立憲民主党の比例票
2021年衆院選 1149万(★注、議席減の責任をとって枝野幸男が代表辞任)
2022年参院選 677万(★注、得票が半減しても党代表に居座る「青バッジ」泉健太)
次の国政選挙では250〜300万票程度になるのではないか。傾向的に一気に落ちる可能性がある。その結果が出て解党に追い込まれる前のいま、右派と中道に分かれて発展的分党を模索したほうがいいと思う。
なぜ天皇は国民に崇敬されるのか?「軍神乃木将軍」が果たした役割とは 島薗進『神聖天皇のゆくえ』より
なぜ天皇はかくも大きな存在になったのか。象徴天皇制によって天皇がもつ宗教性はどこまで変わったのか。近代日本において天皇崇敬が促されていった過程を整理し、宗教学から天皇を読み解く『神聖天皇のゆくえ』より、乃木希典将軍について、天皇のためにわが身を捧げる軍人の理想的人格として讃えられる際、圧倒的に強力なモデルとなったのが乃木希典だった。神聖天皇が広く国民に共有される明治末以降、軍神乃木将軍の果たした役割とは?
乃木希典と旅順攻略戦
乃木の天皇崇敬は松下村塾の吉田松陰(1830~59年)の「天下は万民の天下にあらず、天下は一人(天皇)の天下なり」の一君万民や水戸学の尊王攘夷をそのまま引き継いで、殉死の天皇忠臣エピソードが新聞などで盛んに取り上げられ、情的で濃厚な忠誠心が国民の心に強く刻まれていく
日露戦争から乃木が凱旋入京した1906(明治39)年1月14日。直ちに明治天皇に対し「復命書」を奏上。旅順攻略と奉天会戦での戦績を淡々と述べた後、まことに感動的に自らの感懐を述べる
死を覚悟した突撃を命じた乃木
戦闘より脚気で死ぬ兵士も多かったようですが、旅順攻略戦以来、乃木軍は全部で数万人が死にました。
旅順攻略戦の最終段階で乃木は白襷隊という3000名の特別部隊を組織。夜間に刀と銃剣をもって敵陣に責め込む攻撃隊に対する乃木の訓示は、「今や陸には敵軍の大増加あり、海にはバルチック艦隊の廻航遠きにもあらず。国家の安危は我が攻囲軍の成否によりて決せられんとす。この時にあたり特別予備隊の壮挙を敢行す。予はまさに死地に就かんとする当隊に対し、嘱望の切実なるものあるを禁ぜず。一死君国に殉ずべきは実に今日に在り。希(こいねがわ)くは努力せよ。」
乃木は整列する将兵の間をめぐり歩き、滂沱の涙を流して握手し、ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。これは特攻隊に通じるもので日露戦争のとき、すでに特攻隊の基盤ができていた
明治天皇への乃木の宗教的心情
(1907年明治40年)明治天皇は(文官の)学習院院長に任命「お前の子供二人はいなくなったのだから、お前には別の子供たちを与える」という情のこもった温かい処遇です。(★注、予備役ではなく現職軍人のままの学習院院長として翌年から明治天皇の孫のヒロヒト(迪宮裕仁親王 後の昭和天皇)の教育を受け持ったが、日本は未曾有の破壊と殺戮の後に崩壊しているのですから、乃木希典は軍人として駄目だった以上に教育者として最悪の人材だった)
乃木は明治天皇に対して二人称的な親しさ、たいへん情的で美談にふさわしい関係をもっていた。かつては親分子分的とか浪花節的とか形容されたような情的な上下関係が人々の心に沁みたのです。乃木の天皇への親愛の情は、妻とともに自害した自邸で発見された乃木の辞世の歌によくあらわれています。
神あがりあがりましぬる大君(おおきみ)のみあとはるかにをろがみまつる(奉悼)
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我がゆくなり(辞世)
「奉悼」は明治天皇の死を悼む歌、「辞世」は自らの死を詠んだ歌。いずれも宗教的な響きの強い歌で、わが身を捧げる献身的な軍人乃木希典の人物像は、日本の軍隊の宗教性を強める上で大きな役割を果たした
乃木は「天皇の軍隊」を構成する軍人の理想とされ、一般国民にも乃木大将を理想とする見方が広められ、また乃木殉死の衝撃によって日本の軍隊は、乃木が天皇への宗教的忠誠心を象徴するものと見なした軍旗を御真影と同様の神的なもの、聖なるものとして、日本軍に広まっていく宗教的傾向は明治天皇の死に続く乃木殉死によってさらに高まった。わが身を犠牲にして戦うことをすべての兵士に求めるようになるのも、旅順攻略作戦が素晴らしいこととして伝えられ、教えられていったことが要因になる
乃木大将と軍国美談
当時、日露戦争の旅順要塞の攻略戦で多くの戦死者を出した乃木希典の評価は大きく割れていた。しかし、殉死の後、世論は圧倒的に乃木賛美に流れていき、9月18日赤坂乃木邸から青山斎場に向かう葬儀行列にはたいへんな数の人々が集まりました。その後も乃木邸を見にくる人があり、そばに乃木を軍神として祀る祠ができて多くの人が参拝しました。そして明治神宮に明治天皇・昭憲皇太后が神として祀られた3年後1923(大正12)年に自邸の隣りに乃木神社が創建される
乃木希典は国定教科書の「軍国美談」とよばれるものの中でも、第二期(1910~17年)から第五期(1941年~45年)まで、もっとも長期にわたり頻繁に取り上げられたものとなりました。これまで尊皇物語で人気の忠臣には『太平記』の楠木正成がいましたが、南北朝時代の正成はさすがにも古いので、その人気が乃木希典へと継承されていった
天皇のためにわが身を捧げる軍人や将兵が理想的人格として讃えられる際、圧倒的に強力なモデルとなったのが乃木希典でした。(軍国美談と教科書)楠公を尊んだ幕末期の尊皇論や国体論は、少数の武士らのもので、神聖天皇が広く国民共同体に共有される明治末以降の段階では、軍神乃木将軍の果たした役割は国定教科書だけではなく、通俗修養講和や講談、そして映画等を通して、「乃木神話」は強力に国民生活に浸透。乃木将軍の軍国美談は、皇道を掲げる大正維新や昭和維新の運動の基盤となる神聖天皇崇敬の欠かせない一部となっていった
(抜粋)
韓国製反日カルト宗教「統一協会」とズブズブの関係の与党自民党と瓜二つの相似形だった野党第一党の立憲民主党(安倍晋三と同じでヤクザとカルトの連合体「救う会」の青バッジを常時付けている泉健太代表)
泉健太の逆ギレ見てるとこの人間が権力持ったら結局安倍晋三と同じだな、としか思わない。こんな人達に負けない!っていうのと何が違うわけ?しかも今回批判してるのはアンチ立憲でなく、立憲支持者だよ?(限りなく宗教紛争もどき。ほぼソックリさん)
殉死って、江戸初期の風習みたいなもので、戦国時代もなかったし、その前もなかったし、江戸も中期以降はあまり見聞しない。
戦争が無くなり、「武功」の立て方がないので、「殉死」して、家族の待遇を良くする・・て、策なのでしょう。
如水の言い方をしたら、「後継者見捨てた不忠者」が、乃木希典だった。
晏子春秋で「君主が、私事で死んで、何故に殉死せないかんねん」と。
日本って「組織運営」とか「国家の運営」とか、明治になっても、古代なのか・・それとも、天皇制になって、近世から、古代に逆行したのか。たぶん後者で、天皇国家自体が時代錯誤で、それゆえに時代錯誤の「殉死」がもてはやされる・・
ただし、軍人としては明らかにポンコツで、教育者としても……。
これは個人としては極めて善良であった東条英機氏が軍人としても政治家としてポンコツで、ただでさえ迷走した太平洋戦争時の日本をさらに破滅に追い込んでいったことと相似形のようです。
“善良だが、軍人としてはポンコツ”な乃木氏を“天皇への忠誠心”を利用して“(軍事の)神様に祭り上げている(政治利用している)”ポンコツ神社にお参りして喜んでいる時点で、泉氏の“政治家としての”不見識が明らかになっています。
(こちらのブログでも指摘されていた)『長州の長州による長州のための』(極めて政治色の強い)靖国神社に“政治家が参拝する”ことをこれでは泉氏は適切に批判できないわけですね。
立憲党首が忖度で参る!
もちろん、三島自体は乃木を真似て昭和天皇崩御に合わせて殉死したかったのに、いつまでも天皇が死なないので、自死演出の方法を2.26の真似ごとに寄せたのだと思います。
大喪儀は1カ月半も後の 9月13日
遺体が埋葬されたのは葬儀の翌日の9月14日 。東京近郊ではなくて京都の伏見桃山
そして大正天皇もヒロヒトも例外なく死んでから遺体は2カ月程度「棺の中」に放置されて腐敗白骨化が進んだ後で埋葬する日本独自の古代の風習「モガリ」(殯)を行っているのですよ。生前退位の明仁上皇は自分の父親ヒロヒトのモガリの精神的負担から火葬を希望しているという
この古代から続く天皇の殯と似ているのが、岸田文雄総理が唐突に行ったインチキで不真面目なアベ国葬。
2022年(令和4年)9月27日に日本武道館で執り行われた元内閣総理大臣・安倍晋三のインチキ国葬である 。 「この国葬は、内閣総理大臣経験者の国葬としては1967年(昭和42年)10月31日に行われた吉田茂の国葬以来約55年ぶりに行われた 」とあるが、吉田茂は死んでから11日後。葬式としては11日間が限度ですね。
ところが、安倍晋三が殺されたのは7月8日。
国葬は2カ月半も後の9月27日なのですから盛り上がらないのは当然だった。安倍も吉田茂も「もがり」ではなくて火葬した後の骨葬なのですから???葬儀で遺体を埋葬するのが普通の外国人から見ればこれ以上に不思議な葬儀は無いでしょう。
政治家としての乃木希典は台湾提督として赴任して自分の母親までマラリアで殺しているのですから無茶苦茶である。後任の児玉源太郎や医師の後藤新平が台湾のマラリヤやコレラ蔓延を予防することに成功したので日本の台湾統治が成功している。
乃木希典の殉死は辞世の句だけでは無く沢山の遺書も残しているので、間違いない事実だが妻の方は何も残されていないので、外科医で作家の渡辺淳一の「妻殺し」の推理の可能性は高いでしょう。しかもWikipediaの乃木静子の項目にある「夫・希典の遺書には、死後のことで不明な点は静子に聞くよう記されていた」が正しいとすれば咄嗟の思い付きで殺していることになるが、これはインドなどの妻のサティーという悪名高い宗教行為。野蛮極まるヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすること
カルト宗教「乃木希典」が思わぬところで今も続いているのが通勤電車の婦人専用車両
学習院院長だった乃木希典が婦女子が痴漢被害に遭わないよう言い出して明治天皇が死ぬ1912年 ( 明治 45年)1月から中央線で初めて行ったもの、
それが日本の右傾化と衰退が進んだ結果として21世紀直前の2000年に東京が、2001年からは大阪など西日本にも広まって現在に至っているがアフガニスタンのイスラム原理主義タリバンの真似
北海道の函館自衛隊駐屯地の隣に、函館乃木神社があります。この神社のコンセプトは、「夫婦和合」。
御奨めのお守りは、結婚より年月を重ねた二人がこれからも長く連れ添っていけるよう願いを込めた「つれそひ守」と、夫婦となる二人が末永くよりそっていけるよう願いを込めた「よりそひ守」です。
もしこのお守りを買ったら「私はどうなるのだろうか。」函館にお立ち寄りの際、ぜひお試しください。
乃木夫妻は明治天皇に近づき過ぎたのだろう。