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83年前の今日。1936年2月26日,「2.26事件」で決起した直後,半蔵門を占拠する反乱部隊。白黒写真のニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。
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うろんな『二・二六事件』
クーデターなのに戦闘態勢ではなく平和モード(多くの兵士が銃を手放している)緊張感に欠ける山王ホテル前の反乱軍兵士。
近代日本で唯一のクーデターである二二六事件では大蔵大臣の高橋是清や内大臣の斎藤実など政府要人4人と護衛の警官5人が死亡した。18名以上の尉官クラスの陸軍青年将校たちが1500人の実戦部隊を率いて決起した本格的なクーデターだったが、何故か途中で腰砕け。本格的な戦闘は発生せず、決起は失敗している。
半蔵門を占拠した反乱軍兵士と、傘をさした和服の女性の平和な姿が何とも皮肉である。写真が示すように東京・赤坂にある山王ホテル前に集結した反乱軍は戦闘態勢に入っていないし、警戒態勢さえ取っていない。何とものんびりしているのである。
大雪が降った83年前の東京の写真ですが、到底命がけの歴史的な『昭和維新』騒ぎには見えないのである。クーデターを決行した反乱軍は、すぐさま簡単に警視庁を占拠するが、すぐ前にある皇居を占拠しなかった(長州のように『玉』を押さえなかった)ので失敗したと言われている。まさに破壊的カルト宗教である『国家神道』教育勅語(靖国史観)による洗脳のたまもの。
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元の白黒写真。 兵士の半数は丸腰(非武装)だった二二六
『新政府樹立を考えなかった反乱軍?』
クーデターを起こした陸軍青年将校は昭和天皇側近の『君側の奸』を排除すれば、後は700年前の後醍醐天皇の『建武の中興』(建武の親政)のように 天皇親政で全てが簡単に解決すると思っていたらしいのである。
幕末に来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記によれば公武合体で徳川将軍と姻戚関係にあった孝明天皇を暗殺した長州藩(岩倉具視など討幕派下級公家)などが未成年(17歳)の明治天皇を擁立し一発逆転のクーデター(王政復古)を成功させたと当時の人々は信じていたらしい。
我が日本国では『玉』(天皇)を押さえないと勝てないのである。(無理やり『玉』を押さえようと、長州藩が孝明天皇の御所に向かって砲撃した『蛤御門の変』は有名な出来事)
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沖縄県民を愚弄する安倍晋三、『万歳三唱に何とも迷惑そうな明仁天皇と皇后』
メルトダウンした福島第一原発の民主党(野田佳彦)『冷温停止宣言』から1周年の不吉な記念日である2012年12月16日総選挙で大勝した安倍晋三が、2013年4月28日に政府主催の晴れがましい『主権回復の日』式典を強行し、今上天皇や皇后の前で万歳三唱を行った。(サンフランシスコ講和条約で本土と切り離されて、過酷なアメリカ軍の軍政下に置かれた沖縄県では4月28日は屈辱の日として人々に知られている)
沖縄も福島も自民党系知事だったが『屈辱の日である』、『到底祝えない』と仲井真沖縄県知事や未曾有の原発事故の真っ只中の福島県知事が欠席している。
我が日本国は一度も4月28日を『主権回復の日』(独立した日)として祝っていない。
安倍晋三の自民党内閣だけの珍事中の珍事、病的な日本の極度の右傾化の徒花である。幾ら安倍晋三が頭が空っぽで目が節穴でも、『4月28日』が日本の独立記念日(主権回復の日)でないことに気が付いて2013年の1回限り。以後は中止される。
歴史豆知識
安冨歩(やすとみ あゆみ) @anmintei · 2月24日
「1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布式の際に明治天皇に対する祝福の意味で万歳の呼び方を「バンザイ」に決めた。この時の様子を当時高校生だった若槻礼次郎首相(1866~1949年)が自伝に書き残している。」そうそう。読んだこれ。
確か、「ばんざい、ばんざい、ばんばんざい」ってやろうとしたら、最初のバンザイで、天皇かだれかの馬が驚いたので、「ばんざい」だけで終わったので、そういう習慣になった、とか書いてあったはず。手元にないので、誰か確認して〜。
『胴上げ・手締め・万歳三唱… 日本人の3月民俗学』 2015/3/29. NIKKEI STYLE(日本経済新聞社)
3月は「巣立ち」の季節だ。ビジネスマンにとっては異動の時期で、毎日のように送別会に付き合う読者もおられるだろう。学生諸君も忙しい。合格発表に始まり、追い出しコンパや卒業式と続いている。この時期にとりわけよく目にする胴上げや万歳三唱は、日本人にどんな意味を持っているのか。民俗学の新谷尚紀・国学院大学教授に謎解きしてもらった。
実はお祓いの意味がある【胴上げは日本独自の風習】
新谷教授は「古くから胴上げの習慣が続く地域はほとんど日本だけ」と断言する。
プロ野球では優勝監督が胴上げされる意味がのみ込めなかった外国人選手もいたという。海外のプロサッカーなどで優勝監督が胴上げされるようになったのは21世紀に入ってからで、日本チームや日本人選手の活躍も影響していそうだ。
江戸後期の大名である平戸藩主・松浦静山が著した「甲子夜話」には江戸城での胴上げの習慣が記されている。節分の日には城中「御坐間(ござのま)」で豆をまく「年男」の役を老中が務める。まき終わると女性たちが御祝儀として胴上げした。さらに大奥でも、通行手形などを管理する「御留守居役(おるすいやく)」が豆をまいた後、多くの老女衆に胴上げされたという。
胴上げの習慣は武士階級だけではなかった。やはり江戸期に出版された井原西鶴の「好色一代男」にも胴上げのシーンが出てくる。さらに「北陸地方などでも厄年の人間や新しく婿になった男を胴上げする風習が高度成長期のころまでは残っていた」(新谷教授)という。さまざまな地域で見られたわけだ。
新谷教授は胴上げを「第一義的には本人を祓(はら)い清めるのが狙い」と解説する。
昔の豆まきの役目は追い払う鬼と対決しなければならない、いわば「汚れ役」なため、厄年の男が選ばれたりしていた。その人物を高く投げ上げ、体が空中を舞うことによってそれまで心身にまとわりついていた厄災を祓い捨て去る意味があるのだという。
合格した学生、栄転するビジネスマンは、特別な祝福や喜びに包まれた「ある意味で異常な状態の人物」(新谷教授)と捉えることができる。これも空中に投げ上げることで祓い清められ、通常の状態に戻す狙いがあるとしている。「その延長線上に第二義的な意味で祝福の意味、新婚者らを新たに仲間に迎え入れる意味が加えられてきた」(新谷教授)
【三本締めはブラック社会(ヤクザ)の風習】
ところで送別会などで終了の儀式のように最後に皆が手を叩く「三本締め」や「一本締め」。「数の吉凶を重要視するのは中国の陰陽道の影響」と新谷教授は言う。日本では伊勢神宮の正式な作法「八度拝」、出雲大社の四拍手、一般の神社の二拍手のように偶数が基本であるが、陰陽道では奇数が「吉」、偶数が「凶」にあたる。陰陽道の思想が日本社会に溶け込んだ身近なケースが子どもの「七五三」だ。
「イヨーッ」と掛け声とともに「シャンシャンシャン」と手をたたく「三本締め」を新谷教授は「今で言うヤミ社会やブラック企業にも陰陽思想が根付いた」とみる。ヤミ商売や人間関係の難しいトラブルを有力者に調整してもらって双方文句なし、ということでの手締めが本来の意味だという。元は中国の思想が影響しているけれども、一つの流れを締めくくることを皆で確認し合う儀式として日本独自の儀式として浸透した。新谷教授は「参加者全員の手を打つタイミングがそろわなければ意味がない。だから短い一本締めが好まれてきている理由だ」としている。
意外に新しい!「万歳三唱」の歴史は明治から
新谷教授は「君主をたたえる『万歳』は古代中国から伝わってきていたが、3回唱える習慣は中世まではなかったようだ」としている。呼び方も「バンザイ」ではなく「ヨロズヨ」「マンザイ」などと呼んでいたという。
近代に入って1889年(明治22年)ころから国民的な慶賀の言葉として定着したようだ。同年の大日本帝国憲法発布式の際に明治天皇に対する祝福の意味で万歳の呼び方を「バンザイ」に決めた。この時の様子を当時高校生だった若槻礼次郎首相(1866~1949年)が自伝に書き残している。
最初は二重橋に明治天皇の馬車が出て来たときに同級生らと「万歳、万歳、万々歳」と高唱する予定だったのが最初の一声で馬が驚いて棒立ちになってしまったという。2回目の万歳は小声になり、最後の万々歳は発声せずに終わったとしている。著書「明治・大正・昭和政界秘史」で若槻首相は「三声目の『万々歳』はあの時以来、闇から闇へ葬られた次第である」と締めくくっている。古くて神聖な行為と思われたものも意外に新しく俗っぽい。しかし新谷教授は「新しいから敬意を表さなくてよいわけではない。なぜそうした縁起や習慣が生まれたのかを考えるのが民俗学の立場だ」としている。
NIKKEI STYLE
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昔の神社の参拝の仕方は仏教寺院と同じように跪いて拝んでいた。出典は映画『姿三四郎』、黒澤明監督のデビュー作
『大日本帝国の敗戦後に新しい「靖国神社」が勝手に広めた二拝二拍手一拝(一礼)』
全国の神社を会員とする神社本庁が示す参拝儀礼は、二礼二拍手一礼ですが、これは日本の敗戦後に国家神道の『靖国神社』方式を全国化したもので歴史が浅い新しい方式だった。
日本における伝統的神道(随神の道)とは、仏教や欧米一神教的な普通の宗教なら必ずある教義の類がそもそも存在しないのが一番の特徴なので、歴史的な背景もあり個々の神社が別々なのである。
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元々陸海軍省が管理していた靖国神社に参拝する大日本帝国兵士は拍手や礼は無く、着剣した小銃の『捧げ銃』(ささげつつ)だった。敗戦後に日本国憲法9条の非戦や非武装に合わせた靖国神社や神社本庁の二礼二拍手一礼は元々の軍事神社(靖国神社)の伝統とは別物で、インチキ臭い紛い物。
そもそも廃仏毀釈以前の日本では神社と仏教寺院とは同じ場所にあり一体不可分で、一般的な日本人にとっては神社もお寺と同じだった。拍手ではなくて跪いた姿勢で両手を合わせて拝んでいたのである。
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江戸時代の伊勢神宮参拝の様子。誰も拍手など打ったない。お寺と同じで腰をかがめ、神に相対。両手を合わせて拝む
王殺しの伝統がある怖ろしい日本の歴史 『伊勢神宮に参拝しなかった歴代天皇の不思議』
国家神道の総本山的な皇室の先祖神である天照大神を祀る伊勢神宮ですが、実は、何故か明治天皇以前の歴代天皇は誰も参拝していない。
大海人皇子(天智天皇の皇太子。天武天皇)が吉野を逃れて岐阜で兵を挙げる前に伊勢神宮に参拝したとあるが、大海人皇子は天智天皇の子供(跡継ぎ)の大友皇子(明治時代に『弘文天皇』という名で追諡)を殺す壬申の乱を起こしている。伊勢神宮ですが、天皇家(皇室)にとって歴史的に祈りの場所であるよりも呪とか穢れの禍々しい神を封じる恐ろしい場所らしい。(だから京から遠く離れた、地の果ての伊勢だったのである)
日本書紀によるとヤマトタケルの第二子で第14代天皇の仲哀天皇は神託に従わなかった(アマテラスに逆らった)ので殺され、二番目の妃の神功皇后が代わり朝鮮に侵攻、第15天皇の応神天皇を生む、怖ろしい『王殺し』の歴史書である。
ゾルレンのためにザインの天皇を殺す偽右翼
2018年10月15日 | 政治・外交と天皇制
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靖国参拝をしない天皇を罵りながら、合祀されている戦没者に敬意を表し、頭を下げるコスプレ右翼
『靖国神社の宮司が退任へ 天皇批判で』2018年10月12日 BBC
靖国神社の小堀邦夫宮司が明仁天皇が靖国神社を潰そうとしていると、天皇を強く否定。退任する。
靖国神社は戦没者250万人が眠るとされるが、第2次世界大戦の戦争犯罪者の戦犯も合祀され、近隣の中国等と緊張関係の原因だ。来年退位の明仁天皇は、これまで一度も靖国神社を訪れていない一方で戦時中に敵対した国々との和解を模索してきた。
明仁天皇は、中国、朝鮮での日本軍の行為について哀悼の意を表明し、戦死者慰霊のため太平洋の戦地もたびたび訪問する行動に、日本の右翼団体が反発。
天皇批判という禁忌を破って『陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく・・・今上陛下は靖国神社を潰そうとしている。』『皇后となる雅子親王妃が神道を「嫌い」なので、明仁天皇が退位すれば、徳仁皇太子と雅子妃は靖国神社を参拝しないだろう。』との6月20日の小堀宮司発言を週刊ポストがすっぱ抜く。
明仁天皇の父で戦時中に天皇だった裕仁天皇は、1978年に第2次世界大戦のA級戦犯14人が合祀されて以降参拝していない。
合祀後に天皇は参拝していないが、安倍晋三首相を含む有力政治家は参拝しており反発を呼んでいた。中でも中国は最も激しく参拝を批判している。
(抜粋)
10月12日 BBC
『靖国神社とは、』
BBCなど欧米メディアは世界的に他に例が無い特殊な『軍事神社』だと報じている。
日本陸軍の創設者である大村益次郎の巨大な銅像が靖国神社の一番目立つ場所に立っているように敗戦以前は陸海軍省が管理する『軍事神社』だったので、祀っている軍神も基本的に軍人である。
ところが少数だが文官や民間人も含まれていて、第二次世界大戦の東京裁判で文官としては唯一絞首刑になった廣田弘毅首相、無期刑で獄死した白鳥敏夫駐イタリア大使、三国同盟の松岡 洋右外務大臣の3人は太平洋戦争の開戦には直接関係していないが何故か不当に厳罰に処されていた。
松岡洋右だけ日独伊三国同盟で有名だが、なぜか広田弘毅も富田メモの白鳥敏夫も不思議なことに歴史とかマスコミで取り上げられない。ほぼ無視されている。
靖国神社の軍神となった文官3人の共通点とは、松岡洋右や廣田弘毅は歴代外務省情報部長、情報部員だったのが白鳥敏夫。東京裁判で訴追された3人の文官の全員が外務省国際情報部長の孫埼享のような立場だった。(多分ゾルゲのような大物の二重スパイ?でアメリカの秘密を知り過ぎたので口封じされた可能性が高い)
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戦前の右翼中「ゾルレン(あるべし)の天皇」と「ザイン(ある)の天皇」がある。ゾルレンの天皇を守るためザインの天皇を殺していいという考え方が出た」(鈴木邦男氏)。今その考えじゃないか、日本会議、安倍首相の周辺に存在。
鈴木邦男氏の見解
私は、「右翼」一水会の鈴木邦男氏と対談し、それが2014年『いま語らねばならない 戦前史の真相』として出版された。ここで私は右翼と天皇について問うた。
孫崎「右翼思想の根本は天皇陛下を重視するということでしょう」
鈴木「確かにそうですが、それが難しい。例えば二二六事件で蹶起した将校たちは昭和天皇の決断で処刑されました。(省略) 戦後に人間宣言したのも間違っていると思っている右翼はいるわけです。
そうすると、天皇のすべてが偉いのではなく、天皇の理念こそが正しいという考え方が出てくる。だから、ゾルレン(あるべし)としての天皇とザイン(ある)としての二つの天皇が存在するというわけです。これが極端に進むと、ゾルレンの天皇を守るためには、ザインの天皇を殺してかまわないという暴論まではいた人がいました。
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小堀宮司退任らしいんだが、退任理由が「発言内容」ではなく、”小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が(一部週刊誌に)漏えいした”と、「情報が外に漏れた」ってのがおもろいなw
靖国神社宮司が退任へ 会議で「不穏当」発言 共同通信
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『奈良時代以降の天皇は全員が熱心な仏教徒で葬式も仏式』
天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺には歴代天皇の墓があり敗戦以前には宮内省が管理していた。(明治初期の神仏分離や廃仏毀釈で大混乱になる。仏教形式だがもちろん破壊されることは無かった)
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日清戦争までの戦死者を個人名の墓標を立て、仏式で供養した1871年(明治4年)創設の大阪真田山陸軍墓地
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平民と記された真田山陸軍墓地の仏教式の墓石
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生兵とは正式な階級が無い訓練生の墓石。(真田山陸軍墓地)
日清戦争では個人名が見られるが、戦死者が大幅に増えた日露戦争からは個人名が消えて手抜きの『慰霊碑』になる。
『天皇制とは無関係だった長州の招魂場(国家神道の総本山としての現・靖国神社)の不思議』
亀井静香は戊辰戦争の会津藩とか西南戦争の薩摩藩(西郷隆盛)を排除する靖国神社を『長州の氏神さま』程度の存在だと喝破したが、戦没者の慰霊の場所としては何とも不適切なのである。
国家元首の訪問時には献花される習わしの世界各国にある『無名戦士の墓』は死んだ兵士達の敵味方を差別しない。ところが、靖国神社の売りは天皇への忠誠心であり厳格に差別することで成り立っていた。(ただし禁門の変で御所に向かって砲撃した久坂玄瑞のような悪質な朝敵まで『長州藩士だから』との理由で靖国に合祀されている)
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最初の招魂場は西欧列強4ヶ国艦隊にボロ負けした『下関戦争』の奇兵隊戦死者だった。長州藩の招魂場(国家神道の総本山の靖国神社)の小さな社殿の裏側は神仏習合の墓地
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日本最初の『招魂場』の跡地の『櫻山神社』の吉田松陰の墓、個人名を記した真田山陸軍墓地と瓜二つ
『祟り神としての靖国』怨霊信仰
悪を善に変える錬金術的な詐欺
戦死者を神として祀る靖国神社とは、恨みをもったまま非業の死を遂げた崇徳天皇とか菅原道真が祟り神となって現世に災いをもたらさないよう神として拝んだ日本独自の怨霊信仰の可能性が高い。
成仏できず怨霊として現世を彷徨う怖ろしい『祟り神』にならないよう、死者の恨みを癒す『慰霊』の施設は是非とも必要だったのである。中国韓国がいくら嫌がっても頑固に靖国参拝に拘るのは『祟り神としての怨霊信仰(靖国神社)』と見れば辻褄が合う。