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2009年就役の最新鋭の拠点機能強化型巡視船「よなくに」(1349トン)
『衝突事件ではなく漁船拿捕事件』
日本のマスコミ報道では一つの例外もなく横並びの同一主張で、中国漁船『衝突事件』ですが、事件の真相は中国漁船『拿捕事件』ですよ。
この事実(拿捕)は国際的な常識であり、日本以外の世界のメディアは『日本の巡視船が中国の漁船を拿捕』と報じているのです。
何故日本政府は自分たちに『非』がまったく無く『正しい』と思うなら、政府として正々堂々と領海内での違法操業、漁業法違反での『拿捕』(逮捕)との王道を主張しないのか。
漁船拿捕のさいのどさくさの最中、逃げようとする漁船と巡視船との接触を殊更騒ぎ立てて、漁船拿捕の『本件』を言わずに派生した『衝突事件である』とするなどは別件逮捕に近い姑息な行為である。
何故日本は王道を捨て覇道を歩もうとするのか。
起きた事件とは、『漁船の拿捕』の為に、停船させて強制接舷をしようとしていた海保の最新鋭の4艘の巡視船とヘリコプター1機が2時間40分に渡って必死に逃げ回る中国トロール漁船を追いかけて、苦労してやっと拿捕(逮捕)した事件である。
今回『衝突した』だの『公務執行妨害』だのの日本政府の言い分は『漁船拿捕』の際に付随して起きた『枝葉』の小さな事柄であり『本体』ではない。
ところが政府は本体(拿捕)を主張せず枝葉(衝突)だけを言い張り、『漁船が故意に衝突させたので→拿捕した』と原因(尖閣界隈の操業取締り)と結果(逃げる中国漁船と追いかける巡視船の接触)を逆さまに描いている。
これでは日本政府(海上保安庁)は丸っきりの『転び公妨』であり国際的に通じる話ではない。
世界に対して恥ずかしい限りである。
外国の官憲が逮捕(拿捕)しようとしたら、中国船であれ誰であれ当たり前ですが相手は捕まりたくないから逃げるのは当然です。
海上保安庁は海の警察なのですが、これを陸上の警察に例えるなら駐車違反とか速度違反の車を逮捕しようとしたら逃げるので何台ものパトカーで数時間追跡、カーチェイスの末にようやく逮捕した事件である。
この様な場合には、今問題になっている『どちらが先にぶつけた』だのは些細は話で、ぶつかる距離にまで接近した警察車両の非常識で危険な無謀逮捕(運転)こそ非難されて当然であろう。
何故日本政府は最初から『拿捕だ』と本当のことを言わないかに、この事件の真相(問題点)の全て隠されているのです。
今まで尖閣諸島では、『教育勅語』の極右路線で戦前回帰を画策『戦後レジームからの脱却』を標榜して教育基本法を改変して国民に愛国心を強要したあの意味不明の標語『美しい国』の安倍晋三内閣時の08年以外には一回も、このような拿捕(衝突)事件は無い。
中国脅威論のネオコン前原誠司が海保の所轄大臣になって尖閣諸島など現場を視察したら途端に2回目の衝突事件が発生したのですから、状況証拠では真っ黒ですよ。
『日本最南端の新聞社、八重山毎日新聞』2009年2月21日
尖閣の領海警備を強化のため、第11管区石垣海上保安部(徳永重典部長)に国内で3隻ある最新鋭の拠点機能強化型巡視船「はてるま」に加えて同型で巡視船「新よなくに」が新たに就役。今回で同保安部へは2隻の拠点機能強化型巡視船が就役することになる。
「よなくに」は総トン数1300トン、全長89メートル、全幅11メートルで、乗組員は白武文明船長含む40人。ヘリコプター画像伝送システムや赤外線捜索監視装置、ヘリが着船できる飛行甲板を備えている。
『海保による衝突事件の経緯』
漁船は「閲晋漁5179」(166トン、長さ約33㍍)。午前10時15分ごろ、巡視船「よなくに」(1349トン)が漁船を発見。領海から退去するよう警告したところ、漁船は網を上げて逃走を始めた。
海保は巡視船計4隻とヘリコプター1機で追跡。漁船は逃走開始時に「よなくに」と接触し、逃走中の午前10時56分ごろには巡視船「みずき」(197トン)とも接触した。その後も逃走を続けたが、午後1時前、みずきが接舷して海上保安官らが乗り込み、エンジンを停止させた。
中国漁船衝突事件に参加した海上保安庁の大型巡視船は、
地元第11管区石垣海上保安部(石垣市)所属は「よなくに」「はてるま」だけ。
もう一艘の大型巡視船「くにがみ」は第十一管区海上保安本部 中城(なかぐすく)海上保安部(沖縄市)に配備されているが3艘は何れも09年就役の最新鋭、1349トンの同型の拠点機能強化型巡視船で27ノット(時速約50キロ)以上での航行が可能。
漁船拿捕に使用された総トン数 197トン「みずき」はディーゼル(9,400 hp)×3基ウォータージェットの2軸推進35ノットの高速船で元第十管区所属で福岡海上保安部(福岡市)から移籍されたものです。
この200トンクラスの最小の巡視船「みずき」の船首に緩衝材を取り付けて中国漁船の船体に衝突させて強制接舷して停船させ拿捕に成功した。
『転び公妨の意味』
転び公妨(ころびこうぼう)とは、逮捕したい相手を故意に妨害して挑発したり接触してわざと自分から転倒して、警察官などの捜査官が被疑者に公務執行妨害罪(公妨)や傷害罪などを巧みに適用して現行犯逮捕する行為。
政治目的での公安警察による別件逮捕であることが多いが、刑事事件でも多用されて日本だけの代用監獄との併用で冤罪の温床になっているとの指摘もある。
お笑い『アンサイクロペディア』によると
転び公妨(ころびこうぼう)とは、広域指定暴力団桜田門組に代々伝わる最強の格闘術である。自ら転んだように見せかけ、相手が動揺した隙を狙って一気に攻勢に出るのが特徴。その奥義は長らく組の秘伝とされ、試合の模様は外部に公開されてこなかった。
「転び弘法」の誕生
転び公妨の起源は古く、平安時代初期、弘法大師空海の時代に遡る。ある時、空海が弟子を連れて修行のため高野山を歩いていた時のこと、空海はたまたま道に落ちていた石につまずき、転んでしまった。これは本当にただつまづいて転んだだけのことだったのだが、弟子たちは、空海上人ともあろうお方が、そんなつまらないことで転ぶなどありえないことだ、何か深い意味があるに違いないと考え、空海にその真意を請うたという。これを見た空海は、弟子たちにこう言った。「あなたたちは私が石につまづいて転んだとき、そこから何か真実を汲み取ろうとと試みていたようだが、果たして真実と言うのは内にのみあるのか。私が転んだと言うことは外から見えることだけれども、これもまた真実である。仏の道を学びたいと思ったら、まず目の前にあることに素直になりなさい」と。これを聞いた弟子たちは自分たちの浅はかさを恥じ、この世のあらゆる事象を正面から受け入れ、かつそれに動じない心を持つことこそが仏の真の教えであると悟ったという。
この教えは真言宗の教義に大きな影響を与え、真言仏教の勢力拡大及び寺院の武装・僧兵の発達と共に、単なる仏教哲学を超えて「転ぶことによって相手の隙を生み出す」戦闘術へと転化していった。室町時代に大勢力を築き、後には織田信長や豊臣秀吉と争った真言系の根来寺の僧兵達は、この戦闘術を巧みに操り、油断した敵兵を次々と討ち取っていったことで知られる。そしていつしか、この戦闘術は弘法大師の名を取って「転び弘法」と呼ばれるようになったのである。
「転び弘法」から「転び公妨」へ
「転び弘法」に、現在の「転び公妨」の字が当てられるようになったのは、明治時代になってからである。その理由は定かでないが、一説には、桜田門組に採用されるにあたって、当時の廃仏毀釈の風潮により「弘法」の字を避けたのではないかと言われている。しかしながら、その中身は千年近く伝えられている「転び弘法」と全く同一であり、このような伝統的古武術が現代までよりによって暴力団で伝えられていると言うのは、非常に興味深いところである。
この頃から転び公妨は武術から競技の性格を帯びた格闘術へと変化し、あちこちで非公開の「試合」が催されるようになった。
ちなみに、戦前には技術の発展も見られ、本来の「転び公妨」とは大きく異なる技も多数生まれたが(後述)、これらは様々な理由により淘汰されていき、現在残っているのは結局本来の「転び公妨」のみとなっている。
『その技術』
以下が、現在行われている、試合における転び公妨の技の流れである。
①相手にぶつかり、自ら転ぶ。
できるだけ自然に転ぶのが美しいが、わざとらしくても点は入る。
②「コウムシッコウボウガイダ!」と大声で叫ぶ。
この掛け声がないと点が入らないので注意。団体戦の場合、叫ぶのは転んだ人とは別の人でも良い。ちなみにコウムシッコウボウガイダとは、「請無~」で始まるありがたい経典の一説が訛ったものと言われる。
③相手が動揺した隙を見て体を取り押さえ、勝利。
団体戦の場合は、叫んだ人が出てきて取り押さえる。
『現在行われていない技』
戦前は、①を省略したり、掛け声にも「コノキョウサンシュギシャガ!」をはじめとして様々なバリエーションが有ったが(当然ながらこれも元は経典の一節なので、発音の似ている「共産主義者」とは無関係であり、実際にほとんど関係なく使用された)、ルールが煩雑になったため、現在は①を必須とし、掛け声も一種類に統一された。しかしながら、現在でも一部の試合ではルール違反が黙認されているとかいないとか。
#転び公妨(ころびこうぼう)とは、広域
#指定暴力団桜田門組に代々伝わる最強の
#格闘術である。自ら転んだように見せか
#け、相手が動揺した隙を狙って一気に攻
#勢に出るのが特徴。その奥義は長らく組
#の秘伝とされ、試合の模様は外部に公開
#されてこなかった。
でも、桜田組にはもう1つ強力な秘伝があるみたいですよ。
尖閣列島とは直接関係ないのですが、最近、銀座や表参道での「検察・検審を糾弾するデモ」など、市民レベルでデモの復権が始まっています。ところが、これらはデモ初体験の人ばかりの草食系デモで、最強の「転び公妨」を発動する余地がない。そこで次善の策だが、同じくらい強力な奥の手「シカトする」で対応してるようなんです。
でも、これも時間の問題で、いずれ最強技が繰り出されるのでは。その場合、最良の対抗策はなんでしょうか?ぜひ、ご教授賜りたく。
転び公妨等は小さな悪事でありもっと恐ろしいのは、別件逮捕による代用監獄長期拘留による自白の強要と最良証拠制が、日本の警察、検察の特徴でしょう。
最良証拠制とは、
日本の検察制度が極めて検察に有利に造られていて幾らでも冤罪が生まれる構造になている最大のものは、『起訴権の独占』や『検察官調書の絶対性』も大きな要因ですが、それ以上に『最良証拠制』です。
捜査段階で集められた膨大な証拠や証言の内で検察官が恣意的に有罪の為に必要であると考える『最良証拠』だけを裁判所に提出すれば良いのですね。
『真実は何か?』との視点ではなくて、検察官は被告の無罪を証明する証拠・証言は意識的に無視ないしは隠蔽して裁判での勝ち負けをゲームの如く扱うのですよ。
過去の冤罪事件では検察調書に不自然な欠番があり弁護側が追及して証拠を出させて無罪になった例や、松川事件の諏訪メモのように関係者が存在を知っている無罪の証拠を検察側が隠蔽し裁判所の開示命令で冤罪が明らかになった等の数々の不祥事がある。
村木厚子氏の裁判でも地検特捜部の検事の証拠の改竄は咎められて捜査した主任検察官が逮捕されたが、村木氏の無罪の証拠の存在を知っていた公判部の検事には何のお咎めもない。
しかし無実の証拠の存在を知っていながら裁判で有罪を論告した公判部検こそ裁かれるべきであると思いませんか。?
証拠を故意に弄って『有罪にしようとした』主任検事も悪質であるが、より以上に無罪の証拠や証言を意識的に隠して『有罪にしようとした』検事こそ『主犯』です。
ところが日本には検察・警察に証拠の全面開示の義務は無いのですからこの悪質検事は決して裁かれるlことはない。
正義は検察・警察の匙加減一つで如何にでもなるのですから恐ろしい。
日本では検察官に『神』に匹敵する権限を与えているのです。
元警視庁巡査部長のフリージャーナリスト黒木昭雄氏が車の中で死亡しているのが発見されたのですが、
『岩手県警、警察庁、中井、元国家公安委員長らに関する記事が狙い撃ちされた如く削除されています』と、黒木氏はツイッターに書いているのですが、
岩手県警の捜査を批判していた記事の部分が大幅に削除されていて黒木さんは復元作業に励んでいたらしい。
私も経験がありますが結構手間なものです。
記事内容が岩手県警にとっては目障りで仕方がなかったのでしょう。
黒木さんは連続幼児殺害事件の犯人とされた畠山鈴香さんの長女殺害でも警察を批判していた、
この事件も無茶苦茶ですよ。
多分冤罪です。
検察は自分の長女を殺して、その捜査を攪乱する目的で隣家の男児を殺したと犯行動機を説明しているのですが、最初の事件は事故で処理されまったく捜査されていない。まったくの嘘。
2人を殺したとして死刑を求刑されているが、畠山被告が女児を殺したら男児殺しは無い。
また我が子の再捜査を目的として男児を殺したなら女児殺しは無実です。
秋田県藤里町の事件とは警察と映像マスコミの二人三脚での冤罪事件ですよ。
鹿児島県志布志町での選挙違反の冤罪事件で任意捜査で市民11人中6人までが泣きながら無実の罪を自白した。富山県の痴漢冤罪でも任意捜査で自白して裁判でも無実を訴えることなく有罪になっている。人間とは弱いものですね。
畠山鈴香被告ですが、逮捕以前の自宅前に1ヶ月もパトカーが一日中常駐、マスコミ各社がカメラを24時間作動させる異常事態の軟禁状態。心身の限界に来た1ヶ月後に早朝から深夜までの16時間ぶっ続けの任意捜査?でとうとう自白しているが、これでは犯罪の有無に関係なく誰でも例外なく自白しますよ。
黒木昭雄さん、誰かの絶対に踏んではいけない尻尾を踏んで仕舞ったのでしょうか。
海上保安庁ですが、国土交通省の外局で海上保安官の身分は司法特別職の警察職員で文民です
外国では国によって色々であり、アメリカの沿岸警備隊はコーストガードとして軍隊仕様で階級もまったく軍隊を同じです、
陸、海、空、海兵隊と共にコーストガードはアメリカの立派な軍隊の一つとして位置しています。
日本ですが、外国のような準軍事組織ではなくて海上保安庁法の規定のとおり純粋な警察組織ですね。
日本国の海上保安庁の名称は1948年の開庁以来 Maritime Safety Agency of Japan(略称:MSA または JMSA) を用いてきたのです。
ところがですね。
突然2000年ごろから Japan Coast Guard(ジャパニーズ・コーストガード)に法令はまったく変わっていないが名称方法が変えられたのです。
09年に就役した新鋭艦の「よなくに」ですが、良く見ると、船体にジャパニーズ・コーストガードと書いてあるのですよ。
この表記法が昔からではなくて極最近から始まる出来事なのですが、尖閣問題とは1万2千人の海上保安庁の准軍事化、日本の軍事化とも繋がるキナ臭い動きと連動している可能性があるのですね。
今では政府閣僚の記者会見で日の丸を背景にして行われているのが普通であるが、あれは小泉だったか?それとも戦後レジームからの脱却からの極右の安倍晋三だったか。どちらかで極最近の悪しき傾向ですよ。
外国では当たり前の常識ごとかもしれないが、平和憲法のある日本国は昔はそんな国ではなかったのです。
恐いですねえ。やはり最良の対抗策は、取調べ全面可視化が実施されるようになってから、捕まることでしょうか(~_~)
Unknown様、
尖閣列島関係は詳しくないのですが、トラブルがあったとき、大事にしないように収めるのが外交なのでは。そして、結果としてどれだけ実を取れたかが腕前なんでしょう。何が「実か」という点が見解の分かれるところでしょうね。
警察、検察は欧米先進国では当たり前の常識である『全面可視化』には抵抗していて『部分可視化』の方向を狙っているようですよ。
怖いですね。
部分可視化なら、警察が自分達の描いた筋書き(見立て)に沿うように編集することがいくらでも可能で、今よりも最悪で、信じられないくらいにもっと悪いのです。
短く編集された証拠ビデオを見れば警察、検察の正しさ(被告の有罪)は証拠の胡散臭さに関わらず議論抜きで信じてしまうでしょう。
何故なら人間とは基本的に視覚に頼って生きており、情報の9割を目からの情報に依存、判断しているのですよ。
人は見た目が9割なんてメラビアンの法則と言うものまであるのですよ。
テレビ番組などで良くやる再現映像とかCG映像などは識者の解説なんかよりも影響力は大きいのでしょう。
人は見た目が9割「メラビアンの法則」
2008年02月09日 | 文化・歴史
国会での映像は6分50秒の短さですが、2ヶ月前の時点で最初に国会提出分が出されたら、当然国会や世論は『こんな短い編集されたものでは真実は判らない』と考える。
もっと出せといいますよ。
流出ビデオですが石垣の海保で40分に短く編集されたもので、唯一起訴権のある那覇地検に提出されたものですが、こんな人を馬鹿にした話がありますか。
世間を舐めるにも程がある思い上がった態度ですよ。
拿捕に参加した巡視船は4艘で2時間40分の追跡劇の末の逮捕(拿捕)であるのですから、最大で考ええば2時間40分×4で10時間程度のビデオが存在する可能性があるのですよ。
逮捕した警察がビデオを短く編集したなどは、大阪地検特捜部の前田主任検事が押収したフロッピーディスクを改竄した行為とどれ程の差があるのか、?
同一の行為であると看做すべきです。
警察も検察も、当事者は証拠品には一切手を触れ手はならないのですよ。
丸ごと提出して公平な第三者の判断をあおぐべきであるのですね。
今回40分に短く編集したビデオを見た一般市民は『やっぱり中国漁船がぶつかっており悪い(海保が正しい)』と判断していますが、これはある意味当たり前であるのです。
何故ならこの映像のそもそもの目的は、『視聴した者(那覇地検)がそのように判断するように海保が編集したビデオである』と考えるべきですね。
私としては一番の疑問は、何故海保側葉編集前の生のビデオを提出しなかったのか、ですね。
相手側船長を逮捕して3週間近くも拘留して自白するように強要していたのですよ。
生ビデオの見る時間ぐらいいくらでもあるのですよ。
そして編集前の生ビデオでないと証拠としての信憑性は低くほとんどゼロに近いのです。
今度のビデヲ流出させた動機ですが、皆さんが色々推測している以外にも、もう一つ意外な盲点があるのですよ。
10月1日の国会提出時の6分の編集ビデオの公開で、編集前の生ビデオの公開の要求の話が当然出されていたのです。
数日後の40分ビデオの後ではこの当然の要求が何故か話のメインからはずされているのですが、
40分ビデオの取出とは(絶対に見せたくない)生の10時間ビデオの公開を阻む為の高等戦術(裏技)ではないでしょうか。
今のマスコミやネットですが、話が流出した編集ビデオの中身ばかりに注意が向いているのですね。
この事件の全体像を見ようとする姿勢がまったく足らないのです。
こうなったら、菅政権はビデオを全面公開してしまうほうがいいような気がしますけども。そうなれば、隠蔽だと騒いでる側は攻め手を失いますし。
どんな不思議な事柄でも必ず合理的な説明が付くものですが、
このような考え方をしている論理が優先する理科系の人ほど『説明が難しい不思議な出来事』を見せられると手もなく簡単に騙されるのですよ。
この事実は修行したら空が飛べると信じた理科系の大学院卒のオウム信者の存在が証明しています。
特に現代人の若者たちは自分で見るとか体感するとかに滅茶苦茶弱いのですね。
『自分の目で見た』あるいは『自分は経験した』がそのまま『真実である』と同じであると誤解するのですよ。馬鹿馬鹿しい。
何故自分の「目」や経験、判断を絶対に正しいと言うことが出来るのか。何の根拠も無いのですよ。
何故自分自身を疑うことをしないのか。?
自分の見た事実・理解・判断と『現実』との間に、全く乖離がなくて『同じである』とするなど思い上がりにも程があると思いませんか。?
テレビでのマジック番組では美女がトラに変身したり真っ二つになっても死なずに生き返ったりしても、普通は単なる奇術の見世物で事実で無いことが誰にでも判っているのですから、
政治や経済や色々な事件でも、この奇術とまったく同じ原理が働聞くので、『同じである可能性がある』と言えると考えるべきなのですね。
頑是無い幼児でも無い限り、大人の社会なのですから本音と建前の違いぐらい誰にでもあります。
すべてに嘘が無いならこの世は極楽ですよ。
政治家の世界の全てが『嘘をつかない』善意の人だけで出来ているなどと考えているらしい『陰謀論・論』の信者達の能天気ぶりにはほとほと呆れ返りますが、人の目ほど騙しやすいものは無いのです。
そして手品師が右手を盛んに動かしている時にはその反対に目立たない左手でネタを扱っている可能性が有るし、舞台中央の目立つパフォーマンスの主役の奇術師ではなくて何もしていない風に見える助手が一番大事な役割を担っている場合が多いのですね。
これはマスコミの情報操作でも同じ原理が働き、
>『情報を氾濫させて、本当に大事なものから目を逸らさせるというのは、方法』<
と言うのは最も基本的な世論誘導の手口なのです。
今マスコミでは流出ビデオ一色ですが、これが本当に大事なニュースである可能性もあるが、実はもっと大きなニュースを隠蔽する為の煙幕である可能性はそれ以上に大きいでしょう。
何故ならあのビデオは完全なものではなくて録画された10時間の内のたったの40分であるのですよ。
高速増殖炉もんじゅの事故でも最初は出来る限り『なんでもない小さな事故』に見えるように編集した短いビデオの済ます心算だったのです。
後で編集前のビデオの存在が発覚して事故の大きさが認識されて原発は十数年も停止することになる。
これからの展開ですが、ビデオの全てが公開されない限り信じるべきではありません。
あのビデオに『悪意の編集の意思』がなく正当なものであるとすると、もう既に事件の一番美味しい衝突部分は流出した40分で出尽くしたことになりますね。
それなら、それ以外のビデオの意味は、相対的に小さいので、『絶対に出さない』ことに、ほとんど意味は無いと考えれらるのです。
ですから今後、政府(海保)が全てを出せば何の問題も無いが、『出さない場合』には私がこの連載記事の最初から指摘している悪質なマッチポンプ前原誠司の事実が『単なる推測』でなくて『真実』である何よりの証拠ですね。
さて、これから如何なるか。楽しみです。
| 『自分の目で見た』あるいは『自分は経験した』がそのまま『真実である』と同じであると誤解するのですよ。
私も「論理が優先する理科系の人」なので耳が痛いのですが(笑),亡くなられた前のローマ教皇 His Holiness John Paul II が "Crossing the Threshold of Hope" 1994 (ISBN 0-679-76561-1,和訳が出てるかどうかは不明) が17世紀のデカルトが述べた "Cogito ergo sum" という思想が現代の全ての不幸の原因だと看破されていたことに,なるほどと思いました.
実はデカルトのこの有名な言葉は,13世紀の聖トマス・アキナスが述べた "Sum ergo cogito" という「存在が思考に先行する」をひっくり返しただけに過ぎない,と教皇はこの本で批判しているのですよ.
自らはジェット機で世界中を移動し,バチカン放送で世界中特にヨーロッパに自らの哲学的な見解を述べ,Webページでその原稿を世界中に撒き散らしていた教皇自体,合理主義と啓蒙思想のかたまりのデカルト的科学技術を駆使していたのに,あえてそれに疑問符をつけたことに私は彼の先見の明を感じ取っているのです.
自らマスコミやネットで情報を氾濫させて大衆から目をそらさせて来た彼自身の,一種の自己批判なのかなと考えたりもします.今のドイツ人の教皇にはそういう謙虚さがまったくないのが悲しいですね.前原の悪口はあえて書きませんが(笑) < 何であんなのが民主党で出世できたんだろうか?
プロテスタント系思想の流れであるデカルトの命題ですが、これでは心身二元論の形而上学的観念論であり、彼が批判した中世キリスト教のスコラ哲学の代表的神学者聖トマスの『存在が思考に先行する』の方が唯物論の近代科学に近いとは皮肉ですね。
キリスト教の『宗教改革』ですが、これは日本の20年ほど前の小沢一郎などの鳴り物入りでマスコミがもてはやした『政治改革』と同じで、『改革』とは名ばかりのニセモノで、実や今のイスラム原理主義のような復古調の後ろ向きの悪しき改変に過ぎなかった可能性があるのですね。
アメリカの前共和党副大統領候補だったサラ・ペイリンや、今流行の茶会運動のバックボーンである福音派の度し難い原理主義は旧教のカトリックではなくてプロテスタント系ですが、旧教の考え方の方が新しくて、これらプロテスタントを『新教』などと呼ぶのは大きな間違いでしょう。
それにしても今度の騒動でのマスコミの統一した金太郎飴状態の同一主張振りにはひど過ぎてほとほと呆れています。
何と共産党機関紙赤旗までがそれ以外の日本の商業新聞とまったく内容が同じであるのですから、これでは選挙で負ける筈であると納得するやら、腹が立つやら。少数派が多数派と同じ主張をしたら勝てるものも勝てませんよ。
赤旗を含めて日本には既に報道機関は一つもなくて、政府の広報かプロパガンダ機関しかなくなっているのでしょうか。
これでは日本人は大本営発表の北朝鮮のピョンヤン放送のことを決して笑えないですよ。
日本側のすべての報道の『中国は70年代に入ってから石油が埋蔵されていることが知れてから領有権を主張しだした』などは悪意ある誤報であり、日本が一世紀近く実効支配している以外、中国側の主張には根拠があるのですね。
明治新政府は中国の清帝国との間で琉球の帰属を巡って争い尖閣諸島どころか宮古島や石垣島の先島諸島を中国領とするアメリカ前大統領のグラントの仲介案を了承していたのですよ。
この琉球分割案は中国側が不満で呑まず、領土問題が解決しない其のうちに15年後に日清戦争が勃発して台湾を日本が占領したので実現しなかったのですから、日本敗戦後には中華民国の蒋介石がこの話を蒸し返して琉球の中国領を主張して揉めているのですが、これがサンフランシスコ条約に参加しなかった理油でもあるのですね。