拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

それぞれの『門』

2018年11月01日 | 禅修行の思い出

こういうのも『縁』というのだろうか。

というのは、鈴木大拙さんに会いたい(というか年に3回ぐらい彼の人柄に接したい気持ちが起きる事)気がして、大拙の自称弟子を自認している志村武著『鈴木大拙に学ぶ禅の人生智−ありのままに生きる』という著者が23歳の雑誌記者であった時、76歳の鈴木大拙に取材して以来、人柄に惹かれ、それから大拙がなくなる96歳までなにかと教えを請うた、その体験を記したこの本、2度目の再読になるが、その出だしから夏目漱石の小説『門』の主人公、宗助の生活心情の吐露から始まり、後半にはタイトルとなる北鎌倉の円覚寺の門をくぐって禅に参じ、再び日常生活に戻っていく…という内容を織り交ぜながら『ありのままに生きる』とはどういうことなのかを掘り下げる体裁になっていた。…?というのはなにせ、昔読んだのは今から28年前で、漱石の『門』がこの本に書かれていたことも、この門がボクが修行した円覚寺の『門』であったことも今回再読するまでまったく忘却してたか、単に知らなかったか…。

それで、この『門』が気になって早速、I-Tunes Book で漱石の作品が無料でダウンロードして読み始めた。漱石の『門』自体にはボクは正直特に反応しなかった。そこでYoutubeに助けを求めると、奇特な人がいて読書感想を聞かせてくれる人がいた。その人は3度も涙するところがあった…そうだが、やはりボクとは感受性が数段高いところの人のようで、本以上にこの人には関心した。

この本を読んでいる最中に偶然に大昔、36年前ボクが30歳の時(1982年)、それこそ円覚寺の『門』をくぐって一週間の学生接心に参加し、それをやり終えて親友のタカヒデと一緒に写っている写真を見つけた。

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接心という一週間集中『禅修行』はこの時初めてのことで、ボクには結構キツかった。

終了の最後の朝、学生のリーダー格を直日(じきじつ)が挨拶した時、参加者の殆どが感無量の思いで泣いていたが、若い学生に混じって30歳になるボクも泣いたっけ。

これが、ボクが『門』を叩くキッカケとなった。

小説『門』では宗助は10日間の修行をして、漱石にこう言わせている…

『彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』…

ここを読んだ時、ボクは漱石と大拙のあまりの差に驚いた。というか呆れた。

こんな人が、禅寺の『門』をタイトルに小説を書いたのか?!…と思う。

まぁ、それはともかく志村武著の本『ありのままに生きる』の最後の方に著者が大拙にした質問『人間が生きていく上に、最も大切なものはなんでしょうか?』

 

大拙『平凡な言葉だけれど、愛ということが大事ではないかな。仏教でいう無縁の大悲、無縁の大慈だ。そして生きがいを自覚することが、信仰でありそれが『誠』で、それは自分をむなしくすると、『誠』がおのずと心の中に湧いてくる。その誠をもって他人のために労力を惜しまず働くのだ。そこでもう一つ必要なのが『詩』だなぁ。詩がないと、人間の世の中はギスギスしてしまう。月は月、花は花だけに終わってしまっては、殺風景この上もない。詩の世界に遊ぶことを忘れてはならんなぁ。』

 

ム~っ、ボクの場合『詩』に遊ぶことはまあまあだが、問題は『誠』だなぁ…。

 

それと『門』が開くかどうか、そんな事どうでもいい。門の前で開くまで『無〜ッ』とおのれをむなしく…するのみだろう漱石さん!

 

 


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