私達は日本語で自分のことを『自分』と書いて、『自分の分』と『他人の分』の違いを学び、比較して自己の成長を量ってきた。
こういった過程を先人は 『 幼子が 次第次第に 知恵つけて 仏に遠く なるぞ悲しき … 』 といつの日か詠ったが、
その『自分』のままでは、いくら知恵をつけても、腑に落ちた幸福感を得られない事に人はいつか気が付く・・・。
私は二十代の頃、鏡に映る自分と対話することを覚えたが、『鏡に映る私』は『本物の私』より強く、迷いがなく、私は常に励まされていた…。
時は流れ、三十代になって私は禅の修行を始め、いつの日か『庭前の白樹子』に対面していた…
寺の境内の大樹に対面して坐り、『樹に成りきれ!』という激励に戸惑いながらどれくら時は経ったであろうか・・・
いま私は、仏教語を使わず、私たちが日常的に使用している言葉『自分』で禅の観点の一旦を表したいと思う。
貴方が鏡を見る時、この『自分』経を無言で唱えてもらいたいのだ。
『自分とは〜自ら分かれ、自ら分かる・・・』と。
『自分を見つめるのは自分しかいない』…という『自分』経にうすうす気付いていた24歳。髪の毛がレゲマンのようにあった図
それとも舞台か?
さては芸術か?
何なんでしょうね。