ユングの分析心理学でアニマとアニムスというのがある。 アニマは男性における女性らしさ、アニムスは反対で女性における男性らしさ。 簡単に言うとオカマはアニマが心の中を多く支配している状態で、オナベはアニムスが心の中を多く支配している状態なのではないだろうか。 若い内は男性はより男性らしくあるべきという心理からアニマを心の中から排除しようとする。 女性も同じく女性らしくあるべきとアニムスを排除しようとする。 しかし、中年を過ぎると男性も女性もアニマとアニムスの両方を受け入れるようになる傾向にあるという。
オカマとオナベについては、ユングの分析心理学で救われることが多いと思う。 現代では性同一性障害とか病気の一種として扱われている。 医学的に男性は年を取ると男性ホルモンが低下し、女性は女性ホルモンが低下する。 故に男性はインポになったり、女性は閉経したりする。 恐らくユングのいうアニマとは医学的には女性ホルモンであり、アニムスは男性ホルモンと言えるのではなかろうか。 しかし、それは中年期以降に当てはまることであり、若い内のホルモン分泌バランスは正常であることから、心理学的な見地(社会的学習論&認知発達理論)から立証するほかないのか。
人格は何によって形成されているのか?について考えると、脳内分泌物と電気信号と答えるほかない。 人の記憶や夢や性格などは全て医学的に解明されつつある。 つまりは、将来、人の性格や記憶などを人為的に第三者が変える事が可能になる。 こういう考え方は非常に危険であるが、有効に活用されれば性同一性障害にも有効であると思われる。 人間の脳がメモリーと同じような原理でできているというならば、記憶を消すことも別の記憶を植え付けることも可能なのではないか。 性格とは、その人間が経験・体験してきた記憶が混在し形成されたものではないだろうか。 性格が合うとは、興味・趣味・関心・思考等が類似しているという事であり、それは人生で同じような経験・体験してきた事の結果。
私は人間は変わろうと思えば自分自身で、いとも簡単に変われるのではないかとも思う。 性格は変えられないという人がたくさんいるが、変わる自分に対して恐怖心を抱いている者が多いと言うことに他ならない。 仮に変わることができない人間がいるとすれば、喜怒哀楽のない精神崩壊した人形同然の者だけだ。 感情がなければ性格もあり得ない。 性格とは、感情により成り立っている。 全ての性格は感情で表現できる。 怒りっぽい性格や引っ込み思案な性格、泣き上戸や笑い上戸、様々に表現できるが、それらは決して一人の人間に1つだけ当てはまるとは限らない。 一人の人間には様々な感情が混在し、例えば自分より弱い人間に対しては強気な態度であり、強い人間に対しては弱気な態度であったりと相反する性格を持つ者がそれを立証している。 それ故に性格は変えようと思えば意識して変えることができるということだ。
話がそれたが、性同一性障害という呼称は病気を連想させる表現であり、一般に公として名づけるものではない。 障害とは妨げになるもの、身体機能の不全とされる。 それは正常ではないということの表現でもある。 本人達にしてみれば、身体と心の違いから生きる上での妨げになっているという認識の人もいるだろう。 しかし、そういう認識をさせること自体が問題であると思うのだ。 人と違う自分に葛藤し、世間で障害と認められたことによって心が救われたという人もいる。 本人達は真にそれで良いと思っているのだろうか。 何も生きていく上で不自由しないのに自分は障害者であると認めて何も感じないのか。 ただ心の中のアニマ・アニムスの量が違うだけなのだから障害ではない。 いたって普通ではないか。 そうは言っても本人達からすれば生きづらいと思っている人がほとんどだろう。 例えば世の男性に今日から女としていきなさい、女の服を着て、化粧して、男としか付き合ってはいけない等と言ったら、それがはたしてできるかどうか? 女性に今日から男として生きなさい、トイレは男性トイレで立ちションしなさい等と言っても、できないだろう。 そういった無理矢理に別の性を押しつけられているような思いを性同一性障害の人はされているということだ。 だからといって障害と認めて良いはずがない。 いわば障害と認めさせ差別しているようなものであり、いたって普通であると認識させない蛮行である。 それを自らが認めてしまうというのは、あまりにも惨めではないか。
最初から障害だと認めてしまうような人間では、社会に受け入れてもらえないのは当然だ。 自分自身が受け入れてもらえるような努力をしているのかどうか。 そういうふうに産まれてきた以上、そうやって生きていくしかないではないか。 大抵は恋愛・結婚問題で苦い思いを味わう人が多いだろうが、それは自分自身がうまくやっていないから。 同じ立場にある異性と十分にうまくやっている人はたくさんいる。 結婚している人だってどっちが産むかが違うだけの話で、きちんと子供だって作れる。 一般に正常と思われている人だって異性と付き合えなかったり、結婚もできない人はたくさんいるではないか。 何が違うというのか。 要は自分自身がどう生きているか?が問題なのだ。 障害ではなくいたって普通。 あえて識別をしたいのなら、身体が異なった性であるという意味から身体別異性で良いのではないか。 それと同時に身体同性という言葉も作れば平等だろう。 返って普通と呼ばれている人の方がおかしいと考えることはできないか? 何をもって普通と言えるのか。 おまえら、ただの身体同性なだけだろと言われればそれだけの話だ。 性同一性障害とか何も特別なことではない事に対して呼称をつけるなど、それが差別意識の始まりなのだと認識するべきだ。 ならば、普通と呼ばれている者達に対しては何も呼称をつけないのか? 特別視することは差別ではないのか? 平等ではない。 実に愚かである。
オカマとオナベについては、ユングの分析心理学で救われることが多いと思う。 現代では性同一性障害とか病気の一種として扱われている。 医学的に男性は年を取ると男性ホルモンが低下し、女性は女性ホルモンが低下する。 故に男性はインポになったり、女性は閉経したりする。 恐らくユングのいうアニマとは医学的には女性ホルモンであり、アニムスは男性ホルモンと言えるのではなかろうか。 しかし、それは中年期以降に当てはまることであり、若い内のホルモン分泌バランスは正常であることから、心理学的な見地(社会的学習論&認知発達理論)から立証するほかないのか。
人格は何によって形成されているのか?について考えると、脳内分泌物と電気信号と答えるほかない。 人の記憶や夢や性格などは全て医学的に解明されつつある。 つまりは、将来、人の性格や記憶などを人為的に第三者が変える事が可能になる。 こういう考え方は非常に危険であるが、有効に活用されれば性同一性障害にも有効であると思われる。 人間の脳がメモリーと同じような原理でできているというならば、記憶を消すことも別の記憶を植え付けることも可能なのではないか。 性格とは、その人間が経験・体験してきた記憶が混在し形成されたものではないだろうか。 性格が合うとは、興味・趣味・関心・思考等が類似しているという事であり、それは人生で同じような経験・体験してきた事の結果。
私は人間は変わろうと思えば自分自身で、いとも簡単に変われるのではないかとも思う。 性格は変えられないという人がたくさんいるが、変わる自分に対して恐怖心を抱いている者が多いと言うことに他ならない。 仮に変わることができない人間がいるとすれば、喜怒哀楽のない精神崩壊した人形同然の者だけだ。 感情がなければ性格もあり得ない。 性格とは、感情により成り立っている。 全ての性格は感情で表現できる。 怒りっぽい性格や引っ込み思案な性格、泣き上戸や笑い上戸、様々に表現できるが、それらは決して一人の人間に1つだけ当てはまるとは限らない。 一人の人間には様々な感情が混在し、例えば自分より弱い人間に対しては強気な態度であり、強い人間に対しては弱気な態度であったりと相反する性格を持つ者がそれを立証している。 それ故に性格は変えようと思えば意識して変えることができるということだ。
話がそれたが、性同一性障害という呼称は病気を連想させる表現であり、一般に公として名づけるものではない。 障害とは妨げになるもの、身体機能の不全とされる。 それは正常ではないということの表現でもある。 本人達にしてみれば、身体と心の違いから生きる上での妨げになっているという認識の人もいるだろう。 しかし、そういう認識をさせること自体が問題であると思うのだ。 人と違う自分に葛藤し、世間で障害と認められたことによって心が救われたという人もいる。 本人達は真にそれで良いと思っているのだろうか。 何も生きていく上で不自由しないのに自分は障害者であると認めて何も感じないのか。 ただ心の中のアニマ・アニムスの量が違うだけなのだから障害ではない。 いたって普通ではないか。 そうは言っても本人達からすれば生きづらいと思っている人がほとんどだろう。 例えば世の男性に今日から女としていきなさい、女の服を着て、化粧して、男としか付き合ってはいけない等と言ったら、それがはたしてできるかどうか? 女性に今日から男として生きなさい、トイレは男性トイレで立ちションしなさい等と言っても、できないだろう。 そういった無理矢理に別の性を押しつけられているような思いを性同一性障害の人はされているということだ。 だからといって障害と認めて良いはずがない。 いわば障害と認めさせ差別しているようなものであり、いたって普通であると認識させない蛮行である。 それを自らが認めてしまうというのは、あまりにも惨めではないか。
最初から障害だと認めてしまうような人間では、社会に受け入れてもらえないのは当然だ。 自分自身が受け入れてもらえるような努力をしているのかどうか。 そういうふうに産まれてきた以上、そうやって生きていくしかないではないか。 大抵は恋愛・結婚問題で苦い思いを味わう人が多いだろうが、それは自分自身がうまくやっていないから。 同じ立場にある異性と十分にうまくやっている人はたくさんいる。 結婚している人だってどっちが産むかが違うだけの話で、きちんと子供だって作れる。 一般に正常と思われている人だって異性と付き合えなかったり、結婚もできない人はたくさんいるではないか。 何が違うというのか。 要は自分自身がどう生きているか?が問題なのだ。 障害ではなくいたって普通。 あえて識別をしたいのなら、身体が異なった性であるという意味から身体別異性で良いのではないか。 それと同時に身体同性という言葉も作れば平等だろう。 返って普通と呼ばれている人の方がおかしいと考えることはできないか? 何をもって普通と言えるのか。 おまえら、ただの身体同性なだけだろと言われればそれだけの話だ。 性同一性障害とか何も特別なことではない事に対して呼称をつけるなど、それが差別意識の始まりなのだと認識するべきだ。 ならば、普通と呼ばれている者達に対しては何も呼称をつけないのか? 特別視することは差別ではないのか? 平等ではない。 実に愚かである。