私が満69歳になる?だから何だ!・・・と、世間の人々は思うだろう。
確かに、でも馬骨的に注目して欲しいところは『満年齢』・・・というところである。
私が子供の頃、母が私の年齢について、他人と話すとき、満で何歳、数えで何歳…とか言っていて、何だかややこしいと思ったものだ。
今では数え歳と言うのは『七五三』や『長寿の祝』『厄除け祈願』のような神事のときだけで、普段は満年齢だけで年齢を言うので
改めて『満年齢』とか言ったりしないことになっているから、便利ではある。
満何歳…とは言わないけれど、『満年齢』を採用しているということは、生まれた時から一年経るまでは『0歳』ということになる。
まぁ、現実的には『いま、7ヶ月です…』とか言い表して、まさか『この子はいま0歳です』なんていうふうには言ったりしないだろう。
こんなところで、屁理屈をいうようだが、仏教徒であれば『0歳』という時期を持つことの意義を噛みしめることは大事であろうと思う。
普段、『悟り=郷里(サトリ)』などと言っている者からすれば、この『0ゼロ』が『郷里』そのものの正体『無であり空』であるから。
『0』があるからその他の『数』が存在するわけで、その『0』をしっかり把握していれば『0から何数』まであろうと、観自在に取り扱う
ことが可能になるのだと思う。・・・満年齢ということから、そんなことを今日は妄想していた。
『 幼子が 次第しだいに知恵付きて 仏に遠く なるぞ悲しき 』・・・この短歌が何時も頭にあるので、『満年齢』を考えた時
この詩は、この幼子の人生の半分だけを見て、いつの日か『悟りの郷里=0』に帰る日のあることに気付いていない…と思ったのだ。
白鳥は 何を思うか 悠々と ただ今ここの 命みつめて… : 一撮
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