逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

ダーウィンの『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)

2009年12月05日 | 文化・歴史

150年前の1859年、『種の起源』(On the Origin of Species)がチャールズ・R. ダーウィンにより刊行され、『ヒトも動物の種のひとつであり偶然と必然が生んだ』とする科学側と『ヒトは神に寵愛されたヒエラルキーの最上位の存在である』とする宗教界との間で神学論争が引き起こされ欧米社会では大論争となる。
論争はダーウィン以外にもアルフレッド・ウォレスなど色々な科学的学説や証拠によって『進化論』の正しさは多くの人々によって証明される。
この時から欧米の科学は『宗教のくびき』から解放され、科学の絶対優位の現在のような人間中心主義(民主主義)社会が出来上がったといっても過言ではない。

『社会ダーウィニズムと優生学』

ところが、この適者生存や自然淘汰により種(生命)は進化するとする『進化論』の考え方は、ダーウィンが考えもしなかった意外な方向に使われるのです。
『種の起源』当時の19世紀中葉の西欧は産業革命以後の帝国主義の時代で世界植民地獲得競争が真っ盛りであった。
当時、強力な軍事力の西欧先進諸国(列強)が軍事的に劣っていたアジア、アフリカ、中南米諸国を侵略、征服する為の『強い優れたものが弱い劣ったものを征服(駆逐)支配する』ことを合理化する(自国民を納得させる)正当な科学的理由あるいは世界観が是非とも必要とされていたのです。
普通の一般市民感情(常識)では『悪逆非道なおぞましい行為』に見える帝国主義の過酷な植民地支配を『正義の行為』であると正当化する理論(イデオロギー)が求められていたのである。
生命の進化の圧力である、適者生存や自然淘汰などの『進化論』の中にある理論を、『人種とは別々の種である』とする間違った前提にたち『弱いものが滅び』『強い者だけが生き残る』ことが科学的に正しいと言う様な強者必勝、弱者必敗、弱肉強食の思想を人類や社会にそのまま乱暴に当てはめ、先進国による侵略戦争や植民地化や人種差別、民族や文化の絶滅さえも『科学的に正しい』とする恐るべき『社会ダーウィニズム』や『優生学』が、ダーウィンの進化論から派生して生まれてくる。

『人の由来と性に関連した選択』

これら恐るべき科学の逸脱や暴走(社会ダーウィニズムや優生学)に対し、ダーウィン自身が重い腰を上げ『人類の進化』について語った『人間の進化と性淘汰』(The Descent Of Man And Selection In Relation To Sex)が『種の起源』から12年後の1871年に出版されている。
ダーウィンは、『相互に助け合いそして保護し合う全ての動物に取って、それは一つの非常に重要な事として自然淘汰によって強化されて来た。』
『最も思いやりの強いメンバーを最も多く含んでいる、その様な集団は最も繁栄し、最も多くの子孫を育成する。』と指摘する。
ダーウィンは、『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する。』と主張した。
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化植民地化を是(科学的必然性)とする社会ダーウィニズムの考え方の正反対の『優しさ、思いやり、同胞と助け合う』種が、人類を含めた全ての生命全体の中で生き残る鍵であり、そのような特色のある種(人間)の社会が繁栄すると言っているのです。

チャールズ・ダーウィンの『進化論』の中の『一番環境に適応したものが生き残る』という適者生存、自然淘汰の理論を応用(恣意的な拡大解釈)して作られた社会ダーウィニズムの弱肉強食の理論(帝国主義)は、根本的な間違いを犯していたのです。
社会ダーウィニズムと正反対の考え方である『相互に助け合い、保護し合う種の方が有利』(民主主義、社会主義)とのダーウィンの『人類の進化』は、今の民主主義社会のめざましい発展とその正反対の帝国主義や独裁政治社会の衰退を見れば、このダーウィン学説の正しさは自ずから納得いく話である。

『みんなで共に食べる(共食)する人類』

過去3万年前にはネアンデルタール人など異人種も存在していたが現存する人類はホモ・サピエンス一種だけになっているが、この種だけの他の近縁の類人猿に無い際立った特色が『共食』であり、それ以外には『人類』のようにかならず一箇所に集まって集団で共に一つの食事を行う例は他にはない。
人類に一番近いボノボでも集団で同じ場所で食べている(共食)様にも見えますが、実態は個々の個体は別々に食料を確保し食事(個食)しているのです。
みんなで食べ物を分け合って食べる(共食する)人類では双子は育つが、個食の類人猿では最も人に近いボノボでも育つのは無理だそうです。
理由は母親が自分と子供を含めた二人分の食料は集められるが3人分の確保には無理があり結果的に双子が育てられない。
対して人類では食事はみんなが集まって分け合って食べる(共食)ので双子でも育つし、自分では十分な食料を確保できない病人、怪我人、老人、障害者も生きていけるのです。

『超多産形の人類』

チンパンジーやゴリラなど他の近隣の類人猿と比べてみると、初期の人類は極めて弱い『種』であったようで、発情期が限定されていず(発情期が無い哺乳類はウサギなど極少数)妊娠期間もきわめて短くしかも授乳期間中も妊娠可能で双子も年子も可能なのは人類だけである。
他の類人猿のゴリラやボノボなどでは、発情期間は短く限られており次の妊娠には4~5年の間隔が必要でしかも原則双子は無いのでヒトに比べれば女性が生涯に生める子供の絶対数が数分の一しかない。
今の日本の少子化現象からは考えられないかも知れませんが、人類は全ての弱い種(弱者)に特徴的な超多産だったわけで、この事から『弱いもの同士が食べ物を分け合って(助け合って)辛うじて生き残ってきたのが人類の先祖の姿』だったのではないでしょうか。
このように見ると、『全ての生き物を支配する人類』などの一神教的な考え方は極最近生まれた考え方のようで生物学的には正しくない。
人類ともっとも近い類人猿との比較から判断すれば、やはり『弱者の相互扶助』(民主主義、社会主義)は今日の人類繁栄の鍵のようです。



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26 コメント

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何故か、人類の超多産の事実を否定したい (宗純)
2013-05-27 13:00:17
何が問題で揉めているかが、読者の皆さんには原因が理解出来ないと思うので少し説明すると、
本人がはっきり口に出さないので、分かり難いが、『人類は他の類人猿に比べて超多産』である事実を何とか否定したい。
サバンナに人類が進出したときは、今のような捕食者ではなくて、立場が逆で捕食される弱者だった。
仕方なしに超多産になるが、この客観的な科学的事実は、なぜか学会ではタブーで今まで、誰も主張しないのです。
教科書しか読んでいない人は、大昔の初期の人類の超多産だった事実が分からない。
なんとなく、不愉快なのですよ。
それで『そりゃないよ獣医さん』は、超多産の事実を認めた志村建世のブログの記事で、意味不明の印象操作を行う。
発想や思考方法が貧弱なので、動機が自分でも理解出来ていないのです。
だらだらと、誰でもが知っている程度の陳腐な科学知識をひけらかして、
『宗純さんお意見には、納得いかないことが多くあります、。昨日コメントが残っていません。今日は大丈夫かな?』
『宗純さんの700万年前の遺伝子は、我々に取り込まれている可能性はゼロではないにしても、ほとんど考えられないことです。』
『宗純さんとあろう方がという実感です。ダーウィンの適者生存の論理は完全に破たんしています。』
などと、『人類は超多産』を否定する目的で、なんとかして信用を落とそうと必死。
人類の難産を理由に多産を否定するが、私の『初期人類の脳が小さいので難産ではない』に対して、
『初期の人類の脳は小さかったが、頭蓋骨は大きかったのです』
と言い返す。
もう無茶苦茶。
それは口から出まかせの三百代言の橋下徹でも恥ずかしくて言いません。
そりゃないよ獣医さんは、橋下徹ではないが、同じように謝罪も訂正もせず、今でも『俺が正しいのだ』と頑張るが、勝目が無いことに何故気がつかないのでしょう
返信する
吉本新喜劇の池乃めだかの真似 (宗純)
2013-05-26 15:09:08
もう、いい加減にして下さい。
これだけ人前で赤っ恥をかいたら普通なら『恥ずかしい』と誰でもが気がつくが、まだやっているとはトホホの極み。
この愚か者が。
それでは丸っきりの池乃めだかのギャグのお粗末なパクリ。
少しも面白くない。
底の浅い科学知識を振り回して十分に恥をかいたのに、まだ気がつかないのですか。
今回も恥ずかしげもなく『科学を利用して社会学の論理に貼り付け、権威を持たせようとするあなたの姿勢を、根拠になる化学の部分に間違いがある、曲解されている』書いてくるが、自分の口汚い罵倒に本人がピッタリ当てはまる事実に、本人が気がつかないとは哀れである。
まさに自己責任。
どうしても恥をかきたいようなので、この意味不明のヘイトコメントは反省を求めるために一定期間は、このまま掲載しておきます。
今回は掲載しますが、以後は便所の落書き程度の意味不明のゴミは見つけ次第消去します
返信する
まことに独断的な方であること (そりゃないよ獣医さん)
2013-05-25 20:14:45
宗純さま
私はあやまっていません。それにしても勝手な解釈であること。
今回も後半の部分についてはほとんど異論がありませんが、今回のあなたの無知に基づく思い込みの論理展開がもたらしたこととは、何の関係もないことです。
科学を利用して社会学の論理に貼り付け、権威を持たせようとするあなたの姿勢を、根拠になる化学の部分に間違いがある、曲解されているというのが。私の主張です。
私はあやまっていません。
返信する
実質的な謝罪文であると受け取っておきます (宗純)
2013-05-25 16:34:10
そりゃないよ獣医さん、コメントありがとうございます。

何か誤解があるようですが、そもそもこの逝きし世の面影は科学ブログではなくて、政治ブログです。
大悪党小悪党など魑魅魍魎が跳梁跋扈するおどろおどろしい現代社会を扱う、社会科学の一分野としての政治や経済を考えている。
クジラがカバの近縁種である事実は知っているが、『新しい遺伝子レベルの解析による世界を』覗くなど論外。当事者にとっては大問題かもしれませんが、社会全体から見れば、そのような枝葉末節な話には何の興味も有りません。
医者とか獣医などは科学者でもあるのですが、今の近代自然科学は物事を細かく分けることで進歩してきた。
生物の種を分けるだけには留まらず細胞から遺伝子のDNAの分子配列にまで、極限まで対象物を分けることで、分かって来た。
顕微鏡的なミクロの視点ですね。ところが、自然科学の最も得意とするこの手法は、社会全体を扱う社会科学では無理なのですね。社会とは分けた瞬間にもともとの社会全体とは別のものになる。
大きいまま、丸ごと理解する必要があるのです。
自然科学の分野でも、扱う対象物が大きいままで分割できない生態学や気象学では進歩が大きく遅れている。
人為的CO2温暖化説のような摩訶不思議なニセ科学までが出る始末。
46億年の地球は一貫してCO2が減っているし、植物から見れば今の地球は寒すぎるし食べ物である炭酸ガスも少なすぎる厳しい環境なのです。
18世紀以降に自然科学は大きく発展したが、社会科学は未開野蛮な発展途上段階に留まっている。
原因は対象物が分けれないので今までの自然科学の『分ける』ことで理解してきた得意の手法が駄目だからなのです。
『分ける』ことで分かってい来た、今までのやり方が反対に邪魔になるのです。
大きな社会を理解するためには、今までの態度を根本的に改めて、物事をもう少し時間的にも空間的にも大きく捉えるマクロな視点こそが肝要でしょう。
世界はファジーに出来ているのです。
分けないことにはわからないが分けてもわからない
2012年08月28日 | 軍事、外交
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/eb34601117f5c6cb8fe8b752e65f3fd8
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これはこれでいいのです (そりゃないよ獣医さん)
2013-05-24 19:34:11
宗純さま
この記事は興味深く読ませていただいていました。
このことはこれでいいのです。20年前までの進化論の見解はこのようであって、ヒトラーたち為政者が自国民族優位の論理に引き合いに出したり、競争社会の論理の基部に用いる根拠として使われたことも何ら異論はありません。
現在は、自然淘汰や適者生存に、DNAの変化が応じたとは考えられていません。サラブレッドが速い馬を選抜淘汰して作られても、種の壁は越えていないのです。原種と改良前との交配は可能なのです。犬も同じです。人類が懸命に改良してきましたが、2キロ足らずのチワワと90キロのセントバーナードも交配は可能なのです。
僅かに残っている、ネオ・ダーウィニズムの人たちの説明は、突然変異で変化したDNAが優位な種として残っているというのです。突然変異の殆どは、不利な因子あるいは形質を持っているため、種を残すことなど考えられないのです。
紹介されている、著書も評論の域を出ていません。ラボでの検証ができないために、私のような半可通でも批評できるのです。ダーウィンの見識の深さや偉大な足跡は何ら変わるものではありません。
種の変化がどうして起きるのかは、環境によるものでないことも、ましてや突然変異のせいで起きることでないことも解ってきています。
ガラパゴスのフィンチが、食べ物によって嘴を変化させたのではなく、様々な変化をして自分が有利な場所をそれぞれが見つけているというのが多くの学者の見解です。ダーウィンが形態を見て、外見的に進化を思いついたのはスイバらしいことだと思います。
化石の中に中間種がありません。私たちは、始祖鳥や馬の変化を高校の生物で学びました。現在は、始祖鳥は鳥と両生類の中間種でないことも、馬の進化を並べていたのも根拠のない別種を並べていたに過ぎないことも解っています。
中間種がないことは、急速に変化が起きたことが推測されています。急速とはおおむね10万年ほどだと思われますが、このことも解明されていません。
だから進化論は進化学にはいまだ到達していないのです。
かつての人類学は、形態を並べてつなぎ合わせていたのですが、あらゆる品種で分類系統化は、大きく様相を変えています。DNAの解析で分類されるようになったのです。ワシタカの分類から、ハヤブサが外されたり、クジラがカバの近縁種だたりと、大きな変化が起きているのです。
新しい遺伝子レベルの解析による世界をのぞいてみてください。
返信する
文庫化にご協力ください (大絶画)
2012-10-31 22:11:12
管理人様

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに『人間の進化と性淘汰』の文庫化をリクエストしました。管理人様をはじめ皆様の投票次第で文庫化される可能性があります。
URLから投票ページにアクセスできます。ご賛同いただけるようでしたら投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。
返信する
大学生がはまるマルチやねずみ講 (逝きし世の面影)
2009-12-20 10:24:01
東西南北さん、
仰りたい事は理解している心算ですが、コメント欄なのですから、もう少し短く簡潔に書いた方が判りやすいし皆さんから歓迎されるでしょう。
現在のやり方では多くの読者には『何が問題点か?』主題が判り難いと思いますよ。
私も何回も何回も読み返してやっと何とか理解しました。
今の半分ぐらいの長さに短縮するのが良いでしょう。
同じ内容で十分の一の長さに仕上がれば間違いなく『名文』が出来上がります。


社会科学を学校で教える大事さですが、社会科学にも色々な分野があり、しかも初歩から上級者向けまで色々ある。
特に問題なのは社会科学は自然科学ほどの歴史が無く今までの科学的成果の蓄積が少ない。
ですから小、中学、高校のような初等中等教育で教えるのは限度がある。
矢張り大学など高等教育で扱うべき種類の科学ではないでしょうか。?
初等中等教育では自然科学に限定して『科学する心』の涵養にこそ努めるべきでしょう。
『科学する心』さえあれば自ずから正しい方向に進んでいくはずです。
今、最も不足しているのは『科学知識』ではなく、根本的に不足している『知識』以上にもっと大事な『科学する心』ですよ。

今回の記事に限定すれば、ダーウィンの『進化論』は純粋な自然科学の一分野。
『種の起源』の12年後に書かれた『人類の進化』もまったく同じで内容自体は『純粋な自然科学』ですが、帝国主義のイデオロギーである社会ダーウィニズムの間違いを真っ向から否定する。
社会ダーウィニズムは何もヒットラーだけの専売特許うではなく今でも色々姿を変え、形を変えて色々が新種が今でも生まれ続けています。
オバマのノーベル賞授賞式でのオスロ演説なんかも新種の形を変えた社会ダーウィニズムに当てはまるでしょう。

初等教育でも『社会科学とは何か。?』程度の教育は必要でしょう。
経済学の知識が0なので今でも大学生の間でマルチやねずみ講などが流行っているのです。
お金を幾らぐるぐる仲間内で回しても、どんな複雑な仕組みであれ、最初の元金が減る事はあっても増える事が絶対に無い程度のことは経済学のイロハを学べば誰であれ騙される事も無いでしょう。
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参考です。 (東西南北)
2009-12-19 14:48:02
 数百万年に及ぶ人類の歴史のなかで、支配する者と支配されるものの区別ができたのは、最近のほんの数千年の間のことにすぎません。それ以前に存在していた階級のない社会を、史的唯物論の立場から原始共産制の社会と呼んでいます。

 この段階では、社会全体の生産力が低く、みんなが力をあわせて働かなければ生きていけなかったために、「共存共栄」の関係にならざるをえませんでした。原始共産制の社会は、「共存共栄」の思想によってではなく、人々が生活していくうえでの客観的な条件によって生み出されたものです。

 日本でも、縄文時代の墓はどれも同じような大きさで、特別な副葬品などをもった墓はありませんでした。したがって貧富の格差がなく、他人の労働の成果を独り占めするような支配者は存在しなかったと考えられています。このことは、高校の歴史教科書にも紹介されています。それが、弥生時代には貧富の格差が生まれ、やがて古墳時代には多数の人々の過酷な労働で大きな墓を造るような支配者が生まれるようになりました。こうして、日本でも支配者と被支配者からなる階級社会(奴隷制や封建制)が生み出されたのです。

 エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』のなかで、ヨーロッパ人の侵入以前のアメリカ先住民(いわゆるインディアン)の社会の姿を、当時の民族学の研究に基づいて紹介しています。それによれば、一つひとつの部族が、「氏族」と呼ばれる血縁集団を単位として生活していました。そして氏族の構成員は互いに平等で、他人の支配を受けず、男女すべてが参加する選挙によって指導者(酋長=しゅうちょう=)を選んでいました。

 このような氏族を単位とする平等な共同社会は、世界の多くの地域で最も古い段階に存在していた証拠が発見されています。(石)

出所:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-05-31/2008053112_01faq_0.html
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面影さんへ。 (東西南北)
2009-12-19 14:22:43
 どうもすみません。ただ、東西のいう社会科学というものは、どういう内容なのか、という点だけは理解してほしいということです。主張ではなく社会科学です。この点を明瞭にする必要があると考えています。それは記事にあるダーウィンが述べた人類の特質と同じではないでしょうか?

 憲法9条も所詮は人間の作り上げた観念体系であり、イデオロギーに過ぎないし、それは多数観念である時代の所産である。したがって、憲法9条に普遍性があると断言することはできない。それは流動的である。なぜなら、人間の観念であるから裏表があるからである。

 こういう観念論、ファシズムに対して科学的な反論ができなくなってきます。これを危惧しています。日米軍事同盟に対する最高裁判所の統治行為論の思想的な基盤は、この観念論にあると東西は見ています。どっちとも判断する基準がないから国民と議会の「多数意識」に任せる。という観念論です。

 したがって、「基本的に人は人を殺せないのです。」という科学的な根拠、普遍的な根拠を明瞭にしておく必要性が絶対に存在するわけです。

 時代がどうなろうが、社会がどうなろうが、人間が人類である限り、その人類の進化の過程で獲得してきた遺伝子、したがって、身体・肉体レベルの特質、遺伝子レベルの特質は科学的であり普遍的なわけです。観念は遺伝しませんから、科学の議論に観念論は成り立ちません。

 そこで、ダーウィンの科学論になるのです。科学的な人間論、科学的な人類の特質、科学的な人類の遺伝的特質です。

 この点は、面影さんが記事にしている通りです。

 さらに、人間を丸裸にしてジャングルに放り込んで生存できるわけがないのですから、人間は人間の社会、つまり、人間は人類として共生し、共食し、共働してのみ生存するわけです。したがって、すべての遺伝子が実証的に解明されているわけではありませんが、科学的な洞察、因果関係、展望で言えば、人類の遺伝子から人類が共に生き、共に食べ、共に労働する特質を固有する遺伝子情報は必ず、科学的必然性を持って発見されるということです。そうでないと、人類が進化の歴史の中で獲得してきた人類の特質である共に食べ、共に生き、共に働くという事実を遺伝子レベルで根拠づけることができないという非科学的な結論になります。
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東西南北さん (逝きし世の面影)
2009-12-19 12:39:22
本当に困った人ですね。仰られている事は中山成彬の主張と相似形になっている事に何故気が付かないのですか。?
中山成彬と、『主義』が違うだけで同じことを主張していますよ。
それに其の主張が正しいなら現在まで長い間総ての時期は保守政権(今までは自民党、現時点では民主党)なので保守の信奉する社会科学や道徳などが公教育の名の下に子供たちに押し付けられている現状を追認することにもなります。

それにしても困った事に、それは贔屓の引き倒しです。
何故共産党が正しい主張をしていても支持が伸びないのか。?
考えてみた事がありますが。?
正に今の日本の有権者は(東西南北さん今回のコメントの主張のように)『共産党の今言っている政策、事柄は正しいが、もしも政権を執ったら自分たちの社会科学や道徳を押し付けられるのではないか』と本当に心配して、それで支持が伸びないのです。
政策だけなら日本共産党が一番なのですが、将来『強制されるのではないか?』と共産党は疑われているのですよ。
今の日本の資本主義が『弱肉強食』なのは誰でもが知っている。
しかし多くの日本の市民は、共産党が掲げる政策がソ連型社会主義の『焼肉定食』では無いか。?と疑っているのですよ。
幾ら『焼肉定職』が栄養的に正しくとも強制されたくない。
みんなが体に悪いとわかっている偏ったマクドナルドなどのジャンクフードを食べる自由は、誰でも奪われたくないのです。

それに幾ら正しい主張であったとしても、今回の記事の趣旨とも、コメントの内容ともかけ離れています。
ご自分の是非とも仰られたい事柄があれば、内容的に関係が薄い他所のブログのコメント欄に書き込まず、ご自分のブログで記事にしてトラックバックして頂きたい。
返信する
面影さんへ。 (東西南北)
2009-12-19 11:06:02
 社会科学を学校教育でやらないというのは、暴力革命への道ではありませんか?それは公教育の放棄です。

 問題点を整理するとこうです。

 第一。道徳と社会科学は異なる。道徳は宗教でも非科学的な存在でも道徳である。もちろん、社会科学的な道徳もある。したがって、道徳は本人の内面価値なのであって、社会科学でなくとも道徳である。学校教育でも家庭教育でも国家でも信仰の自由があるので非科学的な道徳を保持することは当然の自由となる。が、学校は社会科学を教育する場であり、宗教を社会科学だと教える場ではないし、非社会科学を社会科学と教える場でもないので、この区別をしなければならない。

第二。国家の権力が教科書を検定し、または、国定する制度によって、自然科学であれ社会科学であれ学校現場に強制することはあってはならない。しかし、学校教育で社会科学を教育内容として自主的に現場の教職員が責任を持って研修し、学習しながら進めていく必要は絶対あるということです。その歴史上の意義も既に述べました。

 現状、教職員組合の全国組織率は約3割程度だと思いますが、現状をどう変革していくのか、現状をどういうように構築していくのかを述べることが社会科学の原動力なのではないでしょうか?

 戦争の原因を国家に求める現状分析だけでは一面的なのであり、非科学的です。現実は、戦争を防止し、平和な国家を創造していく力の原因とその方法まで分析しなければ全面的に社会を分析した社会科学とはいえません。

 
返信する
学校で道徳を教えるべきでない (逝きし世の面影)
2009-12-19 10:54:23
話が噛み合っているようで、まったく噛み合っていない 。
道徳も社会科学も学校で教える範囲を超えている。教師にそんな能力は無い。それは亀に腹筋のような(出来れば素晴らしいが)無理な事を要求しているのですよ。

東西南北さん。
矢張り何か大事なものを見落とし、考え方がイデオロギー優先になっていますよ。
今の労働者の組織率は1割台ですが過去には過半数を超えていたときもあった。
当時の日教組の組織率は8~9割で学校によれば100%のところも沢山あったのです。
当時なら『近頃の子供(学校)が悪いのは日教組のせいだ』との文部省や中山成彬前国土交通相の言い分も真実味が有った。
ところが時代は変わり、労働基本権を無視した文部省や自民党などの教職員組合潰しが大成功して今や1割台で、群馬県や愛知県などのように全く無いか0に近い県も沢山出てきた。
ところが中山成彬などの自民党文教族は今でも『郵便ポストが赤いのも日教組のせい』と未だに言って世間から笑われている。
東西南北さん、教育にそんな力はありませんよ。それでは中山成彬と考え方の根本が似ていますよ。
昔、教員組合はタンチョウ鶴だといわれていたのですよ。
タンチョウ鶴は頭の上だけが赤いがそれ以外は白い。翼の先は大きな黒い斑紋もある。
突然敗戦で全ての人々が民主主義に転向したわけではないのです。徐々に変わっていった。昔熱心に平和教育をしていた教師もいたが其の正反対に『日本兵は世界最強』『戦艦大和は世界一』『ゼロ戦は無敵』だと授業そっちのけで喋っていた教師も幾らでもいた。(世界最強の戦闘機と戦艦と軍隊をもっていたら日本は戦争に負けずに勝っていた)


確かに、第二次世界大戦の日本兵の蛮行は『教育が基本』にあったのは事実です。
日本と戦ったアメリカ軍は『何故日本兵はこれほどまでの不利な条件化でも降服せず戦い続けるのか。?』不思議で不思議でならなかったらしい。
それで戦後、徹底的に日本軍の戦意の秘密を調べたらしいのですが結論は『学校教育』だったのです。
日本は義務教育が徹底していたが全ての小学生にまで戦争教育を施して子供たちを戦闘マシーンにしていった。これが世界最強の日本兵の秘密だったのです。
この事実は右翼なども良く知っていて、それで世界的に例が無い教職員組合の集会に必ず右翼の妨害の街宣活動が行われる。
世界中で教員組合を敵視する『右翼』なんて日本だけの話で、他の国では何処にもありません。
日本独自な不思議な珍奇な風習?すが、これは右翼勢力特有の『事実の中から適当に都合のよいところだけをつまみ食いする』から判断を間違っているのであり、教員組合や学校ににそんな力はない。
戦争教育に教育勅語が果たした役割は小さくないが『全ての原因が教育勅語に有る』わけでもないのと同じ。
敗戦以前の戦争教育が大成功したのは事実ですが、それは学校と家庭と社会の三者による共同作業だったから成功したのです。
そして教育は社会的なものであると同時に、其々個人個人各家庭が責任を負うべき性質のものです。
その中でも戦争教育は密接に道徳と結びついており、道徳は個人に由来する。
公教育としての学校で個人に由来する『道徳』を教えることは危険であると思います。
道徳は家庭が最終的に責任を持っているので子供の親こそ教えるべきで、学校などの公教育は科学などの普遍性のあるものだけに限定されるべきでしょう。
返信する
面影さんへ。 (東西南北)
2009-12-19 10:36:55
 「学校などの公教育は科学などの普遍性のあるものだけに限定されるべきでしょう。」

 自然科学だけではなく、社会科学についての公教育を放棄した点、学校教育から意図的に社会科学を排除した点に自民党政治の教育行政政策の非科学的があるし、戦前の非科学的な教育の基本にあると考えます。

 社会科学と道徳を混同してはならないし、社会科学など存在しないという知育放棄も誤りだと思います。

 社会科学を教育内容の中心に据えていく社会の教育運動を構築していくことでしか国家の戦争政策を否定し、新しい社会を生み出す科学的な力は育たないのではないでしょうか?

 自然発生的に起こるのは暴力革命だけだというのは歴史の証明する弁証法です。
返信する
面影さんへ。 (東西南北)
2009-12-19 08:40:45
 何故、国家の政策が誤るのか?なぜ、国家の政策が戦争政策へ帰結し、人間の自由と民主主義を抑圧するのか?

 この点についての、科学的で原点的な理論内容を教育し、科学的で原点的な理論のコンセンサスを形成していくような教育運動、理論闘争が必要なのだと思います。

 まさに非科学的な国家政策と科学的な国家政策を見極めるリテラシーが主権者・国民の教養として必要な時代に生きている歴史的な段階なのだと思います。

 科学的な理論が存在しない時代、また、少数者に社会科学が独占されていた時代には暴力革命が自然発生的に起こります。

 現代は暴力革命の時代ではなく、科学的な理論を主権者国民の共有財産とし議会制民主主義を徹底することで民主主義革命を達成していく学習教育運動の時代なのだと認識しています。

 教育内容、その科学性と原点性、したがって基礎理論こそ国家の政策を正すただ一つの物質的な力となるわけです。

 
返信する
東西南北さん、コメント有難う御座います (逝きし世の面影)
2009-12-17 11:47:38
『殺人の統計学的一考察』の記事の趣旨は、
日本の少年犯罪が劇的に少なくなり、ほとんど若者による『殺人』が無くなったのに、マスコミ報道はその正反対の『少年犯罪の増加、凶悪化』が宣伝されている不思議を書いた物です。
私のブログで一貫して取り上げている大手マスメディアによる『情報操作』問題と、これに対する一般大衆の『メディアリテラシーの欠如』の問題ですね。
日本では団塊の世代以降に、極端な意識変化が起こり若者が『人を殺さなくなった』のです。
勿論団塊の世代も、殺人率は以前の世代の半分になっています。

東西南北さん。
この原因は、仰られている教師による『平和教育』なんかではありませんよ。
その考え方は、ネットウヨや自民党文部省の『日教組のために云々』と同じ考え方で真実ではない危険は誤解です。
これ等の考え方は、あまりにもイデオロギー優先で目の前の現実から遊離しています。
勿論m平和教育をしていた熱心な教師も確かにいましたが、それらは極少数例で一般的な話ではない。
普通の教師は『何もしなかった』。学校では戦争について『何も教えなかった』のです。
学校も教師も、『教育』は何もしなかったが、それでも日本は世界的な平和国家、犯罪の無い世界的な安全な国家になれた理由は、それ以前に行われていた戦争教育である『教育勅語の呪縛』から日本人が解放されたからでしょうね。
日本には縄文時代から、10000年以上続いている憲法9条の『紛争は武力でなく話し合いで解決する』長い長い伝統があったので、まったく何もしなければ人々が『先祖がえり』するのは自然なことです。
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面影さんへ。 (東西南北)
2009-12-16 13:44:19
 1 「基本的に人は人を殺せないのです。人殺しを正義の行為とする戦争状態でも、殺せる人は一割程度の少数で、DNAに関係しているかどうかは別にしても、大多数の多くの普通の人々は人を殺せないのです。」

 
 まさに、この点です。「日本における殺人廃材現象の統計学的考察」の面影さんの記事によれば、面影さんの主張には2つ要点があると感じました。

 第一。戦後の日本の学校教育における進学率が殺人犯罪現象の現象傾向に影響している。(該当箇所の引用は省略します)

 第二。この点は、明言されていませんが、今までの面影さんの主張内容から推察するに次の点を示唆しているのではないか?すなわち、面影さんが記事にしている「最後の神としての憲法9条」という比喩です。つまり、進学率が高まったという形式的な理由と併せて、学校の現場で行われた実質的な教育内容、したがって、平和教育の具体的な内容、「平和的生存権」。憲法9条を中心とする日本の平和教育が原因となって殺人現象が低下したのではないか?

 以上の2点です。特に、実質的な内容を持っているのは、後者の原因分析です。

 それはアメリカの「洗脳」教育、殺人マシーンを養成する軍事教育との対比として、日本の場合には憲法9条が存在し、その実質化として学校現場の教育者が平和教育の実践を行ったことが殺人率を減少させた原因である。という面影さんの文章構成からも鮮明に読解することが可能です。

 まさに、教育内容が原因で、人間は殺人マシーンにもなるし、その逆に殺人を行わないで共に生きる存在にもなる。

 面影さんの基本的な主張点は、こういうことになります。

 ここで、問題なのですが、では、人間を殺人マシンに仕立て上げる教育内容は科学的なのか?それとも非科学的なのか?その根拠は何か?

 同じことですが、憲法9条が科学的な教育内容を保障するという根拠は何か?

 こういう性格の問題です。憲法9条も所詮は人間の作り上げた観念体系であり、イデオロギーに過ぎないし、それは多数観念である時代の所産である。したがって、憲法9条に普遍性があると断言することはできない。それは流動的である。なぜなら、人間の観念であるから裏表があるからである。

 こういう観念論、ファシズムに対して科学的な反論ができなくなってきます。これを危惧しています。日米軍事同盟に対する最高裁判所の統治行為論の思想的な基盤は、この観念論にあると東西は見ています。どっちとも判断する基準がないから国民と議会の「多数意識」に任せる。という観念論です。

 したがって、「基本的に人は人を殺せないのです。」という科学的な根拠、普遍的な根拠を明瞭にしておく必要性が絶対に存在するわけです。

 時代がどうなろうが、社会がどうなろうが、人間が人類である限り、その人類の進化の過程で獲得してきた遺伝子、したがって、身体・肉体レベルの特質、遺伝子レベルの特質は科学的であり普遍的なわけです。観念は遺伝しませんから、科学の議論に観念論は成り立ちません。

 そこで、ダーウィンの科学論になるのです。科学的な人間論、科学的な人類の特質、科学的な人類の遺伝的特質です。

 この点は、面影さんが記事にしている通りです。

 さらに、人間を丸裸にしてジャングルに放り込んで生存できるわけがないのですから、人間は人間の社会、つまり、人間は人類として共生し、共食し、共働してのみ生存するわけです。したがって、すべての遺伝子が実証的に解明されているわけではありませんが、科学的な洞察、因果関係、展望で言えば、人類の遺伝子から人類が共に生き、共に食べ、共に労働する特質を固有する遺伝子情報は必ず、科学的必然性を持って発見されるということです。そうでないと、人類が進化の歴史の中で獲得してきた人類の特質である共に食べ、共に生き、共に働くという事実を遺伝子レベルで根拠づけることができないという非科学的な結論になります。

 
 2 「精子と卵子では製造コストとか数量に圧倒的な差があり、その意味では男女は平等には出来ていないので繁殖期のオス同士の争いは全ての生命に共通する出来事で、勿論人間も哺乳類の一つであるので殺人率は男女間で大きな差がある。」

 この点は、冗談であるという理解です。精子と卵子に象徴される男性と女性の比率は、女性の方が少し多いようです。半分にならないみたいですね。何故か?男性と女性の身体レベルの本質的な相違点は1点しかない。子供を自分の体内で育てるかどうか。したがって、男女比率が異なる原因は、この点にあると認識して科学的には間違いないのではないでしょうか?

 ですから、男性が少ないことが原因で殺し合いの争いが起こるなんて荒唐無稽なわけです。むしろ、女性が多いので、数的には男性には争いは起きない。では、女性が男性を争奪し合って、女性同士で殺し合いが起こって、男性と同じ比率になりますでしょうか?笑い話でしょう。ありえない。

 したがって、若い盛りのついた男性が殺人を起こしやすいなどという議論は、それこそ、若い青少年が凶悪化しているという非科学的な俗論と同列の観念論に過ぎないでしょう。

 


 
 
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国家間の戦争と個人間の殺人 (逝きし世の面影)
2009-12-16 11:08:47
東西南北さん、今回のコメント内容なら、あえて個人名の名指しを行わずとも良いのではありませんか。?
ブログ記事の内容に対するコメントと違い、投稿されたコメントに対するコメントは節度を持って行ってください。宜しくお願い致します。

国家の戦争を『科学的正義』とする、帝国主義のイデオロギーである『社会ダーウィニズム』の発生は150年前の進化論から派生したのは明らかですが、
これは人類600万年の歴史から見れば極最近考え出された屁理屈程度の自分(国家)の犯罪行為の隠蔽あるいは言い訳で、科学では元々ありません。
基本的に人は人を殺せないのです。
人殺しを正義の行為とする戦争状態でも、殺せる人は一割程度の少数で、DNAに関係しているかどうかは別にしても、大多数の多くの普通の人々は人を殺せないのです。
ですからノーベル平和賞受賞のオバマ大統領のオスロ演説での『正義の戦争』とのアメリカの侵略戦争擁護は二重三重に愚かし犯罪的言い訳(誤魔化し)に過ぎません。

ただ何事にも例外が。
精子と卵子では製造コストとか数量に圧倒的な差があり、その意味では男女は平等には出来ていないので繁殖期のオス同士の争いは全ての生命に共通する出来事で、勿論人間も哺乳類の一つであるので殺人率は男女間で大きな差がある。
何処の国でも基本的に人を殺すのは二十歳前後の男なので表にすると同じカーブを描きこれをユニバーサルカーブと呼ぶのですが、これがわが国では近年大きく減ってい崩れているのですよ。
日本では全ての生命に共通する繁殖期の男が争わなくなったらしいのです。
殺人が減る事は間違いなく良い事ですが、果たして『殺人が完全にすべて無くなった社会』が出現したとして、それが理想の社会と呼べるのでしょうか。?
その社会とは、『若者が、若者で無くなった社会』ではないでしょうか。?それなら、その状態が良いのか、あるいは何かが失われた世界なのか。?考えさせられますね。

殺人の統計学的一考察
2008年02月02日 | 文化・歴史
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もえおじさんへ。 (東西南北)
2009-12-16 04:28:17
 1 「われわれが平和主義者の子孫なのか、それとも殺戮者の子孫なのか」という人類学の疑問も、あくまで殺戮仮説に基づく議論であり、「単一起源説が正しい」=「社会ダーウィニズムの支持」ということにはなりません。


 そのとおりです。しかし、人類の遺伝子レベル、したがって、肉体・身体レベルでの「攻撃性」なるものは、果たして、人類同士に向いているものなのか、それとも、自然界で人類が生き延びていくために猛獣と戦うため攻撃性なのか、という点が問題になります。ここを行動すると誤ります。要するに、社会ダーウィニズムに科学的な根拠を与えることになるわけです。観念レベルでは別次元でしょうが、遺伝子、肉体・身体レベルでは根拠があるということになるわけです。ここに身体レベルと観念レベルの議論を混同する非科学的な認識への通路があります。

 2 「戦争は近代の産物なのか」、 「問題なのは、人類の歴史で戦争が根絶できていない事実をいかに解釈すべきかという点」

 通常、戦争とは国家の行為を指しますので、戦争は国家の成立、したがって文明成立後に起源があるということなので、近代よりも射程の広いパースペクティブが必要です。したがって、文明論、国家の起源論になってきます。

 さらに、民族間、異人種間の殺し合いのレベルでいえば、さらに射程を広げねばなりません。すなわち、国家の起源以前、文明発生以前の人類史のパースペクティブになります。

 ここで民族間、異人種間の殺し合いの原因を人類の遺伝子レベル、身体・肉体レベルで科学的に解明していく必要があります。そうなると、ブログ主さんが記事化しているダーウィンの科学論になるということです。

 では、ダーウィンの科学論に立脚した科学的な人類史の理論から言えば、何故、民族間、異人種間の殺し合いは起こるのか?その原因は?ということになります。

 人類が進化の過程で獲得してきた遺伝子、肉体・身体レベルに、したがって、科学的に、その原因を求めることができないのであれば、最も科学的な原因は、「食料不足」になります。

 つまり、生産力の未開発、低さが原因で異民族、異人種間の殺し合いが発生したのが、国家成立以前における殺し合いの原因であり、国家成立以後には、さらに、他の原因が追加されていくという複雑性を帯びてくるわけです。

 
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戦場での発砲率『人は人を殺せない』 (逝きし世の面影)
2009-12-15 15:16:26
もえおじさん、コメント有難うございます。

記事の趣旨の社会ダーウィニズムの問題点は、もえおじさんに粗方まとめてもらったので私が書き加える事はそれ程無いのですがあえて付け加えると、
『戦争』は人類600万年の長い歴史の中で高々数千年、市民戦争ではフランス革命以後の230年程度で、近代戦争に限れば150年程度の極短い例外的な話で、それ以外は人類は全て日本国憲法9条の理念である『揉め事は話し合いで解決』していた。

人類の長年の歴史的な生き方は平和と協調なので人々の道徳とか心情とかが邪魔をして『戦争』のように制度として『殺人は正義』だと言われても多くの人は人を殺せないのです。
戦場で兵士が敵兵に向かって銃の引き金をひける確率は10人のうちで一人か二人だけで、それ以外のの兵士はわざと狙いを外して空に向けて銃を撃つが、この確率はどの軍隊でも全く同じなのです。
人類の普遍的なタブーである殺人を犯せる兵士は極少数で、大多数は人を殺せない。
このことに気が付いたアメリカ軍は徹底的な殺人訓練で発砲率の改善に努め、朝鮮戦争では50%ベトナム戦争何と九十数%以上の超高率に高める事に成功するがトンデモナイ副作用が。
戦場を離れてもこの訓練が尾を引いて社会復帰できず、シルベスタ・スタローンが演じたランボーの主人公のように殺人機械のままなので、戦争に勝つつもりが本国のアメリカ社会自体が危険になってしまった。
現在はアメリカ軍もこの危険性に気が付きいくらかは自粛しているのですが、それでも今でもアメリカ軍の発砲率は二十数%の高さで断トツ。
この高さは異常で、それで今でも時々2000年の大晦日に起こった世田谷一家4人皆殺しとか八王子スーパーアルバイト店員女性3人殺しのような考えられない凶悪事件が基地を抜け出したアメリカ軍兵士により引き起こされる。
遺留品が大量にあり幾ら犯人が判っていても相手が悪すぎて日本の警察では手も足も出ません。
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戦争は近代の産物なのか (もえおじ)
2009-12-14 19:35:20
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化植民地化を科学的必然性とする社会ダーウィニズムは、あくまで戦争を正当化する詭弁に過ぎません。 これは、自然淘汰(自然選択)が進化の原動力であるとする科学的ダーウィニズムとは別の話です。 「われわれが平和主義者の子孫なのか、それとも殺戮者の子孫なのか」という人類学の疑問も、あくまで殺戮仮説に基づく議論であり、「単一起源説が正しい」=「社会ダーウィニズムの支持」ということにはなりません。 むしろ、常識的に考えれば『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する』ことで新人が「飢餓」を乗り越えて生き残ったとする見方の方が妥当でしょう。

ここで問題なのは、人類の歴史で戦争が根絶できていない事実をいかに解釈すべきかという点です。 もしも、北方系の縄文人と南方系の弥生人がそれ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれたのであれば、重要な事実認識となります。 つまり、古代においては『すみわけ』が普遍的な人類文化であり、戦争は農耕・文明以降の「近代の特性」にすぎないということです。
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攻撃体力と防衛体力 (逝きし世の面影)
2009-12-14 14:06:38
体力的に上のネアンデルタール人と格段に劣る現在の人類が戦ったのであれば集団対個人の戦いでもない限り、間違いなく個々の攻撃力に優れたネアンデルタール人が勝つでしょう。
しかし彼等は滅んでしまい我々人類は生きのこった。
長い地球の歴史の中で、生命(全ての種)にとって一番の脅威は外敵の存在ではなく食料問題(飢餓)なのです。
これは人間でも全く同じで日本人が飢餓から解放されたのは極最近のほんの数十年前のことなのです。
そして世界では今でも10億人近い人口が飢餓に苦しんでいます。

野生のカリブーの群れにとって狼はなんら脅威でなく、狼などの外敵の存在は病気や弱い個体を群れから淘汰するので、種としてはマイナスどころかプラスに働く。
対して『飢餓』は種の絶滅を招く、何よりも恐ろしいものです。
この時に防衛体力と攻撃体力は必ずしも一致しないばかりでなく多くの場合は相反する。
飢餓の時は体格に優れた男よりも、筋肉が小さいために基礎代謝が少なくて済む女の方が生き延びる確率が高くなる。
腕力自慢の攻撃力の勝る男(ネアンデルタール人)より平和志向の女(ホモサピエンス)の方が防衛体力は優れているともいえます。
現在の戦争でもベトナム戦争やソ連のアフガン侵攻、今のイラクやアフガンの戦争で分かったことは攻撃力の優劣は短期では圧倒的に有利だが長期ではその反対の防衛力(防御)が最後には勝つ仕組みになっていますが、何と面白い事に戦争論で有名なプロイセンの戦略家クラウゼビッツは常識とは正反対に軍事では『攻勢よりも守勢』が有利であると説いているのですよ。
オバマのプラハ演説は『守勢の大事』(攻勢の危険性)を説いたものでクラウゼビッツの戦争論の論理で、その正反対の『正義の戦争の大事さ』『アメリカの攻撃力の正当性』をノーベル賞授賞式で主張したプラハ演説は弱肉強食の帝国主義の世界観で、ダーウィンが140年前に否定した社会ダーウィニズムそのものです。


縄文人が弥生人に駆逐されたとか征服されたとかの事実は無く、北方系の縄文人と南方系の弥生人は今西錦司の『棲み分け』理論を行っていたようで、それ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれた模様です。
縄文人の住んでいた縦穴式住居は地面を一段掘り下げて作った半地下型なので、先祖の故郷だったシベリアのブリザードの猛威を避ける目的で作られていますが、これでは高温多湿の日本列島南部では住み難い。
結果縄文人は東北とか北海道などの北に人口が偏って住んでいたし、弥生人の高床式住居は温暖な気候には向いているが東北の地吹雪には住み難いので矢張り西日本に偏って住んでいた。
縄文最盛期の5~6000年前は今よりも余程温暖であったようで海水面が現在より4mも高かったので縄文遺跡の貝塚は何れも内陸深くに発見されている。(このことからも今の温暖化論議はインチキくさい)
今日本にある洪積平野の大部分は、この時は海面下で存在していなかったようで、弥生人の稲作は寒冷化による海面上昇によって出来上がった平野部の湿地に作られたようです。
ですから縄文人を弥生人が駆逐したとの説は疑わしく昨今の世知辛い殺伐とした世相を反映したもので、当時はもっと余裕があり人々は今よりおおらかだったようです。
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もえおじさんへ (東西南北)
2009-12-14 05:35:18
 混同していませんか?

1 「勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、社会性や知性の獲得が人類の大きな遺伝的特徴であるのは明らかです。」

 類人猿と比較した場合、人類の遺伝的特徴は、まず、身体的な特質があるわけです。もえおじさんのいう「社会性」「知性」というのは、おそらく時代としての観念・言葉の在り方なのだと思いますが、その観念の遺伝特特徴なるものは、人類の身体的な特質を原因とするのです。すなわち、直接的には有節音を発生する喉の構造があり、それを支える直立二足歩行という身体的な特質が人類の遺伝的な特徴なのです。

 したがって、「社会性」、「知性」という時代としての観念や思想としての観念、言葉のあり方についてではなく、その人類の本質は、身体的な特徴、すなわち、遺伝的な特質になるのです。

 このように、身体のレベルで議論しなければならないことを観念のレベルへ混同することによっては、科学的な議論にはなりません。

 また、次の点も民族と人類性を混同しておりおかしいです。

2 「最近のネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの分析によると、「単一起源説」が正しいと考えられています。 私には、これは未だに戦争を根絶できない人類の遺伝的特性のように思われます。」

 ネアンデルタール人と、ホモサピエンスは生殖可能な同一種、すなわち、人類であるのであるのであれば、ホモサピエンスがネアンデルタール人を絶滅させたとしても、それは民族間の殺し合いなのであって、人類の特質を言うものではありません。民族間の殺し合いが発生する原因を人類の遺伝的な攻撃性、特質なるものに結びつける思想こそ、ブログ主さんが記事で警鐘をならしている最悪の非科学的な理論である社会ダーウィニズム、したがって、ナチズムではないでしょうか? 

 そして、結論は、もえおじさんも認めているように、人類の遺伝的な特徴、特質はダーウィンの科学論なのではないでしょうか?

3 「勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、」(もえおじさん) 


 「これら恐るべき科学の逸脱や暴走(社会ダーウィニズムや優生学)に対し、ダーウィン自身が重い腰を上げ人類の進化について語った『人間の進化と性淘汰』(The Descent Of Man And Selection In Relation To Sex)が『種の起源』から12年後の1871年に出版されている。
ダーウィンは、『相互に助け合いそして保護し合う全ての動物に取って、それは一つの非常に重要な事として自然淘汰によって強化されて来た。』
『最も思いやりの強いメンバーを最も多く含んでいる、その様な集団は最も繁栄し、最も多くの子孫を育成する。』と指摘する。
ダーウィンは、『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する。』と主張した。
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化植民地化を是(科学的必然性)とする社会ダーウィニズムの考え方の正反対の『優しさ、思いやり、同胞と助け合う』種が、人類を含めた全ての生命全体の中で生き残る鍵であり、そのような特色のある種(人間)の社会が繁栄すると言っているのです。

進化論の『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)中の『一番環境に適応したものが生き残る』という適者生存、自然淘汰の理論を応用(恣意的な拡大解釈)して作られた社会ダーウィニズムの弱肉強食の理論(帝国主義)は根本的な間違いを犯していた。
社会ダーウィニズムと正反対の考え方である『相互に助け合い、保護し合う種の方が有利』(民主主義、社会主義)とのダーウィンの『人類の進化』は、今の民主主義社会のめざましい発展とその正反対の帝国主義や独裁政治社会の衰退を見れば、このダーウィン学説の正しさは自ずから納得いく話である。」

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楽園を去ったので、ヒトが誕生したのでは? (もえおじ)
2009-12-13 21:22:24
新人がネアンデルタール人を殺戮したかどうかは勿論分かりませんが、いずれにしろ、なぜネアンデルタール人が絶滅したのかは興味深いところです。 その意味では、頑丈型なネアンデルタール人よりも肉体的に劣っていた現代人が、唯一コミュニケーション能力に秀でていたために生き残ったというのは、とても合理的な説明です。

また、縄文人と弥生人との関係もとても面白いです。 渡来人(弥生人)はより大きな農耕文化を持っていたので、文明を経験していたはずです。 そうして、より強い侵略者(渡来人)が先住民(縄文人)を征服し、最大で30万人いたとされる縄文人は北方(東北や北海道)や南方(沖縄)に追いやられたのでしょう。 1万年も日本で生きてきた縄文人の方が、より平和で穏やかな精神文化を持っていたのは、自然なことです。 おそらく、彼らはアイヌ・北米インディアン・オーストラリアアボリジニなどと同様の自然信仰を中心とした生活を維持していたと考えられます。
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9条志向の縄文人と戦争を持ち込んだ弥生人 (逝きし世の面影)
2009-12-13 16:09:57
縄文の鏃は狩猟用なので小さいが、大陸から新たに移住してきた弥生人は人を殺傷出来る大型の弓矢を用いていたので大型の鏃を使っていた。
弥生人は集落に堀とか塀とかも造っているのですが、このやり方は元々住んでいた大陸の風習を持ち込んだ物で、元々の日本の伝統ではなく紛争を武力で解決する野蛮な風習(今のアメリカ型)です。
ところが日本古来の元々の縄文人は今と同じで扮装は決して武力ではなく話し合いで解決する憲法9条型であったらしく、この方式は別にアメリカに戦後押し付けられた物ではなく1万年以上続く先祖の大昔からの日本の長い伝統でしょう。


大昔の初期の人類ですが、近隣のゴリラやオランウータン、チンパンジーと違い、『何故密林を出たのか』が良くわかっているようで実は良く分かっていない。
元々森林に住んでいたのに、たいした武器をもたない人類にとって草原は食料も少なく隠れる場所もない非常に危険な場所で、決して住みやすい環境ではない。
初期の人類は、旧約聖書の記述のように、密林という住み易い『エデンの園』を追われた人々(グループ)だったのかも知れません。
人類だけの特徴である二足歩行ですが、これが実は理由が良く分からない。
4つ足の方が安定しているし走る速度が早いのです。
サバンナでは走る速度は生き残る上で決定的な要素で、二足歩行では肉食獣に到底かなわないのです。(ダチョウは二足歩行ですが構造が全く違います。)
四足歩行でも熊の様に足裏全体を地面に付けると遅くなり、逃げる事が得意な草食獣は例外なくつま先立ちで立っており、人類のような足裏全体は象などの超大型獣だけですが、何と人類は初期の小さな体型の段階から大型獣の同じ歩き方をしていた。
象では大きい為に敵も少なく体重がとんでもなく重いので『如何にしてエネルギーを少なくして移動するか』が走る速度なんかよりも優先されるが、人の骨格も『如何にして省エネで移動できるか』が優先された構造になっている。
これでは走るのが遅いはずです。
省エネ歩行で長く歩くのは得意だが、早く走るのは苦手だった。
何故人類はその方向を選んだのか。?何の利点があったのか。?
地面にある植物の根などを探すのなら四足の方が優れている。直立歩行の人類が農作業をするようになってから腰の痛みに苦しめられるようになった。
直立しての利点も遠くが見えることで、二足歩行も遠くまで省エネで歩く事が出来るなので、広いエリアで食物を探す事は可能だったのでしょう。
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我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか  (逝きし世の面影)
2009-12-13 15:08:46
もえおじさん、コメント有難うございます。

>ネアンデルタール人などの旧人を殺戮して絶滅させてきた可能性<
は、歴史上の数々の残虐行為や今のアフガン戦争なんかを考えるから連想するだけで、可能性としては非常に低いでしょう。
何故なら狭い孤立した島などと違い広い大陸ではたとえ対立したとしても人口密度はとんでもなく少なくて幾らでも逃げていく場所(自由の新天地)は不足していません。
ネアンデルタール人が絶滅したとされている3万年前には御先祖様の縄文人たちが住み慣れた故郷のバイカル湖周辺が寒冷化(氷河砂漠化)のために住めなくなり結氷して地続きになっていた日本列島にマンモスを追って移住してきたらしい。もう一方の先祖たちはベーリング海峡を越えて遠く南米まで旅立っています。
縄文人は日本列島全体でも数万人でとんでもなく少ない人口密度です。
2000年以上前までは世界全体の人口は少なく、住み難い時は新天地を求めて移動する事はそれ程珍しい事ではなく弥生人は中国の春秋戦国時代の戦乱を避けて日本列島に移住してきた戦争難民みたいな人々だったらしい。
人々が、最早移住できる先天地がなくなったあたりに(同時期に)、今に続く『宗教』が生まれているのです。
これは偶然に起こったことなのか。?それとも何か関連があるのか。?
私は何か関連がある様に思えて仕方があるません。仏教の無常観なんか、『もう、何処にも逃げていけない』と悟った事が原因している。??のではないでしょうか。

それに結果的には滅んだとは言えネアンデルタール人は、決して弱い劣った種ではなく現生人類よりも脳の容量も同じか上で、体格も運動能力も優れていたが唯一気道が狭く発声だけが劣っていた。
ネアンデルタール人のような頑丈型の人類よりも劣っていた我々人類ではあるが唯一コミュニケーション能力に秀でていたので、氷河期の飢餓地獄でも少ない食べ物を平等に分け合って生きのびる事が出来たのでしょう。極限状態では『いかに平等であるか』が生死を分けます。
極限に生きる北極圏の先住民族であるエスキモー(イヌイット)の古い道徳(風習)では泥棒という概念はなく持たざる者が沢山もっている者から幾らかを分けてもらうのは当たり前なのです。
他人の持ち物を無断で持っていくのは、何ら『悪』ではなく、持たざる者に自分の物を譲らない事が許されない『悪』なのです。
今の様に、一人が有り余るほど多くを独占して、関係ない誰か他人が飢餓状態になる現代社会よりも、この昔の極限の民の知恵である『余っていれば足りない者が勝手にもって行ってもよい社会』の方が、余程合理的でもあり民主的でもあり道徳的にも高貴な進んだ社会であると思いませんか。?
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攻撃性と社会性 (もえおじ)
2009-12-13 11:20:47
人類学では、われわれ現代人の起源について「多地域起源説」対「単一起源説」という論争がありました。 「多地域起源説」では、ヒトの種の間で遺伝的な交流が常にあったのだと主張します。 異なる地域の旧人の特徴はかなり違うのに対し、現代人では人種間にそれほどの差が見られずむしろ一様に見えるのは混血のせいだという訳です。 つまり、われわれは民族間の争いなどからほど遠い平和主義者の子孫ということになります。 それに対して、「単一起源説」の場合には、新人はネアンデルタール人などの旧人を殺戮して絶滅させてきた可能性があります。 これがわれわれが平和主義者の子孫なのか、それとも殺戮者の子孫なのかという解釈にもつながっています。

最近のネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの分析によると、「単一起源説」が正しいと考えられています。 私には、これは未だに戦争を根絶できない人類の遺伝的特性のように思われます。 実際、ヒト以外の種では、仲間争いにおいて相手が死ぬまで戦うことはまれだそうです。

勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、社会性や知性の獲得が人類の大きな遺伝的特徴であるのは明らかです。
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