拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 畏敬と三拝

2021年08月18日 | 禅修行の思い出

  今読んでいる本、ドナ・ヒックス著『Dignity』に畏敬についてこんな一節がある。

  『ボード・ウッドラフ著『畏敬:忘れられた美徳を新たにする』に、私たち人間は自分たちよりも偉大な力の存在に気づき、それを畏れ敬う心情

  である『畏敬』の概念に立ち返るべきだというのが、彼の訴えです。この『畏敬』の感覚はリーダーが自らの傲慢さを戒める役割を果たし

  『畏敬』は尊厳に基づいて人を率いていく必須条件です。』・・・

 

  禅の本などを読むと、『悟った者が天狗になって傲慢になることがある〜こういった者の禅を野狐禅(やこぜん)といって臨済禅では強く戒める』的な

  記述をよく目にしたが、まさに悟ったつもりが、ただ傲慢になっただけでは百害あって一利なし。

 

  私は『畏敬』と聞くと、禅修行の初心者のときに驚いた事の一つを思い出す。

  というのは、私は通っていた円覚寺居士林の土日坐禅会の土曜の夜の最期の坐禅が終わったときに、全員一斉に『三拝』をする。

  『三拝』というのは、ほぼイスラム教徒がするような(どのようにするか詳細は知らないが)五体投地の礼拝で三回する。

  ちょっと違うのは額を床につけて両手は仏陀の御御足を頂くようにゆっくりと手のひらを上にあげる動作をすること。

  何度かしているうち『偉大な存在に対する畏れと敬い』の念がいつともなく自己のうちに湧いてくる思いがした。

  それにしても、最初に『三拝』をさせられた時は内心驚いた…『エッ、こんな事するのか仏教でも・・・』

  でも、長時間、足の痛い坐禅をしているので、最後の坐禅が終わったときこの『三拝』をするのは足の屈伸運動ができて

  実に有り難く、別な意味で喜んで『三拝』をしたものだ。

  老師の弟子となって公案をもらうと、参禅といって禅問答するために老師の部屋へ入る時も『三拝』をし、最初のうちは直されたりもした。

  禅寺で『三拝』が普通に行われていることは、案外知られていないのではないだろうか。

  禅修行では知らず識らずのうちに『畏敬の念』が自己のうちに育まれるように随所にシステム化している。

         

           これはスイスのアッペンツェル地方の旧暦の正月を祝うお祭りの一コマ

           『森の霊』に対する畏敬の念を表しているのだろう。こういった衣装の5人組が一軒一軒巡って家の前で『ヨーデル』を歌う・・・

   



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