東京―大阪というわずか3時間足らずで行き来できる距離でつながった町と町は私にとってこの20年ほどの間、近くも遠い二つの場所であった。そして私はその遠い距離をいわばずっと‘守っていた’のだと思う。
先月、バンドのライブで訪れた吉祥寺シルヴァーエレファント、そしてその翌日、うだるような暑さの中をとぼとぼと歩いて、存在しているか半信半疑で見に行った、かつて住んだ2階建てのワンルームアパートがいずれも‘こんなに小さかったっけ’とまるで子供時代に過ごした場所を大人になって訪れた時に覚える錯覚のような既視感覚に囚われたのは不思議であった。いや、私はそんな錯覚こそをどこかで期待していたからこそ、これまで東京に向かう事なく、いたずらに長い年月を ‘守っていた’とも言える。私は今回の‘過去に向かう’旅を楽しみにしていた。それは20年前、東京を去る時の敗北感、喪失感に照らした自分の過ぎ去った年月を味わう旅でもあった。そしてそんな特別な感情を引き出す契機になったもう一つの媒介があった。このブログを通じ、私の眼前に現れたザキこと山崎氏である。拙書『満月に聴く音楽』(06)で私は東京に住んだある一時期のバンド活動の事をまるで青春の物語よろしく感傷的、郷愁的に記述した。その「回想の歌」と題した章で脇役的な人物として元リザードのベルと共に登場するのがキーボーディストである山崎氏なのだった。誰も読まないだろうとたかをくくって書いた物語はしかし、山崎氏に発見された。いわば封印した過去の中から登場した山崎氏との出会い。ライブ会場で声を掛けてくれた氏との再会は照れ臭くもあり啓示的であり、「回想の詩」というもはや永遠に現実化する筈のない私小説が突如、動き出し、物語に続章が生まれた。ここに過去と現在がつながったのである。
山崎氏との会話は失われた記憶を拾い集め、「回想の歌」を補完する手がかりをつかむものであった。しかし、会話の折、時に事実と虚構が入り混じるような錯誤が降りかかり、私達は混乱したのである。例えば山崎氏が「有志郎がライブで缶ビールをキックした時に・・・・」と私の「回想の歌」の記述そのままを事実と勘違いして言った時、私は「えっ?いや、その場面は創作ですよ』と答え、山崎氏も「そうだっけ」と答える始末。しかし、後から考えると‘いや、待てよ。蹴ったかもな。酔っぱらった高さんが有志郎の緊張をほぐそうと、ステージに缶ビールをぽんと置いた事は覚えている。「これ飲んで落ち着き!」と叫んだのも事実だ。いや、どうだったかな‘と何が何だか分からなくなってしまったのである。
現実と非現実が交錯し、入れ替わっていた。
場面、場面がリアリティを失い、不条理なストーリーへと投げ出された様な一つの大きなフィクションと化していった。ここにきて私は何が事実で何が作り話であったかその判別が困難になり、そのことを受け入れる心情に移行した自分に気つくのである。
何という事だろう。山崎氏との邂逅は過去の場面がよりリアリティをもってその輪郭を現すはずであったのに、実際にはより深い超現実の彼方へと全体を混濁させたのである。物語を書いた頃は、まだ、事実と創作の区別が明確であったと思う。よりドラマ性を醸しだす為に事実に脚色を加えた事を私は著作のあとがきで断ってもいた。しかし、ここに至り、「回想の歌」は幻想小説となった。
そして私達の共感は、過去の一時期に共有したその想い以上に、むしろ今現在、尚も共に音楽にこだわっている事にこそあったと思う。山崎氏は自分のCD作品を私に渡し、音楽への変わらぬ情熱を示したのであった。山崎氏にとっては過去の物語よりもこちらのほうこそが重要であったと思う。むろん、私とて同じであった。かつて同じ時代を同じ心情で過した私達にとって、今‘感じ合える’事ができたのは双方が自己紹介として現在の音楽を提示できた事が大きいと思う。それがなければ過去を懐かしがったり、肯定的に捉える事はできなかったかもしれない。やり続けているという事こそが私達を結びつけたのである。
HALL OF GLASSの『Faded Landscape(色褪せた風景)』は山崎氏とその奥方でボーカルとベースを担当するpochikoのユニットである。当初、そのダークで適度にポップなニューウェーブサウンドに懐かしさを感じたのは80’s世代の条件反射だったかもしれないが、そのメロディの力感が私の内側に徐々に浸透するに及び、スタイルではなく固有の情熱が切求力を持つ入魂の音楽という様相に変化してきた事に音楽の不思議な力を感じた。即ち、それは今現在、積極的に聴いてはいないジャンルの音楽によって新たな快楽原則を提示されたような感慨でもあった。いや、それは正確な表現ではないかもしれない。このHALL OF GLASS の‘暗い美しさ’とはかつて私が最も、愛したものであったではないか。
想起するのは‘暗さ’の象徴としてのニューウェーブやプログレッシブに浸っていた私がR&Bやソウル、ファンクへの傾倒を深めていった時の心情である。むしろ中学時代はポップスのカテゴリーで愛好したソウルやディスコサウンドを高校・大学時代の‘ロック時代’に聴くことがぴたっと止んでいたのは、パンク、ニューウェーブ、プログレッシブ等の‘暗さ’が当時の心情、感性にマッチしたからであるが、逆にその暗さが自己形成に影響を与えているという毒性をも自覚していた。従ってその後のブラックミュージックへの傾倒はいわば‘暗さ’から転じる肯定性への飛躍、明るさへの突破の想いでもあり、それをニューウェーブと同時並行的に摂取することで、バランスをとろうとした意識的な試みであったと思う。従ってブラックミュージックを愛好するその基底にはニューウェーブがあり、その‘暗さ’を通過儀礼として受容、胚胎しているからこそ、ポジティブへ転じる感覚が生じていったのであり、その意味で両者は表裏一体であったのだ。そしてそもそもブラックミュージック、それ自体が‘暗さ’を裡に隠し持つ事で深みを持つメディアに他ならなかった。
HALL OF GLASSの音楽は私のそんな‘基底’を呼び戻すに足る質実を持っていた。ここにあるのは音楽の外形よりも中核へ向かうという基本の確認だったと思う。私がいくらジャズを愛好していると言っても、そのテクニック的なものへはあまり関心が向かわないのは、私の中に紛れもなくパンク、ニューウェーブの感覚が強く宿っているからだ。従って、HALL OF GLASSの打ち込みを思わせるエレクトリックビートや最小単位に抑えられた器楽構成という当初、感じたマイナス面が私の中から消えていく事にそれほど時間はかからなかった。それよりも先に音楽の中心から剥き出しの魂が現出し、その訴えるパワーが感性を支配していったのであるから。
アルバム『Faded Landscape』に4ADやfactory、ポップフィールドではニューロマンティクスやジョンフォックス、後期ウルトラヴォックス、あるいはダムドの『phantasmagoria』等をオーバーラップさせる事は可能だろう。しかし私にはそれらとは別の音像も現れる。ミドル、スローテンポを多用する事で感じられるある種の成熟感はパンク、ニューウェーブ系列の‘暗さ’‘鋭利さ’と比し、安定や安寧の感覚に満ちている。それは心の平静や不安ながらも穏やかな恒久感といったものを醸し出し、カウンターカルチャーの表出形態たるニューウェーブのエッジを少しずつ、剥がしていくような包容的なものを創造しているように感じる。より、正確にいえば鋭利なものと丸みあるものが交互に立ち現われ、消えていくような循環の世界であろう。従って、私が聴いたのは、暗さと明るさを同時に鳴らすようなトータルな歌の全集であり、ネガティブなものとポジティブなものの対立的な境界、そのラインを溶解させていくような世界であった。全編を通じてどこかロック色が希薄な匂いがすると感じていた正体が正にこの作品の‘歌集’という本質であったような気がする。
かつて‘ロック’とは音楽ではなく、それは思想であった。
正確に言うと言葉なき思想であった。明確な言語概念で裏付けする事が出来ない、いや、出来ないからこそ始末に負えない思想。ただ抽象的で、ある意味、幼児的な反抗と内向をむりやり思弁化するような想いだけが、ふらふらと漂い、終着すべく母港をもたず、漂流する非言語の思想であった。いわばそこに魅力があり、ただの音楽が他のジャンルとは違う人への影響度を持ったのだと思う。
私達はそうゆうロックこそを体験してきた。そしてそこから脱する事も同時に希求してきた筈である。HALL OF GLASSに安心感や安らぎといった要素を感じられるとしたら、そんな希求の入り口を示されたからかもしれない。それともそれは‘かつて’から長い年月を経た今に聴く錯覚だろうか。私と山崎氏に共通するのは‘かつて’と比べ、現在のそれなりの安寧であろう。従って、仮に25.6年前のあの頃、この音楽を聴くとそれはやはり、‘暗さの協奏曲’という印象に終始し、故の共感という違った形になったであろうか。
Faded Landscape(色褪せた風景)というタイトルにあの時代のリアルな出来事がフェイドアウトし、消えていく様をオーバーラップさせ、蒼い述懐である「回想の歌」のサウンドトラックたりえた偶然をそこに見る。何が事実で何が作り話であったかその判別が困難になった物語とは正に事実という風景が徐々に色褪せた風景として目の前に在る現在を映し出しているだろう。同時にそれは私の、そして山崎氏のその時代の心情のフェイドアウト、いわば心象風景の色褪せた状態でもあったかもしれない。
あの時代に私達に共通した‘暗さ’、‘切迫感’‘夢見’は何だったのだろうと思うことがある。その地平から今、遠い場所まで来ている。ささやかながらの安定、心の充足という‘平時’だけを求めていたのか。今、私達はそこにいるのかもしれない。「回想の歌」に記した一括りの文章は、色褪せ、消えようとしているあの頃の私達を映す日記である。その感覚を永遠に忘れんが為の装置として私はHALL OF GLASSの『Faded Landscape』を傍らに置いておくだろう。
『私達は再び、うだるような暑さへ放り出された。
空気は乾き切っていた。この乾きは私達の‘飢え’と一致していた。満たされる事の無い状態。そんな私達を取り巻く空気そのものが‘暑さ’であり、‘渇き’であった。成功、夢の非現実性をどこかで自覚しながらも尚、ゲームの遊泳を続ける迷路の象徴としての‘夏’があったように今、感じる。陽炎が立つようなあの日の路上の熱さを当時の心理的、感情的なものと併せて、今、思い出す事ができる。』
<回想の歌 4 アルバートアイラー「summer time」>『満月に聴く音楽』から抜粋
2011.10.22