
『何時の間にか大都市のホームレスのテント村が無くなった日本』
大阪寝屋川市で中学一年生の男女二人を殺害して遺棄した、猟奇殺人事件の極悪非道な犯人ですが、今までにも同じような監禁事件を繰り返していて長期間刑務所に入っていた。
弱者を対象にして少しも懲りずにみさかい無く拉致監禁事件を繰り返していた、卑劣なこの変質者が刑務所から出て、そのまま真っ直ぐに行った先がフクシマの除染作業の現場だった。(住み込みの寮で暮らしていたが、短期間大阪に帰省した時に凶悪事件を起こしている)
普通に考えたら、このような危険な人物はまともな会社は雇わないのですよ。彼には就職口がフクシマしかなかったのです。
これを逆に考えるとフクシマなら、どのような質の低い、問題のある労働者でも就業の意思さえあれば無条件で雇っているぐらいに、圧倒的に人手不足なのです。
要は福島第一原発事故の様なレベル7の核事故の場合には、作業員の被曝量の上限値の為に、作業員はすべて使い捨てであり、次々と新しい人材をフクシマの現場につぎ込む必要性が生まれるのです。
小泉純一郎と竹中平蔵の悪魔の碾き臼新自由主義の推進で、派遣労働が解禁された以後の日本国では、雇用調整で解雇された派遣労働者のブルーシートのテント村が大都市の公園とか河川敷に次々と建設され大賑わい(大問題)だったですが、・・・
何と、現在は全て綺麗に消えている。
たぶん、みんなヤクザの人材派遣会社に騙されてフクシマに連れて行かれたのですよ。
ただ、これらの人材供給は無制限でも無限大も無くて、大都市周辺のブルーシートのテント村(失業していた派遣労働者)が全部無くなった現在は、『その次』がどこにも無い。
フクシマのレベル7の核事故ですが4年半が経過して、もう、最後の最後の土壇場に行き着いたのでしょう。
ところが、この事実を日本では誰も認めたくない。
日本人全員が一致団結して完全に無視しているのですが、もちろん薄々全員が終りを自覚しているのだろうとは思うが、1日でも良いからと、だらだらと意味も無く先延ばしに先伸ばしを続けて現在に至っている。
『フクシマの余りにも厳しい現実を、一瞬でも良いから忘れたい』
志村 建世のブログでは、『昭和からの遺言』として小説形式で歴史の検証作業をおこなっているのですが、・・・
『小説・昭和からの遺言(80)民主党政権を倒したものの正体』
この連載では民主党政権崩壊の原因として東日本大震災には一言だけ触れているが、フクシマは一切無視。これが今の日本のリベラルとか護憲派の現状ですよ。(真実はフクシマの核事故当時の菅直人首相の民主党政権の嘘八百に国民が呆れ果て、匙を投げた)
それにしても摩訶不思議な歴史認識である。
民主党が国民に見放された最大のものは菅直人の消費税増税ではない。
確かに当選した議席数では自民党に負けたが、このときの参議院選挙での得票数では民主党のほうが多かった。
増えると思った票数が、菅直人の『消費税10%』のオウンゴールで増えなかったから、結果的に負けただけ。民主党の選挙戦術の問題なのです。
東日本大震災の事が一度だけ触れたが、フクシマのレベル7の未曾有の核事故が何故か完璧に抜けている。
国民が民主党政権を見放したのはフクシマの核事故に対する民主党政権の対応が最大原因である事実は明白である。
日本では知識層が全員同じで、基本的に脳内が空白状態なのでしょう。真実を見たくないし、将来を考えたく無いのです。
『一流の小説家は新聞記者と同じ仕事をしていた』
今年もノーベル文学賞を逃した村上春樹ですが、日本では原子力発電所と誤って訳している言葉(Nuclear plant)が本当は『核発電所』か『核兵器工場』であると指摘するが、世界的作家の眼力は鋭い。英語の原子力はNuclearでは無くて、Atomic Energyである。
(アメリカ原子力規制委員会はNuclear Regulatory Commissionなので、NRCの正しい訳は核規制委員会)
村上ワールドが個人の脳内での自由気ままな創作物と言うよりも、綿密で正確な並外れたリサーチ力の賜物である。
作家が一つの小説を書く前には、新聞記事を書く記者と同じで作品に関連する情報収集が必須要件だった。リサーチに膨大な量の時間と労力を費やしていたのである。
良い作家とは、良い新聞記者と同じ種類の仕事をしていた。
二つの『違い』とは、作家は自分の作品を『フィクションである』(創作物である)として世に出す。
ところが新聞記者の方は180度逆に『フィクションではない』(創作物ではない)と世間に喧伝する。(中身の『内容の違い』では無くて、外側の『包装紙の違い』)
ただし新聞社の場合には『何を書いたか』との個々の記者の記事よりも、『何を掲載するか』、『何を載せないか』(隠蔽するか)の編集局独自の取捨選択の判断とか、何が大事で何が些細かとの優先順位の方針『価値観』が全ての問題に優先する。(その意味では記者よりも編集部のほう1万倍は大事)
新聞でもテレビでも同じでマスコミの報道枠には最初から限界があり、現実問題としてもニュースの全部は掲載出来ない。
今の近代社会ではどれ程重要な大問題でもマスコミが報道しない限り、自動的に『何もなかった』ことになる。
『新聞記者の仕事は小説家と同じだった』
多くの善良な日本人が誤解しているのだが、既存の新聞の記者(いわゆるジャーナリスト)と一匹狼のフリージャーナリストとは別の役割を持っていて、別々のカテゴリーに分類される。
田中龍作ジャーナルを読めば明らかなように、大手新聞や記者クラブに対する激しい怒りは、もはや隠しようの無いレベルになっている。
フリージャーナリストの田中龍作は多分自分が事実を正しく正確に伝えるルポライターに徹しようと努力している。あるいは物事を正しく客観的に解説しようとしている。だから記者クラブからは相手にされず頭から馬鹿にされるのである。
(この田中龍作の根本的な勘違いですが、困ったことに日本では普通の一般市民も全員が同じ勘違いをしている)
致命的な勘違いの原因ですが、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのではない。(それは田中龍作の様なルポライターの仕事である)
そもそも商業新聞の記者の仕事に一番近いのは小説家であり、記者がある事件について記事を書くということは、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事(創作活動)だったのである。
あえて明確な新聞記者と小説家の違いを上げれば、
記者の方は取材した『出来事』を読者が注目するように出来る限り誇張して記事として書く。ところが、小説家はリアル感を出すために多少抑え目にして書く程度。
STAP騒動で科学論文の著作権云々がマスコミで議論されていたが勘違いも甚だしい。客観的な正しい科学的事実とは常に普遍的であり誰が書いても100%同一になる。(普遍的事実と少しでも違っている場合には、それは自動的に『間違い』であると証明される)
昨今新聞記事での著作権云々(コピペ)が大問題となっているが、これは新聞記事が『記者の創作物である』から著作権が発生するのである。(科学法則や客観的事実は常に普遍的であり同一。他と『違い』が無ければ著作権の主張は無理)
全て同一であるべき普遍的真実と、他との違いこそ命である著作権とは、原理的に二つ同時には絶対に成り立たないのである。
新聞記事の著作権ですが、これは表現を変えれば新聞社自身が、自分で『客観的事実とは無関係で、新聞記事は小説と同じ』と言っているのであリ、これは『真実を報じている』との建前の報道機関として自殺行為なのである。

『ルポライターに文学賞を与える不見識?(ノーベル賞委員会の深謀遠慮)』
『チェルノブイリの祈り』はレベル7の核事故発生から10年目に出た事故当事者の真実を集めた『インタビュー』をまとめた本である。(作者の自由な創作物ではない)
ベラルーシで長年報道機関に所属していたスベトラーナ・アレクシエービッチは、『最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。』
それにしてもオリジナリティ(個性)こそが命のフィクション(創作物)では無くて、だれが行っても同じ内容の客観的事実(ドキュメント集)に対して文学賞を与えた今回のノーベル賞委員会は何を考えているのでしょうか。
29年前に起きたチェルノブイリではなく、実は4年半前に起きたフクシマの問題こそが今回のノーベル文学賞の決定動機ではなかったのか。
人口1000万人のベラルーシのチェルノブイリ事故から3年後の小児甲状腺がんの発症数は6人だったが4年後には29人に爆発的に増えている。
対して同じレベル7のフクシマの3年後の時点でも小児甲状腺がんの全発症数は100人を遥かに超えていた。(同時期のベラルーシの20倍)
福島県の人口はベラルーシの5分の1の200万人なので人口比なら100倍もの猛烈な数値である。
日本のフクシマの方が明らかにベラルーシのチェルノブイリと同時期よりも遥かに悪いが、ベラルーシやウクライナでは年間1ミリシーベルト以上の放射能汚染地域からの全住民の疎開を行った。
ところが日本の場合は、極悪自民党政府は年間20ミリシーベルト以内は安全だとして子供達や妊婦を含む全住民が逃げずに高濃度放射能汚染地域に留まったまま。
日本のフクシマで、ベラルーシよりも比較出来ないほどの桁違いの大きな被害が出て当然だったのである。何の不思議も無い。


『去年8月24日の福島県検討委の発表で、日本の玉音放送が終わっている』
福島県の子供達の8割の30万人の甲状腺の一巡目検査終了時の『図 2.実施対象年度別市町村』にあるように、なんと、そもそも一番最初の『平成 23 年度検査実施市町村(13 市町村)』の意味は、決して平成23年度(2011年度)に一時検査を実施した市町村の意味ではないのである。
『年度』とは、その年の4月1日から翌年の3月31日までの期間であり、それなら前の年度と後の年度が重複することはない。
ところが、福島県検討委に限っては重複する。
年度の期日が来ても終わらず、だらだらと続いていたのである。
検討委発表では、何と、平成23年度調査と平成24年度調査と平成25年度調査が重なる三つ巴現象さえ起きていた。
検討委の『年度』の意味は期間を指していたのではない。
実は、なんと、年度表記の後にさりげなく書いてある括弧(13市町村)の場所だけを意味していた。
ほぼ三流詐欺師の手口である。
その手品ですが、1年も前に検討委自身が種明かしを行ったのです。もう日本人を騙し続ける意味が無くなったと考えたのでしょう。
それなら、この時点で終わっているのですが、腹立たしいことに、1年後の現在でもだらだらと面白くも無い、ネタバレの手品が今でも続いているのですから不思議である。
日本人全員で、フクシマを『無かった事にしたい』のでしょう。
この日本人全員が結託して『忘れる』との戦術は今までなら連戦連勝で勝つ続けた必勝法なのですが、原発の放射能相手の今回だけは余りにも相手が悪く勝て無いのである。
大阪寝屋川市で中学一年生の男女二人を殺害して遺棄した、猟奇殺人事件の極悪非道な犯人ですが、今までにも同じような監禁事件を繰り返していて長期間刑務所に入っていた。
弱者を対象にして少しも懲りずにみさかい無く拉致監禁事件を繰り返していた、卑劣なこの変質者が刑務所から出て、そのまま真っ直ぐに行った先がフクシマの除染作業の現場だった。(住み込みの寮で暮らしていたが、短期間大阪に帰省した時に凶悪事件を起こしている)
普通に考えたら、このような危険な人物はまともな会社は雇わないのですよ。彼には就職口がフクシマしかなかったのです。
これを逆に考えるとフクシマなら、どのような質の低い、問題のある労働者でも就業の意思さえあれば無条件で雇っているぐらいに、圧倒的に人手不足なのです。
要は福島第一原発事故の様なレベル7の核事故の場合には、作業員の被曝量の上限値の為に、作業員はすべて使い捨てであり、次々と新しい人材をフクシマの現場につぎ込む必要性が生まれるのです。
小泉純一郎と竹中平蔵の悪魔の碾き臼新自由主義の推進で、派遣労働が解禁された以後の日本国では、雇用調整で解雇された派遣労働者のブルーシートのテント村が大都市の公園とか河川敷に次々と建設され大賑わい(大問題)だったですが、・・・
何と、現在は全て綺麗に消えている。
たぶん、みんなヤクザの人材派遣会社に騙されてフクシマに連れて行かれたのですよ。
ただ、これらの人材供給は無制限でも無限大も無くて、大都市周辺のブルーシートのテント村(失業していた派遣労働者)が全部無くなった現在は、『その次』がどこにも無い。
フクシマのレベル7の核事故ですが4年半が経過して、もう、最後の最後の土壇場に行き着いたのでしょう。
ところが、この事実を日本では誰も認めたくない。
日本人全員が一致団結して完全に無視しているのですが、もちろん薄々全員が終りを自覚しているのだろうとは思うが、1日でも良いからと、だらだらと意味も無く先延ばしに先伸ばしを続けて現在に至っている。
『フクシマの余りにも厳しい現実を、一瞬でも良いから忘れたい』
志村 建世のブログでは、『昭和からの遺言』として小説形式で歴史の検証作業をおこなっているのですが、・・・
『小説・昭和からの遺言(80)民主党政権を倒したものの正体』
この連載では民主党政権崩壊の原因として東日本大震災には一言だけ触れているが、フクシマは一切無視。これが今の日本のリベラルとか護憲派の現状ですよ。(真実はフクシマの核事故当時の菅直人首相の民主党政権の嘘八百に国民が呆れ果て、匙を投げた)
それにしても摩訶不思議な歴史認識である。
民主党が国民に見放された最大のものは菅直人の消費税増税ではない。
確かに当選した議席数では自民党に負けたが、このときの参議院選挙での得票数では民主党のほうが多かった。
増えると思った票数が、菅直人の『消費税10%』のオウンゴールで増えなかったから、結果的に負けただけ。民主党の選挙戦術の問題なのです。
東日本大震災の事が一度だけ触れたが、フクシマのレベル7の未曾有の核事故が何故か完璧に抜けている。
国民が民主党政権を見放したのはフクシマの核事故に対する民主党政権の対応が最大原因である事実は明白である。
日本では知識層が全員同じで、基本的に脳内が空白状態なのでしょう。真実を見たくないし、将来を考えたく無いのです。
『一流の小説家は新聞記者と同じ仕事をしていた』
今年もノーベル文学賞を逃した村上春樹ですが、日本では原子力発電所と誤って訳している言葉(Nuclear plant)が本当は『核発電所』か『核兵器工場』であると指摘するが、世界的作家の眼力は鋭い。英語の原子力はNuclearでは無くて、Atomic Energyである。
(アメリカ原子力規制委員会はNuclear Regulatory Commissionなので、NRCの正しい訳は核規制委員会)
村上ワールドが個人の脳内での自由気ままな創作物と言うよりも、綿密で正確な並外れたリサーチ力の賜物である。
作家が一つの小説を書く前には、新聞記事を書く記者と同じで作品に関連する情報収集が必須要件だった。リサーチに膨大な量の時間と労力を費やしていたのである。
良い作家とは、良い新聞記者と同じ種類の仕事をしていた。
二つの『違い』とは、作家は自分の作品を『フィクションである』(創作物である)として世に出す。
ところが新聞記者の方は180度逆に『フィクションではない』(創作物ではない)と世間に喧伝する。(中身の『内容の違い』では無くて、外側の『包装紙の違い』)
ただし新聞社の場合には『何を書いたか』との個々の記者の記事よりも、『何を掲載するか』、『何を載せないか』(隠蔽するか)の編集局独自の取捨選択の判断とか、何が大事で何が些細かとの優先順位の方針『価値観』が全ての問題に優先する。(その意味では記者よりも編集部のほう1万倍は大事)
新聞でもテレビでも同じでマスコミの報道枠には最初から限界があり、現実問題としてもニュースの全部は掲載出来ない。
今の近代社会ではどれ程重要な大問題でもマスコミが報道しない限り、自動的に『何もなかった』ことになる。
『新聞記者の仕事は小説家と同じだった』
多くの善良な日本人が誤解しているのだが、既存の新聞の記者(いわゆるジャーナリスト)と一匹狼のフリージャーナリストとは別の役割を持っていて、別々のカテゴリーに分類される。
田中龍作ジャーナルを読めば明らかなように、大手新聞や記者クラブに対する激しい怒りは、もはや隠しようの無いレベルになっている。
フリージャーナリストの田中龍作は多分自分が事実を正しく正確に伝えるルポライターに徹しようと努力している。あるいは物事を正しく客観的に解説しようとしている。だから記者クラブからは相手にされず頭から馬鹿にされるのである。
(この田中龍作の根本的な勘違いですが、困ったことに日本では普通の一般市民も全員が同じ勘違いをしている)
致命的な勘違いの原因ですが、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのではない。(それは田中龍作の様なルポライターの仕事である)
そもそも商業新聞の記者の仕事に一番近いのは小説家であり、記者がある事件について記事を書くということは、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事(創作活動)だったのである。
あえて明確な新聞記者と小説家の違いを上げれば、
記者の方は取材した『出来事』を読者が注目するように出来る限り誇張して記事として書く。ところが、小説家はリアル感を出すために多少抑え目にして書く程度。
STAP騒動で科学論文の著作権云々がマスコミで議論されていたが勘違いも甚だしい。客観的な正しい科学的事実とは常に普遍的であり誰が書いても100%同一になる。(普遍的事実と少しでも違っている場合には、それは自動的に『間違い』であると証明される)
昨今新聞記事での著作権云々(コピペ)が大問題となっているが、これは新聞記事が『記者の創作物である』から著作権が発生するのである。(科学法則や客観的事実は常に普遍的であり同一。他と『違い』が無ければ著作権の主張は無理)
全て同一であるべき普遍的真実と、他との違いこそ命である著作権とは、原理的に二つ同時には絶対に成り立たないのである。
新聞記事の著作権ですが、これは表現を変えれば新聞社自身が、自分で『客観的事実とは無関係で、新聞記事は小説と同じ』と言っているのであリ、これは『真実を報じている』との建前の報道機関として自殺行為なのである。

『ルポライターに文学賞を与える不見識?(ノーベル賞委員会の深謀遠慮)』
『チェルノブイリの祈り』はレベル7の核事故発生から10年目に出た事故当事者の真実を集めた『インタビュー』をまとめた本である。(作者の自由な創作物ではない)
ベラルーシで長年報道機関に所属していたスベトラーナ・アレクシエービッチは、『最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。』
それにしてもオリジナリティ(個性)こそが命のフィクション(創作物)では無くて、だれが行っても同じ内容の客観的事実(ドキュメント集)に対して文学賞を与えた今回のノーベル賞委員会は何を考えているのでしょうか。
29年前に起きたチェルノブイリではなく、実は4年半前に起きたフクシマの問題こそが今回のノーベル文学賞の決定動機ではなかったのか。
人口1000万人のベラルーシのチェルノブイリ事故から3年後の小児甲状腺がんの発症数は6人だったが4年後には29人に爆発的に増えている。
対して同じレベル7のフクシマの3年後の時点でも小児甲状腺がんの全発症数は100人を遥かに超えていた。(同時期のベラルーシの20倍)
福島県の人口はベラルーシの5分の1の200万人なので人口比なら100倍もの猛烈な数値である。
日本のフクシマの方が明らかにベラルーシのチェルノブイリと同時期よりも遥かに悪いが、ベラルーシやウクライナでは年間1ミリシーベルト以上の放射能汚染地域からの全住民の疎開を行った。
ところが日本の場合は、極悪自民党政府は年間20ミリシーベルト以内は安全だとして子供達や妊婦を含む全住民が逃げずに高濃度放射能汚染地域に留まったまま。
日本のフクシマで、ベラルーシよりも比較出来ないほどの桁違いの大きな被害が出て当然だったのである。何の不思議も無い。


『去年8月24日の福島県検討委の発表で、日本の玉音放送が終わっている』
福島県の子供達の8割の30万人の甲状腺の一巡目検査終了時の『図 2.実施対象年度別市町村』にあるように、なんと、そもそも一番最初の『平成 23 年度検査実施市町村(13 市町村)』の意味は、決して平成23年度(2011年度)に一時検査を実施した市町村の意味ではないのである。
『年度』とは、その年の4月1日から翌年の3月31日までの期間であり、それなら前の年度と後の年度が重複することはない。
ところが、福島県検討委に限っては重複する。
年度の期日が来ても終わらず、だらだらと続いていたのである。
検討委発表では、何と、平成23年度調査と平成24年度調査と平成25年度調査が重なる三つ巴現象さえ起きていた。
検討委の『年度』の意味は期間を指していたのではない。
実は、なんと、年度表記の後にさりげなく書いてある括弧(13市町村)の場所だけを意味していた。
ほぼ三流詐欺師の手口である。
その手品ですが、1年も前に検討委自身が種明かしを行ったのです。もう日本人を騙し続ける意味が無くなったと考えたのでしょう。
それなら、この時点で終わっているのですが、腹立たしいことに、1年後の現在でもだらだらと面白くも無い、ネタバレの手品が今でも続いているのですから不思議である。
日本人全員で、フクシマを『無かった事にしたい』のでしょう。
この日本人全員が結託して『忘れる』との戦術は今までなら連戦連勝で勝つ続けた必勝法なのですが、原発の放射能相手の今回だけは余りにも相手が悪く勝て無いのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます