満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

木村文彦 2

2011-10-28 | 新規投稿
 

向井さんを迎えに行く。
去る10月2日、木村文彦の2回目の録音セッションの日、私は新大阪駅へと車で向かっていた。胡弓を主とする即興演奏家であり、パフォーマーでもある向井千恵氏をスタジオまで送る為である。私が木村氏に向井氏とのデュオを提案したのは理由があった。木村氏が向井氏主宰の即興ワークショップPerspective Emotionの常連である事。二人のデュオでのライブは今までないようだが、以前、私が見た複数人数によるライブで観た木村氏と向井氏の音が対極的に感じられ、二人だけになった時、良いマッチになると感じた為だ。そして向井氏との演奏をCD作品に収録する事のネームバリュー上の認知を目論んだ事も大きな理由である。
個人的にはかつてChe’shizu(シェシズ)のファーストアルバム『約束はできない』(84)が愛聴盤だった事(和製ヴェルヴェットアンダーグランドと捉えていた)もあり、私には向井氏に対する一種の‘畏れ’があり、駅の改札から出て来られた向井さんを車に案内した時、やや緊張していたのは事実である。

スタジオに到着すると、既に木村氏はソロの演奏を半ば、録り終えたところであった。エンジニアブースで大輪さんが「宮本さん、今日は電気ストーブを持って来られてます。」と笑いを噛み殺すように言う。「えっ。寒いから?」とボケながらスタジオに入ると、確かに置いてある。木村氏曰く「押入れを整理してた時にガシャーンと倒れて、その音が良かったんで持ってきたんですわ」との事。前回の譜面台に続き、今回はこの電気ストーブをどのように演奏するのか、またしても楽しみになってくる。それにしてもセットが毎回、違うのも興味深い。前回はなかったフライパンや鍋などのお料理セットや異様にでかいバスドラがある。いや、これはいわゆる大太鼓であった。「古楽器屋でみつけました。ブラックボトムブラスバンドいうバンドが使ったみたいですわ」と言ってボワ~~ンと鳴らした。低音が響きすぎて他の楽器とのバランスが難しく、大輪氏はマイクのセット位置に四苦八苦しているが、木村氏の突飛なセットは毎回、彼にとっても新鮮であり、もはや、‘ウケる’ネタになっているのだ。前回ではヒモがついた大きな筒をどうするのかも知らずその上方にマイクをセットしたところ、突然、木村氏が空中で振り回しながらブオーン、ブオーンと鳴らし始めたので、ガツンとマイクにあたり、あわててセットし直す場面もあった。全く予断を許さないのが、木村氏のパフォーマンスなのである。

向井氏とのデュオはカシャーーンと鳴る木村氏が電気ストーブの一撃から始まった。
ノンストップ30分に及ぶ演奏。向井氏が先導し、木村氏がレスポンスしながら、前方のポジションを取り、また後方に引くといった形の演奏であったが、両者が対峙するバトル的なものではなく大きな川の流れを形成するようなそれはむしろ‘合奏’であったと思う。その幽玄の音響世界は圧巻であった。弓と指で弾き分けられる向井氏の胡弓。通常の胡弓の演奏とは全く異なるセルフインストゥルメントと化した向井氏のパフォーマンス装置たる古楽器からまるで‘電子’をイメージさせるようなモダンな音像が放たれる。その音は音階なき音階で酔わす至上のメロディのようにも感じた。よくある胡弓音楽の‘泣き’は存在しない。無調で物質的な感触を失わずに、それでも感情豊かな音である。
最初のクライマックスが過ぎたころ、憑依の状態と化した向井氏の口から全く自然発生的な歌が出でて、宙に舞い始める。それは内的な要請に従う全くスポンティニアスなものに映る。向井氏にとって即興とはジャンルではない。いかに表現が内部から湧き出てくるか、その時々のリアルタイムな状態の反映であり、その表出の事である。従って、当然、時や場所、共演者などによっても全く異なるものが出てくるのだろう。何も出て来ない時すらあるのではないか。私は向井氏の音を聞きながらそんな事をイメージしていた。

暗闇に浮かびあがる篝火のようなただずまいを見せる音楽。私はブース内で響く胡弓の音に酔っていたと思う。スタジオ内部に入らずブース内に待機していたからこそ、私は二人の演奏の細部を感知したと思う。スタジオとブースをつなぐ窓から木村氏の動きがかすかに見える。相変わらずあっち行ったり、こっちに移動したりして演奏しているようだ。おそらく二人は見えない電流でつながったような音の交換を繰り拡げていたはずだ。演奏終盤に木村氏が短音で鳴らす例のデカ太鼓。そこには太古の響きがこだましていた。

そしてもう一人の共演者、磯端伸一氏がスタジオに現れる。特異なギタリストである磯端氏はかつて高柳昌行に師事していた。と聞けばノイジーな即興系ギタリストを想起するかもしれないが、数多のギターインプロヴァイザーと違うのは、そのボリュームに対する独自の感覚だろう。音色はデレクベイリーに近いが、さらに微音を強調するその音量は即興ギタリストの多くが得てしてフリーキーさや激越性に打って出るのと違い、全く、静的な場面が際立つ事で個性を発揮していると言えよう。あの大友良英氏とのデュオのライブアルバム『Guitar Duo×Solo』(09)を聴くと、その微音の響きが大友氏とのコントラストを生んでおり、同じ高柳門下生同士のデュオが極めて興味深く聴けるのである。磯端氏は小さい音を愛している。そこに倍音が美しく響き、大友氏のボリュームに拮抗する。以前、観たGianni Gebbia(sax)とのデュオに於いても、磯端氏は相手とスペースを取りあうのではなく、メロディや音の破片を相手や自分に適度に投げていた。その演奏意識が非常に興味深い。大友氏とのライブアルバム『guitar duo×solo』は極限でいて全く心地よい音の‘間’が展開され、静かな時間が流れるが、磯端氏のカラーがデュオに方向を与えた演奏になっていると感じた。それは磯端氏の‘静的な牽引力’を想起させるに充分である。
このアルバムには磯端氏と大友氏のそれぞれのソロが収録されているが、元々、コンサートをCD化する予定はなかったらしく、磯端氏はMDプレイヤーで自分の演奏のボリュームに録音レベルを設定して録っていた為、大友氏の演奏がレベルを超えてしまい収録できず、大友氏のソロテイクだけはスタジオで録音し直したと言っていた。それほど、磯端氏は小さい音を愛しているのである。アルバムのライナーには大友氏による二人の出会いから突然の中断と空白期を経て再開し、共演に至る経緯が記されており、興味深い。高柳昌行という二人の師のまいた種は異なった個性の即興演奏家を生んだのだろうか。
実は私にとっても磯端氏とは再会なのだ。東京に住んだ頃、1986年に、メンバー募集で磯端氏と会い、喫茶店で話をしたことがあり、その時、高柳昌行に師事している事を言っていた。が、磯端氏は‘全く覚えていない’との事。そりゃそうだろう。もう25年も前だ。

木村氏と磯端氏は4テイクを演奏した。
磯端氏がアコギを演奏する時は木村氏はやや音量を控えめに、アンプにつなげる時は、遠慮なしに音をぶつけていたと思う。木村氏のカウント的な演奏から徐々にグルーブに乗って、スリリングな‘ジャズ的’なインプロを繰り広げたテイク3を私は「to white」とタイトルを付けた。画像を遊び感覚で編集し、you tubeにアップした。

家に帰って大輪氏から手渡された録音データをさっそく、pro toolsで開く。
木村氏のパートの各リージョン(録音入力データ)の名前の中に、大輪氏が、しっかり‘電気ストーブ’と入力している事に私は笑ってしまった。普段はfront、top、L、R等とマイクの位置を書き入れるのに。やはり、今回も大輪氏にウケるネタを提供した木村氏であった。さて、これからが難関の編集作業に入る。特に向井氏との30分の演奏をどう、短縮するのか。頭の痛い作業になりそうだが、楽しみである。

2011.10.28


向井千恵http://www.kilie.com/mukai/
磯端伸一http://blog.livedoor.jp/abstsi/





木村文彦Kimura Fumihiko&磯端伸一Isohata Shin'ichi duo improvisation - TO WHITE -



  
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HALL OF GLASS  『Faded Landscape(色褪せた風景)』

2011-10-23 | 新規投稿
 

東京―大阪というわずか3時間足らずで行き来できる距離でつながった町と町は私にとってこの20年ほどの間、近くも遠い二つの場所であった。そして私はその遠い距離をいわばずっと‘守っていた’のだと思う。
先月、バンドのライブで訪れた吉祥寺シルヴァーエレファント、そしてその翌日、うだるような暑さの中をとぼとぼと歩いて、存在しているか半信半疑で見に行った、かつて住んだ2階建てのワンルームアパートがいずれも‘こんなに小さかったっけ’とまるで子供時代に過ごした場所を大人になって訪れた時に覚える錯覚のような既視感覚に囚われたのは不思議であった。いや、私はそんな錯覚こそをどこかで期待していたからこそ、これまで東京に向かう事なく、いたずらに長い年月を ‘守っていた’とも言える。私は今回の‘過去に向かう’旅を楽しみにしていた。それは20年前、東京を去る時の敗北感、喪失感に照らした自分の過ぎ去った年月を味わう旅でもあった。そしてそんな特別な感情を引き出す契機になったもう一つの媒介があった。このブログを通じ、私の眼前に現れたザキこと山崎氏である。拙書『満月に聴く音楽』(06)で私は東京に住んだある一時期のバンド活動の事をまるで青春の物語よろしく感傷的、郷愁的に記述した。その「回想の歌」と題した章で脇役的な人物として元リザードのベルと共に登場するのがキーボーディストである山崎氏なのだった。誰も読まないだろうとたかをくくって書いた物語はしかし、山崎氏に発見された。いわば封印した過去の中から登場した山崎氏との出会い。ライブ会場で声を掛けてくれた氏との再会は照れ臭くもあり啓示的であり、「回想の詩」というもはや永遠に現実化する筈のない私小説が突如、動き出し、物語に続章が生まれた。ここに過去と現在がつながったのである。

山崎氏との会話は失われた記憶を拾い集め、「回想の歌」を補完する手がかりをつかむものであった。しかし、会話の折、時に事実と虚構が入り混じるような錯誤が降りかかり、私達は混乱したのである。例えば山崎氏が「有志郎がライブで缶ビールをキックした時に・・・・」と私の「回想の歌」の記述そのままを事実と勘違いして言った時、私は「えっ?いや、その場面は創作ですよ』と答え、山崎氏も「そうだっけ」と答える始末。しかし、後から考えると‘いや、待てよ。蹴ったかもな。酔っぱらった高さんが有志郎の緊張をほぐそうと、ステージに缶ビールをぽんと置いた事は覚えている。「これ飲んで落ち着き!」と叫んだのも事実だ。いや、どうだったかな‘と何が何だか分からなくなってしまったのである。

現実と非現実が交錯し、入れ替わっていた。
場面、場面がリアリティを失い、不条理なストーリーへと投げ出された様な一つの大きなフィクションと化していった。ここにきて私は何が事実で何が作り話であったかその判別が困難になり、そのことを受け入れる心情に移行した自分に気つくのである。
何という事だろう。山崎氏との邂逅は過去の場面がよりリアリティをもってその輪郭を現すはずであったのに、実際にはより深い超現実の彼方へと全体を混濁させたのである。物語を書いた頃は、まだ、事実と創作の区別が明確であったと思う。よりドラマ性を醸しだす為に事実に脚色を加えた事を私は著作のあとがきで断ってもいた。しかし、ここに至り、「回想の歌」は幻想小説となった。

そして私達の共感は、過去の一時期に共有したその想い以上に、むしろ今現在、尚も共に音楽にこだわっている事にこそあったと思う。山崎氏は自分のCD作品を私に渡し、音楽への変わらぬ情熱を示したのであった。山崎氏にとっては過去の物語よりもこちらのほうこそが重要であったと思う。むろん、私とて同じであった。かつて同じ時代を同じ心情で過した私達にとって、今‘感じ合える’事ができたのは双方が自己紹介として現在の音楽を提示できた事が大きいと思う。それがなければ過去を懐かしがったり、肯定的に捉える事はできなかったかもしれない。やり続けているという事こそが私達を結びつけたのである。

HALL OF GLASSの『Faded Landscape(色褪せた風景)』は山崎氏とその奥方でボーカルとベースを担当するpochikoのユニットである。当初、そのダークで適度にポップなニューウェーブサウンドに懐かしさを感じたのは80’s世代の条件反射だったかもしれないが、そのメロディの力感が私の内側に徐々に浸透するに及び、スタイルではなく固有の情熱が切求力を持つ入魂の音楽という様相に変化してきた事に音楽の不思議な力を感じた。即ち、それは今現在、積極的に聴いてはいないジャンルの音楽によって新たな快楽原則を提示されたような感慨でもあった。いや、それは正確な表現ではないかもしれない。このHALL OF GLASS の‘暗い美しさ’とはかつて私が最も、愛したものであったではないか。

想起するのは‘暗さ’の象徴としてのニューウェーブやプログレッシブに浸っていた私がR&Bやソウル、ファンクへの傾倒を深めていった時の心情である。むしろ中学時代はポップスのカテゴリーで愛好したソウルやディスコサウンドを高校・大学時代の‘ロック時代’に聴くことがぴたっと止んでいたのは、パンク、ニューウェーブ、プログレッシブ等の‘暗さ’が当時の心情、感性にマッチしたからであるが、逆にその暗さが自己形成に影響を与えているという毒性をも自覚していた。従ってその後のブラックミュージックへの傾倒はいわば‘暗さ’から転じる肯定性への飛躍、明るさへの突破の想いでもあり、それをニューウェーブと同時並行的に摂取することで、バランスをとろうとした意識的な試みであったと思う。従ってブラックミュージックを愛好するその基底にはニューウェーブがあり、その‘暗さ’を通過儀礼として受容、胚胎しているからこそ、ポジティブへ転じる感覚が生じていったのであり、その意味で両者は表裏一体であったのだ。そしてそもそもブラックミュージック、それ自体が‘暗さ’を裡に隠し持つ事で深みを持つメディアに他ならなかった。

HALL OF GLASSの音楽は私のそんな‘基底’を呼び戻すに足る質実を持っていた。ここにあるのは音楽の外形よりも中核へ向かうという基本の確認だったと思う。私がいくらジャズを愛好していると言っても、そのテクニック的なものへはあまり関心が向かわないのは、私の中に紛れもなくパンク、ニューウェーブの感覚が強く宿っているからだ。従って、HALL OF GLASSの打ち込みを思わせるエレクトリックビートや最小単位に抑えられた器楽構成という当初、感じたマイナス面が私の中から消えていく事にそれほど時間はかからなかった。それよりも先に音楽の中心から剥き出しの魂が現出し、その訴えるパワーが感性を支配していったのであるから。
アルバム『Faded Landscape』に4ADやfactory、ポップフィールドではニューロマンティクスやジョンフォックス、後期ウルトラヴォックス、あるいはダムドの『phantasmagoria』等をオーバーラップさせる事は可能だろう。しかし私にはそれらとは別の音像も現れる。ミドル、スローテンポを多用する事で感じられるある種の成熟感はパンク、ニューウェーブ系列の‘暗さ’‘鋭利さ’と比し、安定や安寧の感覚に満ちている。それは心の平静や不安ながらも穏やかな恒久感といったものを醸し出し、カウンターカルチャーの表出形態たるニューウェーブのエッジを少しずつ、剥がしていくような包容的なものを創造しているように感じる。より、正確にいえば鋭利なものと丸みあるものが交互に立ち現われ、消えていくような循環の世界であろう。従って、私が聴いたのは、暗さと明るさを同時に鳴らすようなトータルな歌の全集であり、ネガティブなものとポジティブなものの対立的な境界、そのラインを溶解させていくような世界であった。全編を通じてどこかロック色が希薄な匂いがすると感じていた正体が正にこの作品の‘歌集’という本質であったような気がする。

かつて‘ロック’とは音楽ではなく、それは思想であった。
正確に言うと言葉なき思想であった。明確な言語概念で裏付けする事が出来ない、いや、出来ないからこそ始末に負えない思想。ただ抽象的で、ある意味、幼児的な反抗と内向をむりやり思弁化するような想いだけが、ふらふらと漂い、終着すべく母港をもたず、漂流する非言語の思想であった。いわばそこに魅力があり、ただの音楽が他のジャンルとは違う人への影響度を持ったのだと思う。
私達はそうゆうロックこそを体験してきた。そしてそこから脱する事も同時に希求してきた筈である。HALL OF GLASSに安心感や安らぎといった要素を感じられるとしたら、そんな希求の入り口を示されたからかもしれない。それともそれは‘かつて’から長い年月を経た今に聴く錯覚だろうか。私と山崎氏に共通するのは‘かつて’と比べ、現在のそれなりの安寧であろう。従って、仮に25.6年前のあの頃、この音楽を聴くとそれはやはり、‘暗さの協奏曲’という印象に終始し、故の共感という違った形になったであろうか。

Faded Landscape(色褪せた風景)というタイトルにあの時代のリアルな出来事がフェイドアウトし、消えていく様をオーバーラップさせ、蒼い述懐である「回想の歌」のサウンドトラックたりえた偶然をそこに見る。何が事実で何が作り話であったかその判別が困難になった物語とは正に事実という風景が徐々に色褪せた風景として目の前に在る現在を映し出しているだろう。同時にそれは私の、そして山崎氏のその時代の心情のフェイドアウト、いわば心象風景の色褪せた状態でもあったかもしれない。

あの時代に私達に共通した‘暗さ’、‘切迫感’‘夢見’は何だったのだろうと思うことがある。その地平から今、遠い場所まで来ている。ささやかながらの安定、心の充足という‘平時’だけを求めていたのか。今、私達はそこにいるのかもしれない。「回想の歌」に記した一括りの文章は、色褪せ、消えようとしているあの頃の私達を映す日記である。その感覚を永遠に忘れんが為の装置として私はHALL OF GLASSの『Faded Landscape』を傍らに置いておくだろう。

『私達は再び、うだるような暑さへ放り出された。
空気は乾き切っていた。この乾きは私達の‘飢え’と一致していた。満たされる事の無い状態。そんな私達を取り巻く空気そのものが‘暑さ’であり、‘渇き’であった。成功、夢の非現実性をどこかで自覚しながらも尚、ゲームの遊泳を続ける迷路の象徴としての‘夏’があったように今、感じる。陽炎が立つようなあの日の路上の熱さを当時の心理的、感情的なものと併せて、今、思い出す事ができる。』
<回想の歌 4 アルバートアイラー「summer time」>『満月に聴く音楽』から抜粋

2011.10.22
    
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Time Strings Travellers 時弦旅団 ワンマンライブは11/26(土)中崎町コモンカフェ

2011-10-18 | 新規投稿


私が主宰するTime Strings Travellers 時弦旅団のライブが決定しました。 11/26(土)中崎町コモンカフェで開場7時30分。開始8時です。チャージ1000円(ドリンク別)今回はワンマンでゲストにボーカルの横江邦彦、パーカッションの木村文彦を迎え、にぎやかに、たっぷりと時弦旅団の世界をご堪能、できるよう、頑張る所存です。みなさんの御来場をお待ちしておりますです!http://ompasha.blog.shinobi.jp/Entry/69/
それと、まじかに迫っているのは木村文彦のソロライブですが、こちらは10月23日(日)大阪造形センターで18:00開場 18:30開演 チャージ1500円(ドリンク別)です。ダンサー山田いずみさんとの共演です。私は現在、木村氏のCD作品を制作しており、先日、磯端伸一(ギター)、向井千恵(胡弓)両インプロヴァイザーとのセッション録音も終え、編集作業を続けています。 これはすごい作品になると手ごたえを感じているのですが、ライブでの木村氏の演奏をたくさんの人に見ていただきたいと思っています。http://migohsha.com/topics/2011/10/10/8077/

2011.10.18

  

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