60歳過ぎを『還暦』とは、本当によく云ったものだと最近もつくづく思う。
去年退職し、本当に少しずつ少しずつ過去のことを振り返り、反すうするが如くの中で、いろいろなことがわかってくる気がする。
最近、禅修行の思い出から、とても大切なことに思いが至った。
鎌倉、円覚寺のまずは一般人が修行する道場『居士林』での修行、後に居士のまま老師の弟子となって、
摂心を中心とした僧堂での修行とだいたい足掛け10年の禅修行を行なった。
その間、寺に支払ったのは居士林での食事代…いくらだったか忘れてしまったが、実に微々たるものであった。
で、正式に老師の弟子にしてもらうときに払った相見料…というのだったか? たしか3000円ぐらいだったような…
兎に角、何を言いたいかというと一旦、修行をやると腹決め、認められると金はほとんどかからなかったことだ。
よく教団に入信する際に、お金をいくらいくら払ったなどという話を耳にするが、ボクが修行した円覚寺ではこちらが申し訳ないほど金がかからなかった。
そう言う事を、最近まで何とも思っていなかったのであるが、よくよく考えるに実に重要な教えであり、これぞ禅…と言えることに気がつく。
およそ10年間の禅の修行中、『仏教徒になれ』というような事を、一度たりとも言われたことも聞いたこともなかった。
禅の修行中ボクは宗教を修行しているというような、宗教臭いことは一度も考えたことはなかったのだ。
居士林では『数息観』、僧堂で修行してからは『公案』に集中するばかりで、その他の一切から完全に開放されていた・・・。
僧堂で5年修行し、ボクの年齢も40に近づき、その旨老師にお話し、渡欧するために修行をやめる事を話た時にも
『 そうだなぁ・・・、頑張んなさい 』 それだけであった。
禅は『来る者拒まず、去る者追わず・・・』ということは知っていたが、まさにその通りであった。
ボクはそのことを、今日まで何とも思っていなかったが、最近その禅のあり方が実に釈尊が云ったという『犀角独歩』=『犀の角の如く、ただ一人行け』
の教えを見事に表し、禅の生き方をよく体現している素晴らしい出来事であったと理解することが出来たように思う。
人間は『社会的動物』ということで、一人では生きていけない存在であるが、仲間と群れるばかりではどうしても様々な問題を生み出す生き物であることも事実。
基本的には独歩で、協力するところは互いに思いやりを持って接していく…といったような教えが『仏教』の基本にあるのではないだろうか。
先日話した『練功十八法』体操をしている若き一撮
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