最近ちょっと気になる、というか『昭和のオジサンの憂慮』・・・的事柄が私の中で強まっている。
『セクハラ』とか『パワハラ』、『モラハラ』などなど、嫌がらせ(ハラスメント)に対する抗議意識の高まりとその風潮について。
『昭和のオジサンの憂慮』というのは、以前書いた 2023年4月1日のブログ記事〜気合の国・・・
の記事のなかで言っている『気合教授法』というところに由来している。
『気合教授法』というのは、日本の伝統的弟子教育法・・・とも言えるであろう、一見『ハラスメント』にみえそうで
そうではない『パワー教授法』のことである。
ただ、人間的に未熟な『師匠』が『パワー教授法』を使っているうちに、いつの間にかただの『パワハラ』・・・ということはママあるのが
この『教授法』の切ないところではあるが、師弟の間に慈愛の信頼関係があれば、師の『一喝』は、何万語の戯言(たわごと)に優る教えはない。
日本で『師と弟子』というとき、そこには暗黙の『気合(パワー)教授法』の了解が互いになされていた長い時期があったと思うが
『師弟』とはまた違う、会社など上司と平社員の関係では旧来の『気合教授法』は、『パワハラ』とか『モラハラ』で糾弾されるのであろう。
そして、それは『道』としての伝統文化的活動にまで徐々に及ぶのであろうか?
10年ほど前、故郷の北見に帰った時、当時中学校の教師であった姉の息子はまた、バレーボール部の顧問をしており、近々市内の中学対抗試合があるとのことで、
見学に出かけたところ、ある中学校のバレーの顧問の男の生徒に対するあまりの横柄な態度に、私はショックを受けるほど驚いた思い出がある。
田舎の中高レベルのスポーツ顧問などはこのような大時代的、低レベルの指導者が幅をきかしているのか、と義憤を覚えたが、こういった連中が
古来の『気合教授法』を『パワハラ』や『モラハラ』というハラスメントの次元に貶(おとし)め、肝心な『慈愛』を置き去りにしている。
『パワハラ』・・・という語感から私が想起したのは、じつは『滝行』であった。
私の人生で、なんだかんだで4,5回『滝行』を経験したが、一見どうということもないような小さな滝でも、実際その滝に打たれてみると
結構な重量な水が頭、肩に絶え間なく打ち落ち続けるパワーこそは、『ハラスメント』を超えた『純粋パワー』で、だからこそ
それに耐えるように念仏やら般若心経やら呪文が唱えられるし、また自己の弱さを自覚させられる『行』でもある。
命がけの『滝行』のパワーを前にしたら、『パワハラ』なんて・・・と思えるほどだ。
『滝行』のパワーに耐えるには、それこそ自己の持つ『全力の気合』を呼び起こす事が必要で、そうした経験が悩みや、問題の突破口を見出す『力』となる。
世の中、どんなに『パワハラ』『モラハラ』を糾弾する時代になっても、それは必ず姿形を変えて『ハラスメント』をしかけてくるものだ。
そういった準備もできていない幼子の世界ですら『いじめ』が横行するではないか。
『愚かで悪意のこもったパワハラ』は受け流して、一切取り合わない『無(=慈悲)の力』に覚醒するのが『タイパ』的に一番であろう。
あらゆる『ハラスメント』が横行する時代に生きた武士の甲冑
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