『不立文字』(文字や言葉で伝えられない境地)を重んじる禅の修行した自分がこれほど文字・言葉にこだわる
ことになるとは、不思議な気がする。しかも、30年にわたってスイスに住んでいるのに・・・。
仏教をまともに勉学しようとすると、どれほど困難であるか… 言葉にできない心境を仏教用語という言葉で表された経典を
もとにそれを紐解く時、チンプンカンプン感満載になるのは無理もなく、また真逆に経典すら用いず、ひたすら坐禅し、公案という
別な意味でチンプンカンプンの『問い』に立ち向かう・・・ どちらがより親切か?
私のように理屈より『直感』をより重んじるタイプの人間であれば、『禅』でよかったし、最後の最後は 何宗にせよ
『不立文字』で腑に落ちるのだと思う。
坐禅でもしない限り、一般的には『立文字』から仏教を学び始めるであろうとき、日常何気なく使っている日本語『漢字』に
インド・中国・日本それプラス朝鮮等の影響下で秘められたであろう『般若の智慧』(人類最高の知性)が込められている言葉を認め
そこから仏道入門するという可能性があるとすれば、その敷居の低い最大の利点を活かそうというのが私の語学ならぬ『悟学』なのだ。
先日 『人』の字の話をしたが、今日は別な視点から見てみると『人』の字は、私が子供の時感じていた『歩いている人の姿』を
象った文字と捉えるほうがより自然だし、人間は動物の一種であることを端的に示しているようで腑に落ちる。
そうなった時、『人間』という別の言葉の『間』が気になってきて 2022年6月9日のブログ記事 にその『間』について書いた。
今回は『人は動物』という一面から、いつの日にか『人間』という『間』を獲得した経緯について考察してみた。
東洋では昔から『身心一如』という思想を重んじてきたが、猿のごとく心の定まらない状態に終止符を打つべく、人は『坐禅』をあみ出した。
坐禅をしても『心』が定まるには長い年月がかかるが、あるときピタッと定まるのを『禅定力』というが、そうなると身体は動いていても
心は働きながらも『制御』される状態になる。
人にそういった心の働きの場があるのを『間』と昔の賢者は呼んだ・・・と私は読んでみた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます