2月1日
↓雨の中、太陽が三日月のようにみえました。
月次祭。雨の中、8名が参列下さいました。
今回より新しい社務所で直会となり、炬燵にはいって和やかな中、節分のお話をさせていただきました。
本来、季節の変わり目である立春、立夏、立秋、立冬の前日を「節分」といいますが、立春など太陽の黄経を24等分にし、それを季節に対応させた24節気(大寒や立春、啓蟄など)のはじまりが、立春なので、その前日だけ「節分」という言い方が残っています。
桃の弓・矢などで鬼を追って、邪気を退ける節分の行事は中国からの影響があり、追儺(ついな)、おにやらいとも呼んでいました。
福は内、鬼は外と撒く追儺(ついな)は、『徒然草』(鎌倉時代)では、12月の大晦日に行われていたことが記されており、室町時代には豆で鬼を払っていたようです。
豆についていえば、節分の夜に豆を焼き、その年の月々の天候を占うこともありました。
12粒。炉の灰の上に右から正月、2月と豆をならべ、白い灰が多い月は晴れ、黒くこげる月は雨、息をふくのは風、早く焼けると旱魃とされていたようです。
柊とイワシも「やいかがし」といって中国地方にもその風習が残っていますが、柊のほかに、萱、大豆の殻、竹、楊の箸、山椒の枝など、尖ったものは鬼への目つきや邪気をよせつけないといわれてきました。イワシのほかにも、髪の毛・にんにく・ねぎ・らっきょうのような、焼いて臭気を発するものも邪気をよせつけないと信じられてきました。
因みに宮中での節分は、節分の前日に大豆を水に浸し、節分の日の夕方に炒ります。
炒った豆は木箱にいれ、神前に向かって座り、半紙二枚用意し、一枚の半紙には年の数より一粒多い豆を、もう一枚には年の数だけをおき、「お蔭様で年越しの豆をいただき、年をとらせていただきます。来年もまた節分を迎え、年をとらせていただきます」というようなことを述べながら一粒多いほうをたべるそうです。
もう一つの方は半紙をおひねりとして包み、右手にもって体をなでて祓いに使用するそうです。目をなでるときは「目が悪くなりませんように」耳をなでるときは「耳も聞こえますように」、口頬では「口も歯も丈夫でありますように」と、体一つ一つをなでるときにその部分が丈夫であるように心で願いながら撫でて、最後に「お蔭様で今年も厄を祓わせていただきました。今年も健康でありますように」といって、おひねりを頭越しに後ろになげ、そのあとは振り向かないそうです。
豆まきの掛け声も「福は内、福は内」といい「鬼は外」はいわないようです。宮中の神様が鎮まる場所には鬼はいないからだそうです。
※『神道事典』『宮中賢所物語』『日本の年中行事』などを要約
このようにみると明治5年以前の旧暦の生活では、節分と大晦日が重なって意識されていたんでしょうかね。
三原市の亀山神社では節分に形代で祓いを行いますし、厄除けは正月から節分にかけて行われることが多いのは、立春で年をとるという日本人の考え方があるからかもしれません。