スイスに三十年来住んでいながら、ろくにスイスに関する情報を発信しない我がブログ・・・。
しかし、いよいよこれぞと自信を持って言える事柄を実体験しつつあるので、ここに書いてみようと思う。
というのは昨日、今は二人とも老人ホームに移り、あるじ無き相方の両親宅へ用があって数ヶ月ぶりに行ってみて
相方と私は、彼等の思い出がびっしり詰まっているであろう小綺麗に整理された、あるじ無き部屋部屋を眺めては
つくづくと両親の現状に思いを馳せ、スイスの大半の高齢者の終の棲家となる老人ホームに移り住まなければならない事に
あらためてその過酷さを思い、我々自身の覚悟をも促す・・・複雑な思いにふけることになった。
私はこの歳になるまで、放浪者のようにアチラコチラうろうろして身近に老人がいる、ということが無かったので
5,6年ほど前、相方の両親の双方のオバ二人が90を過ぎて、あの豊かな生活から簡素な一部屋の老人ホームに移ったのを目の当たりにし
それを受け入れているらしい、オバ等をみて非常に感心したことを覚えている。
相方の母にしても、早くから諦観して現状を受け入れているが、父方はなかなかそうも行かないらしく苦しみながらも現状を受け入れつつある。
そういった意味でも『女性は強い』・・・という気がする。
こういつた光景をみると、仏教が説く『生老病死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦』の他に、もう一つ除けない苦『出家』が
スイス社会には必ずあると言え、世界的に高齢化社会に向かいつつある現状これはスイスに限ったものではないであろう。
そうした時、日本で『出家』といえば僧侶になることであるが、文字通り自宅から老人ホームに『出家』しなければならない社会システムに
生きる私達はそれを前提に生きていく覚悟がいるであろう。
私は禅修行をした『居士』であるが、禅の修行の目的そのものが、『一度出家する』ことではないかと、今あらためて思う。
どんな形にせよ『仏門』に向かうということは、『心の出家』であると覚悟すれば『終の棲家』がどこになろうと問題ではない…と思うが。
アルプスの少女ニコルの図
相方は父譲りの完璧主義でいつも蝸牛のような小さな家を背負っているが、中は空っぽであることにうすうす気づいているようだ・・・
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