『それにしても日本の「右」」はネットウヨ並み』
『暴力装置』発言、どう考えますか?『合法的な強制力は武力だ』
西部邁の毎日新聞12月22日付け投稿記事ですが、これが日本国の『右翼一の論客の発言なのか。』と考えると、真底がっかりする内容で本当に悲しいですね。
これでは論理の組み立てや知的水準が、偶にこのブログにも来る知恵足らずの携帯中毒のネットウヨ諸氏と五十歩百歩。
日本国の歴史も文化も知らず、基礎的な社会科学に無知で、科学的な客観的事実に無関心で、秩序だった論理的な思考が出来ない。
何をして良いか悪いかの最低限の大人の常識も弁えない子供達の発言と瓜二つでは笑い話にもなりません。
西部氏によると、『人間は言葉の動物』で『言葉は歴史の産物』。『言葉遣いの乱雑は・・・人間の生命力の枯渇の表れ』と断定する。
論理が強引で一方的であり科学的とは言えないが、誰でも知っている無意味に厳格な校則を生徒に強制する体罰教師の主張である『服装の乱れは生活の乱れ』で『生活の乱れは人間としての乱れ』と同趣旨の論法である。
『正しい』とまでは言いかねるが、此処までなら一定限度の真理も含んでいるだろう。
ところこの『限定的な瑣末な真理、主張』の話が『アプリオリ的な絶対命題』に突然大きく飛躍するので、論理的な考え方の人は誰もついていけない。
なんと政治学者マックス・ウエーバーの社会科学、『自衛隊は「暴力装置」であると口走るのは生命力の枯渇の最たるものだ。』そうです。
西部邁氏曰く、
『秩序の面で強制力を発揮するものとしてのフォース(力)あるいはゲバルト(実力)は、合法なものはミニタリーパワー(武力)と呼ばれ、不法なものはバイオレンス(暴力)と名付けられる。』と、元極左のブントの活動家や東大教養学部教授だっただけに、日本語の社会科学用語『暴力装置』の語源となるそもそもの『言葉』が政治学者マックス・ウエーバーの社会科学の定義であり、ドイツ語の『ゲバルト』であることは知っていたらしい。
しかし、それにしてもゲバルトの訳語が『実力』であるとは苦しい限りであるが、合法なものが『武力』とはもっと苦しい。
何故なら、そもそも『武力』にしろ『実力』にしろ合法非合法の概念とは、直接的には何かの相関関係を持っていない。
合法と実力(武力)の両者は全く別の価値観と概念である。
元々が別々なので『合法であるから武力』『合法でないから武力(実力)でない』などと言えない。
一般論としては本来『無関係』。
完全に合法とは断定出来ないレバノンのヒズボラやアフガニスタンの軍閥などの各国に存在する武装組織を西部氏は『武力』とは呼ばないのだろうか。?
ところが本来無関係の『武力』と『合法』との関係だが、我が日本国では憲法9条で国家の武装は禁止されている。
西部邁氏の如く『自衛隊は武力』であると確定するなら困ったことになる。
それなら憲法9条の規定に明確に違反するので『違憲』であり、違憲なら即『非合法の暴力装置である』と判断出来るのです。
『自衛隊は違憲だが合法』とは今は消滅した旧社会党幹部の迷い言であるが、『男だが女でもある』と同じで普通ならあり得ないのです。
まあ世の中は広く男女両性の性器をもった両性具有の『二なり』と言う例外も有るにはあるが、何と日本の24万自衛隊が『ふたなり』集団だったとは知らなかった。
『憲法98条』最高法規の規定と遵守義務
98条1項 『この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。』(違憲=違法)
西部氏の主張するように『自衛隊は武力』なら、国家の最高法規である日本国憲法の規定により『違憲=違法』になる。(今までは自衛隊は武力ではないから合法だとの詭弁で通してきた)
そのために仙石長官は自民党議員に抗議され即座に『実力装置』と言い換えている。
当たり前である。
これは何も日本国憲法98条に限定しなくても、世界中の憲法が存在する近代国家の最も基本的な原理原則であるのです。
西部氏によると、
『暴力装置の言葉の使用は、「暴力反対」「暴力団は出て行け」と叫んでいてこの日本国の価値観が崩れてしまう。』そうです。
これでは、基本的に『理論』などと呼べるものは何一つ無い。
あるのは個人的な好き嫌いの『感情』であるとか極プライベートは心象風景、美意識や『情緒』『感性』だけである。
何ともはや。『情けなさ』に言葉も無い。
客観的な科学的事実には何の関心を示さず、自分の個人的な情緒や感性、道徳などの『内心』を最大限のよりどころにして『社会』を論じる非論理的な逆立ちした主張である。
基本的に、全く意味をなさない単なる言葉の揚げ足取りで、『単語』の解釈をさも大事であるかの如く大騒ぎしているだけです。
社会科学の基本が何も無いのでしょうか。実に不思議な話ですね。
西部邁氏は、『自衛隊が日本社会に定着している以上、そんな乱暴がいえるわけが無い。』と主張するが、『日本社会に定着している』などは単なる『現状追認』(現状認識)に過ぎない。
誰であれ本来何らかの主義主張(哲学)なり理論(原理原則)があれば、その持っている『理論』(基準)で目の前の『現状』を判断する。(理論→現状)
この逆の『現状』が、何かの論理的な『基準』になることは無い。
ところが右翼一の論客西部邁の脳内では『現状認識』自体が、正誤や善悪の最大の判断基準に変化するから面白い。(現状=判断基準)
日本の右翼思想独自の最も特異な特徴である、無思想無原理無節操で中身が何も無い『無条件の現状肯定』の最たるものである。
日本社会の奥底に定着しているヤクザなどの暴力集団の『暴力』の規模は遥かに小さい。公的な暴力装置である自衛隊に比べれば持っている『暴力』はささやかで可愛いものです。
そして、私的な暴力集団である暴力団などヤクザ組織の歴史は、正等な自衛隊などとは比べられ無いくらいに、何十倍も長いし社会にも定着している。
西部邁自身の言葉の、
『多分、氏は自分の幼稚な人生段階での言葉遣いを矯正しないままに老人になっただけなのであろう。つまり「法と力」の関係についての考察をなおざりにしてきたということである。結論だけを言うが、こういう老人が政界のみならず各界でふえてきている。』
とは、書いた本人の西部邁が、額にでも入れて自分の頭の上に貼り付けておいて欲しいものです。
『「法と力」の関係についての考察をなおざりにしてきた』付けが回ってきたのでしょう。
『丸っきりの暴力団扱いの可哀想な自衛隊』(西部妄言の真打)
>『同時に、仙石長官に対して「自衛隊の士気がそがれる」と批判するのも情けない話だ。隊員たる者、憲法の条文に違反する集団にはいることを志願したのなら、「法律違反の実力」としての暴力を担っている、と言われるくらいで士気阻喪してもらっては困る。』
『いわんや武力が・・・・その一から十まで法律で規定するわけにはいかない。』
『事後的には、法律の枠組みを逸脱したと批評されるたぐいの実力を発揮することもあり得る。』
『それが軍隊と言うものである』
これでは、丸っきり『無法のすすめ』である。
ちなみに、西部邁の言葉の自衛隊を『山口組』に隊員を『組員』に置き換えてみれば一目瞭然で、広域暴力団山口組若頭の『あいさつ文』として全く無理なく意味が通じるのですね。
『、とは申さないが』と後で付け加えているのだが『クーデター(政府への一撃)を行いうるのが軍隊だ』と凄むのですから、社会論理として目も当てられない悲惨な有様である。
『軍隊に対する文民統制の基礎は疑いなく法律』とアリバイ作り的な今までの軍隊の無法(脱法行為)の勧めに反する言葉もあるにはあるのですが、『・・・法律である』の断定口調ではなくて『・・・法律ではある』とあり限定的な表現なのが何とも意味深長。歯切れが悪い。
西部妄言の最後の締めが『国民が公民』とのご宣託なので、『主権者たる国民』を明確に定めた日本国憲法に対する憎悪と、律令制度の『公民』程度の権利しかなかった(天皇一人しか主権者が無かった)明治憲法への郷愁がひしひしと感じられる文章である。
何故これ程までに日本の右翼の論理は無条件の現状肯定だけになって仕舞い、本来の右翼思想の真髄であるはずの社会的な視野や提言、理想が全く無くなったのだろうか。
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その点兄は正面から取り上げられ論破されている。力がなければできない技です。マスコミというより毎日はどうしてこんなお疲れ気味のイデオローグをいつまでも取り上げるのか、それがわかりません。
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken103.html
どうやら現在日本のあちこちでいろいろな「行動決意大会」が開かれているようです。この場合、論理はむしろじゃまなようです。
西部邁ですが、『アメリカについていけば全て上手くいく』と信じて疑わない能天気な日本の保守や右翼としては数少ないブッシュ政権のイラク侵攻を批判した人物なのです。
右左など思想信条に関係なく、科学的な客観的事実を正しく認識しさえすれば小泉純一郎のように『賛成』など出来るはずが無いのですよ。
最初から『戦争』自体に反対している『左翼』はともかく、泥沼にはまり込みアメリカ軍を弱体化して仕舞うアフガンやイラク侵攻には本当は左翼以上に『右翼』こそ反対すべきだし、物事を正しく捉えることが出来れば誰であれ反対する。
イラク戦争開戦にはアメリカ陸軍総参謀長だったシンセキ(新関)陸軍大将は反対して更迭されているがオバマ政権では閣僚として入閣しています。
02年のイラク侵攻に賛成した政治家も評論家も識者もマスコミ関係者も、全てに共通することは『専門化失格』だと言うことでしょう。
1945年8月15日に真珠湾攻撃を賞賛した人々と同じでこれ等の人々は総懺悔すべきなのです。
その意味で西部は政治評論家として最低限の資格は有しているのですね。
右翼一の論客と思っても間違いではないでしょう。ところが彼をしてこのざまです。
朝鮮改革派の金玉均や中国の孫文を助けた宮崎滔天などの大アジア主義なんか今では夢のようです。
右翼思想とは、現状に不満を持ち崩壊寸前の伝統といった過去のものにひとつの理想を見出すが、今の右翼思想には現状肯定以外の、思想や主義などと呼べる代物が何も無いのですよ。
右翼は『今の日本は気に入らないから変えてしまいたい』と一旦は思うが、そこで、『正しく変える力』は『天皇』に代表される『日本の伝統』にあると思うようになる。
『世の中を変えようとする、だがうまくいかない』→『どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする』→『変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる』→『すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る』
何故国粋主義(攘夷思想)のはずの日本の右翼が対米従属を恥ずかしげも無く行えるかの謎には日本独自の天皇制があるらしいのです。
韓国は歴代軍事政権が国内の不満の解消の為なのか知らないが長い間継続的に反日教育を行っていたのですね。
そのために伊藤博文暗殺犯の若き一テロリストを天まで持ち上げて仕舞い処刑100周年には義士殉国騒動は止まることを知らない。
10年一昔というが、日本の植民地支配など65年も前に終わった話なのですよ。
そして北朝鮮の拉致問題ですが今の話ではなくて30年も前の話なのですよ。
しかも拉致被害者なんかたったの十数人で、関係する親兄弟が大問題とするのは当たり前だが、関係ないそれ以外の人々では、他の犯罪被害者の話と全く一緒、何の違いも無い。
これは1億2千万人もいる日本全体から見れば1000万分の1の話で、全体からは問題にもならない数字ですよ。
1日に100人が毎日自殺する日本国で、これが何か日本全体の問題と考える方が不思議なのです。
ですからこの話は国民の目を逸らそうとする歴代軍事政権の反日教育と類似した腹立たしい話ですね。
確かに日本が韓国に酷いことをしたのは事実であるが、だからと言って隣国に対する反感を意識的に国民意植えつけるなどは国家の安全保障の観点から見れば愚行中の愚行です。
良い悪いなどで隣国は絶対に選べないのです。
悪いから付き合わない。存在そのものを認めないなと常識はずれにも程が有る。
国家の外交とは小学生や幼稚園児の仲良しとは話が違うのです。
危険な相手だから交渉も必要になるし、正式な外交関係も樹立する必要が生まれる。
欧州のように世界大戦を二回も経験しているので、このような隣国に対する反感を煽ることが一番の国家の為にならないことが理解しているのですが、1回しか大戦を経験していないアジアではまだまだ経験が不足しているのでしょうか。残念な話ですね。
私自身、文化的な憧れからアメリカ留学を行い、その後職を得て、流れ流れて今は二十代最後の年を香港で駐在員として日々生活をしている者です。(この様な自己紹介がこの場において不適切でしたら申し訳ありません。)
このような経験が自身にある上で、この度宗純さんの書かれている
→隣国に対する反感を意識的に国民意植えつけるなどは国家の安全保障の観点から見れば愚行中の愚行です。
という点に非常に共感を覚えコメントをしようと決意しました。自身もこの点において若輩者ではありますが、少なからずとも海外で生活をしている者としては、この様な意識を潜在的にもった隣国の人々に出会う事も少なくはありません。
この点において私自身感じるのが潜在的という所が非常に嫌な気持ちになる点です。というのもその潜在意識が現れるたびに事がうまく運ばなくなったり、それまで良かった関係全てが台無しになったりと。つまり、それまでが表面的なものであり、本当はずっとそう思っていたのかと落胆させられてしまい、そこを中心に考えているようではこの先お互い理解し合える事は無いのか?と考えてしまいます。
やはり意識的に植え付けられると、こうなってしまうんだなとある意味興味深くすら思えます。
ただその一方で全ての非が相手(一個人)にある訳でもないし、国策?といっていいのか解りませんが、その様に何十年もそれを当たり前だと思っている人に対して、ある程度は寛容に受け入れられる様になるという考え方が必要だと考えており、その点ではまさに勉強中であると私自身考えている所でもあります。また「そこで認めたら終わりだ」等と言う人もいれば、反対に認めた事を利用する人も出て来るのも問題だと考えております。
また、昨今の日本を見ていると(限定的な情報ではありますが)これがまた露骨に国民の意識へと植え込まれている様にも感じます。正直何が何だか解らないし、正に右も左も解らないとはこういった事なんでしょうね、正直私自身明確な事は言えませんが、何か暗くて見えなくて終わりの無い何かと戦っている様な嫌な気分にさせられて仕方がないのが今の日本を見ていて思う事です。
こちらの Blog を拝見させていただくたびに、小さい頃両親に言われた"テレビばかり見てると頭が悪くなる" "今勉強しないと大人になって後悔するよ" などとはよくいったものだなと考えさせられます。
支離滅裂な感情論の様になってしまいましたが、大きな共感を覚え博識な方々の多いこちらへ勇気を出してコメントをした通りすがりと思っていただければと思います。
当ブログでは良好なブログ環境維持の目的で名前が無いものやあっても『通りすがり』とか『日本人の一人』など個人を特定していないHNは無記名と看做して削除するローカルルールがあるので『無知な通りすがり』さんの名称は、ですから微妙なのです。
『この文章は読者によって、どの様に解釈出来るのか』には大いに興味があるので、今回のコメントは大歓迎です。
次回の投稿時には『支離滅裂な感情論』などとご謙遜なさらずに賛成反対、何でも結構ですから是非とも別の適当なHNでのコメンを御願い致します。
政治、経済や歴史学は、本来社会科学の一分野であり右翼左翼など政治的イデオロギーや国籍の違いなどには関係なく、客観的な科学的事実の正誤の話に過ぎません。
そして科学的『正誤』なら立場などには無関係で誰に対しても同一で普遍的なのですね。
ところが現実問題として『正誤』ではなくて『善悪』の問題としてこの歴史が捉えている人がほとんどであり、これなら普遍的ではない。
正誤は普遍的だが、『善悪』には絶対はなくは限定的であるとの謙虚さが大事でしょう。
ですから歴史を考える場合には科学的『正誤』だけを問題として、出来る限り『善悪』を排除する姿勢が客観的な科学的思考では大事ではないでしょうか。?
この辺の間違いを右翼だけでなく、本来科学的な思考を優先しているはずの左翼までが犯しているのですね。
だから騒動が絶えないし客観的事実に対する正しい判断を間違うのです。
一世代が20~30年で代替わりして40~60年では二世代が経過するので、誰かが意識的に知識や経験を伝承しないと、極普通の庶民の誰もが知っていた知識や経験(常識)が失われる恐れがあるのですね。
日本人の右傾化ですが戦後65年が経ち、350万人の日本人の命で購っ得た貴重な経験や知識が今ではほとんどが失われた結果でしょう。
多母神等は空論の極みであれでは決して本物の戦争は出来ません。出来るのはアメリカ軍のパシリ程度ですね。
一休様は西部邁さんを、まだ学者だ勘違いされているようです。でも彼は科学とは関係ない人ですよ。
私は長万部オジサン(と僕だけ名付けている)とは何度もスタジオでお会いしましたし、それなりにしっています。が、かって学者であり全学連(60年安保)であったかもしれませんが、ただの長万部なまりのお笑い芸人だと思っています。相当ふけていますが。
背が低く、コンプレックスが異常なんですが、それをのぞけば話は面白く、それなりにこういわなければ飯が食えないことを知っています。
ギャラは安くても田原とも合性がよく、老人なりに非科学的論争を盛り上げる芸も自分では、磨いているように思われます。
漫画家のこばやしよしのりというひととも仲良しで、いいひとですよ。
自分で言うことには長万部の天才であったが東京では、あまりもてなかったと自戒しています。しかし寄る歳で話が長い割りに落としどころがないので、余り使えません。
毎日は創価学会の印刷で糊口を凌いでいる位ですから、彼の原稿料の安さに惑わされて掲載しているのでしょう。
だから僕の長万部オジサンをあまり苛めないでください。偉そうに書いたり、しゃべったりするのも芸の内、おおめに見てください。
右翼をウリにするのは、田母神ぐらいの道化じゃあないと、もう飽きられるんです。なるべく外して大衆迎合しているのか、本当に脳障害かは知りませんが、オジサンはマスコミが大好きなんです。実は。
まったく仰られるとおりですね。
『右翼一の論客』の言葉で、迂闊にも北一輝の日本改造論や大川周明の大アジア主義を連想するから真底がっかりしたり情け無くなったりするのです。
岩下俊三さんのように、最初から電波芸者の男めかけの余興の座敷芸だと諦めて割り切れば、怒るほうが悪い。
長万部オジサンが精一杯頑張って演じているのです。
阿呆を演じる道化のしがない稼ぎなのですから一々目くじら立てずに大目に見るべきです。
元々右翼とは『失われた理想の過去に立脚して現在に異議を申し立てる』立場なので、まさに過去に立脚する『逝きし世の面影』のこのブログの姿勢なのですね。
通常の日本国の右翼連中は65年以前から明治維新までの日本を理想を見つけるのですが、当方は倍も昔の150年以前を目指している。
通常右翼の二倍の時間軸です。
それでガッツ石松と同じで、左翼と180度違う右翼の立ち位置からもう180度違う。
元々からは360度違うので現在は『左翼』と同じ位置になっているのでしょうね。
今NHKが司馬遼太郎の小説の映像化を行っているのですが、内容的に嘘が多すぎて腹が立つ。
時代小説をたくさん書いた司馬自身は日露戦争の坂の上の雲の映像化は反対していたそうですが、彼は日露戦争以後の小説も書いていない。
理由は太平洋戦争の軍人としての実際の経験からそれ以後の日中戦争や対米戦争での日本の軍人の救い難い質の低さ愚劣さ傲慢さに呆れ果てたからです。
日本軍軍人たちの凄まじい堕落を知っている司馬遼太郎は、それで誰も知らない昔々の日清日露以前の軍人に日本人の素晴らしい本質を見出しているのですよ。
これをして、戦前の教育勅語の良さを指摘する慌て者もいるが、少し時系列的に考えてみれば誰にでも判る事ですが、日清日露の戦争を指導したのは全て教育勅語以前の江戸時代の教育を受けた世代なのです。
そして時代が進み江戸時代の教育を受けた(江戸時代の道徳を知っている)世代が全て現役を退いて仕舞う。
日清日露戦争後の時代の、明治以降の『教育勅語』だけの教育で育った世代が指導した戦争とは、道徳的に退廃した救い難い愚劣で傲慢な軍人たちの亡国の日中15年戦争とか太平洋戦争だったのです。
ところで、話は飛びますが、世代間の戦争体験の伝達よりも、学生(特に女子学生)にとても人気がある嵐の二宮君が「硫黄島からの手紙」に出演していることの方が反戦教育(?)には効果があります。 (本来、戦争映画など見ないであろう)世界中の嵐ファンがこの映画を見て「戦争とは悲しいものだなぁ」と解かってくれることはとても貴重なことです。
>「朝鮮民主主義人民共和国当局による人権侵害問題に対する認識を深めよう」<では少しも無いのです。
日本国の法務省と言う最も法的に厳格で『言葉使い』も厳格であるべき法務省の使う言葉が、全て『北朝鮮』で統一されているのですね。
このことが何を意味するか。?
日本には昔の韓国にあった軍事政権程度の非民主的組織はあるが、本当の意味での法の平等で厳格な執行機関が何処にも存在していないのです。
そして、>『一般国民も余り興味はないと思います。』<
どころの話ではない。
日本国では政府も国民も同じ、
悪辣非道な犯罪者としての『北朝鮮』はあるが、日本国の隣国で何千万人が生活している、れっきとした国連加盟国でも有る『朝鮮民主主義人民共和国』という名の国家はこの地球上には何処にも存在していないのです。
そして悪の北朝鮮に対してはどれ程理不尽でも非人道的でも、何をやっても許されるのだと信じているらしいのです。
これは何も無知蒙昧なネットウョだけではなくて護憲左派までが程度の差こそあれ同じであるのですから口があんぐりで、呆れ果てているのです。
パリ在住者のブログで『高校無償化での朝鮮高校』を含めることは違法との記事に、これがネットウヨの記事であるなら、余りにも無残すぎる御馬鹿を笑うだけで、こちらからはコメンとなんかは絶対にしないのですが護憲左派なので仕方なく、
『子供手当てと同じで日本人だけが対象ではなくて日本国の子供全てが対象である』(だから国連でも人権問題とされる)と注意したのですが・・・
矢張り『反日教育に金を出すのは絶対反対』なる主張はまったく反省するそぶりもない。
『一般国民も余り興味はない』どころの話ではなくて、無条件で『北朝鮮=絶対悪』との思い込みは微動だにしないレベルまで脳内に完全に刷り込まれてしまっているのですね。
65年前の『鬼畜米英』レベルの話どころの洗脳レベルではないのですよ。
話はもっと深刻です。
ひょっとしたら日本にも何かの間違いがあるかも知れないなどの、当然持っているはずの『疑う心』は完璧に失われているのです。
当時の日本人でも少しは持っていた、自分にだけ都合の良い日本国の大本営発表を疑うとの冷静さが無いのです。
これは民主党政権だけではなく共産党から自民党まで同じであるのですから、完璧に昔の大政翼賛会であり当時よりも症状は重い。
これはもう日本人全員が可也重い病気ですね。