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物書きひとすじ!時には寄り道、迷ったり、直進したりして、人生は面倒で悲しく楽しくて。

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姉と父の思い出断片

2019-08-15 15:29:46 | 自伝風小説

 勇太朗の思い出の一つに姉が妹をおんぶし、5歳の私がついて、スカンポ採りに野良へ出かけた時のことがある。スカンポは、一晩塩漬けにして食べた山菜だが、水田の土手にたくさんあった。それで姉は妹をおんぶしたまま前かがみになったのでずるずると泥深い水田に落ちてしまった。あわてた私は助けようとして手をさし出したて一緒に落ちてしまった。3人で困り果てて泣いているのを遠くで働いていたマスエさんが見つけて助けてくれた。マスエさんは、母が仲人をして近所の農家にお世話した女性で、姉とは幼馴染であった。
 このシーンは、私の作品『命燃ゆ』にも伊豆の若者健太として執筆したのだが、長すぎるのでカットしたように思う。
 姉は、私と異なり、とても勉強好きで、病弱な母が「学校を休め」と言っても、自分で弁当を詰めて、6キロの山道を県立鶴舞高女へ通った。
 敗戦が間近な頃には、上総牛久駅の近くに宿を借りさせられて五井の風船爆弾づくりに学徒動員させられ、卒業後は義理の叔父(東大の英文科教師から都庁のGHQ担当)の勤務する都庁へ勤めることになったが、報酬が安すぎて、生活費の不足分を貧しい我が家では負担が出来ない。そこで3,4日で退職し、日本橋で幼児の服を商っている叔父の世話で日本ノッズルと言う漁船のエンジン部品を製作する会社へ今の習志野市の父の知人の家に間借りして通勤した。
 姉は、とても家庭思いで出張先で土産に魚をいただくと、終電で我が家まで持ち帰り、母の喜ぶ顔を見て、翌朝は5時起きして小湊線の上総牛久駅から東京まで行った。おそらく3,4時間かかったであろう。
私たち一家は牛久駅から4キロの山村で不便な生活していた。ただ篤農家の祖父母が隠居所に住んでいたので何とか私も母と妹と3人で高校卒業までここにいた。
 父は一念発起して子どもたちの学費を得るために東京の住宅月賦販売の会社に勤めて月に1、2度帰宅するようになっていた。
 私が中学生の時に姉は、叔母が後妻に入っていたわが家よりも山奥の近藤家に嫁入りした。建築技師の義兄はソヴィエト抑留から帰国して村役場に勤めていた。誠実で、ユーモラスなところもある人物であった。私は高校入試の数学と英語を少し教えてもらった。
 姉は、農業が出来ないので嫁ぎ先の農協の組合長の義父(海軍を退役していた)とは折合が悪く、義兄は悩んだ末に県庁の建築課に勤めることになり、幼児の長男と3人で千葉市内に転居した。まぁ、義父に内緒で飛び出したのであろうが、これが後にいろいろと幸いした。
 交通の不便な田舎では、子弟の教育も思うようには出来なかったはずだが、長男も長女も大学や大学院を出たし、私も千葉大学に入学して4年間下宿させていただいた。
 義父も晩年は、田舎での一人生活を切り上げて同居し、近くに住む私の二人の子どもの面倒を孫のように見て下さった。
 高校を卒業したら祖父母の農業を継ごうと思っていた私は、父と担任教師の意向で大学の教育学部に進学した。それは、父が師範学校を断念させられた悔しい思い出を息子に晴らさせようと言う思いからであろう。勉強嫌いの勇太は仕方なしに受験したら合格してしまった。
 父は姉を「やよぼう、やよぼう」と言って可愛がった。姉も父になついていて「おとっちゃん」と呼んでいた。まぁ、母と違って厳しく叱りつけたりはしなかったからだが、無責任と言えばその通りであった。
だが、この父は、牛久の町で自転車店を開業し、母には小料理屋をやらせて、景気が良かったが、東京へ出かけて数日たったらトラック一杯の荷物が届けられた。帰宅した父が突然「地方を巡業する芝居をやるので、その荷だ」と言う。
 母は驚いて反対したが、姉の意見を聞くと「やよぼうは、おとっちゃんに付いて行く」と言うので、母も仕方なく一緒に行くことになった。まだ姉は4歳の頃のことだから私は生まれていなかった。
 この田舎芝居は「梅沢劇団」と言い、後に団長夫婦の末子が「下町の玉三郎」として知られたが、その頃は名もない地方まわりの劇団であった。
 姉は、ある時、芝居の子役になって舞台に立ったが、居眠りをしてしまった。その寝ぼけた仕草が受けて、「かわいい!」と観客から沢山の投げ銭をもらった。
 しかし、劇団の運営は素人には難しく、ある時、劇場のない土地の広場で公演しようとしたが、雨天続きで資金が底をついてしまい、母は質屋通いをした。その挙句、朝起きると、役者は一人残らず夜逃げしてしまっていた。そこは、埼玉県の春日部近郊だと母は言っていたが、詳しくは分からない。
 それで、勘当されている父の市原市島田の実家に帰ることになったが、小湊線の馬立駅までしか旅費がなく、そこからは8キロの夜道を親子3人でとぼとぼと歩いて帰った。だが、父や母が祖父母に声をかけても入り口の戸を開けてくれそうもない。
 父に「やよぼう。お爺さん、おばぁさん、今帰ったよ」と戸をたたかせた。
中から「やよぼうか?」と言う声がして、祖母が戸をあけてくれて、「あれあれ、こんなに遅く、可愛そうによう」と、ごはんを温めて食べさせてくれた。
 姉は、3,4歳のころからとても気が利いていて、しっかりしていたそうだ。

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