満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Erykah Badu 『New Amerykah, Pt. 1: 4th World War』

2008-05-27 | 新規投稿

このアルバムにある反米的とも言える体制批判の精神は元々、彼女にあったものなのか。多分、そうだろう。‘反米的’という言い方は語弊があるので、エリカ・バドゥの持つ様々な問題意識が現実に対峙する時、アメリカ社会の現状に対するアンチの心情を保持せざるを得ない、その姿勢と言い換えよう。『第4次世界大戦』と題された本作。外盤を買ったので歌詞の詳細は解らないが、インナースリーブにある数々のイラストと曲名、その英詞をざっと見ただけで、その激越ともとれる政治メッセージが窺える。9.11以降のアメリカの外交姿勢、ブッシュ政権への批判は今や、サブプライム問題やカトリーヌの被害地救済の怠慢に対する批判と相まって、アメリカでの表現者が広く共有する明確なタームになっている気がするが、エリカ・バドゥもまた、そんな戦列に加わったのだろうか。

ただ、私がより強くイメージするのはエリカ・バドゥのアフリカ志向である。正確にはそれは‘回帰’であろうが。本作『New Amerykah, Pt. 1: 4th World War』にある‘オールアメリカンブラックミュージック’たる、そのぎっしり詰まったブラックミュージックの幕の内弁当状態がすごい。彼女はまずアフロアメリカンの文化総体に対する帰属意識が濃厚にあり、従って、その先祖である母なる大地、アフリカへの何らかのアプローチが将来的に必然性を伴って具体化するであろう事を直感させる音楽を今、作り上げていると思われる。

Pファンクのパロディなのかと勘違いしそうな一曲目「amerykahn promise」はロイエアーズのプロデュース。猛烈に疾走するファンク。カッコいい。しかし2曲目以降はマッドリブによるアブストラクトヒップホップやら、従来のネオソウル、はたまたダンスポップや前衛色濃厚なナンバー、モストブラックな濃い口ソングと、その多様性が際立つ作品となっている。聴き通しての衝撃度、ファーストインパクト強し。確かに。

もはやエリカ・バドゥに真正面な‘ソウル’は求めるべくもない。歌唱法や様式、音響に対しても探求的であろうとする意欲が証明された。本作に見られる説得力はメッセージの先鋭化を際立たせる為の必然的なトラックメイキングの精緻さの追求だろう。その音の感触はブラックラディカリズム思想を単にスローガンとぜず、音楽構造上に於いても深化させたフリージャズのシカコ前衛派等を想起させるに充分な重みを感じる。つまり言葉の重みに充分、拮抗しうるサウンド構築が実現している。他方、それがより広汎なコマーシャリズムの獲得やソングライティングの自閉的失速を回避する為の戦略に基づくエリカ・バドゥの作為であるとも感じる。しかし何れにしてもそれら全てが‘創造’であろう。

先行シングル「honey」のプロモに於いてエリカ・バドゥはブラックミュージックの先達への愛を表明した。レコード店での色んなアルバムジャケットに自身が登場するアイデアは痛快だ。チョイスされたのはダイアナロス、ファンカデリック、グレイスジョーンズ、デラソウル、エリックB&ラキム、オハイオプレイヤーズ、E.W&F … あとは何だったかな。
おそらくエリカ・バドゥはブラックミュージックマニアだろう。その継続する音楽マニア志向が様々な問題意識の喚起につながり、概念的なものへの関心へと伸張する時、必然とも言えるアフリカ精神という表現拠点への帰結を強く予感させる。

2008.5.27

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藤井郷子オーケストラ名古屋  『山嶺』

2008-05-26 | 新規投稿

「藤井郷子オーケストラ名古屋版のCDを送ってくれ」
岐阜のドラマー近藤君に電話したのが、1年前だが、‘ずっと送ってこない。そんな奴だ。まあいいが。’と当時のブログに書いている。その近藤君がいきなり電話をかけてきて「今、大阪に来てるんで、会えませんか。実は新作、持ってきてるんです。」と言う。夜の11時に。どこまでも意表をつく奴である。

藤井郷子の数あるプロジェクトの中で、唯一、自身が演奏しないのが、この名古屋オーケストラ。彼女はコンダクターに徹する事で演奏の自発性を誘発する。名古屋オーケストラのサウンドの特徴はその土着的パワーだろうか。ライブは見てないが、このCDからもその渦巻くようなエネルギーが伝わってくる。

野暮ったい。垢抜けない。洗練されてない。
「えらいゆわれかたやな」と怒られそうだが、その通りなのだ。それが持ち味なのは皆が認める所だろう。しかしその土着的パワーを呪術的方向へ深めたりして音楽性が小難しくなるのかと思えばそうではない。常民パワー的な混沌。猥雑さ、ごちゃ混ぜご飯のような味わい深さ。エロスならぬスケベ。そんな感じである。
「ほめてんのかけなしてんのかどっちやねん」と言われそうだが、これもその通りなのだから仕方がない。しかし混沌の中にポップでキャッチーな音楽性が潜んでおり、そんな明るさこそがこのオーケストラのパワーの源泉であるようだ。曲は相変わらず入り組んで複雑だが、演奏の‘野放し感覚’が音楽性を何とも開放的であっけらかんとしたものにさせているのだ。近藤君曰く「間違った箇所もそのまま収録されてます」との事。

なるほど藤井郷子はピアノを弾かない事でこのオーケストラの勝手気ままな生のエナジーを放出させているのだ。彼女の神秘的な緊張感に満ちた必殺の一音は切れ味が鋭すぎて、このバンドの集合ドタバタチャンバラ劇に合わぬのか。渋さ知らズの高度スペクタクル性に程遠い、その庶民的どんちゃん騒ぎは町内会の盆踊り大会のよう。いや、ええじゃないかのジャズオーケストラ版か。
「ふざけたことばっかりゆうて、おまえええかげんにせえよ。」と言われそうだが、私は感動しておるのだ。本当に。これが藤井郷子の芸術性の一面なのだ。しかも極めて強烈な。バンドリーダーはギタリスト臼井康浩のようだが、藤井郷子オーケストラ名古屋版は彼の個性の反映でもあるのだろう。バンド全体の音色のアーシーな処理にその土着感覚が滲み出る。どこまでも、いわばローファイな盛り上がりが信条なのではないか。

自身が主席で卒業したバークリーついて「職業音楽家を育てる所で芸術家を育てる所とは言えない」と嘗て発言した藤井郷子。彼女の表現魂の深化、広角性をこの名古屋オーケストラからも再認識できる。

近藤君と夜中の2時頃までファミレスで話し込み、彼の相変わらずのエネルギッシュな話しっぷりに辟易する。そのパワーインプロなドラムスタイルと全く同じしゃべり方。長く一緒にいるとこっちが疲れてくる。それほど外向的エネルギーに溢れる人間だ。
アルバム「山嶺」の4曲目は「近藤スター」。近藤君の即興をメインにした藤井郷子のオリジナルである。
「近藤君が曲名になってるやん!すごいな、マイルスみたいで。ビリープレストンかムトウーメみたいやな。」

ブログを見てもらおうと思い、アドレス書いてくれとパソコンと携帯のアドレスを紙に書いてもらうが、発信してもエラーで返ってくる。両方、間違えてるようだ。そんな奴だ。まあいいが。このページ、いつか見てくれ。

2008.5.26

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BAUHAUS  『GO AWAY WHITE』

2008-05-15 | 新規投稿


無惨なり。バウハウス。
再結成の新作にてラストアルバムだという。何のために。よく分からない。これを作るだけの為に25年振りにスタジオに集まった四人。しかしその内容たるや惨憺たるもの。曲も演奏も全く最低。無惨だ。あまりにも。バウハウスは過去の栄光を自ら汚す過ちを犯してしまった。

嘗て、私の暗い青春の1ページを占めたバウハウス。全てのアルバムを愛していた。来日は1983年。その衝撃的なライブは同時代に来日した多くのニューウェーブバンドの中で最も強い印象を私に残している。その年、解散。最高の音楽性とパフォーマンスを誇る偉大なロックバンド、それがバウハウスだった。だからこそ私は、このバンドの正当な再評価、リバイバルを期待してきた。事ある毎に「バウハウスはすごかった」と誰彼構わず伝導したりした。それほど無理解が渦巻いていた。ワンアンドオンリーな個性、類似するバンドがいない為か。フォロワーなき絶対的オリジナリティがバウハウスを巡るあらゆる無理解の源だっただろう。‘ビジュアル系の元祖である’等という捏造、曲解を目にした時、込み上げる情けなさに私は首を横に振った。あとゴスがどうだとか。何なんだ、ゴスとは。

シアトリカルなステージや劇的イメージ以前にバウハウスは確実にミュージシャンだった。
練られた楽曲。物語性豊かなアレンジとアルバム全体の構成美。緊張感溢れる演奏。どれもが一流であり、その表現ビジョンの深さ、一貫性は本物だった。それはヨーロッパの暗黒、神秘主義の表現だったが、楽曲に潜在した欧州歌曲のエッセンスや汎伝統性は子供だましのゴシック等とは次元を異にするものだったのだ。

アルバム『burning from the inside』(83)のナンバー「antonin artaud」を昔からずっと、未だに「アントニンアルタウド」と訳している無知がバウハウスを巡る無理解を象徴している。シュルレアリスムの詩人、演劇家であるアントナンアルトーに関心が向かったバウハウス。アルトーにある狂気や背徳性、神性の表現をバウハウスは獲得しようとした。そんな高次の表現意欲が音楽性に結実したのが各々のアルバムだったのだ。デビッドボウイが嘗てリンゼイケンプに師事し、マイムを学んだのもアントナンアルトーへの関心が契機だったようだ。しかし私はバウハウスの方がよりアルトー的世界を音楽で具現化したと思っている。

デビューシングル「ベラ・ルゴシ・デッド」(79)のイメージフィルムにドイツ表現主義映画「カリガリ博士」が使われていた事を覚えている。イメージを追求する事はグループの重要な要素であっただろう。だが、バウハウスはソングライティングの充実度により、それらを単なるイメージ背景とせず、むしろ内在化させた。そこに深みが生まれ、安っぽさを回避できた。バウハウスの表現ビジョンとはドイツ表現主義やシュルレアリスムに見られる‘内面性の発露’であったのだろう。バウハウスは現在の人間の交錯する魂を原形化したアートを表したかったのだ。幻想やホラー的要素は表現の過程に於いて音楽の外面に付着した、あくまでも副産物だったと感じる。そんな事を強く思い起こさせるのはグループの圧倒的な演奏力が印象深い為だ。それは極めて‘現実的’であった。

その意味で重要なのはアルバムの合間にリリースされたカバーシングル「telegram sam」、「ziggy stardust / third uncle」だった。この3曲の演奏の凄まじさはTレックス、ボウイ、イーノの原曲をパンク世代に再認識させ、それらの持つ楽曲的パワーを知らしめた。そしてバウハウスは自らをそれらに連なる者としてのリアルロックを宣言したのだと思う。従って特筆すべきは表現の演劇性の中に存在した確かな‘ロックビート’であった筈だ。それは内面的質実の深化故に出来上がったバウハウスの堅固な支柱であったと思う。図らずもそれは内面性が欠如し、ビジュアルイメージのみに振り回される数多のバンドがビート感が皆無であった事と好対照を示していた。

内面性の音象化(ビジュアル化)がビートを基盤に成される時、バウハウスの音楽はエンターティメント性を伴う最高のアート作品となった。永遠に聴く事のできる作品性をバウハウスのアルバムは確かに有している。それはクイーン(77年くらいまでの)こそが最もバウハウスに類似するバンドであるという私の確信につながるのだ。両者はいわばメジャー/マイナーという裏表の関係にも似た相似性を示していると感じる。

思わぬ過去回顧の契機となったBAUHAUSの『GO AWAY WHITE』。
凡庸な楽曲と張りのない演奏。私は失望した。作るべきではなかったと思う。その醜態は昨今の再結成ブームの一環のようだ。かつてオールドウェイブの延命を徹底的に批判していたニューウェーブ期のアーティスト達が今、同じ蹉跌を踏む。「‘ヒーローズ’を出した時点で死ねば良かったんだ」と嘗てボウイを批判したロバートスミス(キュアー)が今では自らが、醜悪なリバイバル(サバイバル)を演じる昨今の状況を‘歴史は繰り返す’と看過しても良いのか。周囲の批判が極めて少ないようだ。だから余計、始末に負えない。
衰退した音楽産業という現実の前に、アーティストも取り巻きも音楽ライターも歓迎の意を表す共犯関係にあるのだろう。何故、ちゃんと葬ってやらないのか。私達にできる事は彼等を限りなく無視し、表現に接すれば冷静に批判する事で過去の偉業と明確に区別する事だけだろう。それをいたずらに持ち上げるから皆、成仏できないのである。合掌。

2008.5.15

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Miles Davis 『コンプリート オン ザ コーナー セッションズ』

2008-05-10 | 新規投稿

Miles Davis 『the complete on the corner sessions』

バンドのリハーサルを再開しているが、ギターがいない。メンバー募集でもしようと思い、15年ぶりくらいに雑誌「jazz life」を買ったが、その内容のあまりの低落ぶりにびっくりした。表紙の「誰でも弾けるワルツ・フォー・デビイ」というベタなコピーに嫌な予感はしたのだが、その内容たるや、楽器情報やスタンダード曲の譜面で埋め尽くされた‘プレイヤー雑誌’と成りはて、全く批評がない。あるのは新発売の楽器や機材の情報と楽譜、中道的な新譜評とヒネリのないインタビューだけ。つまらない。いつからこんなのになったのか。昔はもうちょっと批評があった。楽器を演奏しない音楽マニアや評論を求めるコアなリスナーに訴える批評性こそが同誌の持ち味で、それはとうの昔から批評性ゼロだった‘ジャズを装ったオーディオ雑誌’「swing journal」と一線を画していたはずだ。それが今ではどっちも同じようなものになってしまった。無惨なものだ。

現在ではその未来予見的サウンドが大きな感嘆符で語られる『on the corner』(72)だが発売当時は、ケチョンケチョンに酷評されたアルバム。しかし酷評されたからと言って、私達は当時のクリティックに対し、「わかってないなー」と言えた義理ではない。酷評するという行為が今となっては実に尊い。褒めてばかりの宣伝屋に堕ちた昨今のライターに『on the corner』を酷評する勇気や、批評眼があるか。

『on the corner』再評価はジャズファンでなく、DJやクラバーが‘発見’した事が契機になったそうだ。そこに感性の鋭さを見る向きもあるが、私は同意しない。例えば昨今の最先端の北欧ジャズシーン等が、従来のジャズファンの現代的感性の鈍さに勝るクラブピープルの先鋭的センスといった単純化した図式で語られるのを多く目にするが、見当違いだろう。ジャズファンの保守性とは‘感動の深みから抜け出せない常態性’を言うと同時にクラバーの革新性とは‘表層快楽の衣装替えから抜け出せない常態性’の事であろう。双方の偏り方に優劣があるのか。
そもそも私は本当に『on the corner』がジャズファン以外の多数に聴かれているのか疑念を持っている。DJが手つかずの古典を掘り、恣意的に再評価するプロパガンダに付和雷同する者が多いだけじゃないのかと感じている。だからジョンコルトレーンを聴かずにアリスコルトレーンやファラオだけを聴く等という屈折したスノビズムが横行する事になる。そのような‘間違い’に気づくには、音楽の愛好を情報や評判や仲間意識に頼るのではなく、自分の耳だけで判断する習慣や訓練が必要なのだ。多分、アリスやファラオもそんなに好きじゃないんだろう。

古典を理解し現在的再生する試みは、その古典の思わぬ側面や隠れた本質に対する嗅覚は言うに及ばず、試みる者の独創的創造性が必要だろう。嘗てクラフトワークの「trance europe express」を「これは紛れもない‘ファンク’である」と認識したアフリカバンバータのような例こそが革命的なのであり、そこに見られる新しい音楽言語の創造は昨今のDJが単に手つかずのレア音源を他人より早く見つけるだけの採掘競争とは次元を異にするものだ。
それはそれとして、私が『on the corner』がクラブピープルに広く支持されている事に懐疑的なのはそのリズムのアンチグルーブ性の為である。通常のブラックミュージックのノリはここにはない。グルービーでなく、ファンキーでもない『on the corner』。マイルスはかなりヒネリの効いたリズム言語を創造し、ファンクの定義を拡げた。それが斬新だったからこそ、当時は無理解と酷評に溢れたのだ。

この時期、スライやJBを日常的に聴いていたマイルスだが、そのままファンクするような単純なアーティストではない。同時に示唆されたのが、西洋現代音楽であった事は暗示的だ。異種混合こそが創造性の萌芽である事を感覚的に熟知したマイルスならではの、試行錯誤がここに始まる。
ドイツの前衛作曲家、シュトックハウゼンに傾倒したマイルスはその実験音楽に何を見たのか。それは非―黒人音楽的ノングルーブによるパルスビートの中にある快楽原則の発見だったのだと思う。アフリカバンバータがクラフトワークという‘ファンキーミュージック’を発見する10年ほど前、マイルスもシュトックハウゼンの中に同じく、高熱のファンクグルーブを見たのか。新しいファンクの概念がここに生まれた。通常のグルーブサウンドを有しない、しかし最高のファンクビートが。ジャズのセオリーは断ち切られ、ソロも喪失された。しかもアドリブすらない。

マイルスの新音楽はベースの刻み方を聴けば分かる。
ソウル/ファンク畑のベーシスト、マイケルヘンダーソンは『on the corner』に於いて、自身の持ち味であろう、うねるようなドライブ感やファンキーなフレーズからは程遠い、短くカットされたリフの断片を小刻みに繰り返す異様に抑制された演奏を繰り広げている。
途中でもっとランニングし始めても良いんじゃないかと感じるほど、そのプレイは間を作り、もはや無機的な空気を漂わす機械的演奏に終始する。安易に高揚しない。運指を高速にする欲求が抑えられ、ひたすら少ない音数によるリフ注入に徹している。そんな平坦なビートがしかし幾十にも重ねられ、ドラム、パーカッション群のみならずうわものさえも、マイルス自身も、個々がリズムの断片となり、その多層構築を成し、しかも全くクールなアンチクライマックス性で一貫させたのが、この『on the corner』でのマイルスグループの演奏だった。メンバー個々の放つリズムの破片がまるでパズルのように組み合わされ、大きな一つのグルーブサウンドへと変容してゆく。これは定型のファンクネスではない、新しいリズムグルーブミュージックだろう。結果的に民族音楽での反復リズムを想起させ、その陶酔性がドラッギーな放流感覚を匂わす面もあるが、全体の統制感覚にこそ注意が向かう。マイルスが刺激を受けたシュトックハウゼン風のミニマルミュージックをバンド化する事によって、抑制された意識、高度に自律的な空間を実現しているように感じられる。しかもエモーショナルな部分を程よく設置する事で(デイブリーブマンのサックスがそれを担う)、絶妙なバランスによる高揚感を実現した。

マイルス自身もソロを吹かない。見事なまでにリフオンリー。だからそれを他人にも押しつけたのか。マクラフリンやデジョネット、コリアにハンコックといった名人達がマイルスの得体の知れない実験の犠牲になった。皆、何をやらされているのか一体、解っていたのだろうか。多分、スタジオであれこれ指示されて、何か変な曲だなと感じながら、とにかく演奏して、出来上がったレコード聴いてびっくり、なんて事だったんではないか。マイルスは多人数にひたすら細切れになったリズムの塊を反復演奏させ、後でテオマセロと一緒にそれらを編集した。かくして何とも形容しがたいリズムミュージックができあがった。

マイルスが72年に制作した『on the corner』
そのジャケットワークや曲名から醸し出されるブラックラディカリズムやストリート性等のその‘黒人臭’はしかし、従来のブラックモードを超越するものである事こそが、真に斬新であったのだろう。音楽の本質に従来のブラックミュージックの快楽原則を超えた電子パルス的音響を注ぎ、これを新たなファンクネスの新音楽として提示した。言わば西洋を吸収し、その影響を合体ではなく、飲み込む形で黒人精神の上位的発露となし得た。その貪欲さはマイルスのプライドだろう。

マイルスがしばしば「黒人達の作りだしたものが、薄っぺらいロックに化けて人気になっている。」という発言を繰り返していた事に注意する必要がある。誰よりも黒人意識が高いのがマイルスだった。常にブラックミュージックを手本に、創造され、改良されてきたロックやポップ。
彼は仕返しをしたのだろう。今度はブラックの側から西洋音楽の高濃度なエキスを絞り、飲み込んだ。それを両者の融和ではなく、あくまでもブラックミュージックの発展の為に行った。マイルスの時代毎の偉業はみな、その繰り返しだという事に気づく。

『the complete on the corner sessions』はCD6枚ボックスセット。しかし実際にはそのタイトルとは違い、『get up with it』(74)のナンバーを混在させている。これが効いた。『get up with it』は言わずと知れた最強グルーブを誇るイケイケドンドンの作品だ。制作者の意図なのか、単なる思いつきか解らないが、この際、『コンプリート・オン・ザ・コーナー』という題を付けたいい加減さはもうどうでもいい。マイルスの企画アルバムではよくある事。
アンチグルーブの『on the corner』に究極のグルーブ『get up with it』をごちゃまぜにしてコンパイルした本作は、結果オーライかな。

マイルスのCDボックスセットシリーズは『in a silent way』、『bitches brew』、『jack johnson』等60年代後期以降のいわゆるエレクトリックマイルス期のものが、それぞれリリースされてるが、今回は問題作『on the corner』に『get up with it』を混ぜたものだった。
もう次の商売も見えてくる。いつか『パンゲア』、『アガルタ』がくるのだろう。これこそが最強作品になるのは見えている。
でも簡単には出さないんだろう。もったいぶってリリースするつもりだと思う。ジャンルを問わず、CDが売れなくなり、音楽産業が衰退し、ジャーナリズムも凋落してゆく、中心不在のシーンにあって、ことジャズに於いては未だにマイルスという巨星に頼らなくては成り立たないのだから。マイルスは死んでもずっと活躍して、貢献しているわけだ。このネタを会社は大事にし、小出しにするだろう。80年代の復帰後音源という、楽しみなネタもある。

2008.5.9

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続・続 フリクション観戦日誌

2008-05-02 | 新規投稿
 
2008年4月22日 心斎橋クラブクアトロ

デジタルリマスターという技術革新や紙ジャケという新商法による過去音楽の広汎な再評価がシーンにもたらされているが、レコード店でフリクションのCDが常時、在庫があるという状況が生まれたのも、そんな昨今のアーカイブムーブメントと無関係ではない。店頭で‘ふ’の棚にはフリッパーズギターとブームの大量のCDの間に‘フリクション’という仕切りしかなかったと以前、書いた事がある。
過去の作品のリマスターCDの登場や、『FRICTION the BOOK』の刊行、3/3のCD復刻、などによるグループの世間的評価基軸の上昇に対し、それまで私達ファンがずっと感じてきたフリクションの孤高的マイナーとしての位置が幻のようだったかのような錯覚を感じざるを得ない。時代認識がやっとフリクションに追いついたのか。

この2年ほどの間、フリクションをめぐる状況が激変していると言えばそれは大げさか。
過去の音源復刻や本の出版に見られるアーカイブ作業を、しかし私は偉業の回顧ではなく、むしろ、それらが現在進行形のフリクションへと自然に直結させる現在的意義を認識させる事に役立っていると感じられる。それほど現在のフリクションの演奏はすごい。もう昔のフリクションに過剰に入れ込む必要もない。CDも「以前はこんなのだったのか」程度に聴いてもいい。結局、ライブバンド的本質を持つフリクションの過去回顧とは、今のフリクションの演奏が歴代の音楽性に対し遜色ないインパクトを放っているが故の、より強い意義発見の事である。現在のフリクションの充実度が前提にあるからこそ、過去の音源に対する関心が高まっているというのが、正確な見方ではないか。
無理に延命措置を図る長期継続バンドの醜態を帳消しにする為の過去回顧はよくあるが、フリクションはそれとは程遠い。レック自身がそもそも過去に対する態度が冷淡極まりない。このバンドはいつの時代も‘今’にしか関心がない。

フリクションに対する期待の気運の高まりを何となく感じる。新作をリリースしていないにもかかわらず、その数少ないライブの衝撃が静かに伝播している予感がする。
マイペース派のレックと違い、相棒の中村達也が活動活発なハイペース派で、広く名が知れた存在である事も大きいだろう。思えばレックがフリクションでこんな‘メジャー’なミュージシャンと組むのも初めてだ。ちょっとした宣伝効果にもなっているか。いや、しかし中村達也と組む事で‘吉’と出たのは、勿論、その音楽性の進化においてのみである。二人フリクションによるライブを先日、二度目の体験をした私は、このロックユニットの創造性をより強く認識するに至った。

****************************

昨年3月の磔磔ライブからもう一年が経つ。年に一度のフリクション祭り。クアトロに入るともう大谷は来ていた。この手のライブはいつもこの旧友と一緒だ。
「最近、何か観たか?」
「渋さ知らズ。」
「俺は恒松正敏を見逃した。」
「俺もチケット買ったが、親父が亡くなり行けなかった。」
2人共フリクションだけは逃すわけにはいかない。

いつも通り、レックは登場するや否や、速攻で楽器を持って弾き始める。このもったいぶらない態度は相変わらず。あわててMDウォークマンをレック(REC)する。
曲はヒットメドレー&キンクス、イギー。
ベースギターの音がまた改良されている。全体的に低音が強調され、音に拡がりが生まれたように感じる。去年、見た印象はベースでいかにギターを代行できるか、その音色の高音域を際立たせる試みがあり、曲によって低音部の不足を感じたが、今回のフィット感はレックが試みたバランスの完成によるものだと確信する。ドラムとの混ざり具合が抜群になった。最高に気持ちいいサウンドだ。
初めて観た時、私はこのユニットに興味深さを感じながらも、この編成が過渡期における一時的なもので、ずっとこのスタイルを続けるには無理があるかなと多少、感じていたのだが、今回、その感じ方が変化した。3人目は要らない。二人だけだからこそ生きるサウンドがあると思えてきた。私にとってこの感想は大きな変化だ。

もうギターは不要。
そう思わせるほど、レックのベースギターの試行錯誤が完成に近づいた印象がある。
しかし重要なのは、そんな音色面での完成度以上に、その演奏のスタイル、二人のつくる音楽性そのものが、二人編成だからこそ、その創造が可能になったという実感によるものである。何がそう感じさせるのか。それは一言で言えばロックにおけるリズムのズレをグルーブさせる斬新な試みが、ここでは行われているのである。しかも極めて自然体に。それが解った。

ドンカマ時代以降の機械的単線ビート全盛の中にあっても、ロックに於いてリズムのズレこそがグルーブの命である事は変わらない。そんなグルーブが減った事だけが事実なのだ。
ロックミュージックで最高度のグルーブを誇るバンドがリズムセクションの各パート間のタイム差を利用した(無意識的にでも、)ものである事は数多の例を見るまでもない。
ジャストタイムでは決してロックのバイブレーションは生まれない。
レッドツェッペリンを見れば解る。突っ込むギターと後乗りドラム。ベースはどちらにも与せずニュートラルに保つ。いわば、三者がバラバラなノリを創造し、瞬間的一致する事で、最高のドライブ感を生んでいたのが、ツェッペリンの凄さだった。ペイジやジョーンズにR&Bのセッションの下積みを長く経験した事によるグルーブ感覚が体に染みこんでいたに違いないが、ブラックミュージック特有のノリ、タメがロックフォーマットで存分に生きた最たる例がツェッペリンである。それは演奏者のグルーブ創造への意識が高度レベルに達しているそのセンスによってなし得る技でもあるだろう。ジャストキープしながら一瞬のズレを生む、そのリズム創造の奥義。昨今のロックに見られなくなったグルーブサウンズの快感。レック=中村達也の創造の醍醐味は正しく、そんなロックのグルーブ革命の継承、実践にあるのだ。

この生々しいロックリズムが現在のフリクションの進化の形である。
中村達也が山下洋輔やナスノミツルなど、ジャズや即興音楽の演奏家との競演が多いプレイヤーである事を知った。以前、エイトビートに行き詰まり、苦悩の中での試行錯誤があった時期、レックから再び、エイトの気持ちよさをサジェスチョンされ、スタジオでセッションを繰り返す中でその快楽を再確認したと書いてあったのを読んだ事がある。中村達也はエイトをそのままキープするのではなく、固有の即興感覚を通過させながら、創造的に打ち鳴らしている。従って極めて激しく流動するエイトビートの形が顕れた。そのタイム感に独自のものが生まれ、レックと異なる時間アプロ-チによるズレのグルーブ創出に至っていると言えよう。二人の、一致したり、離れたりしながら進行するビートがランニングするのが最高のグルーブを生む。従って曲中のユニゾンやキメが、より際立ち、生きるのだ。短い、一瞬のキメでさえ、それが長大なユニゾンプレイに感じるのは、その前後の演奏にズレや間、フリーな空間が用意され、常に次の瞬間の音が予期できないスリリングさがあるからだ。それを強く感じる。

「cycle dance」のリズムパターンでそのまま「gapping」へ移行する。なるほど、こう来たかという感じ。ノリやすい。高速の16ビートのうねりが延々続く。ジャングルとテクノを合体させたような反復リズム。カッコいい。終わって欲しくない陶酔感がある。私は前列に割り込んだ。

フリクションは新たな領域に入ったようだ。
前回よりもサウンドの多様性を感じる。恐らく二人は更にスタジオでの試行錯誤を行い、その即興感覚、構成感覚に深みを加えてきたのだろう。
私は去年の磔磔ライブのレポートで以下のように書いた。
‘私はグループの新たな局面を見た。内向するドライブ感。ズレながら加速し、感情の揺れをビートで表現するような不定形なグルーブ。その印象は<裸体のリズム>であり、<剥き出しになったビートの核>だ。’
そして‘フリクションに初めて<内面>を発見した’とも書いた。
今回のクアトロにもそんなソウルフルな感性は健在だが、より強く印象づけられるのは、音楽のスタイル、外形を綾取る広角さと、演奏の即興的生成感だった。ライブ構成もより練られ、80年代にあったフリクションライブの‘構築美’を再び、実現している。

曲が終わる度に、レックが中村達也に近づき、何やら耳打ちする。演奏の打ち合わせか。
ヒソヒソ呟くレックに中村達也が大きな声で「ハイッ」と答える。なんのこっちゃ。こんな愉快なフリクション今まで見たことない。中村達也のキャラは歴代フリクションでも異質か。いや、楽しくていいよ。

アンコールは「no thrill」。常々、私が感じていたレックのベースコントロール(ここではベースギター)の妙技に感じ入る。音量やバランスを安定的に処すコントロールではない。むしろ逆でピッキングレベルを微妙に変えながら自由に遊ぶコントロールであり、音量や音質が指使い、そのアタッチする毎に変化するライブ感覚が、なんとも生々しくいい音になるのだ。レックに呼応するように中村達也も幾分、ピアニシモで始まり、徐々に高揚していく。2回目のアンコールに応えて「big-s」。ここで終了予定だったらしいが、私達のアンコールは終わらない。レックたまらず「大阪 サディスティックピープル」会場爆笑。ラストは「fire」。レック、ちょっと指か手首を痛めたか。ぶるぶる手を振る。

希に見る個性を放つロックユニットとなったフリクション。
たった二人で発するインパクトの強さ。強いて言えばそろそろ新曲が聴きたい。
嘗てフリクションのライブは常に、未だレコーディングされてない新曲で構成されてきた。「replicant walk」(88)が出た時も、「zone tripper」(95)が出た時も、その殆どのナンバーが既にライブで何度も演奏されていた馴染みの曲であり、しかもライブ毎にアレンジを変えて演奏されていた事に驚きや楽しみがあった。曲名すら解らない曲を(レックはMCをしない)リリースされたアルバムによって初めて知り、それらの曲が「こうゆうアレンジに収まったのか」という確認をしていたものだ。

確かにレックは過去の曲をまるで新曲のように斬新なアレンジで演奏する。まるでマイルスデイビスのように。それはフリクションというバンドの現在も続く長い特性である。ただ、私達ファンの更なる望みは、新作レコーディングである。ライブで新曲がないという事は、未だその準備はできてないという事かもしれない。
中村達也がレック強く進言する事で、それが可能なのかも。期待してます。

2008.5.2


 



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