『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』
最近のミトコンドリアDNAの分析によると、現生人類(ホモ・サピエンス)の『単一起源』が正しいと考えられ、同時代に同じ地域に生息していた異人種であるネアンデルタール人と現生人類との混血はおきていなかった。
今の人類は一種だけなので、ネアンデルタール人などの『旧人を殺戮して絶滅させてきた可能性』やヒト以外の種では仲間争いにおいて相手が死ぬまで戦うことはまれで『未だに戦争を根絶できない人類』の遺伝的特性を説明する説もある
しかしこれは、歴史上の数々の残虐行為や今のイラク、アフガン戦争等を考えるから連想するだけで、事実である可能性は非常に低い。
何故なら狭い孤立した島では無理だか、広い大陸で人口がとんでもなく少なく両者が対立したとしても今とは大違い。
たとえ争いに負けて住み難くなっても、幾らでも逃げていく場所(自由の新天地)に困ることはなかった。
ネアンデルタール人が絶滅したとされている3万年前に、我々日本人の御先祖様の縄文人たちが住み慣れた故郷のバイカル湖周辺が寒冷化(氷河砂漠化)のために住めなくなり、結氷して地続きになっていた日本列島にマンモスを追って移住してきたらしい。
バイカル湖に居たもう一方の先祖たちはベーリング海峡を越えて遥かに遠く南米まで旅立っています。
縄文人は日本列島全体で数万人(最盛期に最大25万人)でとんでもなく少ない人口密度です。
2000年以上前までは世界全体の人口は少なく、住み難い時は新天地を求めて移動する事はそれ程珍しい事ではない。
数千年前の弥生人は中国の春秋戦国時代の戦乱を避けて日本列島に移住してきた戦争難民みたいな人々だったらしい。
日本列島への弥生人の渡来のような人々が移住できる新しい土地が最早地球上に何処にも無くなった同じ時期に、今に続く仏教などの『宗教』が生まれているのですが、これは偶然に起こったことなのか。
それとも何か関連があるのか。
仏教思想の根幹部分である『無常観』とは、当時の人々の置かれた『もう、何処にも逃げて行く場所が無い』科学的な客観的事実を、ブッダが哲学的解釈を施した(悟)ものといえる。
『寒冷化に適応していた頑丈型人類ネアンデルタール人』
結果的には滅んだとはいえ、ネアンデルタール人は決して弱い劣った種ではなく、現生人類よりも脳の容量も同じか上で体格も運動能力も優れていたが、唯一気道が狭く発声能力だけが劣っていた。
ネアンデルタール人のような頑丈型の人類よりも劣っていた我々人類ではあるが唯一コミュニケーション能力に秀でていたので、氷河期の飢餓地獄でも少ない食べ物を平等に分け合うことにより『種』として生きのびる事が出来たのでしょう。
極限状態では『どれだけ強いか』はそれ程重要ではなくて、『いかに平等(民主的)であるか』が生死を分ける最重要な要素なのです。
極限に生きる北極圏の先住民族であるエスキモー(イヌイット)の古い道徳(風習)では、持たざる者が沢山もっている者から幾らかを分けてもらうのは当たり前なのです。
他人の持ち物を無断で持っていくのは何ら『悪』とは看做されず、その逆に持たざる者に自分の物を譲らない事が『許されない悪』なのです。
極限に生きる民には、近代文明の『人のものを勝手に持っていく泥棒は悪である』という概念が無かった。
一人が有り余るほど多くを独占して肥満に苦しんでいる一方、関係ない誰かが飢餓状態になる現代社会よりも、この昔の極限の民の知恵である『余っていれば足りない者が勝手にもって行ってもよい社会』の方が、余程合理的でもあり民主的でもあり道徳的にも高貴な進んだ社会であると思いませんか。?
『9条志向の縄文人と戦争を持ち込んだ弥生人』
縄文の鏃は狩猟用なので小さいが、大陸から新たに日本列島に移住してきた弥生人は人を殺傷出来る大型の弓矢を用いていたので大型の鏃を使っていた。
何の軍事施設も無かった縄文とは大違いで、弥生人は武力紛争に備えて集落に堀とか塀とかも造っているのですが、このやり方は元々彼等が住んでいた大陸の悪しき習慣を持ち込んだもので、本来の日本の伝統ではなく紛争を武力で解決する野蛮な風習(今のアメリカ型)です。
ところが日本古来の元々の縄文人は今と同じで、紛争を手っ取り早く武力で解決する方法ではなく手間隙かかるが確実な『話し合い』で解決する憲法9条型であったらしく、この方式は別にアメリカに戦後押し付けられた物ではなく、実は1万年以上続く先祖の大昔からの日本の長い伝統だったのです。
渡来人(弥生人)は中国大陸で文明を経験していたし農耕文化を持っていたが、日本で1万年以上も平和に暮らしていた縄文人の方が、より平和で穏やかな精神文化を持っていた。
『我々は何者か?』
大昔の初期の人類ですが、近隣のゴリラやオランウータン、チンパンジーと違い、『何故密林を出たのか』が良くわかっているようで実は良く分かっていない。
元々森林に住んでいたのに、たいした武器をもたない人類にとって草原は食料も少なく隠れる場所もない非常に危険な場所で、決して住みやすい環境ではない。
初期の人類は、旧約聖書の記述のように、密林という住み易い『エデンの園』を追われた人々(グループ)だったのかも知れません。
人類だけの特徴である二足歩行ですが、これが実は理由が良く分からない。
4つ足の方が安定しているし走る速度が早いのです。
サバンナでは走る速度は生き残る上で決定的な要素で、二足歩行では捕食者の肉食獣に到底かなわない。(カンガルーやダチョウは二足歩行ですが構造が全く違う)
四足歩行でも熊の様に爪先から踵までの『足裏全体』を地面に付けると遅くなり、逃げる事が得意な草食獣は例外なく爪先立ち状態で立っている。
人類のような『足裏全体』は象などの超大型獣だけですが、何と人類は初期の小さな体型の段階から大型獣と同じ歩き方をしていた。
しかも二足歩行なので速度が極端に遅い。
象では体重がとんでもなく重く大きい為に敵も少ないので『如何にしてエネルギーを少なくして移動するか』が走る速度なんかよりも優先されるが、人の骨格も象と同じで『如何にして省エネで移動できるか』が優先された構造になっている。
これでは走るのが遅いはずです。
省エネ歩行で長く歩くのは得意だが、早く走るのは苦手だった。
何故人類はその方向を選んだのか。?何の利点があったのか。?
地面にある植物の根などを探すのなら四足の方が優れている。
直立歩行の人類が農作業をするようになると二足歩行用骨盤の構造的な無理が影響し慢性的な腰の痛みに苦しめられるようになったのです。
安全上の利点は少ないが、直立した人類の利点は遠くまで見えることと、二足歩行も遠くまで省エネで歩く事が出来るなので、四足歩行よりも広いエリアで食物を探す事は可能だったのでしょう。
『攻撃力と防衛力』
体力的に上のネアンデルタール人と格段に劣る現在の人類が戦ったのであれば集団対個人の戦いでもない限り、間違いなく個々の攻撃力に優れたネアンデルタール人が勝つでしょう。
しかし彼等は滅んでしまい我々人類は生きのこった。
長い地球の歴史の中で、生命(全ての種)にとって一番の脅威は外敵の存在ではなく食料問題(飢餓)なのです。
これは人間でも全く同じで日本人が飢餓から解放されたのは極最近のほんの数十年前のことなのです。
そして世界では今でも10億人近い人口が飢餓に苦しんでいます。
野生のカリブーの群れにとって狼はなんら脅威でなく、肉食獣(狼)などの外敵の存在は病気や弱い個体を群れから淘汰するので『種』としてはマイナスどころかプラスに働く。
対して『飢餓』は種の絶滅を招く、何よりも恐ろしいものです。
この時に防衛体力と攻撃体力は必ずしも一致しないばかりでなく多くの場合は相反する。
飢餓の時は体格に優れた大男よりも、筋肉が小さいために基礎代謝が少なくて済む小さな女の方が生き延びる確率が高くなる。
腕力自慢の攻撃力の勝る男(ネアンデルタール人)より平和志向の女(ホモサピエンス)の方が防衛体力は優れているともいえます。
現在の戦争でもベトナム戦争やソ連のアフガン侵攻、今のイラクやアフガンの戦争で分かったことは攻撃力の優劣は短期では圧倒的に有利だが、長期ではその反対の防衛力(防御)が最後には勝つ仕組みになっています。
この事実は有名なプロイセンの戦略家クラウゼビッツが著書『戦争論』の中で、一般的な常識とは正反対に軍事では『攻勢よりも守勢』が有利であると軍事理論的に説明している。
オバマ大統領のプラハ演説は『守勢の大事』(攻勢の危険性)を説いたもので、これはクラウゼビッツの『戦争論』の論理に叶っている。
ところが、正反対のノーベル賞授賞式のオスロ演説の主張内容『正義の戦争の大事さ』『アメリカの攻撃力の正当性』は弱肉強食の帝国主義の世界観で、ダーウィンが140年前に『人類の進化』で否定した社会ダーウィニズムそのもので基本的に間違いである。
『今西錦司の棲み分け論』
縄文人の住んでいた縦穴式住居は地面を一段掘り下げて作った半地下型なので、先祖の故郷だったシベリアのブリザードの猛威を避ける目的で作られていますが、これでは高温多湿の日本列島南部では住み難い。
結果縄文人は東北とか北海道などの北に人口が偏って住んでいたし、弥生人の高床式住居は温暖な気候には向いているが東北の地吹雪には住み難いので矢張り西日本に偏って住んでいた。
縄文人が弥生人に駆逐されたとか征服されたとかの事実は無く、北方系の縄文人と南方系の弥生人は今西錦司の『棲み分け』理論を行っていたようで、それ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれた。
縄文最盛期の5~6000年前は今よりも余程温暖で海水面が現在より4mも高かったので縄文遺跡の貝塚は何れも内陸深くに発見されている。(このことからも今の温暖化論議はインチキくさい)
今の日本の大都市のある洪積平野の大部分は、この時は海面下で存在していない。
弥生人の稲作は、寒冷化による海面上昇によって出来上がった洪積平野部の湿地に作られたものです。
ですから縄文人を弥生人が駆逐したとの説は疑わしく、昨今の世知辛い殺伐とした世相を反映したもので、当時はもっと余裕があり人々は今よりおおらかだった。
『戦争は近代の産物』
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化や植民地化を科学的必然性とする社会ダーウィニズムは、あくまで戦争を正当化する詭弁に過ぎません。
常識的に考えればダーウィンがいうように『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する』ことで我々『新人』が「飢餓」を乗り越えて生き残ったとする見方の方が妥当でしょう。
北方系の縄文人と南方系の弥生人がそれ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれた事実認識は重要です。
つまり、古代においては『すみわけ』が普遍的な人類文化であり、戦争は農耕・文明以降の『近代の特性』にすぎないのです。
人類の歴史で戦争が根絶できていないのは事実なのですが、良く考えてみれば『戦争』の歴史とは『国家』(軍隊)の歴史と重複している事実に皆さんはもっと注目していただきたい。
この重大な問題点をいかに解釈すべきか。
戦争があるから軍備が必要なのだとの説は間違いで、人類史的に見れば軍隊(国家)があるから戦争が生まれたのです。
『戦場での発砲率』(人は人を殺せない)
『戦争』は人類600万年の長い歴史の中で高々数千年で10万分の1程度の短い歴史です。
市民戦争ではフランス革命以後の230年程度で、近代戦争に限れば150年程度の極短い例外的な話で、それ以外は人類は全て日本国憲法9条の理念である『揉め事は話し合いで解決』していた。
人類の長年の歴史的な生き方は平和と協調なので、元々持っている人々の道徳とか心情とかが邪魔をして『戦争』のように制度として『殺人は正義』だと言われても、多くの人は人を殺せない。
戦場で兵士が敵兵に向かって銃の引き金をひく確率は10人のうちで一人か二人だけの少数で、それ以外の9人の普通の兵士はわざと狙いを外して当たらない様に空に向けて銃を撃つ。
この発砲する確率はすべての国の軍隊でも全く同じ数字なのです。
人類の普遍的なタブーである『殺人』を犯せる兵士は極少数の例外であり、大多数は人を殺せない。
この事実に気が付いたアメリカ軍は第二次世界大戦後、兵士に対する徹底的な殺人訓練で発砲率の改善に努め、朝鮮戦争では50%ベトナム戦争では何と九十数%以上の超高率に高める事に成功するがトンデモナイ副作用が出る。
戦場を離れてもこの殺人訓練が尾を引いて社会復帰出来ない大量の帰還兵が出てしまった。
人類の普遍的なタブー『殺人は悪』を強制的に捻じ曲げて『殺人は善』に変えられた人間は、そんなに都合よく『はい、此処からは殺人は駄目です』といわれても簡単には元に戻らない。
故郷に帰ってもシルベスタ・スタローンが演じたランボーの主人公のように殺人機械のままなので、戦争に勝つ心算が本国のアメリカ社会自体が危機的状態になるのです。
現在はアメリカ軍もこの危険性に気が付き、いくらかは自粛、改善しているのですが、それでも今でもアメリカ軍の発砲率は他国の倍の二十数%の断トツの高さを誇っている。
この高さは異常で、それで今でも時々2000年の大晦日に起こった世田谷一家4人皆殺しとか八王子スーパーアルバイト店員女性3人殺しのような考えられない凶悪事件が基地を抜け出したアメリカ軍兵士により引き起こされる。
遺留品が大量にあり幾ら犯人が判っていても相手が悪すぎて日本の警察では手も足も出せないのです。
しかし勤勉に働けという道徳自体が、一つの偽装思想体系なのでしょう。私は人々を弛緩させるイデオロギーに賛成です。
これでは過労死を云々される働きすぎの文明国日本の現状は、これらの狩猟採取民よりも野蛮で過酷です。
彼等のほうが日本の市民よりも余程文明的な生活であるような気もしてきますね。
縄文時代の人口密度は、中国地方が一番低かったようです。つまり、一番密林状態だったのでしょう。害虫・害獣が多く採取・狩猟に適した土地もすく、高温多湿で食糧も腐りやすい。
アフリカでもゴリラやチンパンジーとは別の所に住んでいたのではないですか。冬鳥がわざわざ寒い地方に行って繁殖し子育てするのがわかるような気がします。
毒多さんのところで時折駄文を垂れ流し、お目汚し失礼致しております。
以下、今年5月に共同通信により配信された、サイエンス誌発表記事のURLです。
リンクを貼らせていただきますので、未見であればご覧下さいませ。
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050601000793.html
ホモ・サピエンスとクロアチアの洞窟で発見された旧人(ネアンデルタール人)3体のゲノムが解析の結果1~4%重なっており、遺伝的混交の可能性があるというのは面白い説だと思います。
私はホモ・サピエンスを比較的残忍な生き物と見ていますが、宗純さんの説自体を否定するものではありません。
何分ホモ・サピエンスの父祖より戦争にまつわる根源的な資質を探る営為には、多分に政治的な意図や願望が入り込みがちなので、なるべく視野を広く持ちたいと思っています。
一般には、人が人を殺す理由は「情念」だと理解されています。確かに犯罪として取り締まられる殺人事件においては、「情念」が人を殺す理由としてもっとも大きいものかもしれない。でも、それはイレギュラーなもの。殺人が犯罪ではなく合法的な行為として扱われる戦争においては、「概念」こそがその理由。「概念」によって同じ人間が区分けされると戦争になる。
ネアンデルタール人もきっと「情念」のイレギュラーな発動による殺人はおこなったでしょう。が、「概念」による殺人はなかったかもしれない。それは発生能力が劣っていたことと関係があるかもしれない。発声なしに言語は生まれず、また言語なしに「概念」は生まれない。だとするならば、発声能力に劣ったネアンデルタール人は、「概念」に起因する戦争というものを発明できなかった可能性が高い。
『殺し合いをしなくなった人類の姿』ですが、我が日本国だけに限ればの話ですが、十分に満足しています。
(何事も例外はありますが)特に若者達は全く人を殺さなくなった。
何処の国でもどんな文明でも思春期(発情期?)の若者は人を殺すのですが日本だけは例外で、
どんどん殺人率が下がり続けてほとんど殺さないのですね。
凶悪事件を引き起こす一番危険な世代は若い男ではなくて中高年の団塊世代の男らしい。
殺人の統計学的一考察
2008年02月02日 | 文化・歴史
欧米の右翼ネオナチなどは口だけの日本の嫌韓嫌中とは大違いで実際に主張を行動に移してヘイトクライム(Hate crime,『憎悪犯罪』)を引き起こす。
それに比べたらネットウヨなんか1万倍は正常であり改憲を主張する彼等の考え方自体が『揉め事は話し合いで解決する』憲法9条型であるのですから、こんな愉快なことはありません。
私が心配しているのはこれだけ殺人事件などの凶悪事件が減っているのにも関わらす、マスコミでは正反対の宣伝がなされて刑罰の重罰化が短時間で進み無期囚が倍増して仕舞い刑務所に溢れているは、死刑囚は100人超えの有様。
日本人全体が治安の悪化を憂いているのですが、これはマスコミなどが人為的に作り上げた、全くの妄想であるのですね。
縄文人のもともとの故郷であるバイカル湖周辺は人類が住んでいる場所では一番低温で寒い地域で、縄文人に一番近いミトコンドリアDNAのブリヤート人は最も寒冷地適応が進んでいる。
人体の7割は水分で特に眼球は水分が多いので凍りやすいし鼻や頬骨など出っ張ったところも凍傷の危険があるのでブリヤート人は目蓋が厚くて目が細く鼻が低いので全員が葛飾柴又の寅さんの渥美清とそっくの顔立ちになる。
渥美清の写真を見た現地の人は『彼はブリアート人だ』と誰も彼もが言うそうです。
ただこれは、『冬が寒い』の意味であり南極のように一年中ではないのです。
寒暖の差が大きい。
鴨や白鳥など渡り鳥が繁殖地に選んでいる一番の理由は、子供を育てる為に必要な食料が無尽蔵にあり自然が豊かだからなのです。
これは日本の豪雪地帯の春の自然の恵みは、それ以外の地域以上に豊かであるのに若干似ています。
狩猟民であった縄文人は獲物さえあれば東西南北どの方向にも移動が可能なので、遥かに南米のパタゴニアまで旅することが出来たのですが、農耕民である弥生人はそうではない。
南北には無理があり、同じ気候風土の東西方向にしか移動出来ないのですね。
揚子江中流域が故郷である弥生人は東は日本列島に西はヒマラヤのブータンに照葉樹林の分布域と全く同じ地帯に移動しているのですから、緯度が同じで無いと持っている種子が発芽しないなど制約が大きかったのでしょう。
ゴリラやチンパンジーなどの人類以外の霊長類は、今では極狭い地域に生息域が限定されていますが、この原因は人為的なものでしょう。
かっては森林地帯全体に住んでいたはずです。
この例は、かってはシベリア全域に住んでいた猫族最大のアムールタイガーは今では極限られた地域に500頭が、アムールヒョウに至っては30頭しか生息していないのです。
霊長類最大のゴリラは完全な草食性であり、雑食性のチンパンジーの草食の度合いは人間よりも遥かに高い。
ですから彼等が食料確保の関係から森から出ることは基本的に不可能であるのです。
草原は草を食うシマウマやカモシカには良いが雑食性の人類にとってはけっして最適な環境とはいえない。
何故我々人類が食料豊富で安全な森を出て、襲われる確率が高く危険が満ち溢れていて、しかも肝心の食料も少ないサバンナを選んだかは矢張り最大の謎でしょう。
常識的に考えると良いことが一つも無いのです。
唯一考えられる可能性としては競合する仲間達、同類の霊長類との争いを避けて、あえて競争者が誰もいないサバンナに逃げていった可能性ですね。
それなら人間同士の戦乱を避けて日本列島に移住してきたらしい弥生人と同じ理由であるのです。
ネアンデルタール人が今生きていて隣に座っていても『体格が良い人だなあ』程度で誰も気が付かない位に現生人類と似ているらしいですよ。
我々ホモ・サピエンスとは何万年も同じ地域で生きていたのですからもっと混血が進んでいても不思議ではないのです。
ですから当時は人口密度が極端に低くて、其々のクループは混血が進まない程度に大きく離れて暮らしていた。
ネアンデルタール人の絶滅には矢張り気候の寒冷化が最大の要因でしょう。
絶滅した3万年前とは当時の地球が最も気温が低下した時期です。
寒冷化による飢饉といえば天保の大飢饉が有名ですが藩によって大きく死亡者数が違うのですね。
隣り合う地域でも大量に死んだ藩と全く餓死者を出さなかった藩もあるのですが、この理由は食料の多寡の問題よりも、食料の配分の方にに問題点があったのです。
強いものが一人占めした影響で周りの弱いものが餓死して仕舞う。
まさに自然淘汰による進化論のダーウィンが『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)で主張したように、
『相互に助け合いそして保護し合う全ての動物に取って、それは一つの非常に重要な事として自然淘汰によって強化されて来た。』
『最も思いやりの強いメンバーを最も多く含んでいる、その様な集団は最も繁栄し、最も多くの子孫を育成する。』、なのです。
ネアンデルタール人が滅び、現生人類が氷河期の飢餓地獄を辛うじて生き延びれた最大の理由は、『人類の方が強かった』からではなくて、その逆に『弱かった』ので争えば『力』では負けると最初から自覚していた。
我々人類だけが生残った秘密とは、弱者にとっての唯一の力である『相互の思いやり』や『平等や助け合い』の可能性が一番高い。
そもそも600万年前の初期の人類が森からサバンナに出てきたのも草原が住みやすかったからではなくて競合する他の霊長類との争いを嫌ったから、かもしれないのですね。
仲間との争いを好まなかったので、同類のいない草原に新天地を求めたのかも知れない。
当時の人類はまさに弱者だったのです。
ゴリラやチンパンジーなどの他の大型霊長類は例外なく繁殖期がありしかも子育て中は発情しない。
人類は霊長類どころか他の哺乳類に比べても例外的に繁殖期が無く授乳中でも妊娠が可能なので超多産なのですが、この特徴とは最も弱い『種』にとっての生き残りの為の『戦術』の典型的な例なのですね。
ゴリラやチンパンジーとは違い、もともとの人類はとんでもなく弱かったのでしょう。今とは大違いですね。
ダーウィンの『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)
2009年12月05日 | 文化・歴史
今回の話に限らず、此の頃は特に気になるんですが科学的事実を無視した論の為の論の様な観念的な思考が目立つようにも感じられます。
アキラさんとこでの『生きているとは死んでいると同じ』何かは、あれは幾らなんでも駄目でしょう。観念論の極みですよ。
元々が『あの話』には宗教臭い(カルト臭い)部分があるのですが、際どく立ち止まっている人を、わざわざ抜け出せない観念論の迷宮に誘う等は褒められたことではありません。
今回、話相手が愚樵さんなので、
本当に人を殺すことは『悪い』のでしょうか。?
何の前提条件も無しのすべてのアプリオリ的な善悪の論議は疑わしい。
志村建世さんのコメントにも書いたのですが、日本では殺人事件がどんどん減っていて、今では特に若者達世代は人殺しをほとんどしなくなったのです。
それなら今の日本は『素晴らしい』となるのですが、どうもそうとも言い切れないのですね。
今でも少数は殺人があるから『良くない社会だ』として、それなら将来において全く殺人が無くなった日本社会とは『理想的な良い社会』であるのか。?
殺人が全く無い社会とは、間違いなく若者が全く争わない怒らない社会であるでしょう。
それが本当に良い社会と呼べるのか。?
1回の射精でも数億個もの数がある精子と一生涯で数百個で実数では数十個しかない卵子では製造コストとか数量に圧倒的な差があり、その意味では男女は生物学的に平等には出来ていない。
繁殖期のオス同士の争いは全ての生命に共通する出来事で、勿論人間も動物であり哺乳類の一つであるので殺人率は男女間で大きな差が出るのは当然であるのです。
何処の国でも基本的に人を殺すのは二十歳前後の繁殖期の男なので表にすると同じカーブを描きこれをユニバーサルカーブと呼ぶのですが、これがわが国では近年大きく減っていて完全に崩れて、日本では全ての生命に共通する繁殖期の男が争わなくなったのです。
殺人が減る事は間違いなく良い事ですが、
それなら、『殺人が完全にすべて無くなった社会』が出現したと想像して見れば誰でもが疑問に思うはずです。
それが『理想の社会』と果たして呼べるのでしょうか。?
その社会とは、『若者が、若者で無くなった社会』ではないでしょうか。?
それなら、その状態が良いのか、あるいは何かが失われた世界なのか。?考えさせられますね。
返信ありがとうございます。
私もネアンデルタール人が滅亡した主因は、ホモ・サピエンスとの戦闘によるものとは考えていません。
寒冷化が主因の可能性が高いでしょうが、ただウルム氷期はかなり長期に亘るので、ネアンデルタール人も大移動で寒冷地を避けることは可能だったはずです。
恐らく、氷期にアスキャ火山辺りがカルデラ型破局的噴火を起こし、それに伴いネアンデルタール人の生息域であったヨーロッパが更なる急激な気温低下と食料となる動植物の大量死に見舞われ、短期間になすすべなく滅んでいったのではないでしょうか。
話変わって、翻訳家の山形浩生がこんな話を書いています。
彼はパプアニューギニアの高級官僚と知りあいになったんですが、この人10年くらいまで所謂原住民生活をしていて、隣接する他部族と事あるごとに槍と盾を持って戦争していたそうです。
戦争といっても槍と盾ではそんなに人は死なない。
ところが、銃器が入ってきてこれを部族間戦争に用いるようになったら、人がバタバタ死ぬようになった。
これは流石にやってられんと、しかたなく揉め事を戦争でなく話し合いで解決するようになったんだ~と、その官僚は「残念そうに」話したそうです。
彼等にとっては戦争、楽しかったんでしょう。
そこには、人を高揚させる
以後気を付けます。
…そこには人を高揚させる遊戯的な側面と儀礼的な側面がある。
ある部分は近代の戦争と地続きになっていると思います。
けれども、産業革命によってもたらされた兵器の近代化は、人間の感受性を麻痺或いは押し潰すほど凄惨で巨大な破壊力を得てしまったのかも知れませんね。
まず山形浩生の話ですが、パプアニューギニアの官僚は彼の直接の知人ではなく、仕事仲間の知人でした。
つまり伝聞ですので幾分話が盛られているかも知れません。
あと、
×:10年くらい
○:10年くらい前
です。失礼いたしました。
次回コメントさせて頂くさいはキチンと校正しますのでご容赦を…。
氷河の最盛期には南のほんの一部を除き欧州の全域が氷河に覆われた形跡がある。
欧州のパリやロンドンはサハリンと同じ程度の高い緯度なのですがメキシコ湾流のお蔭で暖かい。
ところがこの時にメキシコ湾流の流入が止まったとの説が有力で、そのために突然欧州全域が氷河に覆われてしまったのですが、このために表土が失われて仕舞い欧州全土のほとんどが岩盤が露出した痩せた土地になっている。
絶滅の原因は、寒冷化のスピードが急激過ぎたのでしょうが、こんな時には女性や若者は柔軟で別の方法を考えるのですが、成人した男はなかなか昔の習慣が止めれない。
絶滅したネアンデルタール人は男が実力を持っていた文化だったのかも知れないが、生残った人類の基本は女性原理で成り立っています。
嫁入りはすんなり行くが婿入りは色々問題が起きるとか国際結婚で男性よりも女性の順応性がよいが男の方に問題が起きるとかの原因はこの、男の保守性でしょう。
人類の文化ですが元々は母性原理の文化であったものが父性原理に置き換わった歴史があるのですが、日本では最後までこの母性原理が残っているとの説がありますね。
天照大神の昔から日本は女ならでは夜も明けぬ国であるのです。
戦国時代の宣教師達も女性の権利の大きさに驚いていたようですし、江戸時代にもサムライとは別の町人文化では女性の力は大きかった。
何代も続いている大店は例外なく長子相族ではなくて婿養子でもっとも優れた番頭が本店を継ぎ実子にはのれんわけで分家させていた。今のサラリーマン家庭の財布を握っているのは女性なのですが、これは日本だけの特殊な話。
腕力には劣るがコミュニケーション能力に優れた女が実権を握れば間違いなく9条的な『紛争は話し合いで』となります。
大昔のニューギニア高地人ですが農作業などは女性の仕事で男は戦いぐらいしか仕事がない。
年がら年中戦ってるのではなくて諏訪の御柱祭りのような何年置きかの祭礼儀式に近いもので、勝った方のから、男を殺された負けたほうのの女や子供が困らないようにと彼等の最高の財産である豚を送るのです。
日清戦争で負けた中国の日本に対する莫大な賠償金や第一次世界大戦に負けたドイツの莫大な賠償金などの近代戦争での賠償の話とは正反対の考え方なのです。
文明国とは正反対の負けた方が豚をもらえるこのニューギニア方式の戦後処理とは、良く考えれば最も文明的な考え方なのが面白いですね。
ニューギニアでは戦争に勝ったほうは『名誉』を得られるが大切な豚を贈るのですから経済的には大きな損をする。
戦争に負けた方は人的な損害を受けているのですからこれも大損害になる。
勝ち負けに関係なく双方が一定程度の損害をこうむるのですから、『誰も戦争で得をしない』これが一番の最も優れた戦争抑止力です。
今のような戦争に負けた側は何の得も無いが、勝った方(たくさん殺した側)が『得』をする文明国の戦争とは、これはもう間違いなく野蛮な仕組みで改めないといけない。
理論的に双方が損をするニューギニア方式に変えないと戦争は無くならない。今の方式は根本的に駄目ですね。
>仏教思想の根幹部分である『無常観』とは、当時の人々の置かれた『もう、何処にも逃げて行く場所が無い』科学的な客観的事実を、ブッダが哲学的解釈を施した(悟)ものといえる。
平和を考える時、もう知らない者はいない。部族間の殺し合いが出来る時代ではなくなったと私は良く思います。日本人は地球の隅々までいるわけで、武力で日本人を守るということは不可能になってきたと思います。
全てのおごるもの栄えるものも最後には滅び、命あるものは必ず死ぬ。
『因果応報』全ての物事には原因があり『原因と結果』は切り離せないという仏教の世界観は今の科学的な考え方とそれ程矛盾していないどころか『科学』そのものの部分があるのですから面白いですね。
2000年前の当時は、宗教と科学は未だ分離していずに一つのものでブッダの仏教的世界では一体であった可能性が有るのですね。
輪廻転生について『個人』が転生するなら主体となるべきとか『霊魂』などの『何らかの不滅の存在』が無けれ論理的に無理なのですが、魂のことを弟子から問われたブッダはまったく答えなかった。
宇宙や自然の法則から反する霊などと言う『妄想』は生まれないとする霊魂不説が本来のブッダの考え方であるのです。
ブッダの輪廻転生の意味とは、生命が親から子に、子から孫にと受け継がれていくとするなら丸々今の自然科学と一致しています。
ブッダは霊魂についても死後の世界についても語ることは無かった。
そう思って生き仏が生まれかわるチベット仏教を考えるとブッダの考えと違いすぎて相反し、矛盾が大きすぎてあれは破壊的カルトですね。
ネットウヨ的な『暴力で守る』との考え方ですが、戦争でもスポーツでも全ての勝負事に共通する原則ですが勝ち負けは同数なので、守れる確率は5割しかないのですよ。
ですから『武力で守れる』と考えるなどはパチンコとか競輪競馬などの博打ごとで金儲けが出来ると考えるのと五十歩百歩の愚かな考え方です。
パチンコでもたまには儲かるので、正しくは『武力で守れることも有る』なのです。
これは戸塚ヨットスクールで暴力で登校拒否や不良などが治るとする単細胞の戸塚宏の考え方と似ている。
昔の真空管ラジオを叩いて治る確率程度の阿呆臭い話ですね。
国家の軍隊にしろ戸塚ヨットスクールにしろ、暴力で『何か』が治っても、それはほんの一時的な現象であり根本解決には程遠いのです。
浮力があるので、楽に二足で立って、顔だけを出していたので、頭にだけ毛が残ったという事らしいです。
鼻の下にある溝のおかげで、上唇で鼻の穴を塞げるのも、水中生活への適応の結果だということです。
何万年後かの話なのですが、日本列島から発掘された古代の木製の遺物で考古学者が大激論する話。
学者A『これは仮面である。何故なら両目と鼻の位置に穴が開いている』
学者B『これは武器に違いない。なぜなら二つの突起部分には打撃を与えた後がある』
学者C『これは祭礼などで供物を供える為の器である。精密検査の結果微量のバナナとみかんの成分が検出されている』などなど、・・・
『人間は水の中で進化し二足歩行を獲得した説』ですが、これは星新一の的なユーモアで、いわゆる『机上の空論』ですね。
幾つもの無理が重なっているのです。
先ず第一番目はアフリカの大地溝帯の東側で人類が誕生したのですが、二足歩行は湿潤化ではなくて乾燥化が原因であるのです。
サバンナは雨季と乾期があり雨季では可能かもしれないが、必ず干上がります。
ナイル川やニジェール川など大河の河口付近の湿地帯の方が条件があるが、それでも無理。
これは御自分が水に入れば誰でもが判ることですが腰以上の深さでは浮力が働き歩けない。
流れがあれば腰どころか股程度が限度なのです。福知山の集中豪雨で腰までの水深の中を避難中に犠牲になっているのですね。
深い水深では歩くことは泳ぐことよりも体力を消費するし危険も大きいのです。
この『アクア説』の主張ですが、実体験が不足していて脳内の考えが優先しすぎた好例ですね。
池なり川なり自分で体験すれば無理であることが直ぐにわかります。
自称考古学研究家の藤村新一に25年もの長きに渡って日本の考古学者が騙されていた旧石器捏造事件と同じで、考古学の技術不足もあるでしょうが基本的に実体験が無いのです。
この偽造では初期の段階からフランスで石器学を学んでいた竹岡俊樹は『江戸時代に電卓が発掘されたのと同じ』であると明確に否定していたが多くの学者が騙された。
藤村の石器が何の変哲も無い尾根などで発掘されているので、私は考古学の何の知識も無いのですが『インチキだろう』とは早い段階で見抜いていました。そんなことはありえ無いのです。欧州など外国では全て大きな洞窟などで発見されているのですよ。
昔の漫画で描かれる浮浪者(乞食、今のホームレス)は公園の土管に住んでいたのですが、今のような便利なビニールシートが無かったからですね。雨を防ぐ目的で土管なのです。
山なら岩陰を利用するのは当然過ぎるほどの事であり日本の考古学の学者先生には野外で生活する知恵が無い。古代人の苦労が全く分かっていなかった。
昔話での一番恐ろしいものは『ふるやのもり』だとの日本は雨量が多くて多湿『雨漏りが恐ろしい』との話を完璧に失念していたのでしょう。
最初の星新一の古代の不思議な正体不明の木製遺物の正体は下駄です。