デジタルネイティブ世代の人間達は、超アナグロな『禅修行』から遠のくのか、或いはかえって接近するのか?
何事も『AI』にまかせ、時間的余裕ができた人間達はそれを自己の精神向上にむけるだろう・・・という意見もあるが
目下のところ、それはあまりにも楽観的な見方に思える。
私は渡欧して今年で32年になり、こちらで就職して初めて『バカンス』というものを経験した。
長い休暇をまとめて取れる日本人から見ると羨ましいシステムであるが、人々の大半は海や山でノンビリ過ごす事で消化するのみで
『精神の向上』のことなど誰も考えていない。 そういった現実を見る限り、人は『快楽の追求』にこそ心が奪われるものなのであろう。
その点、日本には『精神の向上』に意を向ける『道の伝統文化』が随所にあり、その気があれば道は開かれているところが
東西文化の大いなる違いで、日本の誇るべきところであることを、在外の立場にして痛感するところだ。
1982年私は30歳で、円覚寺居士林で禅修行の初心者であったとき、奇しくも円覚寺創建700年遠忌を迎えたが
朝まだ暗い時間に大仏殿から大勢の僧侶たちが般若心経を唱和する声が、居士林で坐禅する我々に響いてきた時
一瞬私は、時空を超えた気がした。 同じ坐禅、同じお経を700年もの間、ただ黙々と続けてきた『行の力』に私は感動した。
この『超アナグロの禅修行』が我々にもたらすのは、まず徹底した日常生活の『脚下照顧』であり、『沢庵食うときは、バリバリ音をたてるんじゃねエ!』
の一喝に始まり、畳の縁を踏まない、モタモタした動作をしない、無駄口をきかない、物を一切無駄にしない、などなど日常生活上の行い
一つ一つに意識を向け・・・随所に主となる自己を養って行く。 つまり徹底的に色界の空気を読み取る『空読』に習熟する。
一方で、『無理会(むりえ)の処』に向かって坐禅に専心する。つまり空界の『空観』に至る。
『超アナグロの禅修行』は、色空の『重ね合わせ』を永遠に楽しむ『場』である・・・ということを、デジタルネイティブ世代に伝えたい。
『無事是貴人』という短冊を昔、老師から3枚ほど頂いたが、当時はこの意味が解らず、もっと格好いい短冊が欲しい、と思ったものだが
生活の隅々に『空読』を働かせ、なおかつ『空観』を徹底することで初めて『無事是貴人』が実現し、世間の『いざこざ』を鎮める…のだと解す。
その為の『脚下照顧』だけは、世界中の人々に幼少時に実行してほしいものだと思う。
先日レマン湖で見かけた、サップ(サーフボードにのって漕ぐ)初心者むけ教室での一幕図
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