満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Devendra Banhart  

2008-02-03 | 新規投稿
Devendra Banhart   『smokey rolls down thunder canyon』

ルーツ回帰的でヒッピー然としたルックスやアメリカンゴシックの闇に分け入るイメージを醸し出す楽曲。嘗てガースハドソンが提示したところの‘マウンテンミュージック’の継承者と一見、思しき変幻自在のアーティスト。しかしその正体は最先端の快楽原則をメジャーシーンで伝播する最新モードのトリックスターか。フォークではなくフォーキー。カントリーではなくアーバンカントリー。アメリカンゴシックを隠し味にするのではなく、皮膚感覚としての音響快楽世界として表現する。従ってルーツミュージックの深みよりも都市音楽、モードミュージックとしての性格をより強く感じる。しかし聴けば聴くほど、快楽の泉にはまり込んでいくような中毒性はある。それも楽曲の力にじっくり魅せられていく以上に全体の音響に身を委ねていくような陶酔的中毒性が勝っている。そしてこのデヴェンドラバンハート。恐ろしく魅力的な声の持ち主である事が音楽の催眠的吸引力を持つ秘訣になっているような気もする。確かに魅惑的で危険な歌声だ。コロっとヤラレてしまいそう。ソングライティングもしっかり練られ、アレンジも演奏もいい。そんなら悪いとこないやん 何がトリックスターやねん!と言われそうだが。いや、確かに良いですよ。多分、私のモヤモヤ感はデヴェンドラバンハートの持つデビッドボウイ的確信犯的パフォーマーとしての才能とアーティストの真摯性が混濁された世界への驚異の感覚なのだと思う。音楽は最高です。

陽光を一杯、浴びた放浪者。ずっと歌っていたのだろうか。歌が自我を超え、大地や風景、陽の光に混ざって溶けている。気体のようだ。それも暖かく、無風の淡い気体。マイナスイオンのような錯覚的心地よさ。しかしどこか真実味がなく虚構のような、リアルと幻想の狭間にあるような歌とサウンド。幻惑されるが、掴み所がない。
リアリティを求める事自体が間違っているのか。この音楽に‘虚構’を感じるのは、サウンド全体の‘スムーズさ’によるものが大きいのだが、実はその‘虚構’が否定的なイメージを伴うものから肯定性へと転化するような音楽的強さを今、感じている。サウンド処理の‘スムーズさ’が一般的にいうところの‘オーガニック’な音響となっているが、根本的には楽曲の力の方をより意識させる作品になっている。何度も聴くにつられ、そう確信してきた。

‘虚構’という実体なきものが静かに基底をなし、幻視を促すような淡い濃度で、イマジネーション参画を呼びかけてくる。それに私達は聴き耳をたてながら、歌い応える。そして‘虚構’は実相を帯び、体を成す。その時、‘実体’よりも強固なものが立ち現れる。大文字の’コミュニケーション’を指向する真の大衆音楽の気配もする。

いろんな事を想起させるアーティスト。
次作を待望させ、意外性を期待させる存在性が嘗てのデビッドボウイが持っていたカリスマ性をも思い出させる。

2008.2.3
 
コメント
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