拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  坐禅・究極の自粛

2021年01月30日 | 禅修行の思い出

  コロナ襲撃・第三波に見舞われスイスでも半ロックダウン中・・・つまり自粛である。

  自粛と言っても、食料品の買い出し、人混みを避ければ散歩もできる。

  なんといっても自宅でインターネットができる・・・3年前に定年退職したので仕事の心配もない。

  そういった意味では我が三十歳代(1980年代)に行った土日坐禅会や月イチの一週間ぶっ通しの僧堂摂心のほうがよほど『自粛』の意味合いが強く

  たった独り、周りとはまったく反対方向へ進んでいるような生活は客観的に見ると『孤独』のど真ん中であったであろうと思うが

  三十代半ばからは相方の存在が精神的支えとなって、いい歳をした男が定職も持たずバイトと修行に打ち込むことが出来た。

  辞書によると『自粛とは:自分から進んで、行いや態度を慎むこと。』とある。

  禅修行はまず『自粛』の意思を大前提として、寺に受け入れられるのであるから、『行いや態度を慎む』点では指導者は遠慮会釈なく

  寺の作法に則ったうえで、おおいに鍛えてくれた。

  まさに『煩悩無尽誓願断』で、煩悩の塊である自分には耐えられないだろう…という初期の『妄想』すら警策という棒で打ち壊され

  ただひたすら『数息観』という呼吸法に集中した。というか、するように努力した。(最初はなかなか出来るものではない)

  『悟り』は『郷里(サトリ)』であり、誰でも一度は戻るべき『場』であるという…心境に至ったのも、こうした『自粛の時期』があったからだ。

  せっかくの『世界的自粛』のこの時期、己の心奥に向かって思いっきり『自粛』してこそ『マスク』もより重要なもう一つの役割を果たすだろう。

         

              鎌倉… 時代も場所も『禅』の発祥であり日本文化の礎の図



最新の画像もっと見る

コメントを投稿