が払う犠牲のことも考えないで、よくそんなことが言えるわね。今だって、七海は「パパがいなくて寂しいな」って時々口にしてるくらいなのよ。わたしだって、女手ひとつでこれから娘を育てていかなきゃならないって思ったら、いいかげん気も滅入るわよ。だから離婚はしないって言ってるの!」
(結局は、今日も同じ堂々巡りだな……)
よくもこう妻のほうでは毎週飽きもせずこの不毛な会話を続けられるものだと奏汰は思うが、それもまた自分のせい、自分の責任なのだから仕方ないとは思っている。けれど、彼もそろそろ我慢の限界だった。話を先に進めるためには、無駄に同じところをぐるぐる回っていても仕方ないと、妻のほうで気づいてくれるといいのだが……。
「なんにしても、今日はもう寝よう。これ以上話してもまったく同じことの繰り返しっていうだけだ」
時計が十二時近くを指すのを見て、奏汰は溜息を着きながら頭をくしゃくしゃにかいた。だが、妻の小百合が自分でも口にしていたとおり……確かに、彼女は自分に嫌がらせしようと思えばもっと手段は色々あるのだ。そのことについても実は奏汰は、妻に感謝している部分があるのだった。
このことの内には、小百合の<完璧な夫としての脳外科医、桐生奏汰>というブランドに傷をつけたくないとう、夫に対する純粋な愛情と利己愛の入り混じった感情があるのだが、まだ夫は自分と娘の元に返ってくるかもしれないという希望の残っている限りは……夫の医者としてのキャリアに傷をつけるようなことはしたくないと、そう小百合は思っていたのだった。
ふたりは今はもう毎週、ベッドの端と端とで離れて眠る。そして毎週小百合のほうでは、疲れた夫が寝息を立ててから――ひとり静かに泣きながら眠りに落ちるのだった。
(今週も、この人にわたしの気持ちは通じなかった。それでも、週に一度でもこの人が帰ってくるうちに、わたしは自分と七海の将来のことをどうにかするしかないのだわ……)
今の彼女にとって、唯一の救いは娘の七海の存在だった。奏汰が帰ってこなくなってから、小百合は感情も不安定で、体重のほうも五キロほど痩せた。もし娘がいなければ、食事を作ることも部屋を掃除したりといった家事全般、一切する気が起きなかったことだろう。
また、七海のほうではそうした母親の様子を敏感に感じとって、「ママ、七海もお手伝いするよ!」と言っては、色々と手伝ってくれるのだ。そしてそのたびに、(母親としてこんなことではいけない……)と思い、小百合は夫と対決する力をどうにかチャージしようとするのだった。
(そんなにあなたは愛人のあの女がいいの!?そりゃあ若い子だし、一度手を出した以上そっちにも責任があるっていうのはわかるわよ。だけどそんなの、わたしたちに対してだって同じじゃないの。何より、あの人には父親として七海に責任がある。普通に考えたら、どうしたって間違ってるのは向こうで正しいのはわたしたちなのに……こんなのってあんまりだわ)
小百合はその週も、小さな声ですすり泣きながら眠りに落ちていった。そして、翌日には泣いていたことを夫に悟られないよう、軽くメイクしてから朝食を作った。けれど、夫のほうでは仮にどんなご馳走を作って待っていても、「おまえのためでなく、娘のために帰ってきた」という顔をして、平気でそんなあれやこれやを無神経にムシャムシャ食べ、再び愛人の元へ帰っていくという、それだけなのだ。
「ねえ、パパーっ。次は金曜と土曜の、どっちに帰ってくるの?」
奏汰が玄関で靴をはいていると、七海が最後にそんなことを聞いてきた。彼にとっては父親として、この時が一番つらい瞬間だった。
「そうだな。たぶん、土曜日かな。仕事が忙しくて、ナナにも本当に悪いと思ってるよ」
「ううん、ナナはまだいいの!でも、ママがね、パパがいないととっても寂しそうなの。だから、ママのためにパパが前みたいに毎日帰ってくるといいなって、ナナ、本当にそう思ってるの!」
「…………………」
ここで思わず奏汰が言葉を失っていると、この場合はむしろ小百合のほうが罰が悪かったのだろう。「ナナちゃん!」と、思わず頬を朱に染めてそう叫んでいた。
「ママにも、本当に……悪いと思ってるよ。ごめんな、ナナ。じゃあ、また来週、パパは必ず帰ってくるから」
「うん!また来週ね。パパ、お仕事がんばって!」
幼い娘の、疑うことを知らない純粋な眼差しに罪悪感を覚えつつ、奏汰はドアを閉めると、どっと深い溜息が肺の奥のほうから洩れた。
(つまりは、こういうことなんだよな……)
娘の七海のあの明るい顔が、両親の離婚で暗く曇り、涙に暮れることになるだろうということ――それがどんなにつらいことか、何故わからないのだと小百合はそう言っているのだ。また、週に一度は家のほうへ戻ってきて欲しいという小百合の要請も、そのことを奏汰に気づかせたかったからなのだろう。
妻の自分に対して、夫として気持ちが戻ってこなくてもいい。けれど、娘のために義務と責任がある以上、仮面夫婦としてでもいいから家族として暮らすべきだ、何故なら結婚という社会制度があるのはそうしたことのためでもあるのだから……だが、奏汰はもう明日香との生活を選びとり、思ったとおりそれが幸福なものであることを味わってしまった。
(これが仮に、禁断の不倫の果実というものでも、俺はもう明日香なしではいられないし、彼女のいない生活なんて、もう考えられもしないんだ……)
そう思いはしても、奏汰は七海のことを思うと確かに父親として良心が疼いた。また、小百合が家で元気がないというのも本当のことだろう。だが、そのことで罪悪感を覚えながらも、奏汰は明日香のいるマンションのほうへ戻ると、そのことを忘れることが出来た。
そして、このはっきりしない状態がずっと続くより、離婚して身辺を整理させたほうが、お互いに先へ進める……というのは、もちろん奏汰の側の勝手な言い分であって、小百合にとってはそうでないということも、彼はよくわかっている。
(そうだな。間にカウンセラーの人にでも入ってもらうか。俺と小百合のふたりで話してたんじゃ、えんえんと今の状態が続くっていうだけだものな。それに、小百合のほうでも俺に対する不満や鬱憤が溜まりに溜まっているだろうから、そうした専門家の人に話してすっきりすれば……何かが変わってくるかもしれない)
奏汰にしても、カウンセラーにかかっている暇などないほど忙しい身の上であるとはいえ、土曜日に見てもらえるような精神科医か心理カウンセラーを探してみようとこの時考えていたのである。
こうして、奏汰は妻に電話し、そうした旨を話して同意を得ると、離婚や夫婦問題のことも扱っている心療内科クリニックを探し、一度そちらへ行ってみることにしたのである。
まずは、夫婦別々にそれぞれの言い分を聞いたのち、夫婦揃ってのカウンセリング……ということになるらしく、奏汰は土曜の午後の三時に予約を入れると、面倒とは思ったが、(これも自分が悪いのだから)との思いの元、嫌なことはチャチャッと済ませてしまおうと思っていた。
その心療内科クリニックは、駅前にあるメディカルビルと書かれた七階建ての建物の七階に入っており、一階は薬局、二階は歯科、三階は内科、四階は循環器内科、五階は婦人科、六階は形成外科……といったように受診できる科の名前が並んでいたようである。
予約制のためか、待合室には患者がひとりしかおらず、毎日満員御礼の脳外科外来を担当している奏汰としては、(選んだ場所を間違えたか?)と若干思わぬでもなかった。とはいえ、ネットにおいては評判もよく、「夫婦仲が改善した」、「DV夫が矯正センターへ行くことに同意してくれた」など、好意的なコメントが多くはあったのだが。
奏汰が受付のところに顔をだすと、氏名や住所、電話番号などの他に、悩みの内容等を書く紙の挟まったクリップボードを渡され、奏汰は待合室の合成皮革のソファに座ると、手早く記入のほうを済ませた。
『妻が離婚に応じてくれず、悩んでいます。原因は私自身の浮気によるもので、現在、浮気ではなく本気になった女性と同棲しています。そして、ここまでくれば妻も離婚に応じてくれると思ったのですが、何度そのことを話しても同意を得られないため、こちらへ相談に来ました』
(ま、こんなところか)
そう思い、三分とかからず記入を済ませると、奏汰はクリップボードにボールペンを挟み、それを受付に戻した。その後、廊下の奥のほうにある診療室から、顔の青白い、ひょろりと背の高い若い男が出て来た、約五分後くらいに奏汰は名前を呼ばれた。
看護師でも出て来て名前を呼ばれるのかと思いきや、カウンセラーである精神科医が直接廊下にちょっと顔を出し、「桐生さん、どうぞ」と言ったのだった。
診療室のほうは約十畳ほどだろうか。少しばかり奏汰の部長室にも似た趣きがあるように感じるのは、おそらく片側の壁一面に医学関係の本がズラリと並んでいるそのせいだろう。
奏汰の担当である清水京一郎と机にプレートのある医師は、どっしりとした広い机の前に座しており、診療室のほうは全体の雰囲気として、何か家具店のカタログにでも出てきそうな装飾だった。適度に花や観葉植物などが配置され、他にアロマディフューザーが二台まわっており、快い芳香で部屋の中は満たされいる。
「どうぞ」と促されて、清水医師と机を隔てる形で、奏汰は背もたれのきちんとある椅子に深く腰掛けた。清水医師のほうでは奏汰の書いた例の問診表にあたる紙に目を落としていたが、その後、彼はすぐに本題へ入ったわけではなかった。
「お医者さん、ということは、桐生さんとわたしは同業者ということになりますな。まあ、外科の先生は精神科医なんかとは一緒にされたくない向きが強いとは思いますが」
「いえ、そんなことはありません」と、奏汰は本心から言った。「それであればこそ、俺も今日ここに貴重な時間を割いてやって来たわけですから」
「では、その先生の貴重な時間を無駄にするわけにもいきませんから、順にお伺いしたいと思います。ところで先生、出身地のほうはどちらですか?」
「東京、ですが……」
「東京のどちら?」
――このあと、奏汰としては妻との離婚のことをズバッと話して済ませるつもりでいたが、清水医師は長く時間をかけて、まずは彼に自分の生育暦について語らせたのである。たとえば、両親が厳しく、医師以外の職業は許されていなかったということや、母親は子育てのことで父親に叱責されるのを極度に恐れており、その母の姿を見ていたため、母が何かのことで父に責められないよう、自分も兄も勉強を頑張っていたところがある、また、この二つ年の差のある兄が実に出来た人で、十代のころには強いコンプレックスに悩まされたということなど……。
「まあ、今では法事とか、家の集まりで顔を合わせると、『よくあんな家庭環境で、俺たちもこんなにまともに育ったもんだよな』なんていう話をしては互いに笑うといった仲ではあるんですが……ところで先生、俺のこうした生い立ちのことなんかが、俺が妻と離婚したいと思っていることと、何か関係あったりしますか?」
「そうですね。あまり関係ない場合もありますが、わたしの見たところ、DVの問題などで来院された場合は、その人の育った家庭環境は関係ある場合が多いですね。それで、ちょっとお聞きしたいんですが……桐生さんの立派な脳外科医のお父さんは、お母さんに対して一種の暴力を振るっていたようには感じませんでしたか?もちろん、殴ったりぶったりということはなかったにしても、精神的な意味で、ということなんですがね」
五十代後半で、頭髪のほうも半ば白い清水医師は、細面でスラリと背の高い男だった。おそらく、最初に彼と出会って「医師です」と名乗られた場合、奏汰はおそらく彼が外科系の医師に違いないと直感したことだろう。少し空とぼけたような雰囲気もあるが、眼鏡の奥の眼光には鋭いところが時折垣間見られるという、奏汰はこの精神科医に対し、大体そんな第一印象を持ったかもしれない。
「そう、ですね。今にしてみれば、確かにそうだったと思います。うちの親父というのは、昭和時代の最後のサムライみたいなところがあって、家では家長として、母に対してだけじゃなく、俺や兄貴に対しても支配的な絶対権力者でした。たぶん、俺が医者じゃなく……他の医療系じゃない職業に就いていた場合、家にはもう存在しないか、あるいはいても虫かゴミのように扱われる感じだったんじゃないかっていうのはありますね」
「なるほど。でも、お母さんも桐生さんもあなたのお兄さんも、その父親の設けた基準やゴールといったものに無事到達できたという意味では――それはもう、両手を打ち叩いてブラヴォー!と叫んでいいくらいの凄いことではないですか?普通は、なかなかそう上手くいくものじゃないというのは、桐生さんもおわかりでしょう?たとえば、お兄さんかあなたかがお父さんの設けた基準に到達できなくグレるとか。ですが、このグレというのが実は結構大切でしてな。そして、この子供がグレて父親と殴りあいの喧嘩になったりした場合、この子供の反抗というのは、精神的に虐げられきたお母さんの代弁行為だったりもするわけですよ。ですがまあ、ここで父親のほうで「俺が悪かったから、今こんなことになっているのだ」とは、なかなか気づきにくい。私の言いたいこと、おわかりになりますかな?」
「ええ。もちろん……この場合、俺の父にとっては、それまでの自分の生き方を否定されるも同然なわけですからね。そんなことは親父は絶対死んでも認められなかったと思います。先生、つまり先生がおっしゃりたいのは――俺がもしかして妻に対して、暴力こそ振るわなかったにしても、同じことをしたような心あたりはないかと、そうおっしゃりたいわけですか?」
「そうですな」
ブラインドから流れてくる光の加減で、清水医師は少しばかり神々しく見えた。室内は温かく、アロマのいい香りもしてきて、奏汰はこの時、精神科医や心理カウンセラーというのは、やり方次第によっては、下手をすると相手の心を操ることも出来るのではないだろうか……という危機意識に近いものを覚えていたかもしれない。
「桐生先生の場合は……まあ、奥さまからも来週、話を聞いてみないとわかりませんが、どちらかというと、お父さんがそんな感じだったので、自分だけはああはなるまいといった印象を受けますな。ですが、一般論を交えて申し上げますと、大体今の桐生先生のお父さんくらいのモーレツ社員としてがむしゃらに家庭を顧みずに働いた世代の、その下の世代の方に、配偶者にDVをする人というのが結構いるんですな。「あんな父親にはなりたくない」と思いながら、無意識のうちにも父親から刷り込まれたものが何かの形で表面に出る……というのは、割合よくあることだということです。桐生さんはそうした、奥さんのことを直接殴ったりといったことはなくても、精神的に無視するですとか、相手の要求がわかっていながら故意に無視して奥さんを傷つけた――何かそうしたことに心当たりはないですか?」
「…………………」
奏汰は、記憶の中にある妻との間にあった出来事ファイルを取りだし、ざっとさらってみたが、とりあえず、心当たりはないような気がした。ただし、仕事で忙しくて何を聞かれても生返事だったりとか、そうしたことは数え切れないほどあったし、相手の要求がわかっていながら、面倒くさくて無視したということも(あまりよく覚えていないながら)間違いなくあっただろう。それは間違いのないところである。
「その、俺にはその精神的虐待にあたるものが、どのくらいからDVということになるのかが、よくわからないんですが……確かに俺は今、妻の望みに反して浮気をして、浮気どころでなくそれが本気になって、相手の女性と暮らしています。これも、精神的虐待だと言われれば、確かにそのとおりなんでしょう。それに、俺には妻の気持ちもよくわかってるつもりなんです、これでも……一般的に、医者といえば収入がいいといったイメージですからね。妻にしてみれば、このまま専業主婦として娘のことを育てていきたかったでしょう。俺が思うには、その経済的安定を失いたくないというのが、妻にとっては一番大きいんじゃないかという気がしてます。ですが、話し合いの中で、養育費は必ず支払うし、これまで俺が働いた給料、そこから貯金したすべてを彼女には渡すと言っても――とにかく、別れたくないの一点張りで」
「なるほど。確かに、それはわたしが奥さんの立場でもそうでしょうな。ここでもうひとつ、お聞きしておきたいんですが……今同棲されているという女性は、見た目が、というのではなくて、実は奥さんと似ているといったことはありませんかな?と言いますのも、当院に来て離婚のカウンセリングを受けた方の中には、やはりおられるのですよ。奥さんと離婚して愛人と結婚したい――だが、わたしの聞く限りにおいて、その奥さんと愛人の方が見た目ということではなく似ていたり、何故それで離婚するというのだろう、といったことがね」
家族構成欄の子供の年齢のところに、<娘・10歳>とあるのに清水は目を落としていたが、奏汰のほうでは答えに詰まり、暫くの間黙りこんでいた。
「妻と彼女の間に、似たところはない、と思いますが……」
そう答えながらも、奏汰は小百合と明日香の共通点について初めて考えはじめていたかもしれない。似ているといえば、料理上手であったり、実際には時間がないので難しいにしても、部屋を綺麗にしておきたがる傾向にあることや……けれどその一方、その二倍以上の量、ふたりの似ていないところについて、奏汰はあげることが出来るのだった。
「そういえば桐生さん、何か奥さんに不満な点があって愛人の女性に目がいったとか、そういうことなんですか?」
「いえ、そういうことではなく。ただ、その……病院の忘年会で、気持ちの悪くなった彼女のことを俺が送っていって、その時についいけないと思いながらも、そうした関係になってしまったのがはじまりで……」
「ですが、今奥さんと別れてその女性と一緒になりたいということは、奥さんや娘さんよりも、その女性の何が一番良くて、桐生さんは家庭を捨てようとされるのでしょうか?」
清水医師の話し方は、常に淡々としていて、一定のトーンを保っているという感じだった。だが、かといって何か突き放されているといったようにも感じず、そのあたりの距離感は精神科医として流石、という気が奏汰はしたものだった。
「すべて、だなんて言ったら、たぶん世間の人からは「いい年をして……」と笑われてしまいそうですが、俺は妻とは婚活パーティで知り合ったんですよ。母が顔を合わせるたびに見合いがどうこう言うもので……といってもそれは、母の意見ではなく、母自身は男というのは三十代後半とか、四十のはじめくらいに結婚してもいいくらいに考えてるんです。ただ、後ろに父がいて、父の考えを母は代弁させられてるわけなんですよ。なので、これも三つ子の魂百までというのか、とにかく俺は小さい頃からの習慣で、母を早く安心させてあげなくてはと思ったんです。それで、妻のことは正直、見た目と経歴とその他の、これなら父や母も文句は言うまいという基準によって選んだんですよ。もちろん、だからといって愛情がなかったわけではなく、妻のことはもちろんとても愛していました。それに、婚活パーティなんかで本当にいい伴侶など選べるものかと思っていたのに……本当に、いい女性と巡り合えてとてもよかったと思っていたんです」
「ではその後、一緒に暮らすうちに相手の欠点が見え、それは耐えられないほどのものではないが、愛人を作る遠因になったとは言えますか?」
「……いいえ」
少し考えたのちに、奏汰はそう答えていた。
「妻に欠点がまるでない、とは言いませんが、そういうのはお互いさまですし、妻はずっと俺にとっていいパートナーでした。俺自身も、このまま妻と娘のことだけを大切にして、医師としての人生をまっとうするものと思っていた。ですが、なんというか、出会ってしまったんですよ。運命の相手、というのに。これがただの、何度か体の関係を持ったという程度の、火遊び程度のものなら、俺だって愛人と手を切って妻の元に戻ったと思います。でも、本当に……むしろ、彼女のほうこそが、俺が医師という職業柄、容易に離婚は出来ないだろうと理解を示してくれて。このまま俺が妻と別れなくてもいいのだとまで言ってくれました。でも俺としてはやっぱり……」
ここで奏汰は一度言葉を切った。頭の中で何度も文章を組み立てつつ、それを崩す。どう説明するのが、まったくの第三者である清水医師にもわかりやすく伝わるか、彼にも心許なかった。
ここで奏汰は一度言葉を切ったものの、清水医師のほうから先を促す言葉も何もなかったため、やはりそのまま続けた。
「先生も、医者として一人前になるまでどのくらい大変か、ご存知でしょう?俺はこれまで、両親が厳しかったせいもありますが、人生のレールを決められて、その上をただ努力の名の元にひたすら走ってきました。一度でも止まれば、まわりからも置いてきぼりにされるし、家庭にも居場所がなくなってしまう。それで、俺の場合はたまたま運よくどうにかそうしたすべてがギリギリのところでうまくいったんですよ。そして今度は、脳外科医として一人前になったと周囲にも認められるくらいになって、結婚しろ結婚しろというプレッシャーをかけられて、こちらも運よくいい女性を見つけて結婚できた。ですから、俺が道を踏み外すなんていうのは、これが生まれて初めての経験なんです」
「ふむ。そうですか」
清水医師は素っ気なくそう言った。奏汰としては、若干ムッとしないでもなかったが、その後、カウンセリングが進むにつれて、それが清水のやり方なのだろうということが理解できたかもしれない。彼はむしろ、自分の主観を何か述べそうになる時には、素っ気なくなったり、冷たく突き放したような中立の立場を取ろうとするのだ。
「ですが、それでいくと、初めて道を踏み外すのがあまりにも遅すぎたとは思いませんか?もちろん、桐生さんの気持ちはある程度わかりますよ。ですが、大体四十も過ぎた年になると、社会での自分の地位も守らなくてはならないし、むしろ、もう守りに入って道を踏み外すことのほうが怖い人のほうが多い……だが、わたし個人の意見を述べさせていただけば、桐生さんにはおそらく、自己正当化出来るだけの理由と根拠があるのでしょうな。自分は今まで医師となるために苦労を重ね、このまま安定路線でいくものと思っていた。ところが、愛人の登場で、その安定路線を壊してまでも、彼女と一緒になりたいと思った。だがそれは、ずっといい子の優等生でいた反動が四十も過ぎてから出てきた、というわけではない、ということなんですな?」
「はい。その点は間違いありません。それに、愛人を持ったといっても、俺は一時的に理性を失って彼女にのめりこんでいるとか、そういうわけでもないんです。まあ、確かにこの年になってもう一度青春が戻ってきたとか、そんなふうに思っているところはあるかもしれません。恥ずかしながら……」
「なるほど。では、次週は奥さまのほうから事情をお聞きする予定でいます。もっとも、女性というのはおしゃべりなものですし、おそらくこの場合、より不満度が高いのは奥さまのほうでしょうから……一週だけで聞きとりが済むかどうかわかりませんが、まあ、それでも二週もあれば十分でしょう。その後、今度はおふたり一緒にご来院いただければと思います」
奏汰がカウンセリングに要した時間は約五十分ほどだった。支払ったカウンセリング料のほうは、約三千円ほど。(まあ、良心的な料金設定といえるか?)などと思いつつ、奏汰は清水心療内科クリニックのほうを出た。
もちろん翌週、妻の小百合がここへやって来た際には、自分に対する不満をこれでもかというくらいぶちまけ、さらにその翌週に自分はまたここへ来なければならない……そう思うと、奏汰としても気が重かったが、これも明日香と結婚するためと思えば、耐え忍ばなければならない一つの大きな山だと彼は思っていた。
それに、奏汰は自分に関して、カウンセリングの効力といったものをあまり信じていなかったが、話を聞いてもらえただけでも脳内の整理を行えてスッキリしたし、まるで鏡のように清水医師から問いが返ってくることで……自分の中にある問題点や、妻に対して今まで至らなかったことなど、あらためて色々と考える、よい機会ともなっていたのである。
そしてこの翌週――二月の第二週目の土曜日、今度は小百合が清水心療内科クリニックのほうへ赴き、彼女の場合は、自身のプライドの高さから今度のことについては誰にも相談できなかったため、清水医師が一割しゃべったかと思えば、小百合のほうはまるでマシンガンのようにそのあとを引き受け、九割ほども忙しく口を動かしていたものである。
「そうなんですよ、先生。わたし、自分に何か妻として落ち度があったとは思いませんのに、突然のこの仕打ちでしょう?何より、わたしにとっては自分よりも娘のことが一番大切なんです。娘はパパっ子で、本当にあの人のことが大好きで……たぶん、離婚なんていうことになればすっかり打ちのめされて、わたしもどうしていいかわからないと思うんです」
夫の桐生奏汰とは違い、小百合は最初に渡された紙のほうに、随分びっしりと自分の訴えを書きこんでいたものてある。約三年ほど前から夫が浮気をはじめ、昨年の十月頃、突然家を出ていき、以来自分と娘は週に一度しか彼と会えないこと、夫は離婚したいと言っているが、娘のためにも自分は絶対離婚したくないこと、自分のことは愛してなくても構わない、娘のためにどうしても夫には家に戻って欲しい、そのためならどんな代償でも支払うつもりでいること、先生のほうからも夫に言って、どうにかそのように「正しい方向」へ夫のことを導いて欲しいということ……などなど。
「もちろん、お気持ちはわかりますよ、奥さん」
自分の今の現状を説明する過程で、感極まり、小百合は泣きだしていた。そこで、シャネルのバッグから桂由美のハンカチを取りだし、それで目尻や頬の涙をしきりとぬぐっている。
「普通に考えた場合、誰がどう見ても――この場合、世間が見た場合、ということですが、奥さんの言い分のほうが正しいでしょうな。ただ……」
小百合は清水医師にみなまで言わせず、大きな声でこう応じた。
「でしょお?そうなんですよ、先生!間違ってるのはあの人で、正しいのは絶対わたしと娘のほうなんですの!愛人の女というのをわたしも知ってますけどね、あんな十八も年下の子をたぶらかして、まったく夫ときたらどうかしてますわ。しかも、今度はその子と同棲ですって!先生、先生からも言ってあの人のこと、正気に戻してくださいません?そのためならわたし、本当になんでもしますわ。お金のほうだって、いくらでも支払いますから……」
「いえ、桐生さん。わたしはカウンセリング料以外のお金は一切いただきません。それと、離婚するかしないかは、奥さまであるあなたとご主人が話しあって決めることであって、わたしはそのことをご主人に強制するようなことはしません。今私が申し上げたかったことは、一般的にいって悪いのはご主人のほうで、彼は離婚などということはせず、娘のためにも元の鞘に戻ったほうがいい――これが世間一般の見方でしょうな、ということです。また、ご主人のほうでもそのことはよくご存知なのですな。それに、ご主人のほうで何かあなたに不満な点がそう多くあるわけでもなく、むしろ感謝の言葉さえ述べておられましたよ。ですが、奥さまであるあなたの目から見て、これまでの夫婦生活で何か夫に対し、不満なところというのは何かありましたか?」
「いえ、それが先生、本当に全然ありませんの」
小百合はハンカチを自分の膝元でいじりながら、そうきっぱりした口調で言った。清水医師は、自身も結婚しているため、自分の配偶者に対し不満が一切ないなどということはなかろうと思いつつ……(この奥さんはどうもプライドが高そうだからな。あまり家庭の恥となることは口にしたくないのかもしれない)と思ったりしたものだった。
ところが、驚いたことには本当に小百合には夫に対し、ほとんど不満がないようだった。
「わたし、夫とはいわゆる婚活パーティというので知りあったんですけど……夫と巡り会えるようになるまで、随分変な人とばかり知りあいになって。もうこういう集まりに出るのはよそうかなって思ってた時、彼と運命的に出会ったんです。そりゃあまあ、夫婦として長く暮らすうちに、相手の欠点というのは見えてくるだろうなって、わたしも思ってました。でも、結婚して一年が過ぎ、二年が過ぎても……夫にはそう大して欠点があるように思えませんでした。わたしも、結婚したばかりの頃の幸せの絶頂というか、そういうのはいずれ薄まっていくと思ってました。でも先生!わたしの場合、それがずっと長く続いたんです。そのかわり、一番大変だったのは娘を出産した時のことでした。まずつわりがひどかったですし、出産のほうも難産で……でも夫のほうでは、わたしが弱れば弱るほど、とっても優しくしてくれて。わたし、今でもこんな人は他にいないだろうなって思ってますの。それなのに、急にこの離婚騒ぎでしょう?ですから、先生。わたしは誰がなんと言おうと夫と離婚する気はありませんの」
>>続く。