今朝たまたま眼にした、アバタローさんというYoutuber 本紹介動画ミヒャエル・エンデ著『モモ』の解説の最中、『時間の華』・・・という言葉に
私はハッとして、私のアレは『観"時"在』菩薩であったかのか・・・と気がついた。
アレ・・・というのは、私の坐禅初体験の感想のことであるが、これまで何度かブログに書いてきた。
2010年7月22日のブログ記事〜禅修行〈キントン雲でぶっとばせ〉
私はじつはあの初坐禅で悟っていたのだと思う。・・・ただ、『不二落ち』なかっただけであり、『大疑』に目覚めた瞬間ではあった。
だから、何だかわけのわからん『禅修行』に耐えることができたのだと思う。
私は修行によって『観世音』に行き着いたが、その働きの面である『観自在』にもしつこくこだわり続けてきて
『漢字在』だの『観"自在"』だのと遊戲してきたが、私の禅の根本には『観"時"在』・・・が最初にあったのではないかとあらためて思った次第。
当時私は、三法印つまり、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静…などという言葉(仏教根本原理)もしらない若僧であったが、
最初の坐禅で諸行無常である『時間』を疑った・・・それが基で禅門を叩いたという経緯を思えば、私はまさに『観時在』菩薩であった。
昔の禅僧も、モモの物語も同じことを言っている、『時間を使って、時間に使われるな!』・・・と。
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