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逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

『逝きし世の面影』の世界と、『最後の神』としての憲法9条

2008年02月26日 | 憲法

渡辺京二著『逝きし世の面影』という本がある。
これは幕末から明治にかけて日本を訪れた異人(欧米人)が、当時の日本および日本人をどのように見ていたのかということを、それらの異人が残した膨大な証言録の中から拾い出し、当時の日本の姿を浮かび上がらせようとした本である。
この本の中で浮かび上がってくるかつての日本の姿は驚くべきもので、
この本に登場してくる異人たちは、皆ではないが、ほとんどの者が当時の日本の「優しい文明」に惹かれている。
異人たちは、自分たちが惹かれたものの本質まで見極め切れてはいない。だが、紛れも無く惹かれている。

『逝きし世の面影』

西南戦争の頃に東北地方や蝦夷地に渡りアイヌにも足を伸ばしたイザベラ・バードや幕末に来日したシュリーマンの旅行記を読んで、興味を引かれこの本も読んでみました。いや~ア。はまりました。

資本主義の産業革命以前では有るが、欧米とは異質の価値観を持った高度に発達した文明が日本には存在していた。
妖精のように美しく、はかなく優しげな文明が過ぎし世に日本の国には存在していた事実が描かれている。
今より貧しかったが特異で美しく幸福だったかも知れない二度と戻ってこない失われた文明。
高度に発達した美しく優しく魅力的で、特異な『失われた文明』が遠くインカやマヤ、アステカだけではなく、なんと日本にも150年前に存在していた驚き。

歴史修正主義は、何も靖国文化人だけの専売特許ではない。

『歴史の書き替え』こそが国家のDNAかも知れないが、明治政府が徹底的に過去の歴史に修正を加えた事実が認められる。
新政府は自分達の正当性を証明するために、過去の『文明の痕跡』を徹底的に破壊しつくしたのかもしれない。

『美しかった日本の文明と神殺し』

頼りなく貧弱な体格で貧相な顔立ちの支配者階級(サムライ)と立派な体格と凛々しい顔立ちの被支配者階級(馬丁、職人、船頭、人足)が別の民族に属しているのではないかと考えた外国人もいたようです。

外国では被支配階級と支配階級は別の民族、人種に分かれている場合も数多いですから、そう考えたとしても不思議ではない。
現代人がサムライを武士と考えるから誤解が生じる。260年の平和を維持する為には武力(武士)の必要性よりも行政力(官僚)の必要性のほうが高い。
サムライとは、実質的に行政官僚の、ことだったのでしょう。

在日朝鮮人一世の老人の言った言葉が、今でも気になって仕方が無い。

老人は、自分がどれだけ差別されたか、ひどい扱いを受けたかを激高しながらまくし立て、日本人の無法、非道を非難していたのですが、最後に朝鮮半島から大昔の日本に来た時の印象を、静かに語っていました。
彼は、『今とは比べられないくらい(日本は)素晴らしい国だった』
『信じられないほど良い国だった』
何を指して、素晴らしいと感じたのか。?何がそれ程良かったのか。?

『逝きし世の面影』の時代の神々は廃仏毀釈で滅ぼされ、唯一残った国家神道の神もアメリカによって滅ぼされ、日本は二度にわたった『神殺し』の結果、無道徳、無節操の日本が出来上がったとする、梅原猛の世界がまんざら嘘とも思えない気がしてきました。

『日本の伝統と三度目の神殺し』

今の多くの日本人が、お上(政府)を信用するのは、現在の日本のような、国民国家の特徴です。
150年前の庶民は、「お上」は「お上」、「自分」は「自分」でまったくの別物だと考えていました。

これこそが、本当の日本の伝統というものです。
決して武士道などが日本の伝統などではありません。
(私の思考レベルは150年前の庶民程度に止まっているようです。)

民主主義(民主国家)では建前上、主権者は国民ということになっているので、「お上」と自分を混同する慌てモノが、自然と出てくるような、仕組みになっています。

『最後の神としての憲法9条』

憲法9条はアメリカが日本を律するために与えたとする説(アメリカ押し付け説)もあるが、本当は憲法9条が、元々150年前に日本に存在した「江戸文明の精神」を一番正確に継承している。
『いかにして戦争に勝つか』を考えるのではなく『いかにして戦争を起こさないか』『いかにして戦争に巻き込まれないか』を最優先事項で有ると考えていた。
江戸文明では幕府によって日本全体で徹底した軍備の縮小が図られ最低限度の『警察力』程度の軍備しか保持していなかった。

日本国憲法の成立には不思議な偶然があるようです。
GHQ(アメリカ)が深く関係しているのは疑いないでしょう。

当時ドイツと日本、人口が殆んど同じ両敗戦国のアメリカのコミットの仕方が大きく違ってくる。
2000万人を動員したドイツが(アメリカにとっては)主敵で、600万人しか動員できなかった日本の占領には四個師団しか使わなかった。
文民も一番優れた人材はドイツに送られた。

日本に来たのは、国務省内の主流派には、決してなれない人達だったのです。
アメリカにとって最も優れた人(強者の倫理の信奉者)ではない人々が、日本の憲法の筋道を作っていきます。
彼等は、決して自分の国内では、絶対実現できない理想を夢見たのです。

そして日本国憲法は出来ました。

日本国憲法は生まれたその日から、邪悪な者達の憎悪の対象だったのです。
そう言う意味では、イエス・キリスト誕生の伝説と似通っています。

『憲法9条とは、日本人に残された最後の神ではないか』

憲法をひもとくまでもなく現行象徴天皇制は其の存在を憲法に委ねている。
憲法99条を引き合いに出すまでもなく、今上明仁天皇が9条を含む平和憲法を八百万の神々や先祖神の1つに加えることは十分に有り得る。
靖国派は自分達の神を殺したのが9条であると誤解、逆上、逆恨みの結果、平和憲法改正を主張していますが、
三度目の神殺し(9条改廃)が行なわれれば、其れは日本社会の道徳、倫理を根本的に破壊し、日本国にとって立ち直れない程の、致命的打撃を与えるでしょう。

『石橋湛山に学ぶべきではないか』

帝国陸海軍が、未曾有の国難を日本にもたらし、その結果陸海軍は消滅した。
敗戦直後の時期に、石橋湛山は戦争を推進した靖国神社の廃止を提唱しています。

帝国陸海軍消滅時国営神社、正確には『国営陸海軍神社』である靖国神社も消滅すべきところを、廃止を免れ民間の一宗教法人の資格で生き延びることと為った。

国有財産である『国営陸海軍神社』を一宗教法人靖国神社に無料で払い下げられたとすれば、政教分離を定めた憲法に対する明らかな違反。
此の辺は明治憲法と平和憲法の切り替わる時期で、原則や責任や財産権等が有耶無耶になし崩し的に処理されている。

63年前の敗戦時の謙虚さ冷静さ理性を取り戻して『本当に軍事神社が日本に存在して良いのか』?をもう一度考える時期に来ているのではないだろうか。

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9 コメント

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象徴 (ましま)
2008-05-03 15:17:24
私は憲法前文・第一章天皇、第二章戦争放棄の三つが日本のアイデンティティーを表しており、第三章から法の中味に入ると考えています。そのワンセットは、国民統合の象徴=平和=天皇で、卑弥呼の時代から占領政策遂行までいつも平和に利用され続けました。
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基本法とは何か (kaetzchen)
2008-05-03 16:44:06
ましまさん,こんにちは.私もましまさんに同意しますね.

日本語では「基本法」を「憲法」と翻訳してしまったから,他の法律のように簡単に「改正」できるものと誤解されている部分があると思います.

憲法前文は戦後日本の民主主義のあり方のイデオロギー,そして1~8条は象徴天皇制を規定した「日本イデオロギー」を示したものです.もし日本が天皇制を必要としない共和主義へと移行した場合,1~8条は改正または廃止する必要性があります.

日本は9条で戦争廃棄を規定し,別枠の自衛隊法にて防衛庁や防衛省を立ち上げていますが,これは外交上の必要悪もあってのことです.なぜなら防衛大を出た職員の中で特別に語学を特訓された者は「武官」として「文官」の外務省職員と共に大使館勤務を命じられるからです.逆に言うと「国交を開く」とは,「武官」「文官」によるスパイ活動をお互いに認め合うということでもあるのです.

そういう意味では「象徴」という言葉は非常に曖昧で下手をすると猥褻な言葉と見られる可能性もありますから,やはりはっきりと「天皇制」と明示する方が良いような気もしています.
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コメント有難う御座います (ブログ主)
2008-05-03 17:42:54
世界中で日本だけは例外で、卑弥呼の時代から現在まで、最高責任者には責任はない事になっています。
天皇が鎧甲冑や軍服を着ていて、最高権力(絶対権力)を持っていたのは、神代の時代と明治憲法下だけの特殊な例だけで、他はみんな象徴天皇制ですね。
それなら今の平和憲法こそ、神代からの日本の伝統の具現とも考えられる。
『最後の神としての憲法9条』とはそんな意味で書いています。
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政治的無神論の必要性 (仙台金四郎)
2010-11-28 12:12:46
 政治は無神論的に進められなければならないと思います。なぜならば宗教というのはつまるところ信じるか信じないかの問題で、信仰と議論は相容れず、政治的信仰のぶつけ合いほど不毛な行為はないからです。信仰の自由は尊重しますけれども政治に宗教的発想を持ち込むことには反対です。だから私は土井たか子を典型とする教条的護憲論を、「護憲原理主義」と呼んで激しく攻撃してきました。
 「憲法99条を引き合いに出すまでもなく、今上明仁天皇が9条を含む平和憲法を八百万の神々や先祖神の1つに加えることは十分に有り得る。」との仰せですが、天皇制のような非人道的な制度をブログ主さんは容認してるんですか?伝統などというシロモノは守ろうと捨てようと現代人の勝手だと私は考えています。
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仙台金四郎さん コメント有難う御座います (宗純)
2010-11-28 15:03:55
この記事は憲法の大事さ(憲法の存在する意味)と9条の特異性、先進性を、社会科学に疎い人でも誰にでも分かるように『例え話』として語っているものです。
仰られていることは真面目な反論と言うよりも記事の一部分の例え話の『単語』を故意に切り取って行われており、単なる言葉の揚げ足取りですよ。
『政治に宗教的発想を持ち込むことには反対』とのご批判は、それこそ教条主義ですよ。

『無神論』ですが、唯一普遍性のあるのは『科学』以外には無く宗教などで心の平安は得られない。
世間の誰よりも私は積極的『無神論者である』と自負している心算ですが、
そもそも政治とは昔から『まつりごと』と呼ばれており『宗教』と一定の関連があるもので、この宗教や哲学と政治の関連性は今でもまったく同じであるのです。
なぜなら『科学』は全ての物事の『正誤』は判定するのですが『善悪』までは判断しない(してはならない)のです。
物事の善悪は普遍的ではなくて立場や時間や条件で違っている。
科学が物事の善悪まで判断しないから、そのために唯一普遍性を持ちえたのです。
それでは善悪は何が基準となるかですが、これは其々個人個人の持つ宗教や哲学・世界観が判断するべきものですね。
そして政治では科学的『正誤』だけではなくて『善悪』の判断まで受け持っている。
そのために政治では其々個人が本来もっている『内心』の宗教や哲学が密接に関連してくる。
どうも日本人は政教分離の原則を誤解している人が多いのですが、これは本来宗教勢力の世俗(政治)勢力への干渉を排除する目的で創られたものですね。

天皇制は、
憲法改正と議員削減キャンペーンの意味
2010年05月03日 | 憲法
に書いたように、
65年前までの明治憲法下の天皇とは、今とは正反対に唯一の主権者であり、『国家権力』そのものだったのです。
ところが、現在の平和憲法の下では第一条で『国家権力の象徴』ではなく『日本国民統合の象徴』と書いてあるのですが、同時に国民主権も明記している。
天皇に『権力』は無い。
日本国憲法第4条でわざわざ『天皇は・・・・国政に関する権能を有しない』と改めて念押ししているのですから、『権力』とは完全に無縁な存在なのです。
それなら国家の権力を具現(あるいは象徴する)する大統領や国王など『元首』とは全く違う存在であることになります。
考えてみれば不思議な条文で、
国家権力とは関係ないが、『国民統合のシンボル』なので国民が『喧嘩せず仲良くしなさい』程度の意味でしょうか。?
ですから今の歴代日本政府が行っている天皇元首化は憲法の精神に真っ向から反する違憲で違法で許されない犯罪行為です。
そもそも、生まれながらに尊い人の存在を認めれば、それは自動的に非人道的な生まれながらに卑しい人も当然存在している事になるのです。
人道上も民主主義でも到底許されることではありません。
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9条の先進性? (仙台金四郎)
2010-11-29 22:31:23
「この記事は憲法の大事さ(憲法の存在する意味)と9条の特異性、先進性を、社会科学に疎い人でも誰にでも分かるように『例え話』として語っているものです」との御説におきまして、「特異性」は全く同感です。
 しかし9条が先進的とは全く思えません。あんなものが世界に広がったらオサマビンラディンみたいなのの天下になるだけでしょう。
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不思議の9・11事件 (宗純)
2010-11-30 10:59:26
仙台金四郎さん、
今回『憲法9条は神である』との比喩の説明が不足しているようなので、
もう一度新しい記事で、もう少し詳しく判りやすく解説してみました。
19世紀のドイツの政治学者のウエーバーが国家とはそもそも何であるかとの『国家の定義』を行っています。
この定義の中での主張ですが、普通の市民の道徳であるなら『悪』とされる筈の戦争が『国家』のフィルターを通すことで『善』に摩り替えることが出来る『不思議の装置』であるのです。
この不思議の原因を、いま一度冷静に考えてみるのは大事なことです。

良く考えてみれば、憲法9条なんかは特殊でも何でもなくて、素朴な市民感情、誰でもが本来持っている善良な道徳観を文字にしただけですよ。
例えば仙台金四郎の住む集合住宅の住民の内で、誰一人も『隣人とのトラブルは解決しない場合には最後には暴力で決着を付ける』と主張する人はいないはずです。
そんなことは暴力団員でも言わない。
言ったとしても誰もまともにに受け取らないし、受け取ったとしたら、それこそ大問題で今後誰もまともには付き合わない。
だから全員が憲法9条の記述と同じ『紛争は話し合いで』としか言わないのです。
基本的に『暴力』で解決できる事は限定的で、世界一の突出した巨大な軍事力を持ているアメリカでも、ベトナムでも勝つことは無理だったが、今回はイラクやアフガンを見れば判るように万能ではないのですよ。
世界一の軍事力をもってしても、やはり道理(正義)が無い戦争では勝てないのです。

それにしても軍事力と警察力を混同していませんか。?
テロは基本的に犯罪行為で警察マターであるのです。
軍隊で何とかできる話ではありません。
まあ人を切るのが目的の日本刀で鉛筆をけずることも刺身を造ることも、確かに不可能ではないのですが・・・・余程のことが無い限り止めた方が良い。

それにしても9・11事件をアメリカ政府の公式発表の通りで何の間違いも無いと、金四郎さんはまさか信じてはいないでしょうね。
あれからもう9年も、アメリカは大量の軍事力でオサマ・ビン・ラディンを追跡しているのですよ。
ところが常識とは正反対に時間が立つほど調べれば調べるほど段々と余計に不鮮明になっていくばかりです。
基本的に謀略事件ですね。これには間違いなく軍も関与しています。
このブログでは9・11事件でもマスコミ報道とは全く別の視点から考察しています。
9・11事件と陰謀論のカテゴリーの連載記事を御読み下さい。
アメリカとは違う日本に9条がある大事さが、また『国家』とは何であるのかが判ると思います。
アメリカに憲法9条があれば9・11は起きていないし、また起きたとしても9年も時間をかければ解決しているでしょう。
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暴力の必要性 (仙台金四郎)
2010-11-30 16:54:55
(引用開始)
例えば仙台金四郎の住む集合住宅の住民の内で、誰一人も『隣人とのトラブルは解決しない場合には最後には暴力で決着を付ける』と主張する人はいないはずです。
(引用終了)

「個人間の暴力」という意味なら同感です。

(引用開始)
そんなことは暴力団員でも言わない。
言ったとしても誰もまともにに受け取らないし、受け取ったとしたら、それこそ大問題で今後誰もまともには付き合わない。
(引用終了)

これも「個人間の暴力」という意味なら同感です。

(引用開始)
だから全員が憲法9条の記述と同じ『紛争は話し合いで』としか言わないのです。
(引用終了)

そんなことはありません。場合によっては民事、刑事訴訟、最終的には警察力の導入、すなわち暴力の導入が必要と、少なくとも私は考えており、言っています。
返信する
ですから、何べんも言いますが (宗純)
2010-11-30 17:40:51
仙台金四郎は全く性質が違う二つの違いが理解していない。
軍事力と警察力を混同しているのです。
この違いが明解ではなくて、理解出来ていないので、勘違いしているのです。
最後の『そんなことはありません。場合によっては民事、刑事訴訟、最終的には警察力の導入、すなわち暴力の導入が必要と、少なくとも私は考えており、言っています。』
には誰も反対していない事に少しは気が付いて下さい。
この記事では判り難いんでもう少しこの違いの指摘した記事を新しく起こしたのですが、次回からはそちら方にコメントを御願い致します。
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